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 <title>ビジスタニュース</title>
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<title>真魚八重子「死んでも戦う女たち──お岩さんから貞子まで」</title>
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<description>担当者より：ライターの真魚八重子さんに「死んでも戦う女たち」について、多くの映画を参照しながら論じてくださった原稿を掲載いたします。四方田犬彦・鷲谷花編『戦う女たち』（作品社）にも真魚さんの論考は掲載されていますので、そちらもぜひ。

配信日：2009/09/02


...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-03-14T16:48:18+09:00</dc:date>
<dc:subject>真魚八重子</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>ライターの真魚八重子さんに「死んでも戦う女たち」について、多くの映画を参照しながら論じてくださった原稿を掲載いたします。四方田犬彦・鷲谷花編<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4861822564/">『戦う女たち』</a>（作品社）にも真魚さんの論考は掲載されていますので、そちらもぜひ。<br>
<br>
<u>配信日：2009/09/02</u><br>
<br>
<br>
日本の怪談映画では非業の死を遂げたのち、幽霊となって登場する有名キャラが幾人かいます。お岩さんはもちろん、最近も中田秀夫監督作品『怪談』で取り上げられた『累ヶ淵』の豊志賀（とよしが）や、「一枚足りない……」が決めゼリフの『番町皿屋敷』のお菊、そして焦がれ死にした後も好きな新三郎を求めて現れる、押せ押せな『牡丹灯籠』のお露。<br>
<br>
彼女たちが死後もこの世に留まるのは、未練や恨みのためです。女が主人公である怪談の多くは、成就できなかった愛や、惨めな死に至る定めであった運命に対し、死んだ後でもまだ抗って、宿命を覆すため戦いを繰り広げる執念から生まれたものといえるでしょう。<br>
<br>
もはや亡霊と化して実体のない彼女たちのアクションは、霊力や呪力によるものとなります。怨念は風雨などの騒然とした天候を呼び、幻惑で憎い相手に狂乱を起こして命を奪い、なおかつ末代まで祟ったりします。そんな一途な恨みの念が、成仏するという当たり前な成り行きすら彼女たちに忘れさせ、因果応報といったアクションを招いていきます。<br>
<br>
『牡丹灯籠』ではお露が夜毎訪れるようになってから、新三郎はひどく消耗するようになります。たまたま覗き見た隣人に恋人の正体が幽霊だと教えられ、急に恐ろしくなってお寺へ相談に出かけ、死霊除けのお守りを貰い戸口にお札を貼って幽霊が入ってこられないようにする新三郎。しかしお露さんのすごいところは、新三郎の隣家に住む伴蔵夫婦の元へ赴き、ワイロを渡してお札を剥がさせるのです。そしてなんなく新三郎の元へ突入し、彼を取り殺してしまうお露さん。<br>
<br>
でも、確かに突然お札を貼って自分を毛嫌いするかのように退けたにせよ、お露さんが愛する男を死に引きずり込むのはなぜなのでしょうか。そもそも死んだ後に、霊力で生前と変わらぬ姿で現れて愛を交わしていたのだから、幽霊になっても恋をすることに支障はないのでは……？ <br>
<br>
一般的に怪談物では、霊力の使い道が限られるなど、物語上の制約が伴います。わたしたちが『牡丹灯籠』から察せられることは、やはり肉体を失った幽霊が生者と同様にこの世で暮らすことは異常であり、現世に強烈な未練を残したお露が、生身の娘同様に新三郎と蜜月を過ごすのは、彼岸に渡りきれない非常事態であるということです。<br>
<br>
新三郎にとり憑いて必死になって彼の命を奪うと、ようやく納得してあの世へ渡り、彼女のさまよう魂も沈着します。そして物語はそこで途絶えてそれ以上は黙して語らず、あの世へ渡った二人がどうなったかなどわからない──＜終＞と出た映画には、もはやその後は無いという当然の事実に突き当たるだけです。<br>
<br>
『牡丹燈籠』のお露さんもしのいで、日本でもっとも知られる女の幽霊は、なんといっても『東海道四谷怪談』のお岩さん。映像化された回数もダントツに多いです。物語はご存知の通り、浪人暮らしで鬱屈する伊右衛門に、裕福な伊藤家の娘であるお梅が横恋慕。伊右衛門は出世のためお梅との祝言を約束し、産後の肥立ちが悪い妻お岩に、良薬と偽って伊藤家から貰った面貌が崩れる毒薬を飲ませ、なおかつ離縁するため、彼女が間男していたかのように不義も捏造します。お岩は苦悶と恨みにまみれて刃で死に、伊右衛門はそれ以来お岩の亡霊に苦しめられます。<br>
<br>
『四谷怪談』においては、亡霊となったお岩さんは顔が爛れ、こめかみの髪が抜けた恐ろしい姿で現れます。伊右衛門がお梅との婚礼の夜に、抱こうとした新妻の顔を見るとそれは顔が崩れ、見るも無残な姿となったお岩。驚愕して斬りつけると、亡霊の幻惑でお梅を斬り殺してしまったことに気付きます。同様に伊藤家の養父も殺してしまい、伊右衛門は人殺しの身を隠すため寺の庵室へと逃げ込んでいきますが、そこで霊障払いなど受けて過ごしつつ、ある日気晴らしに庵を出て隠亡堀へ釣りに出かけたところで、有名な戸板返しの段となります。<br>
<br>
お岩さんが怨念を持つに至った理由は、<br>
<br>
１　夫が外に女を作った<br>
２　毒を盛られ醜悪な容姿にされた<br>
３　不義の捏造などの謀略によって命を落とした<br>
<br>
以上の３点かと思われます。しかし、お岩の復讐によって同様の状況に追い込まれていく、お梅がお岩に怨みを持ったら……？<br>
<br>
木下恵介監督作品『四谷怪談』では、お梅は焦がれ死にしかけるほど伊右衛門を愛し、周りの取り計らいで伊右衛門と祝言をあげることになります。お岩の相貌が崩れるのも、お岩が熱湯に転がりこんでしまったことが引き金であり、毒薬の一件もお梅の関知しないところで起こります。しかしこのお梅は殺されはしないものの、映画の最後で伊藤家に火事が起こり、彼女は顔にやけどを負って、お岩と同じように二目と見られない面相になったと語られます。<br>
<br>
お梅も同じ男性を狂おしいほど愛することで、お岩の妻という立場は妬ましかったでしょうし、お岩の呪いによって生きながら醜悪な姿にされたことは、生霊となるくらい憎んでもおかしくない出来事です。この後『四谷怪談』は作品を追うごとに、お梅はいかにも金持ちで身勝手なセレブお嬢様になっていくのですが、木下恵介版の、娘らしいお梅の苦しみは因果応報で済むものでしょうか。<br>
<br>
そもそも、お岩さんはいたわしく残忍な目に遭いますが、彼女だけが格別嫉妬深いとはいえないでしょうし、怨念に関して類まれな霊力を持っていたわけでもないでしょう。古今問わずこういった愛憎劇は頻繁にあって、嫉妬に狂った他の幽霊も日常で多発していいはずなのです。<br>
<br>
今コレを読んでいる諸氏の中にも「……死んで、アイツを祟ってやる！」とか、物騒なことを考えている方も万が一いるかもしれませんが、それでもわたしたちは復讐するため幽霊となって、再びこの世へ現れることなどはできない。<br>
<br>
ではなぜ、『四谷怪談』のお岩さんだけが、一身に恨みを晴らす幽霊の役を背負ったのか。『四谷怪談』のお岩というのは、我々のそういった怨念を集約するように体現し、代弁し、昇華する完全すぎるほどのプロトタイプなのです。<br>
<br>
お岩の物語は特定の誰でもなく、そして同時に我々一人ひとりが抱く怒りや怨みを具現化します。ほとんど黄金律のような、屈辱と憤怒の末の死と、幽霊となって憎い相手に恨みを思い知らせて反省させ、見事関係者全員に祟りをなす、報復の完璧な原型。たいていの愛憎怪談ドラマはこのお話をなぞるだけであり、だから木下恵介版のお梅の恨めしさすら、たとえ一からまた語っても、お岩の物語をただなぞり繰り返すにすぎません。もはやお梅の悔しさすら、古典的悲劇『四谷怪談』という完全な物語の内に、お岩自身が象徴してしまっているのです。<br>
<br>
ただ、たいていは映画においても、本当にお岩の亡霊がとり憑いているのか、伊右衛門が罪悪感から錯乱して幻覚を見ているのかは、ぼかして解釈できるようになっています。映画という虚実ない交ぜの世界ゆえに、見えている幽霊の像が幻覚か本当の亡霊か、境界線が曖昧なところで畳み掛けるこけおどしが続き、伊右衛門は自滅していきます。<br>
<br>
その中で異色なのが、深作欣二監督作品『忠臣蔵外伝　四谷怪談』。この映画の中で伊右衛門は赤穂藩の元藩士で、忠臣蔵の本来なら四十八士目となるはずなのに、怖気づいて直前で脱落した男。『四谷怪談』としては、お梅を初夜の晩に斬り殺すあたりまでは一緒ですが、最後はお岩の祟りではなく、討ち入りへ向かう旧藩の仲間に襲われます。<br>
<br>
クライマックスの赤穂四十七士が討ち入りした吉良邸。そこへ現れたお岩の亡霊は、霊力によって具体的なアクションを起こします。戸板へ自分の死骸を釘で打ちつけた吉良の家臣を、「ハーッ！」の掛け声と共に手のひらからビカッと光を発し、矢を飛ばして射殺すという、幻惑で死に至らしめていたほかのお岩と違い、すっごいアクティブさ。死んだおかげでそんな超能力が身につくなら、恨みつらみを抱えつつ余生を送るより良かったのではとさえ思えてしまいます。<br>
<br>
また、死者がそこまで生前と変わらず自我を持つなら、霊界において死んだ者同士の三角関係がまた始まってしまうんじゃないかと心配にもなりますが、この映画において最後は幽霊となった伊右衛門と、やはり霊化したお梅は切なげに視線を交わしながら、各々の世界へと消え去っていきます。怨霊は念が晴れぬうちは幽霊となってこの世に留まるけれど、それが済むと沈静化し昇華してしまうという、やはり物語上何気なく編まれた法則が彼らを司ります。<br>
<br>
荻野目慶子のキレッぷりはインパクトありますし、湯女だったお岩（高岡早紀）が、彼女を訪ねて風呂屋に現れた伊右衛門に「いらっしゃ～い！お客さん、ここは初めて？」と話しかける、時代を超越した風俗業界っぽさがフレンドリーでイイです。<br>
<br>
お岩さんから時を経て、エポックメイキング的に登場した現代の女の幽霊が、『リング』の貞子と『呪怨』の伽梛子（かやこ）です。彼女たちもやはり、殺害された恨みからこの世に念が留まり、なおかつ憎い相手のみならず、呪いは増幅して無関係な人にまで広がっていきます。風体は両者とも長い髪で顔を隠し、不意に覗いて見える目の狂い方、そして異様な姿勢で至近距離に近づいてくる異形性が戦慄モノ。<br>
<br>
二人の恐ろしさは、貞子はテレビから、伽梛子は階段から這い降りてきて、こちらへと近づいてくる際に最高潮となります。これまでのわたし個人の人生を思い返してみても、他人に這って近づいてこられたことはないですし、二人の醸しだす恐怖は、やはり這いつくばって進んでくるという動作と、俯いた顔や目線がその体勢によって、通常ならありえない位置にあるためではないでしょうか。<br>
<br>
たとえば首吊り自殺などでも、人の死はもちろん即物的に怖いのですが、生理的に恐怖を覚えるのは、「あってはいけない宙に浮いたところに足がある」その違和感です。なおかつ貞子と伽梛子は幽霊で、恐ろしい呪力や霊力を自在に操れる者。<br>
<br>
ならば宙に浮かぶといった幽霊独特の超常現象もできるはずが、心底恐怖を追及するＪホラーはファンタジックなそんな手法を選ばないし、彼女たちは得体の知れない意思で這ってくるのです。まるで、半成仏のまだ純然たる透明な霊ではなく、生身の質感を残すほど強烈な怨念を持った存在であるかのように。<br>
<br>
ゆえに、彼女たちの霊はまだ人間が重力を受けるかのごとく、その体重を感じさせて地を這うし、なおかつ不自然に腹ばいで近づいてくる姿には、普通の人間の心理から逸脱した、狂気の精神が表れます。その狂気はまた、復讐の対象が無限大に設置された、怒りの狂った大きさとも同調しています。<br>
<br>
「這う」というのは、近年のＪホラーの中で見出された恐怖の演出表現です。何気ない動作ですが、「這って近づいてくる人は、下半身に損傷を負うなどなんらかの非常事態か、もしくはまともではない精神状態にあって、どのみち何か恐ろしいことが起きている」ということに、映画演出が気づいた瞬間でした。<br>
<br>
お岩さんにすらあった「恨めしい」という感情はおろか、正気さえ失った異常な挙動。Ｊホラーは彼女たちにそういった狂気の演出を施すことで、より恐ろしい表現と呪いを手中にしたのでした。<br>
<br>
悪や、人々を抑圧する権力と戦う生きた女たちに対し、死んでも戦う女たちは、自分の不幸な死も受け入れず、運命という厳かな自然の摂理にさえ抗っていきます。しかしそんな強力な意志とアナーキーさを持ちつつ、お露やお岩が未練や怨念の虜となるのは、やはり女性らしい愛に根ざした感情ゆえでした。だからこそ、貞子や伽梛子の、無関係な者にまで及んでいく呪いは不条理で恐ろしいのです。<br>
<br>
そしてビデオの中で近づいてくる貞子の、異形でありながらも今までの怪談にはなかった奇妙な生々しさと、現実味。伊右衛門のような悪事を犯すことのない我々にとって、受ける心当たりがある怨念より、都会で不条理に襲いくる災厄の方がリアルな恐怖です。貞子の無差別な殺戮と狂気は、我々が肌で感じ取っている現在の不安と呼応した、まさに現代的怪談といえるでしょう。<br>
<br>
<br>
●真魚八重子（まな・やえこ）<br>
ライター。<br>
『映画秘宝』や『TRASH UP!!』などで映画に関する原稿を中心に執筆。<br>
共著に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4861822564/">『戦う女たち』</a>（作品社）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4891947470/">『リビドー・ガールズ』</a>（パルコ）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862483399/">『市川崑大全』</a>（洋泉社）などがある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/anutpanna/">アヌトパンナ・アニルッダ</a>
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<title>大澤聡「「原稿料」問題はくりかえされる？」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1265004.html</link>
<description>担当者より：メディア論などの研究者である大澤聡さんに原稿料にまつわる問題について歴史を振り返りつつ論じていただいた原稿です。現在の出版業界にも深く関係するテーマですので、ぜひご一読ください。

