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<title>ビジスタニュース</title>
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 <title>ビジスタニュース</title>
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<title>紙屋高雪「ドラえもんの革命、マルクスの革命」</title>
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<description>担当者より：紙屋高雪さんがドラえもんとマルクスをクロスさせて論じた原稿です。文中にある「ぼくはマルクスの『資本論』を漫画（劇画）で出版する企画」は、『理論劇画　マルクス資本論』（かもがわ出版）として刊行されました。そちらも併せてご一読ください。

配信日：2...</description>
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<dc:date>2010-07-30T00:30:48+09:00</dc:date>
<dc:subject>紙屋高雪</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>紙屋高雪さんがドラえもんとマルクスをクロスさせて論じた原稿です。文中にある「ぼくはマルクスの『資本論』を漫画（劇画）で出版する企画」は、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4780302579/">『理論劇画　マルクス資本論』</a>（かもがわ出版）として刊行されました。そちらも併せてご一読ください。<br>
<br>
<u>配信日：2009/03/04</u><br>
<br>
<br>
「ドラえもんの道具で欲しいものは何？」という問いかけを小さい頃、一度くらいはしたことがあるだろう。<br>
<br>
ぼくはいつも「もしもボックス」だと答えていた。「もしも……だったら」と、その電話ボックスに入って電話すると、その仮定どおりの世界が実現するという道具である。なぜこの道具がほしいかというと、これがあれば「もしもぼくがタイムマシンを持っていたら」とか「もしもぼくがどこでもドアを持っていたら」といったように、どんな道具でも出せるからである。<br>
<br>
まあ、そんな賢しらなガキの話はどうでもいい。 この「もしもボックス」は、そんな思い出話のためにあるのではなくて、藤子・Ｆ・不二雄（以下「Ｆ」と略す）のＳＦ的世界観を最も濃縮して表現している道具だといえるのだ。「もしもボックス」は『ドラえもん』中で何度も登場する道具だが、ぼくが一番印象に残っているのは、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4091401058/">15巻</a>（小学館てんとう虫コミックス）に登場する「あやとり世界」での使用だ。<br>
<br>
のび太の取り柄は、あやとりしかない。勉強でもスポーツでも圧倒的劣位におかれている彼は、スクールカーストの最下層の存在だ。多くの同級生から蔑まれ、あるいは無視されるのび太にとって、日常世界は承認を得られぬ不満だらけの世界である。<br>
<br>
そこで、のび太は「もしもボックス」を使って、あやとりの能力こそが学校での尊敬度はもちろん、将来の社会的地位までも約束するという世界に変えてしまうのである。ちょうど「偏差値」のかわりに「あやとり能力」をもってくるようなものだ。<br>
<br>
のび太がまるで事のついでのようにその華麗なあやとりを街角で演じてみせると、衆人は瞠目するのである。あるいは、その世界にはあやとりのプロがスポーツ選手のように存在し、そこでの成功者は莫大な収入を得ている。そして、のび太はそこからスカウトされるまでになるのである。<br>
<br>
「あやとり世界」では、ふだんの『ドラえもん』のエピソードにはないくらい濃密に、この価値の転倒を描いていく。学校制度における「偏差値」で編成されたヒエラルキーを一度転覆させてみたいという、ぼくらの世代の顕在的・潜在的欲求に対して鮮やかに応えるとともに、偏差値序列の世界というものは、客観的に見るとどういうものなのかということを逆にあぶり出してもいる。<br>
<br>
さらにこの作品のオチは、「手がゴムまり」だからあやとりができないドラえもんは自尊心を傷つけられ、激高したドラえもんによって元の世界に戻されてしまうというもので、なかなか笑える。<br>
<br>
ＦのＳＦは、社会的価値を転倒・逆転させるものに優れたものが多いとぼくは思う。短編<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4091920624/">『気楽に殺ろうよ』</a>はその白眉である。そこでは、性欲が公然化され、食欲が隠蔽される。そして殺人が公認されているのだ。<br>
<br>
日常に当たり前に存在するものが社会的価値の転倒によってまったく別のものになってしまうという爽快感は、まさに革命が果たす仕事そのものである。革命はそれまで価値のあったものを無価値に変え、逆に無価値のものを価値あるものに変える。<br>
<br>
レーニンはかつて、次のように述べた。「われわれが世界的規模で勝利したあかつきには、われわれは世界のもっとも大きないくつかの都市の街頭に金の共同便所をつくることになろうとおもわれる」（<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B000JBJUR4/">全集33巻</a>、104ページ）。<br>
<br>
ここでいう金とは無論goldのことだ。この「金の公衆便所」論はわりと有名で、ネットでも紹介している人がいるようなのだが、どうもレーニンが労働者階級へ過剰なサービスをした話だと思っている人もいる。しかし、そうではない。<br>
<br>
これは、社会主義では労働配分を計画によって行うことになるので、商品交換（市場）が盲目的な調整作用によってそれを行う必要はなくなり、商品が廃止され、貨幣もまたなくなり、金（gold）は不要になる、という革命観にもとづいているのだ。<br>
<br>
金が要らなくなった社会では、そんなもののために多くの人が苦しめられてきた歴史の記念碑として便所の材料にでもしてやろうじゃないかというレーニンの皮肉である（政治的公正さのために付け加えておくと、ぼくは商品や貨幣の廃止を社会主義に必然的なものだとは思っていない）。<br>
<br>
現在、ぼくはマルクスの『資本論』を漫画（劇画）で出版する企画にかかわっている。だから、いま『資本論』に首っ引きなのだが、それを読んでいると、ぼくらが日常当たり前に目の当たりにしている商品だの貨幣だの資本だの賃金だのという存在が、いかに歴史的に特殊なものかを嫌というほど思い知らされる。<br>
<br>
とくに他の時代の経済体制と資本主義経済との比較をしばしばマルクスは『資本論』で行う。そのとき、読者であるぼくらは、社会的に当たり前だと思っている価値を軽々と転倒させられ、商品だの貨幣だの資本だの賃金だのという「日用品」とは別の世界のことを想像させられてしまうのだ。<br>
<br>
20世紀初頭のロシアにおいては第一級の「マルクス読み」であったレーニンは、そこからイメージを発展させて「金の公衆便所」なんていうことを考え出したのだろうと思う。この爽快感は、ＦのＳＦを読んだときの爽快感に通じるものがある。空想によってたどり着いた感覚と、社会科学にとってたどり着く結論が似通うのは面白い現象だ。<br>
<br>
レーニンは、アリストテレスの『形而上学』についてのノートを作っているが、そのノートに次のように書き付けている。「もっとも厳密な科学においてさえ、空想の役割を否定することはばかげている」（<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B000JBM9UE/">全集38巻</a>、338ページ）。思考を飛躍させる力こそが、卑俗な日常から精神を解き放つことができるのである。<br>
<br>
<br>
●紙屋高雪（かみや・こうせつ）<br>
紙屋研究所所長。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4806713562/">『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』</a>（築地書館）がある。<br>
また、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4780302579/">『理論劇画　マルクス資本論』</a>（かもがわ出版）では、構成・解説を担当した。<br>
サイト：<a href="http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/">紙屋研究所</a>
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<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1329256.html">
<title>成馬零一「2010年の坂本龍馬に日本人は何を見るか？」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1329256.html</link>
<description>担当者より：ライター・ドラマ評論家の成馬零一さんが、2010年３月に大河ドラマ『龍馬伝』を中心に論じた原稿です。成馬さんは、著書『ＴＶドラマは、ジャニーズものだけ見ろ！』（宝島新書）で多くのドラマを論じていますので、ご関心のある向きはそちらもぜひ。

