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<title>ビジスタニュース - 真魚八重子</title>
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<title>真魚八重子「実録犯罪映画の甘美な魅力」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1337952.html</link>
<description>担当者より：映画ライターとして活躍されている真魚八重子さんが、実録犯罪映画を中心に論じた原稿です。映画作品ガイドとしても刺激的ですので、ぜひお読みください。

更新日：2010/08/23


今年2010年に公開され話題となった映画に、三億円事件を扱った『ロストクライム-...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-08-23T03:00:47+09:00</dc:date>
<dc:subject>真魚八重子</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>映画ライターとして活躍されている真魚八重子さんが、実録犯罪映画を中心に論じた原稿です。映画作品ガイドとしても刺激的ですので、ぜひお読みください。<br>
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<u>更新日：2010/08/23</u><br>
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今年2010年に公開され話題となった映画に、三億円事件を扱った『ロストクライム-閃光-』や、製作者側からモデルとして挙げられてはいませんが、おそらく「東大阪大学集団暴行殺人事件」が着想の原点になっていると思われる『ヒーローショー』があります。こういった実際に起こった犯罪をヒントにした映画は、海外はもちろん日本でも非常に多く作られています。そのアプローチは、はなから特定の事件の再現である実録モノから、あくまで着想を得ただけで事実とはかなり異なる展開を見せるものまでさまざま。しかし、観客が実際の事件と絡めた映画に、奇妙なほど引き寄せられるのは古今東西変わらないようです。<br>
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有名な事件をなぞった作品には、たとえば阿部定をモデルにした映画だけで『実録 阿部定』『愛のコリーダ』『明治･大正･昭和　女猟奇犯罪史』（高橋お伝らの毒婦オムニバス）、『SADA　戯作・阿部定の生涯』などがあります。愛と性という人間の本能や感情へもっとも鋭敏に触れるテーマだけに、触発される作家が絶えない事件ですが、しかしセックスは閉め切った変わり映えのしない室内だけで行われるし、基となった犯罪自体があまりにドラマティックすぎるためか、なかなか映画という虚構が現実を凌駕し、飛躍するところまでは至らぬ印象があります。<br>
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また、世界に誇る単身の犯人が起こした短時間大量殺戮事件である「津山三十人殺し」は、『丑三つの村』では殺人鬼に注目し鬱屈していく心理を追う、比較的忠実な映像化作品となっています。逆に何度か映像化されている『八つ墓村』では、津山事件は史実から離れて物語内の登場人物の所業として織り込まれており、インスパイアされたというレベルにとどまるもの。でもこれらはたいてい、スプラッターの要素が強いものとなっています。<br>
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そのほかにも今パッと思いつくものを羅列してみます。<br>
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」を基にした『一万三千人の容疑者』。カービン銃ギャング事件を再現した『恐怖のカービン銃』と、この被告が獄中の出来事をまとめた手記の映画化『さらば、わが友　実録大物死刑囚たち』。凶悪犯罪を立て続けに起こした勝田清の事件を淡々と描く作品『冷血』。三菱銀行人質事件を起こした梅川昭美の人生を追う『TATOO＜刺青＞あり』。三億円事件モノの『実録三億円事件　時効成立』『ピエタ』『初恋』『ロストクライム-閃光-』（ほかにも三億円事件を取り入れたコメディ映画やテレビドラマは多数有）。瀬戸内シージャック事件を描いた『凶弾』。獄中での文学活動が話題となった永山則夫の事件を基にした『裸の十九才』。小松川女子高生殺人事件を在日朝鮮人や、死刑にまつわる視点でクロースアップした『絞死刑』。連続殺人犯・西口彰の事件を映画化したものながら、監督でずいぶん雰囲気が変わる『復讐するは我にあり』と『戦後猟奇犯罪史』（後者は西口彰と大久保清と克美茂事件のオムニバス）。浅間山荘事件に着想を得たスプラッター『鬼畜大宴会』と、当時の左翼運動の象徴的監督だった若松孝二が万感の思いで描く『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』。福田和子事件にヒントを得て、犯罪者となった女の逃亡人生を描く『顔』。宅間守事件を彷彿とさせる、犯罪者の孤独に惹かれ死刑囚を熱烈に愛する女性にフォーカスを合わせた『接吻』。原作者がたまたま耳に入れたマイナーな事件がモデルとなっている『鬼畜』や『薄化粧』。社会派として知られ、実録犯罪に関する映画を多く手がけた監督、熊井啓の『帝銀事件 死刑囚』『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』といった重厚な作品。<br>