配信日：2010/03/03


2009年12月17日、千駄木にある古書店「古書ほ...</description>
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<dc:date>2010-03-09T13:11:10+09:00</dc:date>
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<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>メディア論などの研究者である大澤聡さんに原稿料にまつわる問題について歴史を振り返りつつ論じていただいた原稿です。現在の出版業界にも深く関係するテーマですので、ぜひご一読ください。<br>
<br>
<u>配信日：2010/03/03</u><br>
<br>
<br>
2009年12月17日、千駄木にある古書店「古書ほうろう」で開催されたトークイベントを聞きに出かけた。参加したのは、研究者的関心からつねづね気になっている「原稿料」が主なテーマだったからだ。<br>
<br>
「モクローくんトーク２「なぜか、原稿料の話」」と題し、ライター・編集者の南陀楼綾繁（＝モクローくん）、イラストルポライターの内澤旬子、評論家の栗原裕一郎の３名が登壇。わたしが到着したときには、店内に設えられたスペースはすでに超満員だった。古本の詰まった本棚のわきのイスに腰かけ拝聴することに。<br>
<br>
前方に知り合いの編集者を何人か見つけ、あいさつをすると、わたしと同様、南陀楼さん関連のイベントに参加するのははじめてなのだという。示し合わせたわけでもないらしい。まさに、「原稿料」というトピックの魅力をものがたっていると思った。みんな気になるのだ。他人（他社）の原稿料事情が。<br>
<br>
これは原稿料にかぎらない。出版業界以外でも同じ。他人の収入は基本的に秘されている。だからこそ興味を引く（たとえば、芸人の月給トークを想起せよ）。誰しも、自分だけ損をしていないか確認したがっている。対話は、各者の原稿料の支払い（／不払い）をめぐる不幸体験の紹介を中心に進行した。フリーランスの書き手のおかれた厳しい環境が次々とうきぼりになっていく。ある程度の推測はしていたが、支払いをめぐるずさんさにあらためて驚く。ひどすぎる。<br>
<br>
さて、イベントの数日前には、書評家の豊崎由美による責任編集の同人雑誌<a href="http://d.hatena.ne.jp/bookreviewking/20101127/1259307098">『書評王の島』vol.3</a>（2009年12月）が発行されていた。同号は、巻末に特集「あなたの知らない原稿料の世界」を掲載。マル秘印つきの「袋とじ」（！）になっており、購買欲をあおる。覗いてみたい。会場でも販売され、飛ぶように売れていた。やはり、他人の原稿料は気になるのだ。有志の書き手たちから収集したデータが一覧表にまとめられ、103の媒体の原稿料が一望できる。趣旨文の冒頭に、「いにしえより、ライターにとって原稿料はブラックボックスでした」とあるとおり、旧来、ほかの書き手がいくらの値段で仕事をしているのかは、ほとんど偶発的にしか知りえない情報だった（ちなみに、いま、Googleの検索ボックスに「原稿料」と入力してみたところ、関連検索キーワードの候補として「相場」が表示された！）。それが非公式的にではあれ、公開されたのである。<br>
<br>
もっとも、類似企画はこれまでにも存在した。だが、具体的な媒体名をあげた例は稀有である。その例外ぶりがこの特集を貴重な資料たらしめている。原稿依頼を引き受ける際の判断材料、あるいは交渉基準として十分活用できるはずだ。<br>
<br>
袋とじ企画をきっかけとして、Twitter上では、「#genkouryo」というハッシュタグ（＝特定の話題にそったコメント群を自動的にグルーピングし、検索可能にする機能）をつけ、さまざまな関連情報が交換されはじめていた。その後もしばらく盛りあがりを見せたようだ。タグ設定者の豊崎自身もしばしば投稿しており、当日のイベント会場にも来ていた。演者からマイクを回され、原稿料にまつわる自身の理念を披露する。豊崎の主張はいたってシンプル。イベントでも、袋とじの説明文でも、次のように説いた（以下、大澤による要約。カッコ内は袋とじの表紙文章から）。<br>
<br>
依頼時に原稿料が明示されないケースは頻繁にある。その場合、原稿が活字になったのちに、振り込み額を確認してはじめて自分の仕事の値段を知ることになる。こうした契約（ならぬ契約）関係は世間一般ではおよそ考えがたい。しかし、それがこの業界では慣例的にまかりとおってしまっている。のみならず、おりからの出版不況で原稿料引き下げ現象まで見られる。書き手たちはいまこそ「共闘」するべきなのだ。「人間らしい生活」を獲得するために。<br>
<br>
そう熱弁した。では、書き手たちは具体的に何をすればよいのか。豊崎はいう（やはり、概略）。<br>
<br>
おのおのがなすべきことはふたつ。事前に対価を訊く習慣を身につける。そして、中堅クラス以上の媒体の場合、提示額が最低ライン（豊崎は「400字1枚5000円」という）を下回るようなら引き受けない。<br>
<br>
思えば、ノンフィクションライターの日垣隆も<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4480062238/">『売文生活』</a>（ちくま新書、2005年）などで、ほぼ同じ主張を展開していた（同書の帯文は「業界のタブー「原稿料」の真実」とうたい、やはり購買欲をそそった）。物価の上昇にかかわらず、ある時期以降は原稿料がすえ置きのままであるのはおかしい、と日垣は強調する。現状を打開するべく、必ず事前に原稿料の交渉をしてきたのだという。<br>
<br>
これを日垣は「後輩たちのため」でもあると記す。個々の習慣改善が、全体のシステム刷新に直結するというわけだ。フリーライターという業種には互助的機関が存在しない。ならば、選択肢はそれくらいしかない。書き手たちによる、ゆるやかで間接的な「共闘」。そうした試みは、歴史的にも観察できる。新聞・雑誌メディアの歴史を研究するわたしは、古い記事を通覧する迂遠な作業を日々続けている。そのなかで類似する事例をたびたび目にしてきた。たとえば、いまから80年ほど前の記録。『東京朝日新聞』1932（昭和7）年5月10日朝刊に掲載された「原稿料請求に初ての訴訟」という見出しの記事である。そこにはこう記されている。<br>
<br>
不況のために「原稿料不払ひ」が横行している。しかし、「区々たる文筆者は、出版業者に対して極めて弱い立場にあるため、不払ひにも泣寝入りの形であつた」。そこで、作家の加藤武雄、龍胆寺雄ら８名が雑誌社である創造社の社長を相手取り裁判を起こした。状況改善のために立ちあがったのである。<br>
<br>
しかし、この記事にはオチがつく。じつは誤報だったのだ。３日後の５月13日同紙朝刊に小さな訂正文が載る。同月４日の段階ですでに、「示談取下となり円満に解決」していたらしい。経緯詳細は不明。だが、問題はもはや裁判の有無ではない。小粒の（ただし、上記ふたりは、当時まずまずの売れっ子ではあった）書き手たちが「共闘」して声をあげた事実こそが重要なのだ。<br>
<br>
誤報記事はこう結ばれている。「今後は原稿売買問題にも一般商取引と同じく契約書の取かはし等のせち辛い商慣習を生ずることになるかも知れぬと注目されてゐる」。この表現は、「原稿売買」が「一般商取引」には属さないことを前提としている。ふつうの「商取引」は「せち辛い」ものだ。けれども、「原稿売買」は本来そうではない。たとえば、文学。それは神聖な営為であり、カネのことをとやかくいうのは汚いことである。そういった社会的通念が存在する。芸術性は金銭に還元できない。文学はいま以上に神聖視されていた。<br>
<br>
しかし、いわゆる円本ブーム（＝関東大震災後に発生した１冊１円の格安全集の大流行）以後の、文学・出版が完全に大衆化した環境にあって、その神話を崩すことこそを得意とした評論家たちも出てきた。杉山平助や大宅壮一がそれである。現在の感覚からすると、評論家というよりライターといった方が実相にちかい。彼らは、出版事業をとりまくベールを次々と剥がしていった。その暴露ぶりが人気を博した。<br>
<br>
たとえば杉山は、論説「商品としての文学」（『東京朝日新聞』1931年９月19・20日朝刊）などにおいて、文学の「商品」としての側面にきちんと目をむけるよう主張する。創作にせよ批評にせよ、それが売買の対象である以上は値段に還元される。そして、「芸術的価値」は「商品的価値」と必ずしも比例しない。こうした議論の延長で、論説「評論と小説の稿料」（『読売新聞』1934年6月15～18日朝刊）では、評論の原稿料が小説のそれよりも総じて低いことの理由を考察している。いわく、商品の価格は「それを生産するために費された労力に比例」しない。「需要供給の関係」によって習慣的に決定しているのだ、と。<br>
<br>
こうした杉山や大宅の経済合理的な「文学商品論」に対して、多方面から猛烈な反論も殺到した（林房雄など）。にもかかわらず、彼らへの執筆依頼が途絶えることはなかった。つまり、こう整理できるだろう。一般読者たちは業界のカラクリを覗き見ることを望んだ。しかし一方で、業界内部の人間たちは、文学や文章をとりまく神聖性を維持したがった。先の新聞記事の「せち辛い」という否定的な表現の背後には、そうした当時の一連の議論が透かし見える。<br>
<br>
「せち辛い商慣習」はついに定着しなかった。なぜ、定着しなかったのか。理由のひとつには、カネにこだわるようで汚いという観念が拭い去れなかったことがあげられるだろう。文章を書く行為自体が自己実現の手段になってしまっている（「清貧でもいいから書きたい！」）。もうひとつは、先の誤報記事が記したとおり、書き手の「弱い立場」が解消されなかったこと。とくに媒体の減少期には、書き手はきびしい条件に晒される（「お前の代わりはいくらでもいる！」）。<br>
<br>
この裁判のような「文章と金銭」に関する話題が湧きあがるたび、必ず「せち辛い商慣習を生ずることになるかも知れぬと注目されてゐる」に似た文句が記されはするのだが、といって、それはあくまで思考停止の定型表現にすぎないため、誰が「注目」しているのかもはっきりせず、課題が具体的に検討されることもないまま、しだいに忘れ去られていく。そして、時をおいて類似の出来事が再演される。<br>
<br>
そもそも、先の記事が見出しに「初ての」と強調したことも、歴史的に見て正しくない。原稿料裁判はこれが最初ではないからだ。それ以前の裁判の存在が忘却されている。そして、この裁判騒動そのものもまた忘却される。<br>
<br>
ならば、現在のいくつかの小さな盛りあがりも、一過性のものに終わってしまうのだろうか。それはわからない。歴史から判断すれば、そうなる可能性は高い。とはいえ、希望もある。たとえば、インターネット環境の成熟。上述した「#genkouryo」に象徴的なように、ネットは断片化した個別事例のデータを収集可能にする。従来ならばその場の伝聞に終わったはずの情報を（書き記す人間がいるかぎり）拾い集め、容易に可視化することができる。それは個々の戦略に役立つだろう。こうした点は以前と大きく異なる。<br>
<br>
わたし自身は原稿料で生活しているわけではない。ジャーナリズム史や批評史を専門領域とする研究者であり、ライターの人たちからすれば外部の人間かもしれない。だが、わたしとしては、「文章と金銭」に関する歴史的事例を調査・紹介することで、多少なりとも議論や知識の共有ができないかと考えている。文学史や出版史研究の周辺では、原稿料調査は基礎研究としてある程度の蓄積がある（古くは、原稿料関係の証言を再録した松浦総三編『原稿料の研究』［みき書房、1978年］。最近では、印税契約を調査した浅岡邦雄『〈著者〉の出版史』［森話社、2009年］などが存在）。ところが、調査されてきたのは、あくまで小説家、それもビッグネームばかりなのである（夏目漱石や谷崎潤一郎など）。<br>
<br>
ライターや評論家の原稿料は、いつも研究の対象外であり続けた。彼たち彼女たちはエッセイや座談会のなかで、原稿料にまつわるエピソードを豊富に残してくれているのに。そう、ここには大きなねじれがある。リアルタイムでは、ライターの原稿料が問題となる（切実な生活問題）。にもかかわらず、歴史的には大作家にばかり注目が集まる（学者による偶像崇拝）。「現場」と「研究」とを接続させるためには、このねじれを解消しなければならない。<br>
<br>
ここで、「戦略を立てるにはまず歴史に学べ」といった、おざなりな結論を提出するつもりはない。ただ、光のあて方しだいでは、歴史のなかにリサイクル可能な事例を発見することができる（かもしれない）。有効なのは、大作家に関するトリビアではない。むしろ、二流三流の物書きたちの生活実態の記録の方だ。忘却されてきた歴史上の小さな失敗の数々。それを、日々更新される個別体験の集積（ネット空間！）へと接続してみること。ねじれ解消のためには、そうした作業からはじめる必要がある。<br>
<br>
ともかく、機会があれば、手元にある調査成果のいくつかを紹介したいと考えている。せっかくの盛りあがりを持続させるためにも。研究（者）が介入することで、少しでも立体的な議論へとバージョンアップしていくことができるのであれば、そんなに悪いことではないと思う。もちろん、これは余計なお世話ではないのか、といささか不安にかられはするのだけれども。<br>
<br>
<br>
●大澤聡（おおさわ・さとし）<br>
1978年生まれ。日本学術振興会特別研究員（東京大学）。メディア論／文学を専門とする。<br>
主な仕事に、仲正昌樹らとの共著<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4903145263/">『教養主義復権論』</a>（明月堂書店）、小林英夫らとの共著<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4784505903/">『一九三〇年代のアジア社会論』</a>（社会評論社）などがある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/sat_osawa/">sat_osawaの近況</a><br>
twitter：<a href="http://twitter.com/sat_osawa">http://twitter.com/sat_osawa</a>
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<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1261653.html">
<title>中川大地「「森ガール」にできること～「少女」から「女子」への変遷の中で～」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1261653.html</link>
<description>担当者より：文筆家／編集者の中川大地さんが「森ガール」について論じてくださった原稿をアップいたします。このキーワードの背景なども含めて周到に論じられておりますので、ご一読ください。