配信日：2...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-07-28T14:00:52+09:00</dc:date>
<dc:subject>成馬零一</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>ライター・ドラマ評論家の成馬零一さんが、2010年３月に大河ドラマ『龍馬伝』を中心に論じた原稿です。成馬さんは、著書<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4796677739">『ＴＶドラマは、ジャニーズものだけ見ろ！』</a>（宝島新書）で多くのドラマを論じていますので、ご関心のある向きはそちらもぜひ。<br>
<br>
<u>配信日：2010/03/03</u><br>
<br>
<br>
ゼロ年代以降、テレビドラマの評価を視聴率で計るのは難しくなっている。低視聴率でも後にDVD－BOXが売れた後に映画化され、レンタルや再放送で末永く愛されている『木更津キャッツアイ』（〇二年）のような長期的に愛されるブランド型の人気作が増えている一方で、メディアの多様化により、リアルタイムで高視聴率を獲得し、みんなが話題にするようなドラマは年々減ってきている。以前なら10％を切った時点で打ち切られていたものも多かったのだが、現在は放送されている半数以上の作品が10％以下という異常事態だ。だからこそ、NHK大河ドラマ『龍馬伝』の平均視聴率20％以上という現在の状況は快挙だと言える。<br>
<br>
『龍馬伝』は三菱財閥の創設者である岩崎弥太郎の視点から、坂本龍馬を描いた物語だ。主人公の龍馬を演じるのは福山雅治。脚本は『ガリレオ』（〇七年）で福山と組んだ福田靖。チーフ演出には『ハゲタカ』（〇七年）の大友啓史が参加している。高い評価を得た『ハゲタカ』の作り込まれた画面作りは『龍馬伝』でも健在で、プログレッシブカメラで撮影された泥と埃にまみれた土佐の風景は、近年のフラットな絵作りの大河には無い迫力だ。<br>
<br>
そして女性人気が高い福山雅治を看板として、普段大河ドラマを見ない若い女性層を引き込み、作品自体の強度は、香川照之、大森南朋、寺島しのぶ、貫地谷しほりといった実力派の俳優で支える。これは『ガリレオ』の映画版『容疑者Ｘの献身』（〇八年）において展開された戦略であり、その意味において、大河ドラマとしてはもちろん、ここ数年のテレビドラマにおけるヒットのセオリーが総動員されている隙のない布陣だと言える。<br>
<br>
民放でも龍馬を特集した番組が多く放送され、本屋にも『龍馬伝』ヒットに便乗した龍馬や幕末の本が多く並んでいる状況は、龍馬ブーム、幕末ブームと言っても過言ではない。しかし<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4334035469/">『大河ドラマ入門』</a>（光文社新書）の著者・小谷野敦は幕末が舞台の大河ドラマは「一般大衆には複雑すぎるのか、あまりヒットしないそうだ（Ｐ27）」と書いている。<br>
 <br>
確かに歴代大河の中で人気があるのは『独眼流正宗』（八七年）などの戦国もので、幕末を舞台とした『龍馬がゆく』（六八年）は平均14.5％と、当時としては低調な視聴率で終っている。ではなぜ、近年の大河は幕末ブームなのか？<br>
 <br>
おそらく、流れが変わったのは『新選組！』（〇四年）からであろう。『新選組！』は『古畑任三郎』シリーズで知られる劇作家・三谷幸喜が脚本を書いた、新撰組局長・近藤勇を主人公とした物語だ。SMAPの香取慎吾や山本耕史、藤原竜也、オダギリジョーなどの若手俳優を大胆に起用し、幕末を舞台とした青春群像劇として描かれた本作は、平均視聴率こそ17.4％と、他の大河に比べ、突出したものではなかったが、熱狂的なファンも獲得し、今もアマゾンのドラマDVD-BOXランキングに名前がある息の長い人気番組として定着し、〇六年には続編にあたる『新撰組!! 土方歳三 最期の一日』も制作された。これは冒頭に書いたブランド型の支持を『新撰組！』が受けたということを意味する。<br>
 <br>
そして、幕末ブームを決定的にしたのが、宮尾登美子の小説<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062756846/">『天璋院篤姫』</a>（講談社文庫）を原作とした〇八年の『篤姫』だ。徳川家定の正室の御台所として徳川家と大奥を守り、大政奉還実現のため歴史の影で動いた篤姫の生涯を追った本作は、主演の篤姫を宮崎あおいが演じ、平均視聴率24.5％を獲得。全国でおこなわれた篤姫展には十代から六十代まで幅広い年齢層の視聴者が押し寄せた。<br>
 <br>
その意味で、『龍馬伝』の人気は一朝一夕のものでなく、昨年、TBS系列で放送され話題となった脳外科医の南方仁が、幕末の江戸にタイムスリップして活躍するＳＦ時代劇『JIN-仁-』（〇九年）のヒットも含めた数々の積み重ねによって「幕末ブランド」が確立されたからだと言える。<br>
 <br>
また、幕末ものは一種の「シェアワールド」として視聴者に支持されているのではないかとも考えられる。シェアワールドとは、同一の時間軸、世界観の中で、違う登場人物の物語を次々と展開していく物語で、Ｈ・Ｐ・ラヴクラフトのホラー小説の世界観を元に他の作家によって書かれたクトゥルフ神話や、『機動戦士ガンダム』などのオタク系コンテンツで用いられているアイデアだ。<br>
 <br>
『新撰組！』『篤姫』『JIN-仁-』『龍馬伝』は直接的には制作スタッフもバラバラで、無関係の物語だが、幕末という同じ時間軸を舞台とし、どの作品にも坂本龍馬が重要な人物として登場する。そのため、続けて見ていると同じ物語を、違う視点から描かれた続編を見ているような錯覚を起こし、いつしか幕末という世界観に慣れ親しんでしまう。その意味で若い視聴者が順番に楽しむうちに、幕末という世界観を学習していったのではないかと考えられる。<br>
 <br>
そしてもう一つヒントとなるのが、先に触れた<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4334035469/">『大河ドラマ入門』</a>での小谷野による「近年の大河は江戸びいき（P127）」という指摘だ。確かに幕末を舞台としていながらも『新撰組！』と『篤姫』は、滅びゆく徳川幕府の視点から見た幕末モノとなっている。<br>
 <br>
『JIN-仁-』のキャッチコピーも「誰もが笑った 輝いた あの江戸へ」であった。一般的な幕末のイメージは、封建的で不自由な徳川の世が終り、新しい時代へ向う前向きなものだろう。だがそれは逆から見れば、平和な江戸時代が黒船という外国の脅威によって無理やり国際化され、武家社会の伝統が崩壊の危機に瀕している時代とも言える。その意味で、現在支持されているのは後者の幕末観ではないだろうか。<br>
 <br>
小説や評論における幅広い活躍で知られる作家・橋本治は八六年に刊行した<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4191732021/">『完本チャンバラ時代劇講座』</a>（徳間書店）の中で、今の時代劇は明治時代に流行った講談や剣豪小説から生まれたものであり、過ぎ去った江戸時代を惜しむノスタルジーに支えられていたと指摘し、日本人は開国して欧米列強の仲間入りをするという近代化を受け入れる一方で、時代劇の中の江戸時代を懐かしみ、物語という形で愛好してきたのだと分析している。橋本の解釈にならうならば、当時の幕末と似た気分が、現在の日本を覆っていると考えられはしないだろうか？<br>
 <br>
現在の龍馬像を決定づけた小説に、司馬遼太郎の<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4167105675/">『竜馬がゆく』</a>（文春文庫）がある。実は今回、はじめて本作に触れたのだが、明るく壮快な竜馬の物語に引き込まれる一方で、竜馬の語る理想（能力のある人間なら誰もが政治に参加できる世の中を作りたい。世界中を船で回って商売したい）に対して、なんとも歯がゆい気持ちとなった。<br>
 <br>
本作で竜馬を通して司馬が語る理想は、戦後民主主義と資本主義そのものであり、今でいうグローバリズムの概念そのものだ。だが我々は、自由で機会が平等に与えられた実力主義の世の中だからこそ、格差や戦争が横行している現在を、嫌という程知っている。その意味で司馬が描いた“竜馬像”は、ある部分の賞味期限が切れていると言える。それを考慮してか、脚本家の福田靖は『龍馬伝』ＨＰのインタビューで、『竜馬がゆく』とは違う「普通の好青年としての龍馬を描く」と語っている。<br>
 <br>
あくまで第９回終了時点における印象だが、福山雅治演じる龍馬は、おそらく今までで一番頼りない龍馬だ。いつも迷い、喧嘩の仲裁役ばかりしているお人好しの男だ。しかし、そんな人間味のある部分が、福山／龍馬では丹念に描かれており、確かに作り手の「まず根源に立ち返ろう」という意志が感じられる。<br>
 <br>
もう一つ重要なのは、第１回から執拗に描写される、土佐藩における上士と下士の間に横たわる理不尽な身分差別だ。その重苦しい描写は、視聴者が漠然と抱いていた平和な江戸時代像を覆している。その意味で『龍馬伝』は階級闘争の物語であり、自由な世界で苦しむ私達に、果たして過去の日本は本当に幸せだったのかと再度、問いかけてくる。<br>
<br>
最後に『龍馬伝』冒頭からも明らかなように、龍馬の名が一般に知られるようになったのは、その死後においてだ。明治十六年、自由民権運動家だった坂崎紫瀾は、高知で発行されていた「土陽新聞」の中で、新聞小説「汗血千里駒」を連載した。この小説で自由民権運動のシンボルとして始めて坂本龍馬は描かれ、広く知られるようになった。<br>
<br>
次に龍馬ブームが起こったのは日露戦争の時だ。日本とロシアの開戦前夜、明治天皇妃である昭憲皇后の夢枕に坂本龍馬が立ち、「日本海軍の勝利」を語ったという話が新聞で広まり、海軍の守護神として、空前の龍馬ブームが起こった。そして戦後には、司馬遼太郎が書いた歴史小説<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4167105675/">『竜馬がゆく』</a>が国民的小説として大ヒットし、今の龍馬像を作り上げた。ＣＭや金八先生の影響で、武田鉄矢＝坂本龍馬とイメージする人も多いだろう。<br>
<br>
その意味で大衆が求める龍馬像は、時代ごとに大きく変化しており、日本人は龍馬の中にある謎の部分に自身の願いや希望を投影し、その時々における理想像を語ってきたと言える。<br>
<br>
司馬遼太郎は<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4167105675/">『竜馬がゆく』</a>一巻のあとがきで「竜馬は、生きている。われわれの歴史のあるかぎり、竜馬は生きつづけるだろう」と語っている。混迷する二〇一〇年。『龍馬伝』がどのような龍馬象を提示するのか楽しみだ。<br>
 <br>
<br>
●成馬零一（なりま・れいいち）<br>
ライター、ドラマ評論家。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4796677739">『ＴＶドラマは、ジャニーズものだけ見ろ！』</a>（宝島社新書）、共著に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4877770933/">『クリティカル・ゼロ　コードギアス反逆のルルーシュ』</a>（樹想社）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4198628726/">『発掘 幕末の陰謀』</a>（徳間書店）、『音楽誌が書かないＪポップ批評』シリーズ（宝島社）などに執筆。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/narima01/">はて☆なりま</a>
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<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1328894.html">
<title>鈴木茂「音楽を聴くことと語ること」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1328894.html</link>
<description>担当者より：2007年にアルテスパブリッシングの鈴木茂さんに音楽を論じることに関して書いていただいた原稿です。2007年はアルテスパブリッシング創業の年でもありました。また、鈴木さんが最近担当したアルテスパブリッシングの書籍には、高橋健太郎『ポップミュージックの...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-07-27T03:00:15+09:00</dc:date>
<dc:subject>鈴木茂</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>2007年にアルテスパブリッシングの鈴木茂さんに音楽を論じることに関して書いていただいた原稿です。2007年はアルテスパブリッシング創業の年でもありました。また、鈴木さんが最近担当したアルテスパブリッシングの書籍には、高橋健太郎<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4903951332/">『ポップミュージックのゆくえ』</a>や宮脇俊文／細川周平／マイク・モラスキー編著<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4903951308/">『ニュージャズスタディーズ』</a>などがあります。こちらも併せてぜひお読みください。<br>
<br>
<u>配信日：2007/09/12</u><br>
<br>
<br>
20年ほど音楽だけを対象にした書物を作り続けてきて、音楽を言葉で表現するってどういうことなのか？　どうすればそれは可能なのか、そもそも可能なのか？　を、あくまで聴き手の側からずっと考え続けているのだけど、結論めいたものは当然あるわけもなく、なにかヒントでも得られることを願ってとにかく書きはじめてみよう。<br>
<br>
この７月、音楽評論家・吉田秀和との対談の中で、作家の堀江敏幸がこんなふうに吉田の評論を讃えていたのがちょっと気になった（『考える人』No.21）。<br>
<br>
「吉田さんの文章には、相撲から借りた比喩ですとか、いろいろなジャンルの言葉がうまく交わりあった新しい比喩表現がある。それが読者を魅了する秘密のひとつだと思うんです」<br>
<br>
それを受けて吉田が「批評というのは、考えたことを一言で言う、そういう努力をしなければいけないと思いますね」と返す。90歳を越えてなおバリバリの現役として書き続けている吉田秀和の耳の鋭さと筆の確かさには恐れ入るばかりだけど、吉田秀和のすごさは、「比喩がうまい」ってところに落ちついちゃうんだろうか？<br>
<br>
そういえばなるほど、この対談が流されたＮＨＫの吉田秀和特集番組でも、カラヤンの《田園》を評しての「いわばアウトバーンを快速で走る自動車の中で走った花」「すぐれたカメラのような目」、ルービンシュタインのサン・サーンス演奏への「この曲を金魚みたいなはなやかなのびやかさとゆとりを持って料理する」といった吉田の文章の一節を紹介していたな。<br>
<br>
このふたつの評が書かれたのは数十年前のことだろうから、今となってはかなり古びてはいるけど、でも音楽を語るときって比喩がうまいとけっこう読ませることができちゃうのも確かではある。<br>
<br>
比喩のうまさといったら、たとえば村上春樹が音楽を語った文章も思い浮かぶ。シューベルトからスガシカオまでを扱った音楽論集<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4167502097/">『意味がなければスイングはない』</a>（文藝春秋）をパッと開いてみるとこんな具合。<br>
<br>
「レストランにたとえていえば、ひとつひとつの料理の質は決して悪くないのだが、料理と料理の組み合わせに問題があって、それぞれの味をうち消しあってしまっている」「自然で強靱な文体を持った誠実なマイナー・ポエト」……<br>
<br>
これはジャズ・ピアニストのシダー・ウォルトンを書いたもので、他にも「クリスプ」「オムニアス」といった、さりげなく挟み込まれる英語の形容詞も効いている。通して読むと、要所要所でのちょっとした表現のうまさが強く印象に残るんだなあ。これほど滑らかな文章で説得力を持って音楽や音楽体験を描ける人はそうそういませんよね。<br>
<br>
と言いつつじつは、村上春樹が使っている言葉の大半はごく一般的なものばかりで、普通の言葉でもちゃんと使いこなせばこれだけのものが書ける、という良いお手本でもあるように思う。真似しようと思って簡単にできるくらいなら、第二第三の村上春樹はとっくに現れてるわけだけど。<br>
<br>
もうひとつ、つい先日感心させられたばかりなのが分子生物学者・福岡伸一の<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4061498916/">『生物と無生物のあいだ』</a>（講談社現代新書）。とりわけすばらしいのが、動的な平衡としての生物を「波打ち際に立てられた砂の城」に例えた下りだ。砂の城が立体的な像としてあらかじめ頭にくっきり刻み込まれ、専門用語が込み入ってくるそのあとの解説がじつにすんなり飲み込める。この比喩がなぜかくも効果的なのかと考えてみると、比喩としての砂の城のシステム（構造）が、生物のそれと本質的に同じものだからだろう。<br>
<br>
なるほど、構造ね。ということは音楽でも同じように、楽曲や演奏の構造を、聞いたことのない人や音楽理論の素人にも分かるような巧みな比喩を用いて説明できれば、これはかなり質の高い言語化として機能するんじゃないだろうか？　じっさい吉田秀和は小澤征爾を教育したほどの専門家だから音楽の構造には精通している人だし、村上春樹だって簡潔ではあるけど専門用語を駆使した音楽的な分析も随所で披露している。<br>
<br>
ところが、映画や演劇や文学などと比べても、音楽ほどいま何が起きてるのかを言葉で説明しづらい表現はない。目の前で鳴っている音を描写しようと試みて、たとえば楽器の種類や奏法、音色、あるいはコード進行やメロディ、転調、リズムなどなどを説明しようとするほど専門用語が増えていき、素人は置いてきぼりを食らうことになる。といって自分のからだや心に生じた変化の側から描こうとすれば、音そのものからは離れて言葉は抽象的にならざるをえない。<br>
<br>
そもそも音楽を構成する要素は瞬間瞬間を細かく切り取っていけば無限に存在するわけだから、そこからその音楽のもっとも本質的な要素を選び出して取り出すことのできるすぐれた〈耳〉が必要になってくる。つまりは、筆力以前に音楽を聴く力そのものの質が問われるということか。なんだか当たり前の話に戻ってきちゃったけど、吉田秀和にしても村上春樹にしても、「この人は音楽を良くわかってるなあ！」としばしば思わせてくれるからこそ、信頼もするわけだし。<br>
<br>
じゃあじゃあ、その耳の良し悪しをお前はどうやって判断してるんだ？　ていうかお前に判断できるわけ？　と突っ込まれちゃうと、まったくのアマチュアとしてはちょっと微妙なところなんだけど、彼らが音楽を分析していくその手つきや、ある重要なポイントを選びだす判断とか、もっと素朴にいえば、音楽から得られる身体が震えるような感動や歓喜や官能を書き手が知っているかどうか、そこを感じ取っているんだと思う。<br>
<br>
そう、音楽はそんなふうに聴き手の意識を飛び越して身体の奥深くに直接訴えかけてくるものなのだ。聞いているうちになぜだか知らず滂沱の涙が止まらなくなったり、全身に鳥肌が立ちまくったり、興奮のあまり我を忘れて大声を上げたり。そんな神秘的ともいえる体験を、煎じ詰めれば空気の振動でしかない音楽が、音楽だけが、もたらしてくれるのはいったいなぜなのか？　ぼくがすでに30年近くも音楽を語った文章を読み続けているのは、その答えを知りたいからだ。いつかだれかが音楽の秘密を解き明かしてくれるんじゃないか、と期待しているからだ。<br>
<br>
その望みが叶うことはまずありえないとは思う。だが、それも分かっているからこそ、なおさらいっそう聴いては読み、聴いては語り、そしてまた聴き、をぼくらは永遠に繰り返していくにちがいない。<br>
<br>
<br>
●鈴木茂（すずき・しげる）<br>
アルテスパブリッシング代表取締役。<br>
音楽之友社勤務、フリー編集者を経て、〈音楽を愛する人のための出版社〉アルテスパブリッシングを立ち上げ、現在に至る。<br>
サイト：<a href="http://www.artespublishing.com/">アルテスパブリッシング</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1328894" width="1" height="1" />
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<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1327630.html">
<title>山形浩生「山形月報！」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1327630.html</link>
<description>担当者より：2010年４月の山形浩生さんの書評連載です。また、山形さんと守岡桜さんの訳でフィリップ・ショート『毛沢東　ある人生』（白水社、上下）が刊行されました。山形さんは同じ著者の『ポル・ポト　ある悪夢の歴史』も訳されています、併せてどうぞ。

