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<title>ビジスタニュース - 中川大地</title>
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<title>中川大地「“お台場ガンダム”が体現した日本的公共性のかたち」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1464014.html</link>
<description>担当者より：文筆家／編集者の中川大地さんが、2009年に東京お台場に等身大のガンダムが立ったことについて論じたものです。ぜひ、ご一読ください。

配信日：2009/12/02


ゼロ年代最後の年も、いよいよあと１カ月ほどとなった。各媒体で今年の、あるいは21世紀のファ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2011-05-04T11:30:22+09:00</dc:date>
<dc:subject>中川大地</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>文筆家／編集者の中川大地さんが、2009年に東京お台場に等身大のガンダムが立ったことについて論じたものです。ぜひ、ご一読ください。<br>
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<u>配信日：2009/12/02</u><br>
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ゼロ年代最後の年も、いよいよあと１カ月ほどとなった。各媒体で今年の、あるいは21世紀のファーストディケイドだったこの10年間の総括企画が賑々しくなっていくことと思うが、そうした機運に事寄せながら、筆者としてはひとつ、提出しそこねていた夏休みの宿題に取り組んでみたい。それは、間違いなく2009年を代表するだろう、日本サブカルチャー界最大級の話題。東京お台場の大地に、全高18メートルの１/１（等身大）ガンダムが立ったことの意義を、どう捉えるか、だ。<br>
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バックグラウンドを振り返っておこう。お台場のガンダム立像は、『機動戦士ガンダム』30周年記念事業としての性格に加え、東京都所管の公園協会などが実行委員会を構成して開催した都市緑化・環境保全のイベント「GREEN TOKYO ガンダムプロジェクト」のシンボルという役割を帯びて、今年の７月11日から８月31日にかけて公開されていたものだ。<br>
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この主旨の二重性からして、そもそも奇妙である。要するにはサンライズやバンダイナムコといった私企業による版権キャラクターの商業展開上の要請から、東京都の公有地を利用するというタスクが発生したため、どちらかというと後づけに近いかたちで緑化や環境といった「公的」なコンセプトに合流していったことは想像に難くない。<br>
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しかし、多くのプレイヤーや環境条件が関与しての後づけの生成によって「もっともらしさ」が進化してきたという点は、いかにも『ガンダム』らしい成り行きだ。なぜなら、モビルスーツの開発系譜やニュータイプ論など、作り手と受け手が相互作用しながら、その世界観やデザイン、テーマ性を充実させていったのが、『ガンダム』という文化コンテンツの30年間の来歴だったからである。<br>
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イベントの成立経緯だけでなく、立像そのもののデザイン行程にも同じことが言える。立像制作を担当した乃村工藝社の川原正毅クリエイティブ・ディレクターのインタビューによれば、デザイン制作の最初の時点では「１/１００スケールのガンプラをかき集めて、ブロック的に繋いだり切ったり削ったり、付け足したりした立体物」を叩き台にしつつ、「決して“俺ガンダム”を作っている感覚に陥ってはいけないと考え」ながら練り上げられていったらしい（＊１）。<br>
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つまり、過去の数多くのデザイナーたちがそれぞれに大河原邦男の原デザインをリファインしてきた解釈のデータベースの海から、今回のイベントの主旨や物理的な制約条件に即した要素がフィルタリングされていったわけだ。<br>
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その意味で、生命進化のプロセスにも似た集合知の選択淘汰からボトムアップ式に公共性めいたものが立ち顕れてくるという、最近の東浩紀がよく論じている「民主主義2.0」の構想を先取りするような性格をも、あの１/１ガンダムは備えていたと言える。<br>
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その上で、さらに『ガンダム』の作品性に照らし合わせたコンセプト解釈をするならば、人類が増えすぎた人口をスペースコロニーに移住させた時代の兵器であるガンダムを地球環境保全のシンボルとするという発想も、きわめてエポックメイキングなものであろう。<br>
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ガンダム30周年プロジェクトの総合プロデューサーであるサンライズ常務取締役の宮河恭夫氏が述べているように、「みんな、『ガンダム』みたいにコロニーに住まなきゃいけなくならないように、今から地球をキレイにしておかない？」（＊２）という逆説こそがこのイベントのメッセージになるわけで、およそ過去の環境イベントにはありえなかったシンボル設定のはずだ。<br>
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イベントが目指す公共的なスローガンとモニュメントの緊張関係という点では、これはおそらく「人類の進歩と調和」を謳った1970年の大阪万博において、むしろ原初的で不調和なカオスを表象した岡本太郎の太陽の塔に匹敵するラディカルな意味性を帯びていたと言えるだろう。<br>