配信日：2010/02/24


2009年、急速に知名度を上げた流行ワードの一つに、「森...</description>
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<dc:date>2010-03-02T21:07:48+09:00</dc:date>
<dc:subject>中川大地</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>文筆家／編集者の中川大地さんが「森ガール」について論じてくださった原稿をアップいたします。このキーワードの背景なども含めて周到に論じられておりますので、ご一読ください。<br>
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<u>配信日：2010/02/24</u><br>
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2009年、急速に知名度を上げた流行ワードの一つに、「森ガール」がある。よく知られているように、エディトリアルデザイナーのchoco*氏が、知人に自分のファッションを「森にいそうだね」と評されたことから、同好の士を求めて2006年８月にmixiで立ち上げた「＊森ガール＊」コミュニティが、その始まりだ。<br>
<br>
「ゆるい感じのワンピースが好き」「ナチュラル系にみえるけど、すこしクセのあるファッション」「民族系の服装もすき」「ガーリー」「カフェでまったりするのがすき」「カメラ片手に散歩をするのがすき」等々、60以上もの特徴を挙げて自己定義された森ガールは、今や何誌もの専門ムックも刊行される一つの女子トライブとして、すっかり定着した感がある。<br>
<br>
ビジネス系・流行現象系の各種メディアでも、森ガールは何度となく扱われてきたが、そうした観察でよく言及されるのが、1980年代に注目を集めた「オリーブ少女」との類似性だ。すなわち、ファッションを中核としながらも、インテリアや雑貨、音楽や本など、ライフスタイル全般にわたって少女趣味的な虚構性で生活を覆おうとする傾向は、かつてマガジンハウスが刊行していた雑誌『オリーブ』（特に85年に就任した淀川美代子編集長以来の）で発信されていたメルヘンチックな路線を彷彿とさせる。<br>
<br>
実際、『オリーブ』のスタイリストとして腕をふるった大森仔佑子や、同誌出身のモデル／デザイナーである酒井景都は、現在の森ガール雑誌にもカリスマ的扱いで登場しており、両者の感性がかなり共通しているのは間違いない。<br>
<br>
さて、この森ガール。その命名のキャッチーさ、特異なキャラ立ちの良さによって大きな求心力を持った反面、やたらと揶揄やおちょくりを集めやすかったことも、トライブの外側から見た場合の特徴と言えるかもしれない。「そんな格好のやつは、森にいねえ（笑）」とでも言いたくなるような明白すぎるマガイモノ感をはじめ、「ゆるふわ、ほっこり」な不思議ちゃん的性向や、トイカメラをぶらさげて町を出歩く文化系的な自意識の在り方など、今時のすれっからした感覚からすると、どうにもこそばゆい。そんな現実離れしたツッコミどころの多さが、「沼ガール」や「磯ボーイ」といった数々の茶化しやパロディをネット上に生み出していたりもする。<br>
<br>
要は、かつてのオリーブ少女がメルヘンの仮託先にしていたのが「リセエンヌ（フランス公立学校のおしゃれな女生徒）」だったとすれば、森ガールではそれが想像上の「北欧の森」に置き換わったというだけの図式だ。その意味では、あまりカルチャーとして先進的なところのない、凡庸で脆弱なトライブだと切って捨ててしまうことも可能だろう。たとえば雑誌『小悪魔ageha』発のage嬢たちのようなパンキッシュなインパクトや、速水健朗の<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4562041633/">『ケータイ小説的。』</a>で浮き彫りにされたような、郊外に新たなコミュニティを築きつつある再ヤンキー化したジモト文化に匹敵する新時代の牽引力などは、今のところちょっと期待できそうにない。<br>
<br>
むしろ、森ガールやオリーブ少女のメンタリティの根底にある、「ここではないどこか」を幻想の西洋などに求める衝動の本質を捉えようとするならば、さらにルーツを遡り、近代日本に「少女文化」が発生した地点に立ち返ってみる必要があるだろう。<br>
<br>
そもそも「少女」とは、いかなる存在か。児童学者の本田和子や評論家の大塚英志らが、1980年代に展開した民俗学的な少女論によれば、近代以前の共同体社会に「少女」という概念は存在しなかったとされる。しかし、日本では明治後半～大正期にかけて、有産階級の子女に「良妻賢母」教育を行う女学校などの制度が確立。すなわち、初潮を迎えて生殖可能となった女性の身体を、やがて家父長制的な世帯の主となる男性に供給し、再生産単位に組み入れる日が来るまで、無傷で囲い込んでおくためのシステムが本格的に登場する。ここに、生産や性の現実から一時的に切り離された純粋な消費者である「少女」という存在が、近代社会の徒花として発生したのである。<br>
<br>
ゆえに、少女たちはやがてモラトリアムを終えて自由を奪われ、システムに組み込まれて生殖の機械とされる抑圧的な宿命から、本能的に逃れようとする性向を抱いているとされる。そこから、「女」としての性的な成熟を忌避したり、「かわいい」もので汚れた現実を遮断・糊塗したりと、虚構と戯れる少女文化の系譜が生まれ、数多くの少女雑誌などを舞台にして積み連ねられてきた。とりわけ、戦後の高度経済成長が終わり、80年代の安定成長期になると、モノの実質的な使用価値でなく商品に付加された虚構的な記号やイメージが優勢となって市場を駆動する高度消費社会が全面化。いわば「少女」性が社会全体に拡散し、オリーブ少女を筆頭とする少女文化が、史上最も隆盛する時代となった（大塚<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4334723497/">『少女民俗学』</a><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4487752965/">『少女雑誌論』</a>など）。森ガールはその残滓を受け継ぐ、現状最後のランナーとして位置づけることができるだろう（※）。<br>
<br>
しかしながら、男女雇用機会均等法やバブル崩壊後の長期不況によって、女性をめぐる文化状況も80年代までとは大きく変わった。近代建設期には多くの女性にとって普通であった専業主婦というライフコースは、90～00年代を通じて戦後的な価値観や雇用システムが崩壊した現在、もはや自明のものではなくなり、女性が人生を築いていく道筋は、男性と同等かそれ以上に多様で不透明なものになりつつある。<br>
<br>
このように社会の都合に振り回され、「負け犬」ブームや「カツマー」現象などのように次第にやさぐれていく女子カルチャーの変化の有り様を、詩人で社会学者の水無田気流は「無頼化」と呼んだ。つまり、文字通り「他に頼むものがなく一人で生きていくことを前提に、あらゆる価値基準を決定するようになること」（水無田<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862484387/">『無頼化する女たち』</a>）が、現代の女子カルチャー全体に通じる気運になっているという。<br>
<br>
このことを80年代に全面化した「少女」の消長と結びつけて捉え直せば、ここ10年ほどでとみに増加した「女子」という言葉遣いそのものが、近代の徒花としての「少女」が無頼化し、変容していった概念なのだということに気づく。もはや少女と呼べる年齢的な若さや、素直に虚構に耽れるメンタリティは失ってしまっても、決して成熟した「女」にはなりきれない、宙ぶらりんな自己認識……。そんな納まりの悪さを、ちょっぴり自虐的なニュアンスを込めることで、なんとか現実に折り合わせていこうとする自意識が、「女子」を自認する現代女性たちには垣間見えはしないだろうか。<br>
<br>
つまり、「夢みる少女」から「無頼化する女子」へ。遅れてきた少女文化であると同時に、最近の文化系女子のサブトライブでもある森ガールには、近代社会のモードチェンジが引き起こした、そんな女子カルチャーの移行の痕跡がうかがえるように思う。<br>
<br>
実際、20代前半の大学生から社会人が中心の森ガールは、かつてのオリーブ少女よりも年齢層が高く、社会との接点は少しだけ広い。「＊森ガール＊」コミュニティ内でのコミュニケーションや専門誌に載った生の声をよくよく見ていけば、森ガールとしてのスタイルを現実遮断的なものとしてではなく、仕事や生活の生産活動の中での装いとして着こなそうとしていく人もいるし、人気の高いハンドメイド制作の話題では、時に「丸ノコと電動サンダーが欲しい」なんていうガテンな声まであったりして、意外に地に足のついたライフスタイルとして発展しそうな厚みや気骨を、実はひそかに感じさせてくれる。<br>
<br>
というわけで、願わくは森ガールの皆さんたちには、そうした少女趣味的なモラトリアムを、女子ならではのダンディズムとして昇華していく芽を、もっともっと大きく育てていってほしいなと、個人的には思っている。<br>
<br>
そうすることで、性や労働や加齢といったノイジーな現実をもエレガントに繰り込み、人生をよりハッピーに彩る一生モノのスタイルの母体として、森ガール・カルチャーはさらに素敵にしていけるはずだからだ。<br>
<br>
森ガールは、現実の森には行けないかもしれない。けれども無頼な現実に、想像の森で生命的な潤いを加えていくことくらいなら、できるのかもしれない。もしかしたら。<br>
<br>
<br>
<br>
（※）もうすこし詳しく見るなら、森ガールの前史には90年代後半に輸入された「ガーリー」ムーブメントの文脈を挿しはさむ必要がある。ファッション用語としてのガーリーは、単に「ポップな少女性」を意味するというよりも「girlie（売春婦）」が語源となっており、そこから「女性らしさの見直しや、キッチュな女らしさ、セクシーだけどキュート、あくまでも女性らしさを失わず、いかに変化発展していくかを楽しみながらチャレンジする姿勢への賞賛と、少しの自嘲と照れが込められた言い方」（<a href="http://kw.allabout.co.jp/glossary/g_fashion/">「ALL About」ファッション用語集</a>）だとされる。<br>
<br>
つまり、男性からの性的なまなざしをひとまず受け入れた上で、「女らしさ」をセルフパロディ化しながら、あくまで女性自身が「かわいい」と思えるためのスタイルを再編成する批評的な姿勢がガーリーの根底にあり、本論後半で論じた00年代女子の「無頼化」とも少なからず共通した心性と言えるだろう。<br>
<br>
2007年公開のソフィア・コッポラ監督の映画『マリー・アントワネット』では、徹底的に現代女性のガーリー・コスプレ姿として描かれたキルスティン・ダンスト演じる王妃マリーが、性と消費に溺れるバブリーな遊蕩生活の虚しさに気づくと一転、にわかなロハスな菜園暮らしに向かうさまが戯画的に描かれているが、これは政略結婚でモラトリアムを断たれた少女が、ガーリー的な無頼化を経て、森ガール的な心性を派生させる女子カルチャー史への批評としても読み解きうる。<br>
<br>
<br>
●中川大地（なかがわ・だいち）<br>
1974年生、文筆家／編集者。<br>
アニメ、ゲーム関連のコンセプチュアル・ムックの制作を中心に、虚構と現実を架橋する各種評論・ルポ・雑誌記事などを執筆。<br>
編著に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4877770526/">『アルファ・システム　サーガ』</a>（樹想社）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4877770933/">『クリティカル・ゼロ　コードギアス 反逆のルルーシュ』</a>（樹想社）、論文に「生命化するトランスモダンへの助走」（<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4140093471/">『思想地図vol.4』</a>所収NHK出版）など。<br>
本当は、森ガール的なスタイルの先駆と理想のアラフォー像は遊佐未森にあると信じているミモリスト。ぜひどこかの森ガール雑誌で、未森さんインタビューをやらせてください……！<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/qyl01021/">暁のかたる・しす</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1261653" width="1" height="1" />
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1259761.html">
<title>紙屋高雪「マンガで労働を考えて何が悪いか！」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1259761.html</link>
<description>担当者より：『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』（築地書館）の著者で、人気サイト「紙屋研究所」でもお馴染みの紙屋高雪さんに、以前マンガを通して「労働」について論じていただいたものを改めてアップいたしました。

配信日：2007/11/21


ＩＴ業界の重鎮と理系学生た...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-02-26T18:55:10+09:00</dc:date>
<dc:subject>紙屋高雪</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4806713562/">『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』</a>（築地書館）の著者で、人気サイト<a href="http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/index.html">「紙屋研究所」</a>でもお馴染みの紙屋高雪さんに、以前マンガを通して「労働」について論じていただいたものを改めてアップいたしました。<br>
<br>
<u>配信日：2007/11/21</u><br>
<br>
<br>
ＩＴ業界の重鎮と理系学生たちの討論会が最近あり、学生たちがＩＴ業界のイメージを「きつい、帰れない、給料が安い」の「３Ｋ」でネガティブに語ったのにたいして、お偉方たちが色をなして反論した。「3Kの“帰れない”は、帰りたくない人が帰れないだけ」「スケジュール管理の問題」などと。<br>
<br>
おいおい、いくらなんでもそれはないだろう。そのうえで、かの重鎮はこう付け加えた。「私は40年間近くIT業界で仕事しているが、何が一番幸せかというと退屈している暇がないことだ。技術が進歩するにつれわれわれの仕事も複雑化してくるが、一生懸命追いかけていくだけでも退屈しない。いい仕事を選んだと思う」<a href="http://www.atmarkit.co.jp/news/200710/31/ipa.html">（＠ＩＴ／07年10月31日配信）</a>。<br>
<br>
労働実態を直視しろよ、というレベルの話はおいておくとして、ここには「労働とはやむを得ざる苦役」だという労働観（学生側）と、「労働をつうじて自己実現をする」という労働観（重鎮側）の基本的な対立がある。この対立でぼくが思い出すのは、評論家の関川夏央が「現代のプロレタリア文芸」だと評した、新井英樹の漫画<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4778320751/">『宮本から君へ』</a>（講談社）であった。<br>
<br>
バブル末期に登場したこの漫画を、同じ連載誌にあった弘兼憲史<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4063606341/">『課長 島耕作』</a>（講談社）にたいする徹底したアンチテーゼだと関川はとらえた。島は大企業に勤め「あまり働いているふうには見えないのに出世」するし、「働いているところなど読者には興味なかろう」といわんばかりに「女性とのつきあいと社内権力闘争のシーンばかりが描かれる」漫画だと見据えたのである。浮世離れした「労働」描写に、ある漫画家はこの漫画を「ＳＦ」と評したほどだ。それほどまでに「島耕作」は根底で労働を嫌悪している。<br>
<br>
これにたいして、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4778320751/">『宮本から君へ』</a>の主人公が「島耕作」と対比して「容貌、性格、趣味」「職業観、職業環境、『業界』をめぐる群像、すべてが挑むように対照的」だと関川は考えた。「垢ぬけない」「騒々しくてくどい」「暑苦しい」主人公が、みっともない営業で自己流に一人前をめざそうとする。そこに反島耕作流の労働観をみたのである。<br>
<br>
「作者（新井）は、労働とはやむを得ざる労苦だという昨今流行の西欧型労働観を敢然と否定している。努力すれば報われると思いたい、金だけが目的ではなく生命の燃焼感と達成感にも意味を感じたい、すなわち労働のなかに自己実現をめざしたいという、日本独特の『危険な思想』が居直るときの、暑苦しいすがすがしさとでも呼ぶべきなにものかが、この作品にはある」（関川<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/416344940X/">『知識的大衆諸君、これもマンガだ』</a>文藝春秋）<br>
<br>
この「労働をつうじた自己実現」という労働観は、現在でも女性漫画に根強い。幾多の障壁をのりこえて社会進出をはたそうとする女性にとって、労働が単なる苦役であってたまるか！　そうした労働観の最前衛に槇村さとるがいる。<br>
<br>
彼女の最新作<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4088653955/">『Real Clothes』</a>（集英社）はデパートの寝具売場から婦人服売場に配置替えになった女性の物語である。仕事では無能なぼくからすると、主人公の女性・天野の働きぶりは完璧にしかみえない。クレーム対応に失敗した部下を、教育的にフォローし、迷っている客をセールストークでなく自然なトークで購買にみちびくのだ。<br>
<br>
しかし、そんな完璧な天野であってさえも、作者・槇村からすればまったく足りないのである。婦人服売場に配属され、服ひとつ満足に売れない。年下の契約販売員から遠まわしにお前はヘアもメイクも垢ぬけないしデブだから、本気で売ろうと思ったら自分を変えろと注文される。いや、少なくとも漫画上のグラフィックをみると天野は十分にかわいいし、中肉中背。それなのになぜ、売れないのはお前がプロとしてのこだわりがないからだ、デブだイモだと罵られなければならないのか。<br>
<br>
そして槇村は、この契約販売員の一言が、最終的には正論であったという流れにしてしまうのである。天野は自分を見つめ直し鍛え直す。なんで！？　ここまで自己改造をかさねて服を売って利益をあげることが、本当に自己実現なのか！？　とぼくなどは思ってしまう。<br>
<br>
自己実現ができる仕事は、実はそれほど多くない。なのに「最初からそんなものは用意されてはいない。自分で切り開くのだ」という説教とともに、労働で自己実現ができるかのように描いてしまう女性誌系漫画は後を絶たないのである。<br>
<br>
<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/409188377X/">『俺はまだ本気出してないだけ』</a>（小学館）という青野春秋のギャグ漫画がある。40歳で本当の自分を探すために会社をやめて（係長だった）、漫画家をめざすという話だ。しかし実力も根拠もなく表題の言葉が彼の自己弁護だというイタイ漫画である。<br>
<br>
この漫画では奇妙なことに主人公は、まず会社に勤めながら漫画を描いてヒットを出す、ということをしない。会社をいきなり辞めてしまうのだ。ここには仕事とは「自分」を実現するものであり、決して片手間でやるものではない、という抜きがたい信念、かたくなな労働観がある。<br>
<br>
その意味において、『俺はまだ本気出してないだけ』の主人公と、槇村さとる的主人公は実は同じ思想の持ち主であり、一味である。<br>
<br>
本当にそれは幸せな労働観だろうか。<br>
<br>
これらにたいして、たとえば、きらたかしの漫画<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4063612570/">『赤灯えれじい』</a>（講談社）は工事現場のバイトで知り合った男女が、恋愛し、同棲し、やがて正規の職をもち、一歩一歩自立していく物語であるが、ここでは労働は決して過剰な「自己実現」の物語としては語られない。<br>
<br>
ヘタレの主人公・サトシは、美女で侠気のあるチーコに「一人前の男」として認められたい一心で恋愛にも労働にも奮闘する。サトシにとって、労働における奮闘とは正社員として安定した職をめざすことだ。はじめは、エロ本のＤＴＰ、つぎにはラブホの事務員として仕事を覚えることに懸命になる。たしかに、多少は技術をあげようという意欲や格闘はあるけども、サトシにとって必要なのは、チーコとの安定した生活の基盤になるような収入である。<br>
<br>
ここでは労働は「自己実現」ではなくて「収入を得るためのやむを得ざる苦役」でしかない。おそらく労働の大半がそういうものだ。「労働をつうじた自己実現」という夢をかなえられるのは、ほんの一部の人ではないかと思えるのだが、いかがだろうか。<br>
<br>
マルクスは若い頃、共産主義社会になって労働が人間を解放させる全面性をもつようになるのではないかと考えたが、後にその考えを捨てた。マルクスが死ぬ頃にたどりついた考えは、どうやっても労働には「やむを得ざる苦役」という面が残る、だから時短をすすめて自由時間をふやしその自由時間でさまざまな能力を発達させて人間を解放しようというものだった（資本主義では機械化は時短にならずにリストラへすすむ）。<br>
<br>
ぼくは結局それがリアルじゃないかと思う。ぼくがこうやって駄文を書き連ねる幸せを獲得できたのは「余暇」のおかげだったのだから（おかげで本まで出せました）。<br>
<br>
そういえば、現代では生産力が発達しているので、社会を維持するだけの「必要労働時間」がどれだけで済むかを、学者が計算したことがあるのだが、１日のうちそれは２時間しかなかった。あとは資本の利潤のために働かされているというのだ。<br>
<br>
これを聞いた左翼の友人が「じゃあ、午前中だけ働いて後は帰れるね」と喜んだものだった。そしてこう付け加えた。「でもさあ、午前中で家に帰ったら、おれ、酒ばっか飲んじゃうよ」と。<br>
<br>
自由時間で能力を発達させる人ばかりではないようだ。うーむ……本当にいちばんリアルなのは労働で自己実現でもなく、自由時間で好きなことにうちこむでもなく、自己実現などせずに余暇を楽しくのんびりだらだら過ごすことかもしれない。<br>
<br>
<br>
●紙屋高雪（かみや・こうせつ）<br>
紙屋研究所所長。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4806713562/">『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』</a>（築地書館）がある。<br>
また、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4780302579/">『理論劇画　マルクス資本論』</a>（かもがわ出版）では、構成・解説を担当した。<br>
サイト：<a href="http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/index.html">紙屋研究所</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1259761" width="1" height="1" />
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</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1257486.html">
<title>切込隊長＠山本一郎「ニュースまとめ斬り！」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1257486.html</link>
<description>担当者より：キリンとサントリーの大統合をめぐる一件について、ブロガー・山本一郎さんによる考察です。

配信日：2010/02/10


●キリンとサントリー、統合の失敗に見る産業再編のジレンマ●


日経がスクープし、紆余曲折を経て画餅に終わったキリンとサントリーの経営統...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-02-21T20:07:09+09:00</dc:date>
<dc:subject>山本一郎</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>キリンとサントリーの大統合をめぐる一件について、ブロガー・山本一郎さんによる考察です。<br>
<br>
<u>配信日：2010/02/10</u><br>
<br>
<br>
<b>●キリンとサントリー、統合の失敗に見る産業再編のジレンマ●</b><br>
<br>
<br>
日経がスクープし、紆余曲折を経て画餅に終わったキリンとサントリーの経営統合の失敗については、いわゆる「小沢後」のビッグトピックスとしておおいにマスコミを賑わせています。<br>
<br>
<a href="http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20100209-OYT1T00492.htm">■キリン・サントリー、泡と消えた「大統合」■</a><br>
<br>
当然、報道された以上の実情など外部からは分かりようもないのですが、読売新聞によるとサントリー側の佐治信忠社長が「統合するからには対等合併。統合後も創業家が筆頭株主になる」と語ったようであります。それに対してキリンが1:0.5という屈辱的な株式配分比率を提示して破談、ということのようですけれども、実際問題としてこれってどうなのってところであります。こういう場合は、財務と法務両面から読み解かないと、何だか分からないのですね。<br>
<br>
官報や発表を見るに、サントリーの売上高は前期比2％増の1兆5,507億円、税引き後利益は2％増の326億円と、最高益を叩き出して好調ではあるんですが、国際競争の観点からしますと他業界の例に漏れずローカル市場で頑張る小粒な会社のひとつです。<br>
<br>
これが海外の会社で嫁入り先を探そうなんて話になると、創業家の意向を残すとかっていうレベルの統合はまず無理で、日本市場にアクセスしたい海外大手の出先機関程度の影響力しか残せない可能性が高まります。<br>
<br>
未公開であることを利用して、バイアウトファンドでも活用すれば良いのかも知れませんが、いやほんとどうするんでしょうかサントリー。婚期を逃したオールドミスになってしまうのか、あるいはこれをバネに飲料メーカーとしての一角以上の再成長を遂げるのか興味は深まりますね。<br>
<br>
<br>
●山本一郎（やまもと・いちろう）<br>
イレギュラーズアンドパートナーズ代表取締役。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4166604694/">『“俺様国家”中国の大経済』</a><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4166606670/">、『情報革命バブルの崩壊』</a>（ともに文春新書）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4569771785/">『ネットビジネスの終わり』</a>（PHP研究所）などがある。<br>
ブログ：<a href="http://kirik.tea-nifty.com/">切込隊長ブログ</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1257486" width="1" height="1" />
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1255618.html">
<title>猪木俊宏・生貝直人「いわゆる日本版フェアユースの課題と必要性」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1255618.html</link>
<description>担当者より：NPO法人クリエイティブ・コモンズ・ジャパンの理事である猪木俊宏さんと生貝直人さんに、日本版フェアユースの現状や課題などについて書いていただいたものです。フェアユース入門としてもまとまっておりますので、ご一読ください。