配信日：2010/...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-07-23T12:30:00+09:00</dc:date>
<dc:subject>山形浩生</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>2010年４月の山形浩生さんの書評連載です。また、山形さんと守岡桜さんの訳でフィリップ・ショート<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/456008081X/">『毛沢東　ある人生』</a>（白水社、上下）が刊行されました。山形さんは同じ著者の<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4560026270/">『ポル・ポト　ある悪夢の歴史』</a>も訳されています、併せてどうぞ。<br>
<br>
<u>配信日：2010/04/28</u><br>
<br>
<br>
日本はずいぶん寒いそうですが、お元気でしょうか。こちらベトナムのカントーは、いつもながら大変お暑うございます。実は今回のベトナム出張は、ぼくがチームリーダーというやっかいな役回りで、いつものように気楽にさぼれないので、あまり読む本も持ってこられませんでしたよ。<br>
<br>
そのため、今回のはほぼすべて見込み。戻ったらこんな本を読みますというご報告。ちゃんとした書評にならないのはお許しあれ。<br>
<br>
出張以外にも、いくつかまとめて訳書を仕上げなくてはならずバタバタしていたのも本が読めなかった一因。少々自己宣伝になるけれど、ちょっと苦労したジェイン・ジェイコブズ<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4306072746/">『アメリカ大都市の死と生』</a>（鹿島出版会）が出て、もともと都市問題については必読の名著のほまれ高い本であると同時に、原著刊行から半世紀たった位置づけの見直しを行っている点で、ぼくとしてはちょっと自信作。<br>
<br>
それと同時に鹿島出版会から、ケヴィン・リンチ<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4306052540/">『時間の中の都市』</a>が復刊。これは都市というものにおける時間的な価値についてきちんと考え、古い建物の保存の意義についてまじめに考えたよい本なので、そういう話に関心ある人は、ジェイコブズと併せてお読みくださいな。結論ありきの独善的な話に終わらないのが、ケヴィン・リンチのよいところです。<br>
<br>
そうした古い建物とは真逆の、現代にしかあり得ないまったく新しい産業・科学的な構造物ばかりを写真におさめた西澤丞<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4778312120/">『Build the Future』</a>（太田出版）はすばらしい写真集。これはもう、見て！　としかいえないすごい迫力。気に入った人は、この人の他の作品集も是非どうぞ。<br>
<br>
こうした建物も含む空間的な話としてはコリン・エラード<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4152091266/">『イマココ』</a>（早川書房）がおもしろそう。動物レベルから空間認知をとらえてあれこれ論じた話のようで、アングル次第ではおもしろそう。先のケヴィン・リンチも、都市の居心地のよさを空間認知の容易さと結びつけていて、たぶん関係してくるはず。<br>
<br>
経済分野としては、田中秀臣<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4023308137/">『デフレ不況』</a>（朝日新聞出版）が戻ったら出ているはず。だんだん（やっと！）責任追及がゆるゆるとではあるものの始まりつつある日銀のこれまでの政策（またはその不在）について歴史的にフォローした勉強になる一冊のはず。いまの日本の経済状況や、各種政権の経済政策について俯瞰的な視点が欲しい人は、読んでおくとたいへんに勉強になるはず。ぼくも勉強します。経済の勉強といえば、ローマーマクロとか斉藤誠マクロとか、えらい教科書が出てるので、それを読みましょうといいたいところだが、ぼくでもこの水準までは勉強していない。こちらは一般の方には不要でしょう。<br>
<br>
小説では、伊藤計劃<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4150309841/">『虐殺器官』</a>（ハヤカワ文庫）を読みたかったんだが、出張にはなるべく読み終えたら捨てられる本を持ってくることにしているので（そうでないと帰りの荷物が重くなるのですもの）、読み終えてません。<br>
<br>
ちなみに持ってきたのはトム・ロブ・スミス<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4102169318/">『チャイルド44』</a>（新潮文庫、上下）。スターリン時代のソ連の状況を背景に起きる連続殺人事件、そしてそれを延命させた「社会主義に犯罪はない」という変なイデオロギーの作用など、非常にうまく構築されていて、三回くらいは再読に耐えるとてもよいサスペンス小説。ハイフォンの某所に寄贈してきました。同じ著者の<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4102169334/">『グラーグ57』</a>は次回出張で読むと思う。<br>
<br>
でもそれよりも、これまた帰ったら読まなくてはいけないのがナボコフ<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4309709621/">『賜物』</a>（河出書房新社）。これは例の池澤夏樹による世界文学全集の最新刊だけれど、この全集の目玉の一つでしょう。旧訳はイマイチの声が高く、原著の繊細さをかなりダメにしていたので、沼野充義の新訳はとても楽しみ。ナボコフらしい、くどい小説で何が起こるわけではないけれど、しつこい感じの文が好きな人にはおすすめ。<br>
<br>
逆にキビキビ話が展開しないと気がすまない人は、うーん、たぶんナボコフは向いていないので、この一冊もおすすめはしない。おそらくこの次あたりに出るギュンター・グラス<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4309709648/">『ブリキの太鼓』</a>はもっと万人にお勧めできる名作。グラスもナチスだったことがバレて味噌をつけたし、特に近作ではその小説の古くささ――それも特に考えているわけではなく、鈍感なだけの古くささ――がうんざりさせられるんだけれど、この『ブリキの太鼓』は掛け値なしの傑作。小説が面倒な人は、映画で観てもあまり価値は落ちないと思う。人によってはウナギが食えなくなるけれど。<br>
<br>
ではまた。<br>
<br>
<br>
●山形浩生（やまがた・ひろお）<br>
大手シンクタンク研究員、評論家、翻訳家。<br>
サイト：<a href="http://cruel.org/jindex.html">YAMAGATA Hiroo Official Japanese Page</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1327630" width="1" height="1" />
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1325241.html">
<title>yomoyomo「スティーブ・ジョブズ今昔物語」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1325241.html</link>
<description>担当者より：2006年にyomoyomoさんがスティーブ・ジョブズに関して論じた原稿です。最近のジョブズの活動を考えるうえでも参考になるかと思います。

配信日：2006/04/12


本文は４月１日に書かれているのだが、この歳になると年度が変わったからといって特段気持ちに変化は...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-07-21T14:30:13+09:00</dc:date>
<dc:subject>yomoyomo</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>2006年にyomoyomoさんがスティーブ・ジョブズに関して論じた原稿です。最近のジョブズの活動を考えるうえでも参考になるかと思います。<br>
<br>
<u>配信日：2006/04/12</u><br>
<br>
<br>
本文は４月１日に書かれているのだが、この歳になると年度が変わったからといって特段気持ちに変化はない。ただ今年は、当方が就職してちょうど10年になるというのがあり、少し思うところがあった。個人的な事情はどうでもよいとしても、Yahoo! JAPANもサービスを開始してちょうど10年になる一方で、今は亡きネットスケープの創立と同年に創刊された老舗のネット雑誌『インターネットマガジン』が休刊を迎えているのを見ると、このインターネット時代の10年を経て刻まれるいろいろな区切りを意識させられる。そうした「区切り」で最近最も大きく報道されたのが、この4月1日に創業30周年を迎えたアップル・コンピュータだろう。今から10年前、低迷を極めていたアップルが現在の形に変化、再生するなど誰も想像できなかったことである。<br>
<br>
<a href="http://japan.cnet.com/special/story/0,2000050158,20099841,00.htm">アップル30年の年表</a>を眺めると、大体10年単位で企業としての季節を分けられるように思う。つまり、創業からMacintosh開発を経てスティーブ・ジョブズが追放されるまでの栄光の10年、そしてその後NeXTのアップルによる買収とともにジョブズが帰還を果たすまでの迷走の10年、そしてジョブズが再び実権を握り現在に至る復活の10年である。これは単純化し過ぎとしても、スティーブ・ジョブズという男の劇的な浮沈が、そのままアップルという企業と重ね合わされるのは避けられないようだ。 <br>
<br>
天才、傲慢、カリスマ、暴虐的、完全主義、冷血漢……ジョブズに冠せられる形容詞は、コンピュータ業界の他の成功者にも増して振幅が激しい。『<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4492501479">スティーブ・ジョブズ 偶像復活』</a>（東洋経済新報社）にいたるまで何冊も書かれている伝記本やアップルの内部事情を綴った書籍を彩るエピソードの数々を読んでも、彼がそうした言葉に相応しい矛盾に満ちた強烈な人物であるのは間違いない。 <br>
<br>
ジョブズが人々を魅了してきたのは、彼が常に挑戦者の立場にいたことが大きいだろう。それは上に書いたように大体10年でリセットが入り、新しい分野・環境での挑戦を余儀なくされたことがある。そしてその過程で成功とともに失敗を重ねながら、彼はスタイルを貫いてきた。ここでのスタイルとは、見せかけと反対の強い信念のことであり、それがMacintoshやiPodといった製品のデザインに限らず細部まで息づいていることは、「Cult of Mac」な人でなくても認めざるを得ないのではないか。 <br>
<br>
上でこの10年はアップル復活の10年と書いたが、より広い視点で見ればインターネット時代始まりの10年という方が相応しいだろう。大雑把に言えば、ジョブズはその前半はデジタルハブとしてのMacの再生、後半はiPodとiTunes Music Storeによるデジタル音楽ビジネスの確立により乗り切ったわけだが、その垂直統合モデルの持続可能性は正直危ういと思う。飽くまでハードウェアで収益を上げる手法には、あやふやなビジネスモデルに飛びつかない地に足のつき方を感じるものの、同時にPC世代の限界をも示しているのかもしれない。 <br>
<br>
さて、ジョブズも50歳を越えた。2004年に膵臓ガンの手術を行うという報道が流れたときは、彼であっても死から逃れられないことを意識させられたわけだが、カリスマという言葉に相応しい強烈な個性を発揮し続けられるのもあと10年ほどではないだろうか。CEOを務めるピクサーが買収されることでディズニーの取締役に就任するわけだから、彼個人はもう安泰とも言えるだろうし、かつてのような意味での挑戦者ではない。もはや彼は、長距離電話をただかけする装置を売りさばいていた反逆者気取りのヒッピーでもないし、またチームプレイの価値を学び他人の功績を遠慮なく横取りする無慈悲な人間でもなくなったようだ。しかし、IT業界に関わる人間としては、飽くまでアップルのジョブズとして、これからの10年も波乱に満ちた快走を見せてほしいと身勝手にも願うわけである。<br>
<br>
<br>
●yomoyomo（よもよも）<br>
雑文書き／翻訳者。<br>
訳書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4798110035/">『デジタル音楽の行方』</a>（翔泳社）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797318325/">『Wiki Way』</a>（ソフトバンク クリエイティブ）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/483991107X">『ウェブログ・ハンドブック』</a>（毎日コミュニケーションズ）がある。<br>
ネット上でも、コラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。<br>
サイト：<a href="http://www.yamdas.org/">YAMDAS Project</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1325241" width="1" height="1" />
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</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1324789.html">
<title>瀧坂亮「セカンド・サマー・オブ・ラブ世代って？」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1324789.html</link>
<description>担当者より：音楽や映像などの分野でご活躍中のライター・瀧坂亮さんが「セカンド・サマー・オブ・ラブ」の世代について2007年に書いたものです。ご一読のほど。

配信日：2007/10/24


「セカンド・サマー・オブ・ラブ直撃世代だから」。これは先日「インターネット先進ユー...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-07-20T13:30:30+09:00</dc:date>
<dc:subject>瀧坂亮</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>音楽や映像などの分野でご活躍中のライター・瀧坂亮さんが「セカンド・サマー・オブ・ラブ」の世代について2007年に書いたものです。ご一読のほど。<br>
<br>
<u>配信日：2007/10/24</u><br>
<br>
<br>
「セカンド・サマー・オブ・ラブ直撃世代だから」。これは先日<a href="http://miau.jp/">「インターネット先進ユーザーの会（MIAU）」</a>を発足した津田大介氏が、わざわざ手弁当の任意団体を立ち上げる自身の理由として述べた言葉だ。<br>
<br>
そんな世代、ほんとにあるの？　というのはともかく、彼が名指そうとしている気分はなんとなくわかる。要するに世界史が動いて見えた89年から３～４年の間のあの感じ、カオスではあってもポジティヴだった時代感が原体験としてあるということだろう。<br>
<br>
セカンド・サマー・オブ・ラブ（SSOL）とは、88年からイギリスで起こったダンス・ミュージックのムーヴメントだ。スペインのイビザ島から来た多幸性の新ドラッグ「エクスタシー」とアシッド・ハウスと呼ばれる音楽、そして野外や倉庫で開かれる享楽的なレイヴ・パーティの興隆は、まるで67年のヒッピー・ムーヴメント（＝サマー・オブ・ラブ）の再来を思わせた……というのが、教科書的な説明になる。<br>
<br>
が、「SSOL直撃世代」といえる当時10代の団塊ジュニアたちは、すぐにそんな「ダンスとドラッグによる解放」を体験できたわけもなく、基本的には輸入盤CDや雑誌記事を通して幻想のSSOLを育んでいたわけだ。<br>
<br>
例えば、当時もっとも影響力があったバンド、ストーン・ローゼズのジョン・スクワイアは「90年代はオーディエンスが主役になる」と予言した。ステージ上の大アーティストではなく、観客なり草の根のパーティこそが何かを生む、何かができる。こうした一種のDIY思想が、ある種の時代背景もあって歓迎された。<br>
<br>
ベルリンの壁が崩れてソ連邦もなくなり、昭和天皇は崩御して土井たか子社会党がブームになったりもする「山が動く（Move Any Mountain）」時代。これに円高を背景とした輸入文化消費が重なれば、妙に世界史的で、コスモポリタンな高揚を呼び起こすことにもなるだろう。<br>
<br>
さまざまなインディー・レーベルや新しいタイプのバンドが登場し、それに呼応したミニコミ／リトル・マガジンが発刊された。92年創刊のインディー雑誌『Bar-f-Out!』の巻頭言は、ロンドン、パリ、東京の「クール・レジスタンス」たちとの会合と連帯を伝えている。なんとキザな……と言いたくなるけれど、当時はそんな大口にもそれなりにリアリティがあったのだ。それを橋本治にならって「90年安保」とか呼んだら、やっぱり言い過ぎだろうか。<br>
<br>
その後日本でも90年代を通してレイヴ的なものは定着したし、快楽主義の負の側面が爆発したスーパーフリー事件なんてのもあり、美しい夢ばかり見てはいられなくなった。しかし90年代初頭のサブカルチャーをめぐる理念先行の「気分としてのSSOL」、たかがバブルの余韻の小春日和と片付けるのは早急だろう。当時のチルドレンが大人になり、蒔かれた種が花咲きはじめたのはいまかもしれないからだ。<br>
<br>
<br>
●瀧坂亮（たきさか・りょう）<br>
編集／ライター。<br>
執筆参加に『音楽誌が書かないＪポップ批評』シリーズ（宝島社）など。<br>
サイト：<a href="http://omo-8.blogspot.com/">omo*8</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1324789" width="1" height="1" />
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</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1325549.html">
<title>山本貴光＋吉川浩満「哲学書翻訳顛末記――噛み砕けないコトバたち／ホンヤクのコンニャク」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1325549.html</link>
<description>担当者より：哲学者ジョン・サールの『MiND（マインド）――心の哲学』（朝日出版社）を翻訳をした山本貴光さんと吉川浩満さんが、哲学書を翻訳するという作業について書いた原稿です。2006年に『MiND（マインド）――心の哲学』が刊行された直後のものです。