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あるいはむしろ、「あってはならない未来史からの警鐘」という意味づけは、ベクトルを逆にして「このような過去の歴史を二度と繰り返してはならない」ために遺されている広島原爆ドームに近い存在なのかもしれない。もちろん、イベントを訪れた延べ415万人以上もの人々の多くは、こうしたアイロニーを気に留めることもなく、ついに現実化した架空のテクノロジーのスペクタクルに、ごく素直に淫していただけにちがいない。<br>
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美術批評家の椹木野衣は、戦後日本美術史の検討を通じて、戦後日本とはあらゆる表現が非歴史化・サブカルチャー化してしまう、それゆえ真のアートや公共性が成立しない「悪い場所」だと規定した。その見方に従えば、まさにお台場ガンダムは、現実の歴史と無関連化した「偽史」的想像力がすべてを呑み込んだ、アートの最悪の敗北形態でしかないのだろう。<br>
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しかし、逆に捉えるなら、人々の無意識の趣味的欲望に乗りながらそれを意識的なプレイヤーたちが適切に組み換えていくことで、いま見てきたようにきわめてラディカルな意義が見出せるわけである。この事実性は、まさに現実を異化して抉り出すという、現代美術が本来とするアートの機能そのものではなかったか。<br>
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少なくとも、あの１/１ガンダムを目の当たりにした人々は、どこか自明としていた現実感がクラクラと揺るがされるような感覚を覚えたはずだ。その体験たちの中に芽吹いたものをいかに育み、木となし、森としていくか。むしろ、そういう方向への深化を意識的に進めることにこそ、日本が文化的アドバンテージを活かしながら素で先達しうる、「生命」的とでも呼ぶべき新たな公共性の再獲得への道筋があるのではないだろうか。<br>
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いたずらな自己否定や韜晦でも、無闇な現状肯定や称賛でもない、これからの日本思想の達成可能な努力の方向性を示した未来へのマニフェストとして、お台場ガンダムはあった。そのように捉えることこそが、最も建設的な受けとめ方であろうと、筆者は考えている。<br>
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（＊１）（＊２）<br>
Vジャンプ編集部編<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4087795144" target="_self">『Real-G　～1/1 scale GUNDAM Photographs～』</a>（集英社）より<br>
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●中川大地（なかがわ・だいち）<br>
1974年生、文筆家／編集者。<br>
アニメ、ゲーム関連のコンセプチュアル・ムックの制作を中心に、虚構と現実を架橋する各種評論・ルポ・雑誌記事などを執筆。<br>
編著に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4877770526/">『アルファ・システム　サーガ』</a>（樹想社）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4877770933/">『クリティカル・ゼロ　コードギアス 反逆のルルーシュ』</a>（樹想社）、論文に「生命化するトランスモダンへの助走」（<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4140093471/">『思想地図vol.4』</a>所収、NHK出版）など。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/qyl01021/">暁のかたる・しす</a>]]>
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<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1261653.html">
<title>中川大地「「森ガール」にできること～「少女」から「女子」への変遷の中で～」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1261653.html</link>
<description>担当者より：文筆家／編集者の中川大地さんが「森ガール」について論じてくださった原稿をアップいたします。このキーワードの背景なども含めて周到に論じられておりますので、ご一読ください。

配信日：2010/02/24


2009年、急速に知名度を上げた流行ワードの一つに...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-03-02T21:00:23+09:00</dc:date>
<dc:subject>中川大地</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>文筆家／編集者の中川大地さんが「森ガール」について論じてくださった原稿をアップいたします。このキーワードの背景なども含めて周到に論じられておりますので、ご一読ください。<br>
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<u>配信日：2010/02/24</u><br>
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2009年、急速に知名度を上げた流行ワードの一つに、「森ガール」がある。よく知られているように、エディトリアルデザイナーのchoco*氏が、知人に自分のファッションを「森にいそうだね」と評されたことから、同好の士を求めて2006年８月にmixiで立ち上げた「＊森ガール＊」コミュニティが、その始まりだ。<br>
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「ゆるい感じのワンピースが好き」「ナチュラル系にみえるけど、すこしクセのあるファッション」「民族系の服装もすき」「ガーリー」「カフェでまったりするのがすき」「カメラ片手に散歩をするのがすき」等々、60以上もの特徴を挙げて自己定義された森ガールは、今や何誌もの専門ムックも刊行される一つの女子トライブとして、すっかり定着した感がある。<br>