配信日：2010/02/10


■フ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-02-17T15:03:42+09:00</dc:date>
<dc:subject>猪木俊宏</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>NPO法人クリエイティブ・コモンズ・ジャパンの理事である猪木俊宏さんと生貝直人さんに、日本版フェアユースの現状や課題などについて書いていただいたものです。フェアユース入門としてもまとまっておりますので、ご一読ください。<br>
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<u>配信日：2010/02/10</u><br>
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<br>
■フェアユースとは<br>
<br>
著作権法は、作品に対する権利を一定期間保護することで創作者が作品を生み出し続け、文化が発展していくための基盤を提供することを目的としていますが、一方であらゆる作品は人々に利用され、評価され、さらには新しい創作活動の源となることで初めて価値を持ちます。<br>
<br>
この「保護と利用のバランスを取ること」が、著作権制度に求められる最大の課題であると言えます。著作権法の条文を読んでみると、その多くは「著作者の権利」のあり方について書かれているものの、利用の必要性や利便性に鑑み、30条以下では著作権の対象とならない利用行為、すなわち個別の権利制限規定が列挙されています。その内容は私的複製（30条）、引用（32条）、教室における利用（35条）など多岐に渡り、著作物の保護と利用のバランスを図ってきました。<br>
<br>
しかし、そうした個別の規定で多様な著作物の利用形態をすべてカバーすることは難しいものです。たとえば、背景に映画のポスターが映り込んでいた写真を公開したり、教育目的の利用であってもその内容をウェブサイトに公開するといったケースを想定してください。日常的な生活の中で避けられない、あるいはその目的上認められて然るべきと考えられる利用方法が、著作権法を厳密に解釈するとグレーゾーンあるいは違法と判断されかねない部分が多く存在しています。<br>
<br>
そしてさらには、情報のデジタル化がこれまで物理的な商品として販売されてきた著作物を無形の財産として取り扱うことを可能としている現状があります。ネットワークの拡大がそれを瞬く間に世界中に広めることを可能としていく中で、従来の著作権法における権利制限規定が全く想定していなかった著作物の利用方法が次々と生み出されています。<br>
<br>
こうした中で近年我が国において注目を集めているのが、米国を中心として英米法体系の国々で広く用いられている「フェアユース（公正利用）」という概念です。フェアユースは、著作権の制限について、（日本法のように個別具体的に条文として定めることと平行して）ある一般的な考慮要素を規定し、それに基づいて特定の利用方法が「フェア」であるか否かを裁判所が判断し、利用者が権利者の許諾を得ずとも合法的に行い得る著作物の利用行為をある程度柔軟に決めていくという考え方です。<br>
<br>
具体的には、たとえば米国著作権法107条には「利用の目的と性格」「著作権のある著作物の性質」「著作物全体における利用された量と重要性」「著作物の潜在的市場または価値に対する影響」という４つの考慮要素が規定されています。近年の判例においては４つ目の要素、つまりその利用方法が作品を利用された著作権者に対して不当な不利益を及ぼさないという点が重視される傾向にあります。<br>
<br>
<br>
■日本における導入議論とその必要性<br>
<br>
我が国においてもフェアユースを導入しようという動きは以前からあり、首相を本部長とする知的財産戦略本部が策定した「知的財産戦略2008」で導入の方針が示されて以来、文化庁（文化審議会著作権分科会）において具体的な検討がなされてきました。<br>
<br>
しかしその議論は、権利保護の側面を重視する権利者団体ら導入反対派と、利用の側面を重視する賛成派に分かれ、混迷した状況が続いています（本稿の主張と必ずしも一致するわけではありませんが、最新の議論内容に関しては2010年１月に公表されたばかりのワーキングチーム報告書（※１）もご参照ください）。<br>
<br>
反対の立場の主な論拠としては、権利者に許諾を得ずに利用することのできる範囲が抽象的な形で広がることで、権利者の利益が不当に害されるおそれがあるというものです。また、法律家などからは、法律の細かい要件をできるかぎり条文に記述しようとする大陸系の法体系を取る我が国において、抽象的な一般規定に基づき判例を積み重ねる中でルール形成を行うフェアユースのような英米系の制度が果たしてうまく機能するのか、合法・違法の不確実性の増大により混乱を生み出すのではないかという懸念も出されています。<br>
<br>
ただしこれらは、米国においてもフェアユースを理由とした過度に広範な自由利用の主張が認められているわけではないこと、我が国においても民法709条（不法行為）のような一般規定は以前から存在しており重要な役割を果たしていること、フェアユースの導入後も現在の個別制限規定は残すという考え方が一般的であることなどを鑑みるに、規定内容等に十分な配慮を行えば対応可能なものと考えられます。<br>
<br>
一方で、導入に積極的な立場の主な論拠は、まずは先述したような日常生活の中で避けられない、あるいはその目的上認められることが望ましい利用方法の数々を、いたずらに条文の数を増やしていくことなく柔軟に対処していこうというものです。そして特に近年の論議の中で重要な焦点となっているのが、私達の生活と経済活動両面における情報技術の重要性が飛躍的に増大していく中で、著作権者の利益を不当に害しない限りにおいて、新しい情報技術の柔軟かつ迅速な実現を可能にしていくためにフェアユースが必要であるということです。<br>
<br>
最も象徴的な事例は、我々が常日頃利用するインターネットの検索エンジンです。検索エンジンはそのプロセスの中でキャッシュや画像のサムネイルなどの大量の複製を必要としますが、米国ではこうした複製行為は権利者の利益を不当に害せず、かつ国民の情報へのアクセスを向上させるといった理由でフェアユースに該当するものとして取り扱われてきました。<br>
<br>
他方で我が国においては、個別の権利制限規定に該当せず、国内にサーバを置いて検索エンジンサービスを運営することは（それこそ検索される全ての情報について逐一利用許諾を得ないかぎり！）違法である状態が続いてきました。今年2010年１月１日から施行された著作権法改正でようやく検索エンジンに伴う複製行為は合法とされることになりましたが、Yahoo!やグーグルが90年代に検索エンジンサービスを開始して以来、我が国の著作権法の対応まで実に10年以上の歳月を要したという事実は重く受け止める必要があるでしょう。<br>
<br>
検索エンジンのみならず、インターネット上の情報サービスはほとんど必ずと言ってよいほど何らかの形での情報の複製を伴います。たとえば私達はRSSリーダーを利用する際、ブログ記事の一部または全体が複製されて表示されることを目にしていますが、これはその度にブログの書き手に対して許諾を取ることが可能でしょうか。<br>
<br>
あるいは（twitterでは利用規約で対応されていますが）twitterのReTweetのように他人の発言を複製し公開するなどの場合、元の発言者に許諾を取ることは可能でしょうか。そうした新たな利用行為の一つひとつについて自由な利用を認めてほしいという声を集め、政府や政治家に対するロビイング活動を行い、文化庁内での数年間の審議を経て国会で個別の権利制限規定を著作権法改正という形で加えてもらうというプロセスを繰り返すよりは、フェアユースのような形である程度抽象的な「フェア」の原則を定めておき、万が一著作権者との間で深刻な紛争が生じた場合には、事後的に司法の判断を受けることが現実的なのではないかと考えられます。<br>
<br>
2007年には、CCIA（コンピューター・通信産業協会）という米国IT産業の業界団体が「米国経済におけるフェアユースの役割」と題する調査報告書の中で、「フェアユースは米国経済に対してGDPの16.6%に当たる2兆2000億ドルの経済的価値を生み出している」という試算を公開して話題を集めました（※２）。<br>
<br>
この試算では保険業等の著作権とは比較的関係の薄い産業までをも対象としていることから過大な試算であるという批判もなされていますが、事業者として多少のリスクを負ったとしても、政府の判断を待たずに新たなサービスの実現にチャレンジすることができるフェアユース規定の存在はアメリカのIT産業の競争力に少なからず影響を与えていると考えられますし、少なくともIT産業の当事者達はその経済的価値を高く評価しているわけです。<br>
<br>
<br>
■フェアユースを機能させるために<br>
<br>
フェアユース規定の導入によって、私達の生活はどのように変わるのでしょうか。もちろん上述してきたような著作物の利用可能性が変わる点は重要ですが、同時にどのような行為が公正であるのかという判断についての主体とプロセスそのものの変容という側面にも目を向ける必要があります。形式的にはその判断主体が「立法」から「司法」へと移行するという点が挙げられますが、それ以上に何が「フェア」であるのかということを、従来のように「お上」が詳細に決めてくれるのを待つのではなく、我々一人ひとりが主体的に考え続け、実践していく必要があるという点に留意するべきでしょう。<br>
<br>
たとえば、米国スタンフォード大学ロースクールでは2006年に「フェアユース・プロジェクト」を立ち上げ、法学研究者と権利者・産業界、そしてユーザーが継続的に著作物の利用行為について話し合い、ルールの明確化と創作活動の最大化を図るための努力を行っています（※３）。また、著名な消費者団体のEFF（電子フロンティア財団、※４）などは、フェアユースの範囲を決定付ける重要な裁判において、訴訟費用の面で不利な立場に立たざるを得ないユーザーの側に対し費用面や弁護活動の支援を行うなど、公正な判断が行われるための基盤作りを行っています。<br>
<br>
日本国内においては、昨年クリエイティブ・コモンズ・ジャパンがウェブ上で行った意識調査（※５）においては、回答者全体（912件）の61%がフェアユースの導入に肯定的であることと共に、創作行為によって収入を得ているクリエイターと一般的なユーザーの間に大きな見解の差異はなく、むしろクリエイターはポスターへの写りこみやマスコット・キャラのパロディ、社内利用等の利用行為について一般的なユーザーよりもフェアだと考える傾向が強いことが示されています。<br>
<br>
これは著作権の強い保護は、既に生み出された著作物から得られる利益を強化し得る一方、新しい作品を作り出そうとする創作の現場においてはむしろ障害となり得ることを示しているとも考えられます。本調査自体は未だ暫定的な結論ではありますが、フェアユース導入を控えた現在はもちろん導入後においても、継続的な意識調査や多様な関係者間のオープンな議論を通じて、社会全体でいかなる行為がフェアであり、文化や産業の発展に資するのかというコンセンサス作りの努力を続けていくことは不可欠であると考えられます。<br>
<br>
<br>
（※１）文化審議会著作権分科会法制問題小委員会　権利制限の一般規定ワーキングチーム報告書（PDF）<br>
<a href="http://www.bunka.go.jp/chosakuken/singikai/housei/h21_shiho_07/pdf/shiryo_3_2.pdf">http://www.bunka.go.jp/chosakuken/singikai/housei/h21_shiho_07/pdf/shiryo_3_2.pdf</a><br>
<br>
（※２）FAIR USE IN THE U.S. ECONOMY（PDF）<br>
<a href="http://www.ccianet.org/CCIA/files/ccLibraryFiles/Filename/000000000085/FairUseStudy-Sep12.pdf">http://www.ccianet.org/CCIA/files/ccLibraryFiles/Filename/000000000085/FairUseStudy-Sep12.pdf</a><br>
<br>
（※３）The Fair Use Project | Stanford Center for Internet and Society<br>
<a href="http://cyberlaw.stanford.edu/node/5979">http://cyberlaw.stanford.edu/node/5979</a><br>
<br>
（※４）Electronic Frontier Foundation | Defending Freedom in the Digital World<br>
<a href="http://www.eff.org/">http://www.eff.org/</a><br>
<br>
（※５）クリエイターや一般ユーザーは日本版フェアユース導入に積極的～クリエイティブ・コモンズ・ジャパン、ウェブ・アンケートの集計レポートを公開～<br>
<a href="http://creativecommons.jp/news/2009/09/15/post_58.php">http://creativecommons.jp/news/2009/09/15/post_58.php</a><br>
<br>
<br>
●猪木俊宏（いぎ・としひろ）<br>
1968年生まれ。弁護士、NPO法人クリエイティブ・コモンズ・ジャパン理事。<br>
サイバーボンド株式会社、株式会社サルガッソーの取締役なども務める。<br>
ホームページ：<a href="http://igi.jp/">igi.jp</a><br>
<br>
●生貝直人（いけがい・なおと）<br>
1982年生まれ。NPO法人クリエイティブ・コモンズ・ジャパン理事、東京大学大学院学際情報学府博士課程、慶應義塾大学SFC研究所上席所員（訪問）。<br>
専門は情報通信政策。ネットで生じる様々な事象を公共政策の観点から分析している。<br>
ホームページ：<a href="http://ikegai.jp/">ikegai.jp</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1255618" width="1" height="1" />
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1254436.html">
<title>大熊信「あなたが知らないギャルマーケットの世界」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1254436.html</link>
<description>担当者より：ブロガーでギャルマーケットにも明るい大熊信さんに、その動向を人気ブログを通して分析していただきました。ぜひ、ご一読ください。