配信日：2006/...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-07-18T16:00:48+09:00</dc:date>
<dc:subject>山本貴光</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>哲学者ジョン・サールの<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4255003254">『MiND（マインド）――心の哲学』</a>（朝日出版社）を翻訳をした山本貴光さんと吉川浩満さんが、哲学書を翻訳するという作業について書いた原稿です。2006年に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4255003254">『MiND（マインド）――心の哲学』</a>が刊行された直後のものです。<br>
<br>
<u>配信日：2006/03/22</u><br>
<br>
<br>
この３月に、朝日出版社からジョン・サール<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4255003254">『MiND（マインド）――心の哲学』</a>という翻訳書を刊行させていただいた。これはアメリカ哲学の大御所ジョン・サールによる魅力的な入門書。「心とはなにか？」という難問に挑戦する最新型の「心の哲学」だ。この場をお借りして、身の程をわきまえぬ翻訳で苦心惨憺七転八倒した顛末をちょっぴりお話ししたい。<br>
<br>
よく哲学の本は難解だと言われる。たしかに、ものごとを徹底的に考えて、「それってどういうこと？」と問い詰めるのだからややこしくなるのは避けられない。しかし、哲学が難解に見えてしまうことには、もうすこし別の事情もからんでいる。<br>
<br>
そもそも「哲学」という言葉からしてわけがわからない。「学」は「学問」の「学」だからまだよい。問題は「哲」のほう。実は「哲学」という日本語の歴史はそれほど古くない。この言葉が造られたのは明治のこと。津和野藩出身の西周（にし・あまね, 1829-1897）が、"philosophy"を「希賢学」と訳した。この言葉、もとはといえば漢籍から引かれたものだが、「賢を希（こいねが）う学」と読めば腑に落ちる。西はこれをさらに「希哲学」と変え、最後には「哲学」とした。<br>
<br>
ところで翻訳談義でしばしば「翻訳者は裏切者」（Traductore traditore）というラテン語の格言（あるいはそのイタリア語訳）が引き合いに出される。翻訳をしようと思ったら、どうしたって裏切者になるというわけだ。<br>
<br>
たとえば"idea"という言葉。「アイデア」と読めばだれでも知っている言葉だ。サールの本にもしばしば顔を出す。でもこれを日本語に訳すとなると話はややこしくなる。先ほどの西周はこの語に仏典から借りてきた「観念」という訳語をあてた。見事である。でもやがて時が経ち、仏典や漢籍の教養が一般的でなくなったとき、この訳語はいわばもう一度裏切ることになる。たとえば観念、形而上学、実存などと言えば、わけのわからない言葉の代表格のようなものではなかろうか。<br>
<br>
自分で言葉をつくりながら翻訳した明治の先達の苦労には遠くおよばないものの、訳者がサールの翻訳で苦心したのもこの用語の問題だった。哲学書の伝統的な訳語に敬意を払いたい。でも予備知識がない人でも読めるようにしたい（わがまま）。<br>
<br>
というのも<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4255003254">『MiND』</a>は、これから「心の哲学」について勉強してみたいと思う人に向けて書かれた入門書。最難問のテーマだけにしっかり考えさせられるけれど、サールの言葉は配慮が行き届いていてあくまでわかりやすい。<br>
<br>
ホンヤクコンニャク（『ドラえもん』）とはよくいったもので（って原作の文脈とはまるでちがうけれど）、哲学のコトバたちを翻訳するときに味わうのは、まさに典型的なコンニャク体験だ。美味しいけれどなかなか噛み砕けない。なかなか噛み砕けないけれど、その作業はとても美味しい。<br>
<br>
むずかしい問題をやさしくおもしろく語るというサール先生の高等テクニック、どこまでうまく日本語に移せたかはなはだ心許なくはあるけれど、邦訳版<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4255003254">『MiND』</a>がどんな書物にしあがっているか、ぜひ書店でご賞味いただけたらこれ幸い。<br>
<br>
<br>
●山本貴光（やまもと・たかみつ）<br>
コーエー（ゲーム開発）を経て、フリーランスの物書き。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4798114197/">『デバッグではじめるＣプログラミング』</a>（翔泳社）、共著に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4480688021/">『ゲームの教科書』</a>、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4480687521/">『問題がモンダイなのだ』</a>（ともにちくまプリマー新書）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4255002770/">『心脳問題』</a>（朝日出版社）などがある。<br>
関心領域は書物、映画、音楽、美術、ゲーム、カステラ、原節子など。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/">作品メモランダム</a><br>
<br>
●吉川浩満（よしかわ・ひろみつ）<br>
国書刊行会、ヤフーを経て、フリーランスの物書き。<br>
共著に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4480687521/">『問題がモンダイなのだ』</a>（ちくまプリマー新書）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4255002770/">『心脳問題』</a>（朝日出版社）などがある。<br>
関心領域は哲学、ハーレーダビッドソン、ロック、映画、 犬など。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/clinamen/">哲劇メモ</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1325549" width="1" height="1" />
]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1321510.html">
<title>水無田気流「若い女性は保守化した、のか？――ニッポン女子の夢と希望と野望の現在」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1321510.html</link>
<description>担当者より：詩人・社会学者である水無田気流さんが日本の若い女性は保守化したのかどうかに関して論じたものです。著書である『無頼化する女たち』（新書ｙ）と併せて、ぜひお読みください。

配信日：2009/08/26


近ごろ、日本の若い世代の女性には保守化の傾向が見られる...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-07-14T13:00:03+09:00</dc:date>
<dc:subject>水無田気流</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>詩人・社会学者である水無田気流さんが日本の若い女性は保守化したのかどうかに関して論じたものです。著書である<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862484387/">『無頼化する女たち』</a>（新書ｙ）と併せて、ぜひお読みください。<br>
<br>
<u>配信日：2009/08/26</u><br>
<br>
<br>
近ごろ、日本の若い世代の女性には保守化の傾向が見られる、と指摘される。専業主婦願望は再燃気味であり、「婚活」もさかんになっている。たとえば、内閣府の<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4903729567">『平成21年版　男女共同参画白書』</a>によれば、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」といった考え方について、20代女性は36.6％が「賛成」と答えた。不思議なことに、これは30～50代の女性よりも高い数値なのである。<br>
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この傾向は、雇用機会均等法世代以降の「負け犬」の艱難辛苦を目にしてきた反動かもしれないし、まだまだ女性には苛酷な雇用環境のせいかもしれない。情報化が進んだせいか、若い世代ほど、上の世代の轍を踏むことに対して、恐怖感が強いことも推測できる。<br>
<br>
だが、おかしいではないか。女性たちは近年、独立心旺盛に見える。世間では、もはや女性が一人で生きていくことを前提に話が進んでいる。女性が独身でいることも、子どもを産まないことも、離婚することもタブー視されなくなってきた。<br>
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ここ数年の女性論関連ベストセラーも、酒井順子<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062121182/">『負け犬の遠吠え』</a>（講談社、2003）や上野千鶴子<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4879546801/">『おひとりさまの老後』</a>（法研、2007）など、一人で生き、一人で死ぬことを表現するものが目につく。さらに、勝間和代のブームに代表されるライフスタイル指南書は、女性の自立を大々的に提唱している。<br>
<br>
男に依存したいのか、自立したいのか、はっきりしやがれ！　と、ツッコミを入れたくなる男性諸氏も多いだろう。あるいは、女性が依存志向と自立志向に二極化しているのだと考える方もいるだろう。だが、女子界のこのような「気分」――専業主婦志向と自立志向――は、実は同根だと私は考える。<br>
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端的に言って、若年層を中心に、ニッポン女子は今、猛烈に「安心したい」のである。「お金を稼ぐ」も、「生活防衛」も、「ビジネススキルを身につける」も、そして「稼ぎのいい男をゲットする」も、すべては安心へのパスポートなのだ。それは主として激しい経済社会環境の変化により、かつて「普通の幸福」であったものが、軒並み高騰していることに起因する。また女性は、自己防衛意識が男性より格段に強い。これは、「女性がか弱い」からというよりは、社会環境要因が大きいのである。そもそも日本の経済社会システムは、女性を積極的に守ってはくれない。<br>
<br>
たとえば多くの女性は、企業では長年「主力」扱いされず、待遇も平均賃金も低いまま。とくに派遣法改正以降、女性の非正規雇用者は年々増加し、近年では過半数を超えている。そうでなくても、ローンを組もうとしても、起業しようとしても、男性より「信用」は低い。ましてや出産・育児の負担を抱え込めば、どうなるだろうか。雇用機会均等法や、男女共同参画社会基本法など、法制度は完備されても、実体はお寒い限り。なぜか？　それは、女性を守るのは、基本的に社会（公的領域や市場など）ではなく、家族（私的領域）である、との暗黙の前提があるからである。<br>
<br>
この前提は、70年代頃までは矛盾なく社会を覆っていた。このころ、男女とも30歳以上の既婚率は９割を超え、男性の就業状況も安定していた。だから、社会の側は、女性を経済活動の場でそれほど厚遇しなくても、夫である男性被雇用者を厚遇していれば、問題はなかったのである。<br>
<br>
ついでに言えば、日本の妻は、通常夫の給料をそっくりそのまま預かり、そこから夫に「お小遣い」と称する小銭を渡して、残りの家計を「やりくり」するという慣行がある。だから、経済社会システム上の不公平は、日常生活において既婚女性には見えにくいし、不満も抱きづらい。ただし、稼ぎの安定した夫をつかまえている限り、なのだが。言うまでもなく、この前提は、第一に日本型雇用慣行の崩壊、第二に未婚化・非婚化によって大幅にゆらいできている。<br>
<br>
多くの男性が、年々確実に上昇する賃金と、マイホームつきの安定した家庭生活を妻に提供できた時代、専業主婦はごく当たり前の女性のライフコースであった。だからこそ、雇用機会均等法施行直後は、希少種である「キャリアウーマン」が、輝いて見えたのである。<br>
<br>
だが近年、サラリーマン世帯であっても「共働き世帯」が「専業主婦のいる世帯」を大幅に上回るなど、家事専従の専業主婦は少数派である。早い話、稼ぎのいい夫を持ち、働かずに済む専業主婦は希少価値が高まり、それだけ若い女性の憧れも増しているのだ。<br>
<br>
したがって、若い女性の専業主婦願望が高まっていると言っても、彼女たちは、「ガーデニングなどを楽しむ優雅なセレブ妻」になりたいのであって、「育児・家事を全面的に引き受けつつ低賃金のパート労働にいそしむ主婦」になりたいわけではない。情報化の進展は、とりわけ若年層にとって、かつてよりも格段に精度の高い「人生のシミュレーション」を可能にした。<br>
<br>
だから、投入した努力に見合った成果が得られるかどうかに関して、今の若い世代はシビアである。女性の場合、せっかくがんばって働いても、縁遠ければ「負け犬」。しかも、男性に比べ、まだまだ努力に見合った社会的成功が得られる可能性が低いと判断すれば？　<br>
<br>
「婚活」ブームは、これらの事情を背景としている。だが、これも「需給のミスマッチ」感は否めない。東京では、20代後半～30代半ばの未婚女性は、約４割が相手の男性の年収「600万円以上」を希望しているが、その年代の男性で、それくらいの収入があるのは「3.5％」という調査結果もある（山田昌弘・白河桃子、2008<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4887596235/">『「婚活」時代』</a>ディスカヴァー携書）。かくして「いい男がいない」が、未婚女性の口ぐせとなる。<br>
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少々話は飛ぶが、さきごろ<a href="http://bisista.blogto.jp/archives/1321828.html">５月７日に掲載された尾谷幸憲のコラム</a>では、女性の「スピリチュアル」好きが論じられていたが、この「希望」と「現実」の落差では、さもありなん。「札束（高収入）と花束（高いコミュニケーション能力＋男性としての魅力）を背負ったいい男」は、希少種なのである。彼らをゲットしたければ、開運や呪術に頼るしかないのかもしれない。<br>
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興味深いことに、自立心を鼓舞する女性の生き方指南書も、恋愛に関してだけはある種運頼みである。たとえば、勝間和代<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/488759626X/">『勝間和代のインディペンデントな生き方　実践ガイド』</a>（2008、ディスカヴァー携書）では、インディペンデントな女性の生き方の条件として（１）年収600万円以上を稼ぎ（２）いいパートナーがいて（３）年をとるほど、すてきになっていくと述べている。<br>
<br>
重要な三本柱の一本であるにもかかわらず、（２）いい男をゲットする方法についてだけは、他の２点に比べて、具体的メソッドの記述が乏しい。恋愛スキルよりも、「600万円以上稼げるようになると、つきあう男のレベルが変わってくるのです」と、まずは自分磨きを推奨するのが印象的である。ビジネススキルアップ法、能力開発法などについては、驚くほどきめ細かく具体的メソッドを述べているのに、なぜ？　おそらく、勝間の分析力をもってしても、いい男を獲得するための方法論は、不確実要素があまりに<br>
大きいのだろう。<br>
<br>
実は、この「いい女になれば自ずといい男が寄ってくる」というのは、女子界では繰り返し述べられてきた神話である。「おひとりさま」という概念の発案者である岩下久美子の論旨は、その典型と言える。<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4120031799/">『おひとりさま』</a>（2001、中央公論新社）では、「おひとりさま」を、「『個』の確立ができている大人の女性」「仕事も恋もサクセスするために、身につけるべき生き方の哲学」などと定義する。一貫した基調は、「個が確立できて初めて、本当の恋愛が成立する」という「自立＝いい恋愛」信仰である。また、岩下も勝間と同様、若さだけを売り物にする女性は、いずれ限界が訪れる点を強調する。<br>
<br>
だが、果たして本当にそうだろうか。読者諸兄におたずねします。もし結婚するのであれば、女子界で賞賛されるような「アラフォーで責任ある仕事につき知識も経験値も高い自立した美人」と、「20代の何でも素直に喜び自分を頼りにしてくれる可愛い女の子」と、どちらを選びますか？……おそらく、一般の男性には後者が圧勝と思われますが、どうでしょう。一も二もなく前者、というのは相当もの好……もとい、知的好奇心旺盛なナイスガイにちがいない。<br>
<br>
多くの男性にとって、女性の価値はまだまだ「若さ」と「可愛げ」である。これらの価値は、経年と経験によって、どんどん逓減していく。悲劇的なことに、女性の場合、恋愛（そして結婚）市場においては、人間としての経験や魅力アップが、必ずしも女としての魅力に直結しない。<br>
<br>
しかし、自分のこれまでの努力が無に帰すことほど、人間にとって悲しいことはない。それは、自己の人生の意味をそっくり否定されることだからである。だから、「自立した大人の女＝いい恋愛」物語が、語り手を換えて何度も論じられる必要があるのだ。<br>
<br>
けれども、今まさに若さの絶頂にある20代の女性は、この恋愛市場における男性の本音に敏感である。人間、これから得ようとする価値に手が届かないことよりも、今掌中にある価値が失われていくことのほうが、よほど恐ろしい。ましてや、経年と経験による魅力アップが、今もっている若さという価値に太刀打ちできないとしたら？　そして、それと引き換えに得られる社会的成功が、結局のところ、結婚や「男性に選ばれる」価値より低いとみなされる社会だとしたら？　いや上述したように、その社会的成功だって、能力とチャンスに恵まれた一部の女性以外には、まだまだ絵に描いた餅なのである。それらの結果が、この「保守化」現象と言えないだろうか。<br>
<br>
もう一点。経済社会構造の変化に比して、人々の生活観や幸福観などの変化は遅い。ましてや家族生活は、子どものころからの刷り込みによって、無意識のうちに譲れない価値観を形成しているものである。今の20代は、50代、つまり高度成長期育ちの両親の価値観を基底に抱えている。したがって、それらの価値観を、自分の人生で実現することが難しいという困難も、抱え込んでしまっているのである。<br>
<br>
時代が激しく移り行くとき、人は積極的に新しい価値観と幸福観を取り入れるだろうか。それが過去よりも、明らかに好ましいものであるならば問題はない。だが、経済も雰囲気も、何もかもが縮小傾向にある今日ではどうだろう。むしろ変化を恐れ、「過去の幸福な状態」を過剰に理想化し、模倣するのではないだろうか。少なくとも、人類史は直線的に進化の道をたどるというよりは、振り子のように矛盾と反動を繰り返しながら進んできた。無数の「時代遅れな希望」という、瓦礫の山を背景にして。<br>
<br>
「歴史の天使は、顔を過去に向け、嵐のただ中を背が向いている未来に向かって飛ぶ」とはヴァルター・ベンヤミンの言葉である。これを受け、社会学者のジグムント・バウマンは言う。「魅力ではなく嫌悪こそが歴史の主要な駆動力である限り、歴史的変化が生じるのは、人間が、自分の状況のなかで感ずる苦痛や不快を悔しく思ったり、それにいらだったりするからである」と。進化は、希望よりはむしろ、思わず顔を背けたくなるような現実を離れるために、否応なく引き起こされて行く部分が大きい。その意味では、革新や保守化といった、まったく別物に見える表現形態も、同じ衝動に根ざしている。<br>
<br>
私たちは、結局のところ過去しか見ることができない。同時に、どんなに幸福な場所にも、とどまることはできない。過去の幸福な主婦像にしがみつく女性も、雄々しく自立を目指す女性も、同じく「今、ここの厳しい現実」を逃れるため、見えない未来に向かって必死に羽ばたいている……。<br>
<br>
少なくとも、私にはそう見える。<br>
<br>
<br>
●水無田気流（みなした・きりう）<br>
1970年、神奈川県出身。詩人、社会学者。<br>
早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程単位取得満期退学。現在、東京工業大学世界文明センター・フェロー。<br>
2003年、第41回現代詩手帖賞受賞。2006年、第１詩集<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4783719918/">『音速平和』</a>で第11回中原中也賞受賞。2008年、第２詩集<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4783730652/">『Ｚ境（ぜっきょう）』</a>で第49回晩翠賞受賞。評論に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4334034349/">『黒山もこもこ、抜けたら荒野　デフレ世代の憂鬱と希望』</a>（光文社新書）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862484387/">『無頼化する女たち』</a>（新書ｙ）がある。<br>
サイト：<a href="http://blue.sakura.ne.jp/~intermezzo">INTERMEZZO</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1321510" width="1" height="1" />
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1321828.html">
<title>尾谷幸憲「女性誌を賑わすスピリチュアル広告ってどうなの？」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1321828.html</link>
<description>担当者より：『ヤリチン専門学校　ゼロ年代のモテ技術』（講談社アフタヌーン新書）などの著書で知られる尾谷幸憲さんが、女性誌のスピリチュアル広告について2009年に書いたものです。昨今の雑誌状況なども踏まえてお読みいただければと。