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ビジネス系・流行現象系の各種メディアでも、森ガールは何度となく扱われてきたが、そうした観察でよく言及されるのが、1980年代に注目を集めた「オリーブ少女」との類似性だ。すなわち、ファッションを中核としながらも、インテリアや雑貨、音楽や本など、ライフスタイル全般にわたって少女趣味的な虚構性で生活を覆おうとする傾向は、かつてマガジンハウスが刊行していた雑誌『オリーブ』（特に85年に就任した淀川美代子編集長以来の）で発信されていたメルヘンチックな路線を彷彿とさせる。<br>
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実際、『オリーブ』のスタイリストとして腕をふるった大森仔佑子や、同誌出身のモデル／デザイナーである酒井景都は、現在の森ガール雑誌にもカリスマ的扱いで登場しており、両者の感性がかなり共通しているのは間違いない。<br>
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さて、この森ガール。その命名のキャッチーさ、特異なキャラ立ちの良さによって大きな求心力を持った反面、やたらと揶揄やおちょくりを集めやすかったことも、トライブの外側から見た場合の特徴と言えるかもしれない。「そんな格好のやつは、森にいねえ（笑）」とでも言いたくなるような明白すぎるマガイモノ感をはじめ、「ゆるふわ、ほっこり」な不思議ちゃん的性向や、トイカメラをぶらさげて町を出歩く文化系的な自意識の在り方など、今時のすれっからした感覚からすると、どうにもこそばゆい。そんな現実離れしたツッコミどころの多さが、「沼ガール」や「磯ボーイ」といった数々の茶化しやパロディをネット上に生み出していたりもする。<br>
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要は、かつてのオリーブ少女がメルヘンの仮託先にしていたのが「リセエンヌ（フランス公立学校のおしゃれな女生徒）」だったとすれば、森ガールではそれが想像上の「北欧の森」に置き換わったというだけの図式だ。その意味では、あまりカルチャーとして先進的なところのない、凡庸で脆弱なトライブだと切って捨ててしまうことも可能だろう。たとえば雑誌『小悪魔ageha』発のage嬢たちのようなパンキッシュなインパクトや、速水健朗の<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4562041633/">『ケータイ小説的。』</a>で浮き彫りにされたような、郊外に新たなコミュニティを築きつつある再ヤンキー化したジモト文化に匹敵する新時代の牽引力などは、今のところちょっと期待できそうにない。<br>
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むしろ、森ガールやオリーブ少女のメンタリティの根底にある、「ここではないどこか」を幻想の西洋などに求める衝動の本質を捉えようとするならば、さらにルーツを遡り、近代日本に「少女文化」が発生した地点に立ち返ってみる必要があるだろう。<br>
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そもそも「少女」とは、いかなる存在か。児童学者の本田和子や評論家の大塚英志らが、1980年代に展開した民俗学的な少女論によれば、近代以前の共同体社会に「少女」という概念は存在しなかったとされる。しかし、日本では明治後半～大正期にかけて、有産階級の子女に「良妻賢母」教育を行う女学校などの制度が確立。すなわち、初潮を迎えて生殖可能となった女性の身体を、やがて家父長制的な世帯の主となる男性に供給し、再生産単位に組み入れる日が来るまで、無傷で囲い込んでおくためのシステムが本格的に登場する。ここに、生産や性の現実から一時的に切り離された純粋な消費者である「少女」という存在が、近代社会の徒花として発生したのである。<br>
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ゆえに、少女たちはやがてモラトリアムを終えて自由を奪われ、システムに組み込まれて生殖の機械とされる抑圧的な宿命から、本能的に逃れようとする性向を抱いているとされる。そこから、「女」としての性的な成熟を忌避したり、「かわいい」もので汚れた現実を遮断・糊塗したりと、虚構と戯れる少女文化の系譜が生まれ、数多くの少女雑誌などを舞台にして積み連ねられてきた。とりわけ、戦後の高度経済成長が終わり、80年代の安定成長期になると、モノの実質的な使用価値でなく商品に付加された虚構的な記号やイメージが優勢となって市場を駆動する高度消費社会が全面化。いわば「少女」性が社会全体に拡散し、オリーブ少女を筆頭とする少女文化が、史上最も隆盛する時代となった（大塚<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4334723497/">『少女民俗学』</a><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4487752965/">『少女雑誌論』</a>など）。森ガールはその残滓を受け継ぐ、現状最後のランナーとして位置づけることができるだろう（※）。<br>
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しかしながら、男女雇用機会均等法やバブル崩壊後の長期不況によって、女性をめぐる文化状況も80年代までとは大きく変わった。近代建設期には多くの女性にとって普通であった専業主婦というライフコースは、90～00年代を通じて戦後的な価値観や雇用システムが崩壊した現在、もはや自明のものではなくなり、女性が人生を築いていく道筋は、男性と同等かそれ以上に多様で不透明なものになりつつある。<br>
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このように社会の都合に振り回され、「負け犬」ブームや「カツマー」現象などのように次第にやさぐれていく女子カルチャーの変化の有り様を、詩人で社会学者の水無田気流は「無頼化」と呼んだ。つまり、文字通り「他に頼むものがなく一人で生きていくことを前提に、あらゆる価値基準を決定するようになること」（水無田<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862484387/">『無頼化する女たち』</a>）が、現代の女子カルチャー全体に通じる気運になっているという。<br>