配信日：2010/02/03


今、ギャル市場が活況だ。SHIBUYA109は初売りから１万人を集め、出版不況のさなかギャル系ファッション...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-02-15T00:15:45+09:00</dc:date>
<dc:subject>大熊信</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>ブロガーでギャルマーケットにも明るい大熊信さんに、その動向を人気ブログを通して分析していただきました。ぜひ、ご一読ください。<br>
<br>
<u>配信日：2010/02/03</u><br>
<br>
<br>
今、ギャル市場が活況だ。SHIBUYA109は初売りから１万人を集め、出版不況のさなかギャル系ファッション誌は売り上げを伸ばしている。テレビでは益若つばさをはじめ、船山久美子や小森純といったギャル系カリスマモデルたちを見ることが多くなった。彼女たちのブログは数十万PVを集め、毎エントリ100件以上のコメントが寄せられている。現在（2010年１月28日）、amebaブログで並みいる芸能人を押しのけ総合ランキング２位につけているブログ「てんちむのちむちむライフ」の「てんちむ」からギャルブログの今を探りたい。<br>
<br>
これを読んでいるほとんどのかたは、てんちむという奇天烈な名前に聞きおぼえないと思うが、彼女の本名は「橋本甜歌」といって1993年生まれの現在16歳。かつてはホリプロ所属のタレントとして『天才てれびくんMAX』などで活躍し、「カリスマ小学生」と言われていた。その後同い年の「紗綾」から始まったジュニアアイドルブームに乗りグラビアに進出。子供（女子小中学生）から大人（中年男性）まで幅広いようでいてものすごくコアなファン層の獲得に成功する。<br>
<br>
順調な芸能生活を送っていたはずの彼女だが、2007年9月にタレントブログを開設したことで転機が訪れる。純真なジュニアアイドルだったはずの彼女が、根っからのギャルであることがブログにより可視化されてしまったのだ。ブログにアップされたプリクラの中の彼女は派手な豹柄の服を着ていて、「キャバ（クラ）やっちゃうもんねー」と書かれていた。<br>
<br>
古より兄は妹の変化に困惑させられるものだが、イベントなどで「お兄ちゃん」と呼ばれていた大人たちは「妹」の変化受け入れられず大混乱。２ちゃんねる「【永遠のｱｲﾄﾞﾙ】橋本甜歌 【てんかりん】」スレッドは嘆きと怒りにあふれ、ブログもたちまち炎上した。そしてブログは閉鎖され、事務所のHPから彼女の名前は削除された。<br>
<br>
しかし、すぐさま彼女は「CROOZブログ」でブログを再開する。CROOZブログはもともと携帯検索エンジンの会社ウェブドゥジャパン（現在は「CROOZ株式会社」に改名）が始めたブログサービス。PCネットユーザーにはなじみが薄いこのブログサービスは、機能のほとんどをモバイルに特化していて、携帯電話しかインターネットツールを持たない10代の女の子を中心に会員数は400万人にのぼる。<br>
<br>
このブログの再開の時点で彼女は金髪の完全なギャルとなっており、「てんちむ」を名乗るようになる。彼女の使い始めたCROOZブログには、PCでは読むことができない購読者専用日記を書く機能がある。携帯電話でCROOZブログに会員登録し、好きなブログを購読登録することで読むことが可能になる。購読登録すると更新されるたびに携帯にメールが送られてくるというRSSリーダーに近い仕組みだ。CROOZはこの機能で会員数を増やし、また彼女も購読者専用日記をたびたび書くことで興味を誘い読者を増やしていった。<br>
<br>
彼氏のことまでも堂々と書く赤裸々な内容のブログのせいで「大きなお友達」を完全に失ったものの、カリスマ小学生だった彼女の変化を「小さなお友達」はむしろ憧れの対象として支持し、CROOZブログ内のアクセスランキング１位を獲得するまでになった。彼女はCROOZブログにおいて2008年10月から2009年６月、2009年７月から11月と２度に分けてブログを使っていたが、累計PV数は１億5000万近くに上り、１日に平均すると40万以上になる。もはやタレントではない一般人の女の子のブログのPV数としては驚異的だ。彼女のブログの更新を待ちわびて携帯電話のブラウザで再読み込みボタンを連打する女子中学生の姿が想像できてちょっと怖い。<br>
<br>
PVの計算方式はブログサービスによりまちまちで数字をそのまま受け取ることはできないが、この記事を書くにあたってCROOZブログランキングで上位にいる女の子にアンケートを取ったところ、その子のブログにはしばしばさまざまな業者からバナー広告の依頼がくるそうだ。広告料としては大体月５万円前後で、時には10万円近いものあり月30万円を稼いでいるとのこと。けた外れのPVを稼ぎだしていたてんちむのブログにおいては、それ以上の広告力＝人を集める力があったことも想像できる。<br>
<br>
てんちむはその後も喫煙写真をアップしたりと、赤裸々にもほどがあるブログ運営で物議をかもしながらCROOZブログを続けていたが、2009年11月に突如卒業宣言。そして2009年末にamebaブログへの電撃移籍となった。<br>
<br>
サイバーエージェントは早くからギャルマーケットに注目しており、エントリ数に対するギャラを発生させることで各ギャル系雑誌のカリスマモデルといわれる女の子たちのほとんどをamebaブログに呼び込むことに成功した。「GaLMO」というギャル系モデルに特化したブログランキングのカテゴリまでも用意されていて、たびたびモデルとのコラボ商品の企画なども行ったりしている。読者と購買層がイコールで結ばれる最高の広告戦略といえるだろう。その中でサイバーエージェントがブロガー・てんちむに目を付けたのは自然な流れだとは思うが、16歳の女の子との契約に大きなお金が動いたりしたのだろうか……。私自身の収入を鑑みると涙を禁じえない。<br>
<br>
ともあれ昨年末に開設されたてんちむのブログは今現在（2010年１月28日）、たった１カ月で居並ぶ芸能人ブログ、ギャルモデルブログを押しのけ、総合ランキング２位につけるまでになった。１位をとるのも時間の問題だろう。同じく女子中高生に圧倒的支持を受けている<a href="http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0711/07/news067.html">「前略プロフィール」に関するITmediaの記事</a>では、サービスを提供している楽天の担当者が「なぜ流行ったのか、いまだに誰も理由がわからない」と答えている。<br>
<br>
女子中高生に対するマーケティングの難しさを象徴するような発言だ。彼女のブログがここまで注目される理由を、彼女をずっと追いかけてきた私も正直分析することができない。我々大人たちが首をかしげているのをよそにブログの女王への道を突っ走る彼女の姿と、その彼女を支持して携帯電話を一心不乱にリロードする女の子を想像して震えているだけだ。<br>
<br>
<br>
●大熊信（だいくま・しん）<br>
1980年、千葉県出身。ブロガー。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/die_kuma/">ダイナミック大熊</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1254436" width="1" height="1" />
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</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1252248.html">
<title>伊藤聡「がんばれ男の子！　ジャド・アパトー版 しあわせな男女関係のすすめ」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1252248.html</link>
<description>担当者より：著書『生きる技術は名作に学べ』（ソフトバンク新書）が好評のブロガー、伊藤聡さんに映画監督ジャド・アパトーの作品について論じていただきました。なお、本文中で映画『スーパーバッド 童貞ウォーズ』『40歳の童貞男』のエンディングに触れておりますので、そ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-02-10T15:33:00+09:00</dc:date>
<dc:subject>伊藤聡</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>著書<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/479735691X/">『生きる技術は名作に学べ』</a>（ソフトバンク新書）が好評のブロガー、伊藤聡さんに映画監督ジャド・アパトーの作品について論じていただきました。なお、本文中で映画『スーパーバッド 童貞ウォーズ』『40歳の童貞男』のエンディングに触れておりますので、その点ご了承ください。また、<a href="http://www.sbbit.jp/article/cont1/21060">伊藤聡さんの読書やブログに関するインタビュー</a>もアップされていますので、そちらも併せてご覧ください。<br>
<br>
<u>配信日：2010/01/27</u><br>
<br>
<br>
ジャンルを問わず、あらゆる男性作家にとって、ひとつのむずかしい課題としてあるのは、いかに女性を描くかではないだろうか。映画であれ、小説であれ、女性をどれだけ現実離れさせずに、リアルに描くかは、作品の印象を決定づける重要な部分である。こうした作業に失敗した男性作家はおおむね、辛らつな批判や失笑にさらされる羽目になる。この作者の考えている女性像とは、しょせんこのていどのものなのか、というわけだ。<br>
<br>
むろん、男性を描けない女性作家もあるていどは存在するのだろうが、こと男性作家が女性を描こうとすると、とたんにリアリティが欠如してしまうケースは多い。かなり人生経験を積んでいるように見える作者であっても、いざストーリーを語りはじめると、おもいのほか古くさく素朴な女性観で物語を進めてしまうことがあるのだ。ストーリーのなかで女性を動かしていこうとすると、なぜか想像上でこしらえた架空の存在のようになりがちであり、ほとんど空想に近いような非現実性をともなってしまう。<br>
<br>
『40歳の童貞男』『スーパーバッド 童貞ウォーズ』などの作品で知られる、アメリカの映画監督ジャド・アパトーは、その極端に品のないコメディタッチの作風からは想像がつかないほど真摯に、ストーリーを通して、いかに女性を学び、どうつきあっていくかを考えていこうという姿勢を持つ作品を撮りつづけている。<br>
<br>
登場する男性は、むさくるしくてだらしのない、デリカシーの欠如した男性ばかり。作品は、彼ら男性が陥りがちな恋愛の失敗をいくつも散りばめながら、男女関係、ひいては人間のコミュニケーションそのものについてあらためて考えさせるものである。<br>
<br>
男性によく見られる失敗は、自分が想像のなかで作り上げた女性、イメージのなかの恋人に夢中になってしまい、現実の女性を見失ってしまうことだ。ぐうぜん、自分と音楽の趣味がほんのすこし似ている女性と知り合っただけで、彼女なら自分のすべてをわかってくれるはずだと一方的に期待してしまった、映画『（500）日のサマー』の主人公トム君のように、相手をきちんと見ずに、男性にとって心地よいイメージばかりを仮託<br>
してしまい、結果としてただ空まわりするだけというケースは多い。イメージのなかの恋人とたわむれ、他者としての女性には到達できずに終わる男性たち。ジャド・アパトーは、男性が女性を知ることの困難を認めたうえで、ではいかに両者は歩み寄れるのかを探ろうとする。<br>
<br>
『寝取られ男のラブ♂バカンス』では、失恋を乗りこえようとする男性を描くが、ミュージシャンである主人公が失恋を乗りこえるきっかけは、あたらしい恋人ではなく、長らく目標としていたロックオペラの上演に向けて準備を始めることだった。『無ケーカクの命中男』では、妊娠した恋人に寄り添い、彼女の不安を取りのぞく男性が主人公となり、妊娠から出産というできごとよって成長していく男女の姿が描かれる。<br>
<br>
『40歳の童貞男』では、フィギュア収集が趣味の男性が主人公となるが、「未開封の箱入りフィギュア」に固執する主人公が、40歳で性経験のない男性というメタファーがおもしろい。彼らはイメージとしての女性像から脱却し、現実に向きあうことで成長しようとし、リアルな女性を知ろうともがくのだ。<br>
<br>
また、ジャド・アパトー作品を特徴づけるモチーフとして、彼らが女性との関わり方を模索するあいだに、気がつけば男性同士の友情も深まっていくという展開が挙げられる。<br>
<br>
『スーパーバッド 童貞ウォーズ』において、ふたりの主人公は、恋人を見つけるという共通の目的から行動するのだが、しだいに、他人に心を開くこと、他人を知ることのよろこびは、相手が男であっても女であってもさほど変わらないことを学ぶ。あれほどに夢見ていた恋人の獲得は、実はほろ苦い喪失感とともにやってくるものなのだ、というエンディングがすばらしい。<br>
<br>
女性を知る、といっても、それはきっと、さほど大げさなことではないのかもしれない。わたしは大人になってみてはじめて、女性がいかにふだんからよく手を洗うのかを知った。女性はほんとうによく手を洗う。外から帰ってきたり、なにかをさわったりすれば、すぐに手を洗うが、こうした感覚は男性にはあまりないようにおもう。それを知ったとき、わたしはなんだかとてもうれしかったし、女性に近づいたような気がしたものだ。<br>
<br>
『40歳の童貞男』のエンディングで、主人公は40歳にして初めての性行為を終え、その新鮮なよろこびは、人びとがうたい踊るゴージャスなミュージカルとして輝かしく表現され、華やかに映画は幕を閉じる。人より経験が遅かったからといって、それがなんだというのか。彼はついに性行為をおこなったのだ。すべての男女関係を祝福する、ハッピーな賛歌。そしてジャド・アパトーが描こうとしているのは、あいまいなイメージの向こう側にある、リアルな女性の息づかいなのではないか。<br>
<br>
<br>
●伊藤聡（いとう・そう）<br>
ブロガー。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/479735691X/">『生きる技術は名作に学べ』</a>（ソフトバンク新書）がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/zoot32/">空中キャンプ</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1252248" width="1" height="1" />
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</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1251935.html">
<title>田中秀臣「マンガ批評マップ2010」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1251935.html</link>
<description>担当者より：経済学者の田中秀臣さんに、日本のマンガ批評の現在について書いていただいたものをアップいたしました。現状の見取り図としても非常に有益な内容になっているかと思いますので、ご一読ください。