配信日：2009/05/07


オレはモテ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-07-13T12:00:57+09:00</dc:date>
<dc:subject>尾谷幸憲</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/406364765X/">『ヤリチン専門学校　ゼロ年代のモテ技術』</a>（講談社アフタヌーン新書）などの著書で知られる尾谷幸憲さんが、女性誌のスピリチュアル広告について2009年に書いたものです。昨今の雑誌状況なども踏まえてお読みいただければと。<br>
<br>
<u>配信日：2009/05/07</u><br>
<br>
<br>
オレはモテ研究のために女性誌を購入する機会が多いのですが、最近、この女性誌界にある異変を感じています。<br>
<br>
それが「電話占い」広告の増加です。電話占いとは、悩める女性を相手に占い師が電話を通して霊視をしたり、前世を当てたり、ついでに守護霊に働きかけたり、悪い波動を修正してもらったりする不思議なテレフォンサービスなのですが、これの広告が異様に増えているようです。いや、広告だけではありません。いわゆる記事広告（雑誌記事に似せた広告）の数も半端なく増加しています。<br>
<br>
傾向的に言うと『anan』や『OZ magazine』などのアラサー／アラフォー世代が読む雑誌に掲載されている確率が多く、それより下の世代が読む女性誌やファッション中心の女性誌、ギャル誌などにはあまり載っていません。<br>
<br>
今、ちょっと計算してみたのですが、『anan』2009年４月29日号には計15ページ、『OZ plus』2009年３月号には計13ページにわたってこのような広告・記事広告が掲載されています。<br>
<br>
それまでの女性誌の広告というと、エステ・美容整形・出会いサービスが三種の神器で、電話占いのような広告はおそらく下位におかれていたと思うのですが、折からの不況で多くの広告主が離れている現在、背に腹はかえられないということで、この手の広告が大量投入されていると思われます。<br>
<br>
また、アラサー／アラフォー世代は、昨今の不況による将来への不安、さらに結婚・出産を考えなくてはならないという重要な局面にいたりしますので、そういった意味でも電話占いのターゲットとピタリと重なる、という部分もあるのでしょう。<br>
<br>
さて、こう書いていくと、実際の電話占いの広告がどんなものかが気になりますよね？　じゃあ、ほんの少しだけサンプルを紹介しましょう。本当に怒られるかもしれないので、触りだけですけど。<br>
<br>
<b>■サンプル１</b><br>
<u>霊能力を鑑定＋パワー（パワーは無料です）<br>
相手の心をギュっととらえて連絡を入れさせるパワーを送ります</u><br>
<br>
「連絡を入れさせる」というあたりが秀逸です。ギャル世代ならば積極的に相手にメールを入れたりするでしょうが、アラサー／アラフォー女子は「女は待つもの」という前時代の恋愛スタイルを固持しているので相当ひっかかると思います。<br>
<br>
<b>■サンプル２</b><br>
<u>激愛！愛の再生！！　幸せへの導きがあったとき、涙があふれてとまらない<br>
苦悩から解放される瞬間、あなたは占いの力を実感できます</u><br>
<br>
韓流ドラマを見てるような女子が飛びつきそうですね。<br>
<br>
<b>■サンプル３</b><br>
<u>満月の光を吸引し　そこからの波動により　希望を現実化する</u><br>
<br>
満月にそんなパワーがあったとははじめて知りました。驚きです。<br>
<br>
<b>■サンプル４</b><br>
<u>意中のお相手のキャリアを遠隔透視で明らかに！<br>
その男性の恋人の有無や年収を、たちまち遠隔透視で明らかします</u><br>
<br>
えっ、年収までわかっちゃうの？　もはやＣＩＡ並みの調査能力ですな。<br>
<br>
<b>■サンプル５</b><br>
<u>忘れられない男性の今の状況とその本音を遠隔により透視し、もう一度、その心が貴女のほうへ振り返るように強力な念をお飛ばしします</u><br>
<br>
あのー、これってもはや洗脳に近いのでは……。<br>
<br>
<b>■サンプル６</b><br>
<u>「彼のマインドに直接働きかけるからすごい！」</u><br>
<br>
なんだか、ものすごく怖くなってきました。もしかしたら、オレもこういった念やら波動やらに突き動かされているのでしょうか。オレがキャバクラをやめられないのは、あのキャバ嬢が念を送ってるからなのでしょうか。腰痛が治らないのも、誰かの念のせいなんでしょうか。今、日本の上空には電話占いによる念がたくさん飛び交っているのかもしれません。<br>
<br>
<br>
しかし、疑問です。女性のみなさんは、なぜこのようなサービスにハマッてしまうのでしょうか。これはあくまで個人的な意見ですが、それほど悩んでいるのなら、好きな相手にまっこうからぶつかればいいと思うんですよね。それに、心の支えをスピリチュアルにしか見出せない、というのはちょっとさびしいような気もします。<br>
<br>
昨今のスピリチュアル・ブームを見てると本当に思うんですよ。みんなオウム事件の教訓を忘れちゃったのかなぁ、って。<br>
<br>
<br>
●尾谷幸憲（おたに・ゆきのり）<br>
売文屋。学生時代に全日本ＣＭ協議会・学生ラジオＣＭコンクールで金賞を受賞。その後、ライター、ケータイ小説、放送作家など幅広い分野で活動。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062760568">『ＬＯＶＥ※』</a>（内藤みかと共著／講談社文庫）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4777107477/">『ラブリバ♂』</a>（ゴマブックス）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/406364765X/">『ヤリチン専門学校　ゼロ年代のモテ技術』</a>（講談社アフタヌーン新書）などがある。<br>
現在、『東京スポーツ新聞』にて「ヤリチン専門学校リターンズ」、『週刊実話』にて「突撃！しろーと美女図鑑」を連載中。<br>
ブログ：<a href="http://plaza.rakuten.co.jp/ota23/">尾谷幸憲のblog的なblog</a><br>
ツイッター：<a href="http://twitter.com/otaniyukinori">otaniyukinori</a>
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<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1322281.html">
<title>破壊屋亮一「チーズバーガーとキムチと納豆は美味しそうに見える」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1322281.html</link>
<description>担当者より：人気ブロガーの破壊屋亮一さんが、他国の映画とはどのように見えるものなのかについて論じたものです。ご一読ください。また、破壊屋さんのブログでも映画に関して非常に読み応えのあるエントリーが多くアップされていますので、そちらもぜひご覧いただだければ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-07-12T02:00:01+09:00</dc:date>
<dc:subject>破壊屋亮一</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[担当者より：人気ブロガーの破壊屋亮一さんが、他国の映画とはどのように見えるものなのかについて論じたものです。ご一読ください。また、破壊屋さんの<a href="http://hakaiya.com/">ブログ</a>でも映画に関して非常に読み応えのあるエントリーが多くアップされていますので、そちらもぜひご覧いただだければと。<br>
<br>
<u>更新日：2010/07/12</u><br>
<br>
<br>
私は『破壊屋』という物騒な名前の映画ブログを運営しているのだけど、そんな私のブログで2010年の頭に<a href="http://hakaiya.com/best/zerw/index.html">「ゼロ年代のワースト映画投票」</a>という企画をやってみた。そこでゼロ年代のつまらない映画をみなさんから選んでもらったところ、上位10本のうち９本が日本映画で、上位100本のうち約７割が日本映画という状態になってしまった。ゼロ年代の日本映画はテレビ局主導のお祭り企画的な作品が増えたために、結果として大量の駄作が生み出された時代だった。<br>
<br>
日本中が韓流ブームと純愛ブームに沸いていた2004年の話。当時日本で公開された韓国映画といえば、韓国映画史上で最高傑作と呼ばれる『殺人の追憶』、カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞した『オールド・ボーイ』をはじめとして『シルミド』『オアシス』『悪い男』と傑作・良作がどんどんと公開されていた。<br>
<br>
いっぽう日本映画では『世界の中心で愛を叫ぶ』（セカチュー）や『いま、会いにゆきます』といった純愛映画が大ブームになっていたけれど、私はこの手の作品が大嫌いなので、日本映画の状況にウンザリしていた。でも日本在住の韓国人の友人に「今の韓国映画って凄いよね」と言ったところ「え？　日本映画のほうがずっと面白いよ、セカチューとか」と返されてしまい、たいへん驚いた。その韓国人に言わせると日本の純愛映画は斬新だというのだ。ここ数年、韓国国内でも日本の映画や小説の評価はどんどん高くなってきている。重苦しい韓国の映画や小説と違って、手軽に登場人物に感情移入できる日本の映画や小説は新鮮に見えるらしい。そういえば社会現象となった韓流ブームのドラマたちも、元はといえば日本のトレンディドラマの影響を受けている。<br>
<br>
そんな私も90年代のころは日本映画が大好きで、少ないお小遣いをやりくりして一生けん命日本映画を観に行っていた。でもゼロ年代になって日本映画が駄作だらけになって代わりに韓国映画が面白くなってきた。私は「韓国映画すげえ！」と思い、自分のブログでも韓国映画を紹介した。一方で前述の韓国人の友人は日本のアニメのレベルの高さに感動して、日本語を勉強して日本で仕事を見つけて来日した。そして韓国アニメの金字塔『テコンＶ』が日本の『マジンガーＺ』のパクリだということに気がついて、「日本のアニメにはかなわん！」と思い日本の文化を韓国に紹介するブログを始めた。私と彼は「隣の芝生は青い」状態になっていた。<br>
<br>
ゼロ年代後半のアメリカの話。2008年度のアカデミー外国語映画賞で大本命と言われていたイスラエル映画『戦場でワルツを』は受賞を逃した。逆転勝ちする形でアカデミー賞を受賞したのは『おくりびと』で、日本中がこのニュースに沸いた。私個人は『戦場でワルツを』にアカデミー賞を取って欲しかったけれど、それは『おくりびと』の本木雅弘も同じ思いで、本木雅弘は「正直今でも、アカデミー本命はこの作品だと思っている」と発言している。なぜ『戦場でワルツを』は圧倒的に高い前評判ながら受賞を逃したのか？理由は既に色々と語られている。イスラエル軍がガザ地区に侵攻したため、アカデミー賞の会員たちが『戦場でワルツを』への投票を政治的な判断で避けた。というのが一般的な意見だけど、それとは別の意見もある。会員たちが暗い映画ばかりの風潮を嫌がって『おくりびと』へ投票をしたという説だ。<br>
<br>
ゼロ年代後半のアメリカ映画には、混迷しているアメリカ情勢を反映して暗い映画が多かった。ハッキリと結論が出るラストシーンは減って、逆に答えを明示しない曖昧なラストシーンの映画も多くなった。ゼロ年代後半に製作されたアメリカ映画に『ミスト』『告発のとき』『大いなる陰謀』があるが、この３本に共通するのは「ラストシーンで観客に疑問を持たせる」という点ともう一つ、「軍人になった若者が死ぬ」という描写がある。実際にイラク戦争中のアメリカで若者たちが戦死していったのだから、映画はそんな社会状況を反映しただけだ。だけど移民や貧困層出身の若者たちが社会の犠牲のように死ぬシーンの重苦しさは尋常ではない。そんなアメリカ映画の状況の中で、社会情勢とは無関係に人の死に純粋に向き合う『おくりびと』は、アメリカ人たちには実に新鮮に感じられたのだろう。もちろん『おくりびと』はちゃんと日本の社会情勢を反映している部分もある。主人公は不況でリストラされた人間だし、出てくる死体は孤独死や自殺だったりする。でもアカデミー賞の会員たちがそこに注目していたとは思えない。<br>
<br>
私は安易な感動を好むゼロ年代の日本映画が嫌いで、アメリカ映画や韓国映画が暗い社会情勢をきちんと取りいれているのがすごく羨ましかった。でもあちら側から見ると、社会情勢を取り入れない日本映画が羨ましく見えたりするのだ。ゼロ年代の日本映画にだって素晴らしい作品はいっぱいあったし、駄作と呼ばれている日本映画でも海外では意外な人気が出ている作品もある。日本で不評ながら韓国では高い評価を得ている松本人志の『しんぼる』がその代表格だろう。不条理な世界観から生み出される笑いが、斬新に見えるのだ。<br>
<br>
結局のところ外国映画には何であれ色々と学ぶことがある。「隣の芝生は青い」という言葉があるけど、隣のチーズバーガーとキムチと納豆はそれぞれ美味しそうに見えるものかもしれない。<br>
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<br>
●破壊屋亮一（はかいや・りょういち）<br>
ブロガー。映画のレビューを中心に人気を集めている。<br>
ブログ：<a href="http://hakaiya.com/">破壊屋</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1322281" width="1" height="1" />
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</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1321754.html">
<title>土佐有明「金八先生 VS 夜回り先生」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1321754.html</link>
<description>担当者より：演劇や音楽などの分野を中心に活躍するライター・土佐有明さんが、人気ドラマの金八先生と夜回り先生こと水谷修氏を対比しつつ論じたものです。