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このことを80年代に全面化した「少女」の消長と結びつけて捉え直せば、ここ10年ほどでとみに増加した「女子」という言葉遣いそのものが、近代の徒花としての「少女」が無頼化し、変容していった概念なのだということに気づく。もはや少女と呼べる年齢的な若さや、素直に虚構に耽れるメンタリティは失ってしまっても、決して成熟した「女」にはなりきれない、宙ぶらりんな自己認識……。そんな納まりの悪さを、ちょっぴり自虐的なニュアンスを込めることで、なんとか現実に折り合わせていこうとする自意識が、「女子」を自認する現代女性たちには垣間見えはしないだろうか。<br>
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つまり、「夢みる少女」から「無頼化する女子」へ。遅れてきた少女文化であると同時に、最近の文化系女子のサブトライブでもある森ガールには、近代社会のモードチェンジが引き起こした、そんな女子カルチャーの移行の痕跡がうかがえるように思う。<br>
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実際、20代前半の大学生から社会人が中心の森ガールは、かつてのオリーブ少女よりも年齢層が高く、社会との接点は少しだけ広い。「＊森ガール＊」コミュニティ内でのコミュニケーションや専門誌に載った生の声をよくよく見ていけば、森ガールとしてのスタイルを現実遮断的なものとしてではなく、仕事や生活の生産活動の中での装いとして着こなそうとしていく人もいるし、人気の高いハンドメイド制作の話題では、時に「丸ノコと電動サンダーが欲しい」なんていうガテンな声まであったりして、意外に地に足のついたライフスタイルとして発展しそうな厚みや気骨を、実はひそかに感じさせてくれる。<br>
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というわけで、願わくは森ガールの皆さんたちには、そうした少女趣味的なモラトリアムを、女子ならではのダンディズムとして昇華していく芽を、もっともっと大きく育てていってほしいなと、個人的には思っている。<br>
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そうすることで、性や労働や加齢といったノイジーな現実をもエレガントに繰り込み、人生をよりハッピーに彩る一生モノのスタイルの母体として、森ガール・カルチャーはさらに素敵にしていけるはずだからだ。<br>
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森ガールは、現実の森には行けないかもしれない。けれども無頼な現実に、想像の森で生命的な潤いを加えていくことくらいなら、できるのかもしれない。もしかしたら。<br>
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（※）もうすこし詳しく見るなら、森ガールの前史には90年代後半に輸入された「ガーリー」ムーブメントの文脈を挿しはさむ必要がある。ファッション用語としてのガーリーは、単に「ポップな少女性」を意味するというよりも「girlie（売春婦）」が語源となっており、そこから「女性らしさの見直しや、キッチュな女らしさ、セクシーだけどキュート、あくまでも女性らしさを失わず、いかに変化発展していくかを楽しみながらチャレンジする姿勢への賞賛と、少しの自嘲と照れが込められた言い方」（<a href="http://kw.allabout.co.jp/glossary/g_fashion/">「ALL About」ファッション用語集</a>）だとされる。<br>
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つまり、男性からの性的なまなざしをひとまず受け入れた上で、「女らしさ」をセルフパロディ化しながら、あくまで女性自身が「かわいい」と思えるためのスタイルを再編成する批評的な姿勢がガーリーの根底にあり、本論後半で論じた00年代女子の「無頼化」とも少なからず共通した心性と言えるだろう。<br>
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2007年公開のソフィア・コッポラ監督の映画『マリー・アントワネット』では、徹底的に現代女性のガーリー・コスプレ姿として描かれたキルスティン・ダンスト演じる王妃マリーが、性と消費に溺れるバブリーな遊蕩生活の虚しさに気づくと一転、にわかなロハスな菜園暮らしに向かうさまが戯画的に描かれているが、これは政略結婚でモラトリアムを断たれた少女が、ガーリー的な無頼化を経て、森ガール的な心性を派生させる女子カルチャー史への批評としても読み解きうる。<br>
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●中川大地（なかがわ・だいち）<br>
1974年生、文筆家／編集者。<br>
アニメ、ゲーム関連のコンセプチュアル・ムックの制作を中心に、虚構と現実を架橋する各種評論・ルポ・雑誌記事などを執筆。<br>
編著に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4877770526/">『アルファ・システム　サーガ』</a>（樹想社）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4877770933/">『クリティカル・ゼロ　コードギアス 反逆のルルーシュ』</a>（樹想社）、論文に「生命化するトランスモダンへの助走」（<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4140093471/">『思想地図vol.4』</a>所収、NHK出版）など。<br>
本当は、森ガール的なスタイルの先駆と理想のアラフォー像は遊佐未森にあると信じているミモリスト。ぜひどこかの森ガール雑誌で、未森さんインタビューをやらせてください……！<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/qyl01021/">暁のかたる・しす</a>]]>
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