配信日：2010/02/03


ゼロ年代最後の一年は日本のマンガ批評に...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-02-09T22:56:22+09:00</dc:date>
<dc:subject>田中秀臣</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>経済学者の田中秀臣さんに、日本のマンガ批評の現在について書いていただいたものをアップいたしました。現状の見取り図としても非常に有益な内容になっているかと思いますので、ご一読ください。<br>
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<u>配信日：2010/02/03</u><br>
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ゼロ年代最後の一年は日本のマンガ批評にとっては興味深い年になった。まず国際的なイベント「世界のコミックスとコミックスの世界――グローバルなマンガ研究の可能性を開くために」が開催された。内外のマンガ研究者を結集させたイベントは参加者にはそれなりの刺激になったことだろう。<br>
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上記のイベントで基調講演を行ったフランスのマンガ研究者ティエリ・グルンステンを中心にしたシンポジウムに私は参加した。特にグルンステンの<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4791764536/">『マンガのシステム』</a>（2009年、青土社、野田謙介訳）をめぐる日本のマンガ研究者（伊藤剛、竹熊健太郎）との対論が面白いものだった。そこで伊藤らは、グルンステンの主張では十分にフォローされていない日本のマンガのユニークさを、特に少女マンガにおける表現に求めた。<br>
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伊藤が提示した例は、日本の「マンガ表現論」の主導者である夏目房之介の著作<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4140840668/">『マンガはなぜ面白いのか』</a>（1997年、ＮＨＫ出版）で「日本マンガの特徴」として紹介されていたものであった。いわば伊藤はここでグルンステンのマンガ理論が日本マンガの特徴をとらえていないのではないか、と疑問を呈したわけである。夏目はそこで「アニメのセルのように重なるコマ構成」を日本マンガの特徴としてあげて、以下のように書いている。<br>
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「つまり多層的な時間が、重層するコマという空間に投影されているのです。時間分節と圧縮／開放の働きにとどまっていた古典的なコマ構成では、ここまで微妙に多層化した内的時間を実現することはできなかったでしょう」（夏目前載書、172頁）。<br>
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難しい表現だが、要するに古典的なマンガは空間（コマ、間白など）が、表現されている時間の流れをほぼ単線的（過去から現在そして未来へと）描いているのに対して、日本マンガの空間による時間の操作はより複雑になっていて、一瞬のうちに過去・現在・未来が交差するものとして表現されている（あるいは時間分節さえも拒否するように表現されている）、ということである。<br>
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いずれにせよ、ここでのポイントは空間（コマなど）を操作することで複雑な時間表現（時間を表現することの拒否を含む）を可能にしている、というわけだ。この伊藤の指摘に対して、グルンステンはそれらの表現は彼のマンガ論を代替する可能性を秘めたユニークなものではなく、マージナルなものである、という認識を提示した。簡単にいうと、伊藤らが提示し日本マンガの多層的な表現もグルンステンの<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4791764536/">『マンガのシステム』</a>の範囲内で語れる特殊なサンプルでしかない、ということだろう。<br>
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ところで、そもそもグルンステンの主張とは何であったろうか。これについては以前、<a href="http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20091220#p1">自分のブログの中で詳細に説明した</a>ので参照していただきたい。<br>
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簡単にいうとグルンステンの試みも、空間（コマ、間白など）によって時間を操作するという点では夏目らと基本的に同じ視点に立っている。しかも夏目たちが日本マンガ表現のいわば標本学的な視点を採用しているのに対して、グルンステンは空間（＝時間）の選択が、物語を生み出すという視点からの合理的な選択であることを明らかにしたことにある。彼の造語である「物語計画」とはそのような合理性を端的に表現したものであり、この計画に適応しない空間（＝時間）の選択は、いわばマンガ表現において「不適切」「非効率的」なものとして評価される。<br>
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実際にマンガ制作者や読者がそのような「物語計画」を意識してマンガを描いているか、読んでいるかどうかはあまり問題ではない。グルンステンの議論からいえることは、そのような合理性を基準にしないでは、単にマンガは恣意的なコマやその構成物の集積にしかすぎなくなる、というものであった。<br>
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グルンステンの理論では、空間（＝時間）の操作は、日本マンガのように多層化することも容易に拡張可能である。それは操作するパラメーターの問題でしかない。重要なのはそのパラメーターをどのような観点で選んでいるか、ということに尽きる。そのため伊藤や夏目のように日本マンガの特徴としていくつもの表現のサンプルを提示されても、いわばエアコンの温度がいま何度であるかをいっているだけにすぎない。問題なのはその温度が（物語計画にとって）最適な温度であるかどうかなのである。<br>
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グルンステンの指摘は、私には日本のマンガ表現論の欠陥（空間＝時間を選択する上での基準の欠如）を指摘しているようでとても興味深く聞けた。この日本のマンガ表現論の欠陥をとりあえず合理性基準の欠如と呼ぼう。この合理性基準の欠如は、日本マンガ表現論の最先端をいくと思われる泉信行の漫画論同人誌『漫画をめくる冒険』にも共通している。泉はその本の中で、「視線の力学」を提示している。しかしある視線が他の視線になぜ優位しているのか、それを決定する基準がやはり欠如している。例えば右から左に読むという視線の力学は、いったい合理的な基準によるものなのか、あるいはなんらかの非合理的なバイアスなのか、泉の議論では非決定なままである（注１）。<br>
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もちろんグルンステンのような合理性基準だけでいわば形式的に接近するやり方だけが、マンガ研究のすべてではないだろう。例えば合理性基準よりも強い私的な価値判断を重視することなど多様なアプローチがある。<br>
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例えば、岡崎乾二郎「３３３からトビウツレ」（『現代詩手帖』1985年11月号）や瓜生吉則<a href="http://yossy32.hp.infoseek.co.jp/pcc.htm">「メディアとしての〈梶原一騎〉――あるいは“劇画の帝王”の語り方」</a>だ。あるいは社会的な基準を重視する見方もある。杉田俊介『無能力批判』（2007年、大月書店）や、ササキバラ・ゴウの<a href="http://homepage3.nifty.com/sasakibara/comic/index.htm">「まんがをめぐる問題」</a>などの貢献もある。<br>
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マンガ「研究」に対比し、マンガ「批評」を志向することもその批評を読む面白さという点だけでみればもちろん否定することはできない。例えば、いしかわじゅんの<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4778031121/">『秘密の本棚』</a>（2009年、小学館クリエイティブ）、あるいは論者自身が判断基準となっているという点では吉本隆明の<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4778037065/">『全マンガ論』</a>（2009年、小学館クリエイティブ）も同類だろう。2009年に刊行されて注目を浴びた『漫画批評』創刊号には、日本におけるマンガ「批評」の在り方を端的に示した表現があった。<br>
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<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4794962320/">『漫画の時間』</a>（1995年、晶文社）を出したばかりの、いしかわじゅんが、「面白い漫画の評論本を出すんだ。面白い漫画を取り上げるだけじゃない。評論そのものを美しい言葉で書いて、読んで楽しい評論になるように作ったんだよ。」と米澤嘉博に言った。この言葉に対して米澤は、「漫画の評論に面白さなどいらない。ただ、事実が正確に記載されていればいい」と猛烈に反論したという（『漫画批評』創刊号26頁）。<br>
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このいしかわの発言は、日本でマンガを論評する多くの人たちに安堵と居直りを提供するだろう。その一方で、米澤の事実だけの記述がマンガ評論のすべてである、という発言もまた、マンガ表現の標本を「事実」として収集することだけが、研究そのものである、とも解釈されてしまうであろう。そしてそのようにいままで解釈されてきた、というのが日本のマンガ研究の現状である（注２）。<br>
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マンガの制作者あるいはマンガの消費者がどんな基準で、ある表現を別な表現よりも選択するのか、このような選択の際の基準が欠如したままでのマンガ論の議論はあまり実りの大きいものではない。例えば、竹内オサムは<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4771020264/">『本流！マンガ学』</a>（2009年、晃洋書房）で、伊藤剛の<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4757141297/">『テヅカ・イズ・デッド』</a>（2005年、NTT出版）の中での竹内批判に応えるかたちで反論を行っている。しかし筆者の見るところ、両者は手塚の表現が多様であるかどうか、という標本数の大小を、マンガ表現論そのものの多様性とすり替えてしまっているのではないだろうか？（注３）<br>
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ここで、竹内の「同一化技法」（映画的手法）がマンガ表現論の可能性を制約した、という伊藤の批判ほどこの論争の特徴を際立たせるものはない。伊藤にあっては竹内の表現論は先の夏目的なマンガの多層性をとらえることができない、というわけである。それに対する竹内の批判は、自らの見解もマンガの多層性・多様性をとらえることができる、というものであった。しかしまたもや指摘したいのは、問題はマンガ表現の多層性や多様性のサンプルを提示することではない。問題の核心は、その表現がなぜ（物語計画によって）選ばれたのか、その選択の基準を明確にすることである。<br>
<br>
おそらくマンガにおける合理性基準の欠如の問題は想像以上に深刻である。先にも書いたように竹内と伊藤の争いも要するにどちらが多くのマンガ表現を許容しているか、ベタにいってしまえば、どちらが多くのマンガ表現を知っているかの争いになってしまう。マンガ表現の博物的知識の多寡を競いあるというレベルではないだろうか。<br>
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コマ枠（フレーム）を突き破って、そのフレームにぶらさがっているような登場人物のマンガを例示しながら、伊藤は次のように「フレームの不確定性」こそが、映画と区別できるマンガの特質であると書いている。<br>
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「ここで重要なのは、普段は「コマ」の側にあるとして読まれていた「画面」が、キャラがコマ枠を突き破ったりぶらさがったりしたときに、「紙面」に切り替えられるということである」（伊藤前掲書、204頁）。<br>
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「もっといえば、マンガでは「フレーム」は厳密には「コマ」と「紙面」のどちらに属するものか、一義的に決定することができない。この不確定性こそがマンガをマンガたらしめており、かつ「とらえにくさ」をもたらしている。さらにいえば、これが映画との決定的な差異なのである。そして、これまでのマンガ表現論が明言してこなかった特性である」<br>
（伊藤前掲書、200頁）。<br>
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ところでウッディ・アレンの『カイロの紫のバラ』という映画がある。主人公のミア・ファローが映画をみていると、その映画の登場人物が突如としてミア・ファローの側に飛び出てくる。このとき映画の中の映画のフレーム（枠）は、「コマ」（ミア・ファローがみている映画の世界）に属しているのか、あるいは「紙面」（ミア・ファローのでている映画）に属しているのか、これも不確定ではないだろうか。3D映画（これは何十年も前からあるが）ではさらに映画とマンガを区別するものを、「フレームの不確定性」に求めるのは難しいのではないだろうか？<br>
<br>
実は、いま私が書いたような反論の仕方もまた、マンガや映画表現の博物学的知識の多寡を争っている一例にしかすぎないのだ。このような映画とは何々が特性であるとか、マンガとは何々が特性であるとか、という表現上の「特性」と称するものを並べてもあまり意義のあることではないだろう。<br>
<br>
「フレームの不確定性」の問題も、単なる空間（＝時間）を規定する諸パラメーターをどのように最適に決めるかという問題として考えることができる。ある空間の大きさ（コマをはみ出る登場人物など）、形（フレームをつかむ手）、位置（一枚の紙のどこにおかれるか）などを、物語計画にそって描いていく。その空間を「コマ」といっても「紙面」といっても、あるいはどちらでもないといってもあまり大きな意義は見出しにくいということである。<br>
<br>
つまり映画やマンガは、空間（＝時間）の最適な選択問題として一般化されるだろう。私は上記に参照先をあげたグルンステンモデルの一般化の中でそのような方向性を示唆したつもりである。従来のマンガ独自と称する表現の多様性や多層性をめぐる議論を繰り返しても、それは何度もいうが単なる知識の多寡を競う博物学的問題でしかないだろう。さらに場合によっては不毛な議論ともなるかもしれない。<br>
<br>
例えば、竹内一郎の<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062583542/">『手塚治虫＝ストーリーマンガの起源』</a>（2006年、講談社）をめぐる一連のマンガ研究者からの批判がある。その批判も（竹内オサムへの批判同様に）竹内一郎がどのくらい手塚治虫らのマンガ表現、あるいはマンガ表現の言説をめぐる発言を知っているか知っていないか、のベタな知識量の多寡として語られている（注４）。さらにベタを重ねれば、これは単なる「私の方が君よりも知っている」程度の話になりかけない（注５）。<br>
<br>
おそらく日本マンガの従来の表現論ベースからの問題は、合理性とそれ以外の判断基準（ダーク梶原的なものなど）との緊張と対立をどう考えていくかに絞られていくのではないだろうか？　そしてそれは経済学などの合理性を扱う分野とのシンクロさえももたらすであろう（注６）。そのようなマンガ研究の可能性を今後も見ていきたいと思う。<br>
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（注１）泉信行らとのTwitter上のやりとりをまとめたサイトがあるので参照されたい。<br>
<a href="http://togetter.com/li/3252">http://togetter.com/li/3252</a><br>
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（注２）米澤のマンガ史三部作が、2009年に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4480426213/">『戦後ギャグマンガ史』</a>（ちくま文庫）で復刊が完結したこと、明治大学で米澤の「事実」記述のバックグラウンドである米澤嘉博記念図書館が開館したことは特記されるべきイベントであった。<br>
<br>
（注３）なお、2009年における「手塚治虫展」（江戸東京博物館）の開催、手塚の初期作品の完全復刻（『新寶島』『ジャングル大帝』など）は日本のマンガ研究の重要な貢献であり、そこに果たした竹内オサム、中野晴行、宮本大人らの歴史考証も重要である。<br>
<br>
（注４）「紙屋研究所」の以下の記述や伊藤剛、宮本大人などの批判を参照。<br>
<a href="http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/storymanga.html">http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/storymanga.html</a><br>
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（注５）この知識の多寡がマンガ批評の品質？を決めるという感覚は、例えば昨年末に出た<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4939138496/">『THE BEST MANGA 2010』</a>での中野晴行の竹内一郎への突っ込みのようなミスジャッジさえも招くだろう。以下、参照。<br>
<a href="http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100114#p1">http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100114#p1</a><br>
<br>
（注６）小田切博の<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4480065318/">『キャラクターとは何か』</a>（2010年、ちくま新書）などは、コンテンツ産業論への批判的視野を含みながらも、残念なことに、政府介入を無条件に不可避とするなど、ある種の独断にみちた本である。以下、参照。<br>
<a href="http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100105#p2">http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100105#p2</a><br>
<a href="http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100121#p1">http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100121#p1</a><br>
これもまた合理性とはなにか（ここでは経済合理性だが）を忘却した議論である。ただ表現の博物学的な志向をもつ夏目房之介らのマンガ批評家には予想通りに絶賛されている。そしてその手放しの絶賛のありかたこそが、いまの日本マンガ研究の深い恣意性の谷間を表しているのかもしれない。<br>
<br>
<br>
●田中秀臣（たなか・ひでとみ）<br>
上武大学ビジネス情報学部教授。経済学者。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4140882832/">『雇用大崩壊』</a>（NHK生活人新書）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797336552/">『経済政策を歴史に学ぶ』</a>（ソフトバンク新書）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4492260986/">『偏差値40から良い会社に入る方法』</a>（東洋経済新報社）などどがある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/">Economics Lovers Live</a>
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<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1249697.html">
<title>山形浩生「山形月報！」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1249697.html</link>
<description>担当者より：山形浩生さんの書評連載の2009年末のものです。年末に山形浩生さんが強くプッシュなさっていた本は何なのか――ご一読ください。

配信日：2009/12/24


年末から正月にかけて読む本を買いためておこうかと思っている読者諸賢よ。もしぼくのこの連載を本当に本選...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-02-05T13:30:04+09:00</dc:date>
<dc:subject>山形浩生</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>山形浩生さんの書評連載の2009年末のものです。年末に山形浩生さんが強くプッシュなさっていた本は何なのか――ご一読ください。<br>
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<u>配信日：2009/12/24</u><br>
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年末から正月にかけて読む本を買いためておこうかと思っている読者諸賢よ。もしぼくのこの連載を本当に本選びの参考にしているのであれば、いま買って読むべき本はまず何をおいても服部正也<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4121902904/">『ルワンダ中央銀行総裁日記』</a>（中公新書）だ。ずいぶん昔の本なのだけれど、長いこと絶版だったのが、この十一月にめでたく増補されて復刊した。<br>
<br>
著者は日銀マンだが、ＩＭＦの技術援助の一環として、一九六〇年代半ばにルワンダの中央銀行総裁として派遣される。そこはかつての宗主国ベルギーが、怪しげなコンサルを通じて自国企業の利益のためだけに各種政策運営をしており、中央銀行ですらまともな帳簿もない状況。<br>
<br>
著者は帳簿の整理から初め、各種の妨害工作にも負けずに、国の発展に資する金融経済政策を次々にうちだし、見事に国を立て直す。その様子が実に生き生きと（時に義憤をあらわにしつつ）描き出される。<br>
<br>
本稿の読者なら、ぼくが開発援助がらみの仕事をしていることはご存じかもしれない。その過程で各地の途上国にいって、中央銀行といっしょに仕事をすることも多いのだ。多くのところでは、先進国や中進国からアドバイザーなるものが常駐している。その多くは、常識を超えた使えない無能だ。本国にいられると迷惑だから、僻地にとばされたのが露骨にわかる。ここまで有能な人間が派遣されたというのは、ぼくから見れば奇跡的なことだ。そして開発援助にこれほどのことができるとは！　もちろん、当事者の言として多少割り引いて読むべき部分もあるんだろうが、それにしてもすごい。<br>
<br>
さらに本書は、中央銀行の役割ということについても、多くの人の考え方を改めさせてくれる。中央銀行の役割というのは、ほとんどの人は理解していないし、またそれを理解したつもりの人の多くは、政策金利がどうしたとか流動性供給が、何とかオペが云々といったテクニカルな話で些末な専門用語をもてあそび悦に入っている。<br>
<br>
でも、この中央銀行総裁のやっていることを見ると、中央銀行とは本来そういうものじゃないことがわかる。いや、そういう部分もあるんだが、それだけではだめなのだ。かれは、実際の経済のプレーヤー――銀行や短資会社ではない、事業者も含めたプレーヤー――と直接きちんと話をする。かれらのニーズを見極め、そこにある歪みを見て、それを中央銀行として正すにはどうすればいいかを考える。中小企業の苦境に対して資金援助を提供し、無意味な規制撤廃を行い、大統領とも話をして、大統領の政策目標を実現するための手法を着実に編み出す。<br>
<br>
それにひきかえ……日本の中央銀行は、社会や政治や経済のニーズをきくことが独立性の侵害だとわめきたて、自分が長期的な確固たるフォワードルッキングな視点を持つと主張しつつ、世間の目にびくびくして朝令暮改をくりかえす。市場との「対話」なるものが一方的な要領を得ない弁明のことだと思っている。いまの日銀を見ていると、この服部正也のような人物がかつていたとはにわかに信じられないほど。<br>
<br>
実は過去一年の金融危機で、世界の多くの中央銀行はちゃんとこれをやっている。中小企業向けの追加融資や融資保証を中央銀行が実施し、必要なところにお金を出し、実際の経済にとって役立つことを、政府ときちんと協議して実施している。先週いたインドネシアでも、いまいるマレーシアでもそうだ。それにひきかえ……。<br>
<br>
本書は、ルワンダの明るい未来を確信する服部のことばで終わる。が、その後ルワンダは、ご存じの通り恐るべき大虐殺の舞台となった。今回の増補版では、それについての服部の苦渋に満ちた小論も収録している。新書だけれど、最近の無内容な量産新書とはわけがちがう、深く重い、繰り返し読むべき本だ。この手の復刊本は、出たはいいけれど増刷されることなくすぐにまた消えることも多いので、いまのうちに絶対買って<br>
おこう。<br>
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今回は、この一冊だけ紹介できればぼくは満足なのだ。あとはおまけで、池澤夏樹の世界文学全集はトマス・ピンチョン<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/430970963X/">『ヴァインランド』</a>（河出書房新社）が出た模様。実はマレーシアからまだ帰っていないので、実物は見ていないけれど、長いしだらだらしているしわけわからんし、ゴジラも忍者も出てくるし、でもそういうひねくれぶりを楽しみたい人はどうぞ、実物をちょっと立ち読みしたい人は、<a href="http://cruel.org/talkingheads/vineland.html">ぼくが訳したのがあるのでこちら</a>もどうぞ。<br>
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ところで<a href="http://magazineworld.jp/brutus/677/">『ブルータス』</a>でぼくと並んで出ている池澤春菜って、池澤夏樹の娘だったのか！　知らなかった。ニコニコ動画で加藤夏希相手にプロレスを熱く語っている変なネーちゃんだとしか思ってなかった。<br>
<br>
あとはやはり小説、マット・ラフ<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4163286209/">『バッド・モンキーズ』</a>（文藝春秋）が出ている。軽いけれどおもしろいよ。アメリカのカレッジノベル系の作家で、つまり初期のカート・ヴォネガットみたいな、少しシニカルで饒舌で軽妙で、でもちょっと社会派的な視点も入った感じ。ヴォネガットほどすごくはないけれど、決して悪くはない。<br>
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てなところ。では、みなさま、よいお年を、ぼくはまだまだ今年が終わりそうにありません。東京は凍っているようですが、クアラルンプールはたいへんお暑うございます。<br>
<br>
<br>
●山形浩生（やまがた・ひろお）<br>
大手シンクタンク研究員、評論家、翻訳家。<br>
サイト：<a href="http://cruel.org/jindex.html">YAMAGATA Hiroo Official Japanese Page</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1249697" width="1" height="1" />
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1249044.html">
<title>小田嶋隆「大日本観察」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1249044.html</link>
<description>担当者より：コラムニスト・小田嶋隆さんによる連載コラムをアップしました。ぜひご覧ください。