配信日：2008/08/27


この夏は暑くて何もやる気が起きないので、ずっと熱心に追いかけてきた『３年Ｂ組金八先生』...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-07-09T17:50:19+09:00</dc:date>
<dc:subject>土佐有明</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>演劇や音楽などの分野を中心に活躍するライター・土佐有明さんが、人気ドラマの金八先生と夜回り先生こと水谷修氏を対比しつつ論じたものです。<br>
<br>
<u>配信日：2008/08/27</u><br>
<br>
<br>
この夏は暑くて何もやる気が起きないので、ずっと熱心に追いかけてきた『３年Ｂ組金八先生』（以後、『金八』と略す）のDVDをまとめて見直しながら、ぼんやりと考え事をしていた。<br>
<br>
放映開始から30年近く経つこのドラマ、どのシリーズにもそれぞれ思い入れがあるが、内容の変遷を語るうえでもっとも重要なのは、当時まだ無名だった上戸彩が主役を張った第６シリーズだろう。上戸演じる鶴本直は肉体的には女性だが精神的には男性という、いわゆる性同一性障害に悩む転校生。障害に対する偏見から心を閉ざしている鶴本は、やがて金八やクラスメイトの理解と協力を得て、性転換手術に踏み切ることを決意する。なお、同シリーズでは他に児童虐待や発達障害などシリアスなテーマが扱われた上、レイプや殺人のシーンもあり、“行き過ぎではないか”とその内容を問題視する声も多数寄せられた。そして続く第７シリーズは、ごく普通の中学生が覚醒剤に溺れ、幻覚や妄想に悩まされる様子を生々しく描写し、更なる物議を醸すことになるのだった。<br>
<br>
ところが、2007年末から放映された、最新の第８シリーズではその反動からか、一転して牧歌的なトーンの学園ドラマへと様変わりする。第７シリーズの11話から、小山内美江子に代わって脚本・演出を担当することになった清水有生は、放映開始前、自身のブログで「ここ数回のシリーズで描かれているような、流血、レイプ、刺殺、陰惨な児童虐待、覚醒剤といった、おっかないエピソードは描かない」と語った。確かに、学校裏サイトやモンスター・ペアレントなど時事ネタも流用されているが、コミカルでのほほんとしたタッチのこのシリーズ、むしろNHKの『中学生日記』などに近い印象だ。<br>
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薬物汚染、リストカット、援助交際、オーバードーズ、性感染症等々、中学生を取り巻く問題は深刻化の一途を辿っているにも関わらず、『金八』はそうしたヘヴィな現実を映し出すことを放棄した。いや、放棄したというよりはむしろ、現実に追い抜かれてしまったと見るべきかもしれない。そんなことを考えるようになったのは、夜回り先生こと水谷修（元夜間高校教諭・現花園大学客員教授）がマスメディアに度々登場し、子供たちの置かれている惨状を語るようになってからだ。以下、もう少し詳しく話そう。<br>
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水谷は、15年以上に渡って深夜の繁華街を歩き、夜の世界に生きる子供たちを薬物や売春から守ってきた。彼が目の当たりにしてきた現実は、第７シリーズの『金八』が霞んでしまうほど壮絶であり、不謹慎な言い方をするなら、ドラマ以上にドラマチックである。子供を守る為に暴力団にわき腹を刺され、親指を潰され、ドラッグで30人以上の生徒を亡くしてきた彼の体験談は、正直、金八先生の説教よりも数倍の説得力と重みがある。<br>
<br>
多い時で１日1000通にも及んだという水谷への相談のメールは、リストカットや自殺を予告し、時に「死にたい」という文字で埋め尽くされていた。そして、水谷はそのメールすべてに返信をし、夜通し電話で相談を受け、年間300箇所で講演を行いながら、中学生／高校生と対話を重ねてきた。１日の平均睡眠時間が１～２時間という生活を長年続けた水谷は、既に余命いくばくもないという。<br>
<br>
水谷が語る子供たちの惨状は、ドラマではなく現実だ。つまり、『金八』が描いてきたフィクションよりも、現実はずっとヘヴィだった。確かに、『金八』が現実をドラマに反映させようとする過程でドラッグを扱うのは必然だったのだろう。しかし、映し出される映像は水谷が語る実話に較べ、圧倒的にリアリティーに欠けている。例えば、覚醒剤を常用する生徒は注射針を（消毒もせずに）使用していたが、今若者の間で問題となっているのは、エクスタシー（MDMA）をはじめとする錠剤型の薬物、あるいは手軽に入手可能な大麻なのである。事実、2001年には北海道の高校で大麻やシンナーを79人が使用していたことが発覚している。<br>
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高度経済成長のひずみが表面化し始めた1978年に始まった『金八』は、教育現場の実情を織り込んできた社会派ドラマとして、多くの時事問題を扱ってきた。校内暴力、受験戦争、教師による体罰、離婚率の増加、家庭内不和、不登校、ひきこもり、発達障害、ゆとり教育の弊害、出会い系サイト、情報教育、学校裏サイト等々……。今でこそ『14歳の母』なんてドラマが当たり前に放映されているが、中学生の妊娠・出産を扱った第１シリーズは78年当時としてはそうとうにラディカルであり、ロケ現場の学校から撮影使用を拒否され、番組には多数の抗議が寄せられた。<br>
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その後も『金八』はより深刻化する現実に追いつくべく、シリアスな社会派路線へと舵を切ってきた。それは社会的意義のあったことだろうが、もはやドラマ（＝フィクション）は酷薄な現実に追いつかれ、そして追い抜かれてしまった。そう考えると、最新シリーズでコメディ・タッチの路線へシフトしたのは必然だったと思えてくる。<br>
<br>
そういえば、覚醒剤について扱った第７シリーズでは、水谷修の著作が参考文献として引用され、彼の功績がドラマの中で金八の口から語られていた。水谷は子供たちを薬物汚染から救うため、あらゆる違法薬物の化学式から効用に至るまでを徹底的に研究し、現在は日本でもその筋の権威にまでなっている。「ドラッグを憎め！」と感情的に連呼することで生徒を薬物から守ろうとする金八と、長年の実体験と研究を元に淡々とした口調で事実を伝える水谷修。どちらの語りに中学生が心を動かされるかは、明白だろう。<br>
<br>
坂本金八はドラマ上の年齢からすると、まもなく定年退職を迎える。『金八』は続いても、あと１シリーズか２シリーズではないか。第１～第２シリーズでは25％前後だった平均視聴率は、最新シリーズで遂に９％台まで落ち込んだ。『金八』が再び時代と、現実と、リンクする日はもうやってこないのだろうか？<br>
<br>
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●土佐有明（とさ・ありあけ）<br>
ライター。<br>
音楽誌、カルチャー誌に寄稿する他、CDのライナーも多数手がける。音楽を中心に、最近は劇評、書評、映画評なども執筆。音楽と文学と演劇と漫画の交錯点に興味を抱いている。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/ariaketosa/">土佐有明のPlaylist</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1321754" width="1" height="1" />
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1320952.html">
<title>速水健朗「1984年、アメリカ、帝国――追悼マイケル・ジャクソン」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1320952.html</link>
<description>担当者より：『自分探しが止まらない』（ソフトバンク新書）や『タイアップの歌謡史』（新書ｙ）の著者・速水健朗さんが、マイケル・ジャクソン逝去の直後に執筆した原稿に、若干の加筆をしたものです。ご一読ください。

配信日：2009/07/01


ベストセラー街道ばく進中の村...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-07-07T15:30:33+09:00</dc:date>
<dc:subject>速水健朗</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797344997/">『自分探しが止まらない』</a>（ソフトバンク新書）や<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862481043">『タイアップの歌謡史』</a>（新書ｙ）の著者・速水健朗さんが、マイケル・ジャクソン逝去の直後に執筆した原稿に、若干の加筆をしたものです。ご一読ください。<br>
<br>
<u>配信日：2009/07/01</u><br>
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ベストセラー街道ばく進中の村上春樹の新作<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4103534222/">『1Q84』</a>には、マイケル・ジャクソンの「Billie Jean」がカーステレオから聞こえてくる場面がある。この小説の舞台である1984年は、マイケルの年だった。<br>
<br>
この曲が収録されたアルバム『スリラー』は、この年、日本で最も売れたレコードとなった。アメリカでは総計2700万枚のヒットを記録し、1983、1984両年のもっとも売れたアルバムとなる。そして、全世界での売り上げは約１億500万枚。『スリラー』がこれほどまでに世界を席巻した1984年とは、アメリカ、そして世界にとってどのような年だったのか。それを考察しながら、マイケルという希代のパフォーマーの人生、そしてなぜ彼が比類なきスーパースターになり得たのかについて振り返ってみたい。<br>
<br>
『スリラー』が世界で１億枚のヒットになった背景には、それを待ち受けていた時代状況や下部構造があったと言える。黒人音楽ジャーナリストのネルソン・ジョージは、マイケルが登場しスターの座をつかんだ70年代を、「クロスオーヴァー」の時代と名付けている。<br>
<br>
米大手レコード会社が白人向けラジオなどを通して、黒人音楽を「クロスオーヴァー」に売り込み始めた時期という意味である。「クロスオーヴァー」は通常、ジャズとロックの垣根を越える音楽のことを指すが、ネルソン・ジョージは、黒人音楽が白人の市場に取り込まれたこの時代の状況をなぞらえてそう呼んでいる。<br>
<br>
「クロスオーヴァー」の傾向がさらに顕著になったのが、1980年代前後のこと。黒人が創業者であるモータウン・レコードで有名になったダイアナ・ロスとマーヴィン・ゲイが、1982年にそれぞれRCA、CBSと白人系の大手レコード会社に移籍。米のメジャーレコード会社は、黒人音楽が、白人市場を巻き込む大きなビジネスになることに気がつき始め、一流どころの引き抜きを始めたのだ。マイケルもこの時期にメジャーに移籍した一人だった。<br>
<br>
ジャクソン5、ジャクソンズと経て、ソロになった1979年のアルバム『Off The Wall』には、黒人のレコードの規模ではなく、ジャーニーやビリー・ジョエル並の広告予算がつけられ、900万枚という黒人音楽史上最大のヒットとなった。これを抜いたのが『スリラー』であり、この後にも先にも単独アーティストとしてこれだけの枚数のアルバムを売った例はない。<br>
<br>
ネルソン・ジョージは、マイケルの登場がなければ彼の替わりに、ライオネル・リッチーが黒人のスーパースターになっていただろうと指摘する。人気グループ・コモドアーズを抜けたリッチーは、カントリー歌手だったケニー・ロジャースをアメリカで最も人気のある歌手に仕立て上げた敏腕白人マネージャーを雇った。そして、R&B歌手の自分をアメリカで最も有名な歌手に仕立てるべく、白人市場を向いた「クロスオーヴァー」戦略を採用する。<br>
<br>
そんなリッチーがマイケルのような存在になれなかったのは、1981年に始まったMTVのせいだろう。MTV以降、ポップスの歌手はただの歌い手ではなく、総合的なパフォーマーであることを求められるようになった。精悍なマスクを持ち、手足が長く、驚異的なダンスの技術を持ったマイケルは、MTV時代に相応しいスターで、その点においてライオネル・リッチーをはるかに凌駕していたのだ。<br>
<br>
MTVの登場で、音楽産業はメディアをクロスオーヴァーする総合エンターテインメント産業に変わった。そんな80年代、音楽の市場規模は急速に拡大していく。ロックの時代には存在した言葉の壁をMTVの映像が取っ払ったのだ。日本においても、この時代ほど洋楽が売れた時代はなかった。<br>
<br>
さて、この時代に世界に進出したアメリカは、マイケルだけではなかった。ここからは音楽以外の1984年にも視野を広げてみたい。<br>
<br>
1984年に開催されたロサンゼルス・オリンピックは、オリンピックの商業化の始まりの大会として知られている。大会委員長務めたP.ユベロスは、各業種一社というルールで公式スポンサーを募り、大会運営を黒字化することに成功した。<br>
<br>
五輪公式スポンサー第一号はコカ・コーラだった。その狙いは、まだコカ・コーラが浸透していないアフリカをはじめ、第三世界にライバルより早くコーラを売り込むこと。そのためコカ・コーラは、1982年のＷ杯スペイン大会、1984年のロス五輪と、世界的に注目されるスポーツ大会の公式スポンサーとなる。<br>
<br>
また、当時は「コーラ戦争」の時代でもあった。ロス五輪の公式スポンサーを巡る争い（コカ・コーラが提示した入札額は1260万ドルだった）に敗れたペプシは、その代わりにマイケル・ジャクソンとCMの契約を交わした。世界から注目を集める存在として、オリンピックと並ぶ存在がマイケルだったのだ。1984年にCMバージョンの『Billie Jean』を使ったマイケルのペプシCMが流れた。日本ではこのようなタイアップは当たり前だが、アメリカにおいては彼ほどのトップスターがCMで自分の曲の歌詞を商品名に変えて歌うということはかなりのレアケースであった。この年、ペプシはシェアを1.5％伸ばし、コカ・コーラは１％下げている。<br>
<br>
ペプシは、マイケルの1988年の「BAD WORLD TOUR」のサポートも行った。これは、コカ・コーラが五輪スポンサーとして世界市場に進出したのと同じ意味を持った。日本においてのコーラ市場のシェアは、ペプシよりもコカ・コーラが圧倒的である。だが、この当時のマイケルを使ったペプシのキャンペーンにより、相当ペプシの名は知れ渡った。<br>
<br>
さて、アメリカのソフトパワーを代表する企業にディズニーがあるが、彼らにとっても、1984年転機の年だった。ディズニーアニメのヒットは途絶え、ロサンゼルスにあるディズニーランドの客足も減少の一途。そんな凋落時代のディズニーを救ったのは、映画大手のパラマウントから来たマイケル・アイズナーだった。<br>
<br>
1984年にディズニーの経営を任されたアイズナーは、ケーブルテレビ局の買収やビデオソフトの販売を通して、過去のディズニーの遺産を商品として復活させ、実写映画への積極的な参与といった多メディア展開を始める。そして『美女と野獣』や『アラジン』といった新しい時代のディズニー映画を生む下地を制作部門内に作った。また、1983年は東京ディズニーランドが誕生した年でもある。米国以外に進出したディズニーランドの第一号という、海外に築かれたディズニー帝国による最初の砦である。<br>
<br>
ちなみにアイズナーは、ABC時代にジャクソン・ファイブをモデルにしたアニメ番組の制作に携わっていたことがあり、その縁からマイケルはディズニーランドのアトラクション「キャプテンEO」で仕事をすることになった。<br>
<br>
マクドナルドやコカ・コーラ、そしてディズニーといった企業は、国家や領土の枠を超えて経済活動を行うグローバリゼーションを代表する企業である。彼らは19世紀の帝国主義時代の覇権になぞらえて“帝国”という名を持って呼ばれることがある。コカ・コーラ帝国にディズニー帝国といった具合だ。そして、マイケルもまた帝国付きで呼ぶべき存在になったと言えるだろう。<br>
<br>
こうした、アメリカの文化や企業が世界を浸食しはじめた1980～90年代の流れと、マイケルの活動内容・期間は見事に重なっている。そして、その出発点は、マイケルがスーパースターになった1984年に見出すことができるのだ。<br>
<br>
世界の市場に受け入れられる「スーパースター」というユニバーサル商品になったマイケルは、黒人と白人をクロスオーヴァーする存在から、アメリカと世界をクロスオーヴァーする存在にならざるを得なかったのだろう。黒人でも白人でもないユニバーサルな人種、そして男でも女でもないとしてマイケルは存在しなくてはならなくなった。<br>
<br>
マイケルの最後の10年は、転落の10年だったといっていいだろう。小児性愛を巡る数々のスキャンダル、そしてみるみるうちに変化した肌の色と顔の形。そうしたすべてが、メディアの上でさらされる「スーパースター」という商品として世界中が消費したのだ。正直、これほどおもしろいエンターテインメントはなかったし、悲しい帝国もなかった。<br>
<br>
<br>
●速水健朗（はやみず・けんろう）<br>
評論家。ブロガーとしても著名。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862481043/">『タイアップの歌謡史』</a>（新書ｙ）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797344997/">『自分探しが止まらない』</a>（ソフトバンク新書）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4562041633/">『ケータイ小説的。』</a>（原書房）がある。<br>
ブログ：<a href="http://www.hayamiz.jp/">犬にかぶらせろ！</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1320952" width="1" height="1" />
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1319014.html">
<title>南陀楼綾繁「読みたい雑誌はどこにある？」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1319014.html</link>
<description>担当者より：編集者・ライターの南陀楼綾繁さんが2008年末に雑誌の置かれた現況について論じた原稿です。また、ブックイベントを通しての本との関わり方について記された南陀楼さんの『一箱古本市の歩きかた』（光文社新書）も併せてどうぞ。

配信日：2008/12/17


去る11月...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-07-04T00:35:20+09:00</dc:date>
<dc:subject>南陀楼綾繁</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[担当者より：編集者・ライターの南陀楼綾繁さんが2008年末に雑誌の置かれた現況について論じた原稿です。また、ブックイベントを通しての本との関わり方について記された南陀楼さんの<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4334035361/">『一箱古本市の歩きかた』</a>（光文社新書）も併せてどうぞ。<br>
<br>
<u>配信日：2008/12/17</u><br>
<br>
<br>
去る11月１日から16日まで、〈文化芸術情報館　アートリエ〉で、「フリーペーパー＝小さなメディアの放つ光」という展覧会が行なわれた。北は北海道から南は沖縄までの約60タイトルが、一誌ごとにストックファイルに入れられて展示され、最新号は自由に持ち帰ることができる。<br>
<br>
ぼくはアートリエから依頼を受け、ここに展示するフリーペーパー（以下フリペ）を選んだ。アートリエの母体が「福岡市文化芸術振興財団」であるため、先方は「アート系」フリペを中心に、と云ってきたのだが、美術館や劇場が出しているフリペには魅力的なものはホトンドない。だから、その括りは無視することにした。また、ビジネスとして成立しているフリペ（アルバイトや住宅情報誌、あるいは『R25』のような情報誌）は取り上げないことにした。<br>
　<br>
そして収集を開始したのだが、1999年の共著『ミニコミ魂』（晶文社）で紹介したフリペは、ほぼすべて発行を停止しており、イチから探すしかなかった。ひとりでは見つけられないので、フリペをよく置いている古書店やブックカフェ（新刊書店に置かれることは少ない）の店主に情報を求めた。<br>
　<br>
その結果、内容もカタチも突出したフリペが集まった。たとえば、銭湯でのイベントに合わせて発行される『乙女　湯のたしなみ』（東京）、日常の出来事をパンクな精神で綴る『ＨＯＷＥ』（奈良）、地方都市のカッコよさをビジュアルに表現する英文併記の『Krash Japan』（倉敷）、豆腐屋さんにアポなし取材してつくる『東京トーフ屋散歩手帳』（東京）……。毎号の特集に合わせて折り方やデザインが変わる『ぱんとたまねぎ』（京都）もあれば、80代のお爺さんが手書き出している『松風新聞』（神戸）もある<br>
<br>
期間中、ぼくと『SCHOP』（名古屋）の上原敏さんのトークがあったが、そこにも多くのフリペ発行者やこれからフリペをつくりたいという人たちが来ていた。彼らに「なぜフリペをつくるのか（つくりたいのか）」と尋ねると、「いま、自分が読みたい雑誌がないから」という答えが多く返ってきた。<br>
<br>
だからといって、彼ら・彼女らのつくるフリペが既存の雑誌からの影響を受けていない、というつもりはない。むしろ、最近流行っている余白たっぷりのレイアウトに書き文字、というデザインを無意識に踏襲しているフリペは多い。DTPソフトの普及で、かえってドコかで見たようなフリペが増えているような気もする。<br>
<br>
しかし、多くのフリペの誌面からは、「いま自分が読みたいものを自分でつくる」という強い意志が感じられる。広告やスポンサーによってペイしているフリペは非常に少ないから、ほとんどの発行者は本業で稼いだ金を投入してつくっている。それだけに姿勢が明確である。また、フリペは置く場所も自分のセンスで選ぶから、より自分に近い読者に届く可能性が高い。<br>
<br>
そこで思い出すのが、初期の『ポパイ』について、同誌のロゴを書いた堀内誠一がもらした次のような感想だ。<br>
<br>
「〈ポパイ〉は、エロティシズムではなく、純正という意味で、ホモっぽい雰囲気があります。日本ではホモというと、すぐにホモセクシュアルなものを連想しそうですが、少年っぽさを残したスタッフが集ってつくっているといったものを感じさせる“ホモ”で、それ以上でもそれ以下でもありません…。〈ポパイ〉は共通の思考回路をもつ編集者と読者の友情雑誌のようだ…。」（椎根和<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4103066717/">『POPEYE物語　1976～1981』</a>新潮社、2008年）<br>
<br>
この「友情雑誌」を堀内は肯定的に使ってはいない（実際、この手紙を受け取った編集長の木滑良久は「するどく反応し、雑誌の方向性を、ほんの少し変え」たという）。しかし、明治以来、多くの読者を獲得した雑誌では、多かれ少なかれ、編集者と読者との「友情」が成立していた（あるいは、成立しているかのように演出されていた）はずだ。その「共同体」はいつの間にか、崩れてしまった。<br>
<br>
その雑誌でしか読めないような書き手や記事がなくなり、「特集」を見てその号を買うかどうか決める読者と、広告主に向けて誌面をつくる編集者の間には、いかなる「共同体」幻想も成立しない。今年の後半、やたらと雑誌が休刊し、出版不況によるものだと新聞で取り上げられたが、休刊を嘆く人たち（記事を書いた記者自身も含めて）のいったい何割が、その雑誌を「毎号」買って読んでいたのだろうか？<br>
<br>
万単位で発行される商業雑誌と、片々たるフリペを同列に論じることが無茶な話だとは判っている。しかし、部数や発行形態にかかわらず、自分の中にいる「読者」をつかんでない編集者がつくる雑誌なんて、買いたくないし、読みたくない。出版業界の「埒外」でフリペを出しつづける人たちと会って、そう、強く思った。<br>
<br>
<br>
●南陀楼綾繁（なんだろう・あやしげ）<br>
編集者・ライター。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4895443671/">『ナンダロウアヤシゲな日々 本の海で溺れて』</a> （無明舎出版）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4842100753/">『路上派遊書日記』</a>（右文書院）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4334035361/">『一箱古本市の歩きかた』</a>（光文社新書）などがある。<br>
執筆・編集活動以外にも、古本や雑誌に関するイベントを積極的に行っている。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/">ナンダロウアヤシゲな日々</a>
<img src="http://counter2.blog.livedoor.com/c?ro=1&act=rss&output=no&id=3316027&name=bisista_news&pid=1319014" width="1" height="1" />
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<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1318157.html">
<title>李明喜「リアルアマゾン計画 試案」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1318157.html</link>
<description>担当者より：空間デザイナー・ディレクターの李明喜さんが、2010年１月にリアルアマゾンの可能性について書いたものです。ぜひご一読ください。また、李さん、東浩紀さん、浅子佳英さん、村上裕一さんにインタビューしたものを先日アップいたしました。テーマは『思想地図bis...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-07-02T13:00:53+09:00</dc:date>
<dc:subject>李明喜</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[担当者より：空間デザイナー・ディレクターの李明喜さんが、2010年１月にリアルアマゾンの可能性について書いたものです。ぜひご一読ください。また、<a href="http://www.sbbit.jp/article/cont1/21907">李さん、東浩紀さん、浅子佳英さん、村上裕一さんにインタビュー</a>したものを先日アップいたしました。テーマは『思想地図bis』を作る合同会社コンテクチュアズについてで、聞き手は<a href="http://bisista.blogto.jp/archives/cat_40231.html">中川大地さん</a>です。<br>
<br>
<u>配信日：2010/01/20</u><br>
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2009年11月、雑誌『日経アーキテクチュア』2009年12月21日号の「商空間・インテリアデザインという企画で、「いまここにある場所――ショッピングモール」と題して、批評家・小説家の東浩紀氏、建築家の藤村龍至氏、編集者・ライターの速水健朗氏、インテリアーデザイナーの浅子佳英氏、批評家の濱野智史氏と筆者の計６名による、ショッピングモールの現地視察を行なった。<br>
<br>
その時のリポートは、誌面および、誌面には未収録の部分を公開している日経BP社のサイト「ケンプラッツ（KEN-Platz）」にて読むことができる。アーキテクチャによる規制力と可能性の可視化。それらが顕現することで立ち上がる新たな公共性に迫る大変スリリングな内容になっているので、そちらをぜひご一読いただきたい。<br>
<br>
この企画の一つとして、筆者は「『リアルアマゾン印西』世界１号店まもなく開店！？」という1000字程の短いレビューを寄稿している。視察したショッピングモールの一つである「BIG HOP（ビッグホップ）ガーデンモール印西」に「世界初のAmazonのリアル店舗『リアルアマゾン印西』がオープンする」、という空想ニュースを書いたもので、上記誌面に掲載されている。<br>
<br>
そして、この原稿を書いた直後に「世界最大のオンラインショップ『Amazon』がイギリスにリアル店舗をオープンする予定が……」という報道（Amazonはこの件についてはコメントを拒否）がなされた。元々、妄想レベルではリアルアマゾンのシミュレーションは何度も繰り返しているのだが、このような流れに加えて、『リアルアマゾン印西』という空想ニュースにささやかながらも（笑）反響があったことが後押しとなり、今度は空想ニュースではなく実現に向けての「リアルアマゾン計画 試案」として書いてみる。空想から科学としてのデザインへ――。この試案では３つの可能性を考えてみる。<br>
<br>
<br>
<b>（１）「リアル・ロングテール」型</b><br>
これは、『リアルアマゾン印西』の空想ニュースで書いた、リアル店舗の本棚の形状がロングテールになっているというものだ。オンラインで蓄積されたノウハウー圧倒的な集積をベースに、レコメンデーションやランキングなどのフィルタによって需要をテールへ導き、ヘッドからテールまでを飲み込む――をリアル店舗という物理的環境まで拡げて再構築する。<br>
<br>
『リアルアマゾン印西』のケースは既存の施設との連続性を考え、商品タイトルを売上冊数の多い順に並べるというロングテールのグラフを、そのまま二次元として立面に立ち上げたが、もう一つ発行後経年数という時間軸を加えて平面に広がる本棚を作ることも考えられる。<br>
<br>
その場合、ユーザーはタイトルの間を本棚の形状と上部のインフォメーションによって直感的に検索＝移動していく。ロングテール状の本棚は、需給バランスにおいては合理的な在庫管理システムにもなっているのだが、どのタイミングで切り取りどういうスパンで更新するのかは課題となる。<br>
<br>
さらに、このプランの最大の問題は広大な面積が必要であるということだが、昨今のショッピングモールのテナント歯抜け現象などを考えると、新築でも増改築でも、ショッピングモールのワンフロアをまるごと使ってやってみる価値は充分にあると思われる。<br>
<br>
<b>（２）「物流センター」型</b><br>
現在、Amazon.co.jpは「アマゾン市川ＦＣ／延べ床面積18,800坪（62,300m2）」、「アマゾン八千代ＦＣ／延べ床面積10,347坪（34,145m2）」、「アマゾン堺FC／延べ床面積20,550坪（67,923 m2）」という３つの物流センターを擁している。「物流センター」型とはこれらの物流センターのアーキテクチャをベースに、コンシューマ用に適応させようというもの。<br>
<br>
フラットに並べられた本棚には、あらゆるジャンル・作者の書籍がランダムに並べられている。実際のアマゾンの物流センターでは、書籍の並べ方に「大きさを揃える」「同じシリーズは見える範囲のところに置かない」という２つのルールがあるのだが、コンシューマ向けの店舗ではそれらのルールも適用されない。本棚にはアルファベットと数字の組み合わせがふられていて、そのコードと書籍タイトルが陳列時にAmazonスタッフが使う独自システム「スキャナー」によって登録され、POSと連動することで、どこにどの書籍があるのかが常に分かるようになっている。<br>
<br>
この２つ目の「物流センター」型では、ユーザーは「スキャナー」システムをコンシューマ向けにアレンジしたものを使う。「物流センター」型のリアルアマゾンが実現すると仮定した場合、そのオープンと同時に発売開始になるであろう「Kindle.jp」には、電子書籍を購入して読むという基本機能の他に、このシステムがあらかじめインストールされている。<br>
<br>
リアルアマゾンでは「Kindle.jp」がガイドになり、カテゴリーなき本の世界を探索するのだ。ユーザーは「Kindle.jp」を使ってタグをつけることができ、これを手がかりに本を探す。「Kindle.jp」を未購入のユーザーはモバイル機器のアプリケーションによって部分的に「スキャナー」機能を利用することができる。本棚という物理的なものにおいては一切分類は適用せず、情報空間において（たとえばニコニコ動画のような）流転するタグという分類、濱野智史氏の言うフラクソノミーを適用する。<br>
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ユーザーが車で来て、大人買いをすることが見込まれるこの建築はコア部が立体駐車場になっていて、全フロアへダイレクトなアクセスが用意されている。そしてメインのファサードは巨大なデジタルサイネージになっており、これが流転するタグに基づく生成マップとして、Amazon.co.jpにおけるトップページ的な機能を果たす。<br>
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この巨大なサイネージは「Kindle.jp」と連動して、アクセスの複数の可能性を提示する。現実の物流センターでも行ってみたいと思わせるくらいなので、「物流センター」型の店舗も充分余裕のあるスペースを確保できれば、圧倒的な集客力を持つだろう。<br>
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<b>（３）「クラウド」型</b><br>
2009年末、アメリカでAmazon.comの電子書籍端末「Kindle」向けの電子書籍の販売数が、初めて紙の書籍の販売数を上回る、というニュースが流れた。にわかに信じ難かったのだが、クリスマス当日25日の販売数であるという。<br>
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このニュースを聞いて近いうちにAugmented Amazon（拡張アマゾン）が出現することを確信した。このAugmented Amazonが３つ目の「クラウド」型である。オンライン書店としてスタートしたAmazon.comだが、2006年から自社のデータセンターで運用するサーバやストレージなどのITインフラを、インターネットで提供するサービスを開始し、現在では「ITベンダーとしてのアマゾン」はクラウドコンピューティングを牽引する存在になっている。主なサービスに、ストレージを貸し出すAmazon S3と、サーバを貸し出すAmazon EC2があり、TwitterもストレージにAmazon S3を使用している。<br>
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このストレージサービスは現状では企業向けのものなのだが、「クラウド」型のAugmented Amazonはストレージを企業向けだけではなくコンシューマ向けのサービスとしても提供することが考えられる。「クラウド」型は紙の書籍を捨てて、全てが電子書籍になるのだ。<br>
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「物流センター」型で登場した「Kindle.jp」がより軽く読みやすいディスプレイ＆ネットワーク機能に特化された進化型モバイルデバイスとなる。このデバイスを使ってAmazon.co.jpから購入された電子書籍は、「ITベンダーとしてのアマゾン」のストレージに設置されたマイ本棚にアーカイブされる。このほぼ無限のライブラリーによって、我々はついに紙の（様々な意味での）重さから開放されるだろう。<br>
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さらに、マイ本棚は公開／非公開を選択できるのだが、公開した場合、フラクソノミーによる「生態系」ライブラリーネットワークに参加することができる。気になる人のマイ本棚を覗くことができ、そこで気になる書籍を見つけて、なか身検索で内容を確認し、即購入することもできる。Google booksとではなく、オンライン書店事業とITベンダー事業の相互的展開を着々と進めていたAmazonが「どこでも図書館」を実装することをこの「クラウド型」の試案では考えている。<br>
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「クラウド」型のAugmented Amazonの出現である。これは今すぐに現れてもおかしくはない。いや、抗うことのできない流れなのではないか。だからこそ妄想には留まらない、手法としてのデザインが必要なのだ。<br>
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ここに書いた３つの「リアルアマゾン」案はラフな試案である。しかし、ラフではあるが、デザインを指向した試案である。この場合のデザインは、アーキテクチャとコンテンツが不可分であるということを前提とする。これを基点に、例えばpingpongのデザイン手法を使って、実際のプロジェクトとしてぜひ取り組んでみたい（pingpongとは筆者がディレクターを務める、創造と研究が重なるところでのデザイン開発プロジェクト。行為の集合性の可視化などによって環境の拡張を目指す）。<br>
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この試案が、Amazon.com、またはAmazon.co.jpのみなさんへ、そしてこれからの本を考える全てのみなさんへ届くことを願っている。<br>
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■参考文献<br>
クリス・アンダーソン<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4153200042/">『ロングテール（アップデート版） 「売れない商品」を宝の山に変える新戦略』</a>（ハヤカワ新書juice）<br>
日経BP社出版局編<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4822283887/">『クラウド大全 サービス詳細から基盤技術まで』</a>（日経BP社）<br>
『日経アーキテクチュア』2009年12月21日号（日経BP社）<br>
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■参考URL<br>
<a href="http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/column/20100107/538330/">「ショッピングモールから「設計」を考える」</a>（ケンプラッツ）<br>
<a href="http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20090023-5,00.htm">「フォトレポート：アマゾンの新物流センター、最速24時間発送を支える工夫」</a>（CNET Japan）<br>
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●李明喜（り・みょんひ）<br>
デザインチームmatt主宰。<br>
1966年生まれ。空間デザイナー、ディレクター。<br>
「コミュニケーションの可能性／現実の拡張」をテーマに空間デザインに取り組む。インテリア、建築、情報デザインからコンテンツディレクションまで体験としての空間を創造する。<br>
主なプロジェクトに「Sign 外苑前、代官山、霞ヶ関」「BIT THINGS」「d-labo （スルガ銀行ミッドタウン支店）」など。2009年より東京大学知の構造化センターによるデザインの構造化プロジェクト「pingpong」のディレクターを務める。<br>
サイト：<a href="http://www.mattoct.jp/">matt</a><br>
プロジェクト：<a href="http://www.pingpong.ne.jp/">pingpong</a>
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<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1318028.html">
<title>松永英明「新旧ブログの女王の対比から見えてくるもの」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1318028.html</link>
<description>担当者より：2007年に文士の松永英明さんが、注目を集めていた中川翔子と眞鍋かをりのブログを対比して論じたものです。ご一読ください。