配信日：2010/01/20


Googleが中国市場から撤退することになるかもしれない。とすると、これは大事件だ。

以下、記事を引用する。

《Googleは昨年12月中旬に中国を起点とす...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-02-04T09:50:07+09:00</dc:date>
<dc:subject>小田嶋隆</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>コラムニスト・小田嶋隆さんによる連載コラムをアップしました。ぜひご覧ください。<br>
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<u>配信日：2010/01/20</u><br>
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Googleが中国市場から撤退することになるかもしれない。とすると、これは大事件だ。<br>
<br>
以下、記事を引用する。<br>
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《Googleは昨年12月中旬に中国を起点とするサイバー攻撃を受けた。Googleの調査によると、攻撃者は中国の人権擁護活動家のGmailアカウントをねらっており、米国、中国、ヨーロッパのGmailユーザーのうち、中国の人権擁護の支援者のアカウントも第三者にアクセスされていたという。Googleは、この問題は単なるセキュリティ被害にとどまらないと判断。中国政府と話し合いを行うとしているが、中国における攻撃と検閲の状況が変わらなければ、中国でのサービス提供を断念する可能性があるとしている。》（以上、1月19日15時0分配信 MarkeZine）<br>
<br>
中国政府は、当然、自国のインターネット政策を擁護している。概要は以下の通り。<br>
<br>
《中国外務省の姜瑜副報道局長は14日の定例記者会見で、「中国は他国と同様、法律にのっとってインターネットを管理している」と述べた。同副報道局長は中国のインターネットはオープンだと指摘し、ハッキングなどのネット犯罪を取り締まる法律もあると述べた。――後略――》（ウォールストリートジャーナル日本版1月15日）<br>
<br>
でもって、Googleは中国市場からの撤退を示唆し、中国は中国で、自分たちこそがサイバー攻撃の最大の被害者である旨を強調している。面白い展開だが、さらに興味深いのは、日本の主要マスコミが、一連のニュースに関して冷淡であることだ。事実、私が引用した記事も、主要メディアからのものではない。<br>
<br>
三大紙（「五大紙」という言い方はまだ有効なのだろうか）の扱いが小さいこともさることながら、テレビの扱いはさらに露骨だ。ほとんど黙殺している。まあ、気持ちはわかる。テレビの客にアピールしそうなニュースではないと、彼らはそういうふうに判断したのかもしれない。でなくても、彼らはネット関連のニュースを伝えることには普段からあまり熱心ではない。<br>
<br>
しかも、今回のネタは中国がらみだ。ということになると、ますますオンエアする理由は希薄になる。Googleの機嫌を損ねるのはなんとなく気持ちが悪いし、中国政府に敵視されるのも同様。首筋が寒い。それに、中国がらみの話題は、扱い方を間違えるとネトウヨを呼び寄せることになる。これは非常に面倒くさい。<br>
<br>
ということであれば、このテの行ったり来たりの出来事は、事態が落ち着くまで様子見を決め込んでおくに限る。あえて渦中の栗を拾ったところで、どうせ焼き栗の中味は黒こげに決まっているわけだから。<br>
<br>
いつの頃からか、中国にまつわる話題は非常に扱いの難しいマターになってしまっている。私自身、彼の国の政策や現実について、思うところが無いわけではないのだが、ふだんは口を閉ざしている。理由は、たった一言、面倒くさいからだ。あの国で起こっていることや、かつて起こったと言われているあれこれについて、多少とも正直な発言を漏らすと、四方八方から論敵が湧いてくることになっている。右から左から。上から下から。悪くすると裏から表から。前門のネトウヨ、後門の極左。絶体絶命だ。であるから、そういう人々の相手をするのが億劫で、つい黙ってしまうのだ。<br>
　<br>
つまり、結果として検閲は成功している、と？　いや、そんな大げさな話ではない。ネット世論というものが形成されるようになって以来、言論は、自由になったようでいて、その実、不自由（というよりも厄介）になっているということを私は申し上げている。<br>
<br>
いくつかの話題は、議論のテーブル自体が戦場になってしまっていて、うっかり発言できない場所になってしまっている。非常に残念なことだが。だから、南京大虐殺について、私は、ノーコメント以上の言葉を持たない。南京虫大虐殺についてもだ。何を言ったところで、左右両方向から十字砲火を浴びることがわかりきっているからだ。この論争は、もはや、発生の経緯や犠牲者の人数について検証する議論ではなくなっているようだ。一種外交カードみたいなものになってもいれば、踏み絵じみた使い方をされてもいる。<br>
<br>
であるから、「少なく見積もっても三十万。大きめに考えれば六十万人が虐殺された」<br>
と、あくまでも最大限の人数を言い張る人々がいる一方で、「虐殺は捏造。そもそも報道自体が根も葉もないデタラメ。誰も死んでいない」と、主張する人々がいたりもする。<br>
<br>
今回のGoogleをめぐる論争は、南京マターほど荒れているわけではない。が、南京問題と同じ種類の面倒くささを発生当初から放射していて、だから、マトモな人は言及しなくなっている。<br>
<br>
と、この種の問題を取り上げたがるのは、党派的な企図を抱いた連中だけということになって、結果、中国にかかわる話題は、さらに極論しか存在しない場所へと運ばれていく。なんだか、辛い料理を出す店の料理が、店に集まるマニアの好みに合わせて、ますます辛くなって行く過程と似ている。一般客は、一口食べて逃げ出す。と、店主は、一般客を見限って、さらに辛い味を追求せざるを得なくなり、マニアはマニアで、店主の出す味に追随すべく、より高い耐性を身につけて店に通う、と。ひどい話だ。<br>
<br>
中国は、もはや「中国は」というひとくくりの主語で扱える対象ではなくなってきている。それだけ、多様で、巨大で、極端な国になってしまっているということだ。<br>
<br>
たとえば、経済面に注目する向きは、この国で起こっている出来事を、基本的には容認する方向で見ようとする。だって、あまりにもデカい市場だから。だから、隅っこの方で怪しからぬことが起こっていようが、山奥で残酷な事件が発生していようが、そういうことにはあまりとりあわない。お客さんの家庭の事情には踏み込まない。それが商売人というものだ。お金を出して商品を買ってくれる以上、お客様は神様にになる。買った商品で何をしているのかは知らない。<br>
<br>
一方、人権を問題にする人たちは、中国相手の商売にすら問題点を見出す。さらにやっかいなのは、中国政府のやり方に民族的な誇りを傷つけられていると感じている人々だ。彼らの目から見ると、中国は、軍事的な脅威であり、民族的自尊心を毀損する中華思想の深淵であり、犯罪者の供給源であり、極東アジア制圧を企む暴虐卑劣な暴君ということになる。<br>
<br>
事実はどうなのか？　すべて、だ。中国は、避けて通れない隣人であり、有望な顧客であり、わが国の経済の死命を決する市場であり、生産拠点であり、世界の農場であり、わが国の冷蔵庫であり、一方において、犯罪と汚染食物と粗悪な工業製品と、市場破壊的な低価格をもたらす厄災の源でもある。<br>
<br>
で、その中国からやってくる中国人はどういう人々であるのかというと、これまたすべての要素を備えている。彼らは、信じられないほど優秀であり、一方において悪賢く、冷酷で、強欲でもあれば寛大な買い手でもある。勤勉な労働力であり、傲慢至極な取引相手であり、油断のならぬ詐欺師でもある。つまり、あの巨大な国からは、善悪美醜を問わず、あらゆる種類の人間がやってくるということだ。<br>
<br>
つい先日、使っているPCが不安定になったので、メーカーのコールセンターに電話をしてみた。と、中国人が出てきた。<br>
<br>
「リンと申しマス」と、先方は、若干たどたどしい日本語で、自己紹介をした。私は、ちょっとイヤな気持ちになった。なるほど。日本のメーカーのユーザーサポート拠点が中朝国境あたりのクソ田舎に建設されている噂は、ありゃ本当だったのか、と、そう思った。<br>
<br>
が、しばらく話すうちに、私の懸念はすっかり晴れた。リンさんは、それほど優秀だったのである。サポセンの担当者が、トラブルをかかえた顧客の電話に対して、適切に対応するのは、そんなに簡単なことではない。顧客の技術レベルや理解力は一様ではないし、かかえているトラブルも千差万別だからだ。<br>
<br>
が、彼女は、いくつかのやりとりの中で、こちらのPCに関するスキルと知識のレベル（←古い知識はあるが、実践的なスキルは無い。プライドは高いが対応力は低い）を素早く把握し、実に適確なアドバイスを授けてくれた。こういうことは滅多にない。っていうか、はじめてだ。サポセンの電話担当は、もったいぶって質問攻めにしてくる割には理解力に乏しく、おまけにバカっ丁寧な口のききかたをするくせに、最終的にはこちらを怒らせることになっている。<br>
<br>
「まず確認いたしますが、電源スイッチはオンになっておりますでしょうか」と、いきなりケンカを売ってくるかと思えば「少々お待ちください」と言ったきり七分間にわたって待機メロディーを聴かせてくれたりする。そういう連中が標準なのだ。<br>
<br>
が、リンさんは違った。たったの三分でこちらの状況を把握し、順序立ててひとつずつ解決策を示し、最終的に見事に問題を解決してくれた。天晴れ。知り合いの大学講師も、中国人留学生の優秀さに感銘を受けたという。レポートの日本語は、若干未熟なのだが、内容の豊かさは、そこいらへんの日本人学生とは比べものにならないという。<br>
<br>
つまりこういうことだ。メーカーのサポセンに派遣されている日本人は、これは、熱心でない人も多数いる。だから、投げやりな対応でこちらを怒らせる。一方、日本のメーカーのサポセンに採用される中国人は、言葉のハンデを乗り越えて合格してきているわけだから、たぶん、それだけで既に優秀なのだ。のみならず、彼らは野心的で勤勉で、頑張り屋だ。とすれば、オペレーターとしてどちらが優秀であるのかは、自明ではなかろうか。<br>
　<br>
留学生の場合も同様。日本の大学に通う日本の学生は、そこの大学の偏差値を反映しているに過ぎない。熱心でもない。だって、彼らは「必死だな（笑）」が嘲弄の言葉である世界で大きくなった子供たちだから。<br>
<br>
他方、日本の大学にやってくる中国人の留学生は、全員がとは言わないが、少なくとも国費留学生は、エリート中のエリートだ。厳しい選抜をくぐり抜けてやってきた精鋭だ。しかも勤勉。「必死」と言っても良い。もちろん、語尾に（笑）は付かない。文字通りの必死。必死であることがまだ美しさを失っていない国の必死。<br>
<br>
さてしかし、留学生やメーカーの社員になる中国人が優秀であるのだとしても、ストリートのチャイニーズについては、その限りではない。そういえば、レイモンド・チャンドラーは、その作品の中で、私立探偵フィリップ・マーロウにこんなセリフを言わせている。<br>
<br>
「優秀なメキシコ人ほど優秀な人間はいない。手強いメキシコ人ほど手強い相手はいない。悪辣なメキシコ人ほど悪辣な人間はいない」<br>
<br>
と、まぁ記憶からの再現なので、細かいところは若干違っていると思うが、要するに、マーロウが活躍した1940年代から50年代にかけてのカリフォルニアでは、メキシコ人は、そういう存在だったということだ。野心満々でやってくる非常に優秀な組の連中と、やけっぱちな犯罪者たち。つまり、両極端の人々。<br>
<br>
中国人も同様だ。おそらく、日本にやってくる中国人犯罪者の残虐さは、日本のやくざのそれを上回っているのではないだろうか。窃盗犯の強欲さや、ひったくり犯の凶暴さ、性犯罪者のやり口の惨さも、だ。<br>
<br>
一方、最も優秀な組の中国人学生や、最高度に洗練された研究者について言うなら、彼らは、わが日本のヌルいエリートよりずっと優秀である可能性は高い。あるいは、日本にやってくる中国人についてだけではなくて、このことは、中国人全般に言えることであるのかもしれない。すなわち、中国人は、世界一優秀で世界一俗悪な人々である、と。まあ、当然といえば当然。世界一人間が多いわけだから。<br>
<br>
いずれにしても、われわれは、彼らを無視できない。のび太がジャイアンを無視できないのと同様。いや、われわれはのび太ですらないのかもしれない。なにしろ、ドラえもん（世界一の技術）を失いつつあるわけだから。<br>
　<br>
ずっと昔、われわれはのび太で、ジャイアンは、アメリカだった。中国は、メインキャストには組み入れられていなかった。せいぜいゲスト。それも悪役。それが、いつの間にやら、ジャイアンの座を奪っている。で、オレらは、のび太の立ち位置から、スネ夫の目線に、徐々にスタンスを移してきている。ひがみっぽくて、計算高く、そのくせいつも貧乏くじをひいている、みっともないおべっかつかいのスネ夫。一時期は、出来杉君に昇格したつもりになっていたのに。<br>
<br>
いずれにしても、この先、物語は、ジャイアンを中心に展開することになる。永遠の「ジャイアン・リサイタル」。アメリカは、去ろうとしている。いいなあ、間にデカい太平洋があって。オレらの間には、一衣帯水のガス含みの海と、厄介な半島があるばかり。<br>
　<br>
ライバルでありたいとは思わない。友人になれる感じもあんまりしない。だから、せめて有益な取引先でありたい。お互いにとって。被害者だけはごめんだ。加害者も。いや、これは、しょせん無理だけど（笑）。<br>
<br>
自虐史観？　違うよ。史観に基づく自虐。似たようなものだけど、こっちの方が若干芸が細かい。末尾に（笑）が付く。www。<br>
<br>
<br>
●小田嶋隆（おだじま・たかし）<br>
コラムニスト。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4121502310/">『テレビ標本箱』</a>、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4121502744/">『テレビ救急箱』</a>（ともに中公新書ラクレ）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4903186296/">『サッカーの上の雲』</a>、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4903186474/">『1984年のビーンボール』</a>（ともに駒草出版）など多数。<br>
共著に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062154374/">『人生２割がちょうどいい』</a>（講談社）ほかがある。<br>
ブログ：<a href="http://takoashi.air-nifty.com/diary/">偉愚庵亭憮録</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1249044" width="1" height="1" />
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1244784.html">
<title>切込隊長＠山本一郎「ニュースまとめ斬り！」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1244784.html</link>
<description>担当者より：ブロガー・山本一郎さんの連載を掲載しました。今回はJALの問題とメガバンクについてです。

配信日：2010/01/13


●JAL問題はメガバンク増資問題の試金石につき●


現在、内政問題の焦眉の急として、その割には半年ぐらいずっとわいわいやっていたJALの問題が...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-01-26T23:33:31+09:00</dc:date>
<dc:subject>山本一郎</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>ブロガー・山本一郎さんの連載を掲載しました。今回はJALの問題とメガバンクについてです。<br>
<br>
<u>配信日：2010/01/13</u><br>
<br>
<br>
<b>●JAL問題はメガバンク増資問題の試金石につき●</b><br>
<br>
<br>
現在、内政問題の焦眉の急として、その割には半年ぐらいずっとわいわいやっていたJALの問題が、ようやく法的整理と上場廃止の方向性が見えて、懸案の債務超過額も7,000億円から8,000億円ということで帳尻が明らかになってきました。<br>
<br>
<a href="http://mainichi.jp/select/biz/news/20100112ddm001020016000c.html">■日本航空：再建問題　上場廃止、有力に　年金減額回答期限、２２日まで延長も■</a><br>
<br>
<a href="http://www.toyokeizai.net/money/markett/detail/AC/778fa7b4653cad8ec460e4399b494ca8/">■ＪＡＬ続落８０円割れ、今期大幅な債務超過、客離れ現実化も響く■</a><br>
<br>
正直、この辺は微妙なところでありまして、さっそく年金減額回答期限が延期されたりしております。ぶっちゃけ、誰かの年金といった生活に密着する財産権を国家が主導権を握って毀損させますという話になってしまう側面もあるため、誰のための再建か、という話にもなりかねません。まあ、これだけ放漫経営を続けてきた日本航空をこのままの経営で生き長らえらせるのは問題なのは間違いないのですが、経営が破綻しそうだからレガシーコストを切り捨てますというのが経営の都合だけで実行できていいのかという政治問題になるのは当然のことと言えます。<br>
<br>
で、例によって道筋論になってくるわけですけれども、議論が絶えないのはJALの再建の後にも「もう借入金を返せない」大手企業の破綻整理が続く可能性があり、ただでさえ低金利で、国内経済成長の鈍化で斜陽業態中の斜陽である商業銀行がそのままで支えられる道理はない形です。<br>
<br>
<a href="http://www.sankeibiz.jp/business/news/100106/bse1001062013009-n1.htm">■メガバンク、増資合戦第２幕　三井住友ＦＧが異例の年度内２度目の大型増資■</a><br>
<br>
<a href="http://mainichi.jp/select/biz/news/20100106ddm008020071000c.html">■三井住友ＦＧ：普通株増資　「抜本強化が不可欠」　みずほＦＧへ圧力必至■</a><br>
<br>
東洋経済の記事では、思い切りみずほFGを名指しされておりますけれども、実際問題、去年5,300億ほど増資したのにもう再増資の議論が出るのも「経済が二番底でも叩こうものなら、本当に倒れかねない」という危機感の現われとも言えます。主力で抱えるイオンなども軒並み返済能力には疑問が呈されている状況で、これをどう事前にカバーして問題に備えるかは、JALがどういう政治決着をし、国内不振企業再建の方法についての道筋をつけてからでないといけないんでしょう。<br>
<br>
<br>
●山本一郎（やまもと・いちろう）<br>
イレギュラーズアンドパートナーズ代表取締役。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4166604694/">『“俺様国家”中国の大経済』</a><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4166606670/">、『情報革命バブルの崩壊』</a>（ともに文春新書）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4569771785/">『ネットビジネスの終わり』</a>（PHP研究所）などがある。<br>
ブログ：<a href="http://kirik.tea-nifty.com/">切込隊長ブログ</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1244784" width="1" height="1" />
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1244345.html">
<title>オバタカズユキの「食べる前に読む！」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1244345.html</link>
<description>担当者より：「食」についての本を論じるコラムニストのオバタカズユキさんによる連載の最終回を掲載いたします。取り上げる書籍は、『被差別の食卓』（新潮新書）です。味読してください。