配信日：2007/09/26


初代ブログの女王といえば眞鍋かをり。新ブログの女王といえば中川翔子（しょこたん）である。最近は第３のブロ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-06-30T13:28:25+09:00</dc:date>
<dc:subject>松永英明</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>2007年に文士の松永英明さんが、注目を集めていた中川翔子と眞鍋かをりのブログを対比して論じたものです。ご一読ください。<br>
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<u>配信日：2007/09/26</u><br>
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初代ブログの女王といえば眞鍋かをり。新ブログの女王といえば中川翔子（しょこたん）である。最近は第３のブログの女王として若槻千夏の名前が挙がることもあるが、今回は眞鍋としょこたんのブログを比較すると、何が見えてくるか考えてみたい。<br>
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同じブログといっても、二人のブログはまるでスタイルが違う。<br>
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「眞鍋かをりのココだけの話」は、基本的に文章が主体だ。そして、改行の仕方を工夫してみたり、文字サイズや色を変えてみたり。一話ごとにストーリーがあり、オチがついている。これは、数年前に流行った「テキストサイト」のスタイルをそのまま受け継ぐものと言えるだろう。<br>
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一方、「しょこたん☆ぶろぐ」はケータイで撮った写真に文章が付いているというスタイルである。写真と文章は全然関係ないことも多いが、スタッフからのお知らせ以外、本人が更新した内容には必ず写真がついている。言い換えれば、「しょこたん☆ぶろぐ」は、ケータイブログなのである。しょこたん自身はＰＣも使いこなしているが、PCの画面をケータイで撮ってアップすることもしばしばである。ＰＣから更新しているようには思えない。<br>
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「しょこたん☆ぶろぐ」はヤプログというブログサービスを利用している。これはケータイで投稿し、ケータイで閲覧するのに非常に適したサービスなのである。もちろん、ＰＣからも閲覧できるが、ケータイユーザーに優しいサービスだ。<br>
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ひるがえって、「眞鍋かをりのココだけの話」はココログで運営されている。ココログは基本的にＰＣから投稿し、ＰＣのブラウザで閲覧することが前提として機能している。ココログはケータイからは閲覧しづらい。<br>
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このことから、眞鍋はＰＣブログ、しょこたんはケータイブログと言っていいだろう。それは、内容的にも、スタイル的にも当てはまることなのである。<br>
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このメルマガの読者の皆さんは、この文章をＰＣ上で読まれているはずである。したがって、ウェブサイトを閲覧するならケータイよりＰＣの方が多いという方が中心だろうと思われる。<br>
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ところが、特に10代～20代を中心とした年代では、ケータイがメインでＰＣはほとんど、あるいはまったく使わないという人たちが多い。この人たちを「ケータイ族」と呼ぶとするならば、ケータイ族と「ＰＣ族」では、情報の扱い方が極めて異なっているのである。<br>
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現在、ブログを開設する人たちはどんどん増えていると報じられている。だが、その中でもケータイ族によるブログの比率が高まっているように思われる。<br>
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ケータイ族にとって、ブログの更新とは、写メールの延長上にほかならない。実際、ヤプログなどのケータイ対応ブログでは、写真付きブログを更新するためには、メールにブログの本文を書き、そこに写真を添付して送信する。手続き的には、友達に写メールを送るのとまったく同じなのである。<br>
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そうなると、ＰＣから投稿され、ＰＣで閲覧されることを前提としたブログと、ケータイブログは、おのずから性質が違ってくることも理解されよう。ケータイブログは、非常にパーソナルな性格を持っている。何しろ、友達にメールを送ることの延長上にあるのである。わかる人にだけわかってもらえればいいというノリになる。文章もメール程度の短いものである。<br>
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「しょこたん☆ぶろぐ」はその意味でも、まさにケータイブログの典型といえる。初めて読む人には意味のわからない「しょこたん語」が駆使され、飼い猫の名前や「スカシカシパン」などが説明もなく飛び出してくる。しょこたんワールドに馴染んだ人でなければ、まったく入り込む余地はない（逆に、一度ハマると抜け出せなくなるのだが）。<br>
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一方で、ＰＣブログの典型「眞鍋かをりのココだけの話」は、基本的に小話やエピソードで書かれている。初めての人にもわかるように、パブリックな立場で書かれているわけだ。それだけに、一回の記事はそれなりの分量になる。<br>
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更新頻度も対照的である。眞鍋ブログは数日に一回の更新だ。それなりの内容を盛り込もうと思えば、更新頻度を上げることは難しい。一方、しょこたんは一日に平均10～20回も更新している。写真を撮ったら撮っただけ更新し、その時々に思いついたことを書き添えている。ここにもＰＣとケータイの違いが現われているように思われる。<br>
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このように、ケータイをメインに使っているケータイ族と、ＰＣをメインに使っているPC族というふうに対比させてみると、行動パターン・思考パターンに大きな違いが見られ、非常に興味深い。ＰＣユーザーからは想像もつかないようなケータイワールドが展開されていることもある。それはいわば、まったく相容れない、異なる文化圏として存在しているのだ。この文化圏の違いが、まさに眞鍋かをりとしょこたんのブログの違いに顕著に表われているのである。<br>
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●松永英明（まつなが・ひであき）<br>
文士。事物起源研究家。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4534037635/">『ウェブログ超入門！』</a>（日本実業出版社）、共著に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/484432571X/">『できる100ワザブログ』</a>（インプレスジャパン）など、訳書にジェームズ・アレン<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4777102440/">『幸福に通じるひそやかな道』</a>（ゴマブックス）など多数。<br>
ブログ：<a href="http://www.kotono8.com/">絵文録ことのは</a>
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