配信日：2005/07/20


〈食〉にまつわる書籍を紹介してきたミニ連載も、とりあえず...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-01-26T01:44:28+09:00</dc:date>
<dc:subject>オバタカズユキ</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>「食」についての本を論じるコラムニストのオバタカズユキさんによる連載の最終回を掲載いたします。取り上げる書籍は、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4106101238/">『被差別の食卓』</a>（新潮新書）です。味読してください。<br>
<br>
<u>配信日：2005/07/20</u><br>
<br>
<br>
〈食〉にまつわる書籍を紹介してきたミニ連載も、とりあえず今回でおしまい。最後は、私に〈食〉の面白さを教えてくれただけでなく、もの書き業への誘惑までしてくれてしまった故・開高健の本を、と考えていた。が、本屋をうろついていたら、一冊の新刊が目に飛びこんで来たので<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4106101238/">こっち</a>にする。<br>
<br>
この新書で書籍デビューした著者は、73年生まれのノンフィクションライターだ。オーパ、オーパと叫びながら世界中の旨いもん食い尽くして食道癌で逝っちまった過去の巨匠をとりあげるよりも、これからの新人の宣伝を手伝うべきだろう。<br>
<br>
その名を<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4106101238/">『被差別の食卓』</a>（新潮新書）と題した本書。内容もそのまま被差別民の“ソウルフード”のルポ集である。アメリカの黒人たちのフライドチキンやザリガニ料理、ブラジルの黒人奴隷食からメジャーになったフェジョアーダ、東欧～中東のロマ（ジプシー）たちが珍重しているハリネズミ料理、カーストの国ネパールの不可触民たちが食べていた牛肉料理と、ワールドワイドに食べ歩く。ネタはえぐいが、筆致はさらっとしており、なかなかタフなライターだなと思わされる。<br>
<br>
だが、圧倒的に面白かったのは、日本の“ソウルフード”をとりあげた最終章だ。著者が幼い頃に食べていた干肉の「さいぼし」や、ホルモン揚げの「あぶらかす」の味を求めて、近畿圏の食堂や工場を訪ね歩く。被差別部落の出身者でなければ困難であろう取材を実現させている。<br>
<br>
新書ていどの文字量なら、この最終章の題材だけをもっと細かく掘り下げて一冊にできたはず。ちょっともったいないな、とすら思わされた。食には人間が表れる。特定の人間しか食べない料理があったなら、それは特定の人間集団の歴史を表わしている。遠い外国の話だと、『世界ウルルン滞在記』などの動画の力に負けてしまうが、日本国内の話だったら、今のところはこうした活字の形でしか紹介できまい。<br>
<br>
本書によると、最近の南大阪のロードサイドでは、「あぶらかす」をトッピングした「かすうどん」を売りにする店が増えているそうだ。そんなこと東京人の私には初耳だし、閉じた＜食＞だったはずの“ソウルフード”がなんで一般向けに流行ってるの？　と、そこらの追跡も細かくしてもらいたかったところである。<br>
<br>
〈食〉ネタは読者や視聴者の食いつきがいいので、あれもこれも食い荒らされた感があるが、〈差別〉と組み合わせた本書のように、切り口次第でまだまだイケルのだろう。「ニートの食卓」とか、「コンビニ弁当はなぜ同じ味がするのか」とか、私も取材してみたくなった。<br>
<br>
<br>
●オバタカズユキ（おばた・かずゆき）<br>
物書き。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4344400763/">『何のために働くか』</a>（幻冬舎文庫）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4594025498/">『ペットまみれの人生』</a>（扶桑社文庫）などがある。
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1244345" width="1" height="1" />
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</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1243229.html">
<title>真魚八重子「悪女があなたを魅了する――映画でみる魔性の女たち」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1243229.html</link>
<description>担当者より：映画の分野を中心にご活躍中のライター、真魚八重子さんが「悪女」をテーマにご執筆くださった原稿を掲載いたします。また、四方田犬彦・鷲谷花編『戦う女たち』（作品社）にも真魚さんの論考が掲載されていますので、そちらもぜひご覧ください。

配信日：2009/...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-01-24T00:42:40+09:00</dc:date>
<dc:subject>真魚八重子</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>映画の分野を中心にご活躍中のライター、真魚八重子さんが「悪女」をテーマにご執筆くださった原稿を掲載いたします。また、四方田犬彦・鷲谷花編<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4861822564/">『戦う女たち』</a>（作品社）にも真魚さんの論考が掲載されていますので、そちらもぜひご覧ください。<br>
<br>
<u>配信日：2009/05/27</u><br>
<br>
<br>
今、テレビで想像通りの悪女を演じてみせている代表例が叶姉妹。その関係はイイ補完の役割が働いていて、いかにも男性を破滅に導きそうな魔性の女である恭子様に対し、穏やかでちょっと隙がある美香様の存在は、茶の間にとって多少親しみやすくする中和の役目を果たします。<br>
<br>
実際、いつもカッと目を見開いている獰猛な印象の恭子様と比べて、先日テレビで見かけた美香様はメイド服を着せられており、司会者の「似合いますよ」の声に「そうかなあ（笑）」と砕けた口調で答え、テレて頭をボリボリ掻いていました。アア、この美香様の隙だらけな仕草がたまらない！<br>
<br>
悪女にはいくつかのパターンや段階があります。一般的に、自分の欲望を最優先するエゴイスティックさが悪女とみなされる要素ですが、なかには「あの人が好きでたまらないから独占したい」という、なりふり構わぬ必死さで利己的な振る舞いに出る女性がいて、そういった悪女には〈けなげさ〉が滲みます。<br>
<br>
映画においてはたとえば、いきなり濃厚ですが、大島渚の『愛のコリーダ』や田中登『実録 阿部定』。情事がエスカレートした挙句、相手を殺してイチモツを切り取ってしまった阿部定の実録犯罪モノです。過激な事件ではあるけれども、愛に耽って果てがなかった一途さが溢れるから、彼女の犯罪は何度も究極の恋愛劇として取り上げられます。<br>
<br>
また、『清作の妻』（増村保造監督）の若尾文子も、狂おしい愛ゆえに常軌を逸した行動に出ます。貧しい家に生まれ、年寄りのもとへ妾奉公をさせられていたお兼（若尾）は、村に戻った今も村人から妾だったことで白眼視されています。そんな中、唯一分け隔てなく接してくれた清作（田村高廣）と恋に落ちますが、日露戦争へ出兵してしまう清作に対し、お兼は彼を失いたくない一心で、清作の身体を傷つける恐ろしい所業に及んでしまいます。そんな愛は到底周囲の理解の範疇を超えており、お兼も他人など度外視してひたすら愛のみを見据え続けます。この村人と女性本人の互いに対する無理解と無視が、一途で情の深すぎる女に「悪女」というレッテルをはることになるのです。<br>
<br>
極端であっても、こういう素直な欲望が見える女性はけなげさが感じられます。しかし悪女には当然もっとタチの悪さがついて回るものであり、金や地位のため自らの肉体を武器にし、のしあがっていく者は悪女のステージがグレードアップします。この悪女には二タイプあり、一方は脊髄反射のように短絡的で、人を踏み台にすることになんの感覚もない女。そしてもう一方は知力で作戦を巡らし、男性をたぶらかしたり、人を踏み台とすることに楽しみや快楽を覚えるような女性です。<br>
<br>
どちらがより悪いかは人によって判断が分かれるところでしょうが、映画作品において前者は『スサーナ』（ルイス・ブニュエル監督）、『私のように美しい娘』（フランソワ・トリュフォー監督）などのヒロインが典型的。とにかく利用できる男は虜にして使い捨て、彼女自身も目先の欲望に囚われるので、場当たり的な行動で結果的に自己破壊につながる場合もあります。本能的に狡猾ですが無思慮ゆえ、野蛮でエゴイスティックな印象です。<br>
<br>
そして後者は『エヴァの匂い』（ジョセフ・ロージー監督）のジャンヌ・モローや、『氷の微笑』（ポール・ヴァーホーヴェン監督）のシャロン・ストーンが代表格でしょう。洗練された悪女で、悪巧みも高尚な趣味のひとつといった風情。叶恭子様はもちろんこの部類に入ります。<br>
<br>
この両者のタイプに魅入られたら、社会的地位を失ってしまったり、貯金をむしり取られるぐらいのことは覚悟した方がいいでしょう。ただどちらも見た目からして悪女であり、用心深い男性なら避けて通れるともいえます。でもこの上に、まだもう一段階恐ろしい悪女がいます。それは見た目が悪女じゃない悪女。<br>
<br>
『ガス人間第一号』（本多猪四郎監督）のヒロインを演じる八千草薫は、まさに絵巻物から抜け出てきたように美しく、品の良い日舞の家元。しかし人を寄せ付けない気位の高さが、どうやら一門の没落を招いたらしく、人をあしらう言動の端々に冷たさが匂います。そして人体実験の失敗でガス人間となった男（土屋嘉男）は、自分の体質を生かして銀行強盗を繰り返し、愛する彼女に貢ぎます。その金を別派の買収や黒塗りの大型車購入など、けっこう派手に使う八千草さん。<br>
<br>
また、怪談映画『生きている小平次』（青柳信雄監督）でも、八千草さんが二股かけた男同士で殺し合いになってしまい、殺害された小平次が幽霊になって何度でも出てくるのを、八千草さんはもう一人の恋人に「出てきたらまた殺しゃいいじゃないか」と、可愛らしく上品なまま言い放っていました。この虫も殺さぬような可憐さ、最凶です。<br>
<br>
悪女の条件はやはり、一般人から読み取れないモノが多いほどステージが上がっていきます。叶恭子様は理解の範疇を超えるという意味ではレベルが高いのですが、見た目がすでに悪女然としている辺り、まだ率直な自己表出といえます。やはり叶姉妹をしてもかなわないのは、死んだ小平次について、彼は幽霊になっても自分に惚れているから「あの人にはきっとわたしは殺せない」とたおやかに平然と口にする、八千草薫です。この可憐で上品に泥沼へ引っ張り込む恐ろしさは、悪女の最上ステージでしょう。<br>
<br>
悪女は関わった人間の人生に波風を立てにやってくる、嵐のような存在です。しかし美貌やグラマラスな肉体、そしてあれよあれよという間に男性を絡めとる情念など、どのタイプであれ突出した引力を持つもの。彼女らの危険度を察知して、人生設計が破綻するような深みにさえはまらなければ、お付き合いはその魅力を堪能できる蠱惑的なひとときのはず。<br>
<br>
ぜひ人生のうち一度くらいは、悪女にいざなわれて日常を逸脱する瀬戸際な経験もしておきたいですね。でも、その際も財布のヒモだけはくれぐれも、きっちり締めておいてください。<br>
<br>
<br>
●真魚八重子（まな・やえこ）<br>
ライター。<br>
『映画秘宝』や『TRASH UP!!』などで映画に関する原稿を中心に執筆。<br>
共著に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4861822564/">『戦う女たち』</a>（作品社）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4891947470/">『リビドー・ガールズ』</a>（パルコ）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862483399/">『市川崑大全』</a>（洋泉社）などがある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/anutpanna/">アヌトパンナ・アニルッダ</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1243229" width="1" height="1" />
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</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1241479.html">
<title>芹沢一也「日本思想における国家とは何か――『北一輝　国家と進化』を読む」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1241479.html</link>
<description>担当者より：知の交流スペース「シノドス」を中心に活発に活動をされている芹沢一也さんによる、嘉戸一将『北一輝　国家と進化』（講談社）の書評です。また、「シノドス」の試みについては、芹沢さんと荻上チキさんのインタビューをご覧ください。

配信日：2010/01/13


北...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-01-20T15:15:26+09:00</dc:date>
<dc:subject>芹沢一也</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>知の交流スペース<a href="http://synodos.jp/">「シノドス」</a>を中心に活発に活動をされている芹沢一也さんによる、嘉戸一将<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062787598/">『北一輝　国家と進化』</a>（講談社）の書評です。また、<a href="http://synodos.jp/">「シノドス」</a>の試みについては、<a href="http://www.sbbit.jp/article/13736/">芹沢さんと荻上チキさんのインタビュー</a>をご覧ください。<br>
<br>
<u>配信日：2010/01/13</u><br>
<br>
<br>
北一輝ほど多様な解釈を誘う思想家も珍しい。手元の日本史辞典をめくってみると、「大正・昭和期の国家主義運動指導者」と規定されてはいる。だが、つづく簡単なプロフィールを一瞥するだけで、そのような明確な像はすぐさま揺らぐ。<br>
<br>
1906(明治39)年、『国体論及び純正社会主義』を出版。明治憲法を読み解くことで、国体論から社会主義を論ずる。その後、辛亥革命に身を投じ、中国革命同盟会・黒龍会にあって宋教仁を支援。だが、中国の排日運動が激化すると、日本国内の改革優先を痛感し、『国家改造案原理大綱』(加筆され『日本改造法案大綱』)を執筆。これが後に、皇道派青年将校に多大な影響を与える。1920(大正９)年、大川周明に迎えられ国家主義運動を行う結社・猶存社に参加。1936(昭和11)年の2・26事件では直接関与しなかったが、民間側の中心人物として死刑となる。<br>
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ざっとみただけでも、社会主義、憲法論、国体論、亜細亜主義、国家改造、国家主義、軍とクーデターと、そのひとつひとつが日本思想史上の一大トピックとなるようなテーマに、北一輝の思想と行動はまたがっている。<br>
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それゆえ、論者の力点のおきどころによって、その都度、異なった相貌をもった北一輝が現われる。その分裂具合も極端であって、「ファシスト」や「超国家主義者」とレッテルが貼られたかと思えば、政治的な立ち位置としてはまったく反対の、「民主主義者」や「社会民主主義者」といった評価を受けたりもする。<br>
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こうした分裂的な様相を生み出してきたのが、北のふたつの主著のあいだに横たわる、きわめて大きな〈差異〉である。一方には、民意にもとづく議会での社会主義革命を説いた『国体論及び純正社会主義』。そして他方には、軍隊主導の暴力革命を唱えた『日本改造法案大綱』。<br>
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容易には埋めがたいこの差異に、国家論の視角から挑んだのが本書<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062787598/">『北一輝　国家と進化』</a>（講談社）である。<br>
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著者の主張は以下のように明快だ。ふたつの主著のあいだの差異を、左から右への旋回、社会主義から国家社会主義への転向として、つまりは思想的な〈断絶〉として評価してはならない。たしかに革命の方法論上の〈転回〉はある。しかしながら、そこに国家思想の根幹に関わるような断絶など存在しない。北一輝の国家思想の核心は一貫して不変なのだ、と。<br>
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ではなぜ、転回は生じたのか。しかも、議会の民意から軍隊の暴力へという、どうみても180度の転向としか思われない転回が。それを解くためのカギは、北の国家概念にあると著者はいう。北一輝はじつは終生変わらぬ国家社会主義者であった。このことが初期にあっても、幸徳秋水などの明治社会主義者と北とを隔てたのだが、問題は北一輝にとって国家とは何だったのかだ。<br>
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著者の説明に耳を傾けよう。北にとって国家とは、人間の理想状態が実現される場所であった。それは「実在する有機体としての国家であり、天皇と国民とが一体と化した物理的実在の国家」である。したがって、そこでは民主主義と国家主義は一致する。しかもそれはプラトン的なイデアであって、そしてここがきわめて独特なのだが、プラトンと違ってそれは物理的実在として実現されうると北は信じた。<br>
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イデアを実在化する存在は誰かといえば、もちろん神だということになる。では神とはいったい誰か。この問いにおいて、北一輝の転回が画される。『国体論及び純正社会主義』にあっては、人は神たる「神類」へと進化して、イデアの実在化をもたらすとされた。社会主義とはそのための手段にほかならなかった。<br>
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だが、中国での革命を通じて、北は人の「神類」への進化を待つことを断念する。とはいえ、北一輝の国家概念と、それへの信が持続しているとするならば、いまだイデアを実在化するためには神が必要であることに変わりはない。<br>
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どうするか。北一輝自身が神になればよい。「彼自身が神仏となることによって、彼の国家論を真理として保証し、人々にはその真理をただ信じ、忠実に実行せよと命じる」。これが『日本改造法案大綱』に示された、天皇の号令下における軍事クーデターの内実だ。<br>
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クリアな分析であることは間違いない。北一輝の思想がもつ構造を、きわめてロジカルにあぶりだした本書によって、数多の論争に終止符が打たれるはずだ。だが、脱神秘化され尽くした北一輝を前にしたとき、面白味が消えてしまっているのも否みがたい。思うに思想家論には、いくばくかの神秘化が必要なのだ。<br>
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とはいえ、本書には通常の思想家論とは異なる面白味が随所にある。北一輝の思想の輪郭を浮かび上がらせるために、さまざまな思想家との比較が次々となされていくのだが、そのような作業に際して、日本思想において国家論を支配していた構造のようなものが、ときに垣間見える瞬間があるのだ。じつはこれこそが、本書の醍醐味ではないか。<br>
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おそらく、著者の才は、個々の思想家をこえたところにある、そうした言説構造を明るみに出すことにこそ、もっとも奉仕するものではないだろうか。この私の直感は、『明治国家の精神史的研究』（以文社）に収録された、同じ著者の「「忠君」と「愛国」――明治憲法体制における「明治の精神」」という、ブリリアントな論考によっても裏打ちされると思う。<br>
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日本思想において国家とは何だったのか。この問いに答えることのできる数少ない論者が、著者・嘉戸一将だと確信している。<br>
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●芹沢一也（せりざわ・かずや）<br>
1968年生まれ。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了。専門は近代日本思想史、現代社会論。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4788507757/">『〈法〉から解放される権力』</a>(新曜社)、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062722984/">『狂気と犯罪』</a>、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062723565/">『ホラーハウス社会』</a>(ともに講談社＋α新書)、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862483682/">『暴走するセキュリティ』</a>(新書ｙ)。<br>
サイト：<a href="http://synodos.jp/">シノドス</a>
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