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またロマンポルノやピンク映画だけでも、実際の犯罪事件に着想を得て、女のエロスに結びつけていく作品が数え切れないほど多数あります。キリがないのでこの辺りにしておきますが、挙げていったらタイトルだけで原稿が埋まってしまうくらい、実録犯罪映画は多く製作されています。<br>
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ところでなぜ、創作者たちは実話をベースにしたがるのでしょう。<br>
まずは、物語の構成において「事実は小説より奇なり」を逆手に取った、現実味の裏づけが大きな要素です。信じられないような展開を見せる話も、それが実話であるなら観客も否定のしようがないし説得力があります。たとえば「犯罪はエスカレートする」「性犯罪は犯行のスパンが短くなっていく」という事件と犯人像のセオリーは、刑事ドラマのプロファイリングシーンでもよく耳にするものですが、勝田清孝事件は連続強姦殺人の合間にも空き巣や強盗など、規模が小さい犯罪を繰り返しています。意外とこういう進退のしかたは、ドラマ的には上述のセオリーから逸脱するので作りづらいですが、本当ならしょうがないですよね。また被害が極端すぎる場合、『八甲田山』のように雪中行軍の参加者二一〇名のうち一九九名もが遭難死した凄まじい悲劇も、創作であったら「やりすぎ」と言われて企画自体が通らないレベルかもしれません。<br>
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描き方にも諸々な手法があります。基本的に犯罪ドラマはどれほど事実に忠実であっても、あくまで虚構であって、作り手たちの望む雰囲気や、どのような思い入れで作られるかによって作品の傾向は左右されます。熊井啓のように硬質なものもあれば、『顔』はもはや福田和子のイメージから離れてフィクションへ飛翔し、ひとりの女性の生き様に肉迫していく凄みを持ちます。<br>
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映画監督や脚本家は、犯罪自体は憎むべきものであっても、同じヒトである実在の人間が「なぜそんな大それた事件を起こしたか」という心理や性格、そこに行き着くまでの状況に興味を惹かれます。観客であるわたしたち自身も、頭の中で殺人や強盗など想像はできても、それを実行へ移すには、確実に取り返しのつかないある一線を越えなければいけません。そしてその犯罪心理は決して理解不能なものではなくて、説明されればうなずけることかもしれない。または逆にとうてい共鳴できない、同じヒトであることが不思議な犯罪者像を見ることになるかもしれない。その倫理観に対するレイヤーが微妙に、しかし決定的に違う「はざま」はなんなのか。まったくの想像による創作であれば荒唐無稽で片付けられてしまうような犯罪も、実話となれば、誰かがその心理を本当に辿って、本当に実行に移したというリアリズムの裏づけがあります。人間に興味のある者なら誰でも注視せずにいられない、わたしたちと社会を共有する人間が、一線を画していく奇妙な心理を追いたいのです。<br>
<br>
それと、未解決事件にまつわる創作物は、現実と虚構がリンクしていく瞬間に不思議な快楽をともないます。もちろん基本には、三面記事を読むような好奇心を満たす下衆っぽさは当然あるでしょう。しかしそれ以上に甘美なのは、結論として実際の犯人像はわからないもどかしさは持ちつつも、犯行の瞬間だけしか情報として知らず、薄気味悪い亡霊のようだった犯罪者の姿に、血の通った人間の姿を与えることです。現実と地続きで虚構に突入していく、メタフィクショナルな魔の蠱惑。それは本当に不思議なほど、血の沸く魅力をたたえます。<br>
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たとえば我々は三億円事件も、あのモンタージュ写真と犯人が白バイ警官に扮した手口しかわからなくて、時効の闇にそのまま消えた青年に対して幽霊のような恐ろしさを覚えますが、ドラマは彼が白バイを降りて日常へ戻る様子を描いて、初めて彼に人間的な姿を与えてくれます。なおかつ、たとえば若き日の織田裕二主演の実録犯罪ドラマ『新説三億円事件』では、白バイ警官の父に憧れつつ、グレた挙句に三億円事件を起こした青年が、それを知って極限まで思いつめた父に青酸カリを突きつけられる、新たな緊迫する親子の悲劇的ドラマへと跳躍します。<br>
<br>
同様のドラマに、『特捜最前線』の「子供の消えた十字路」という、高い評価を得ている回があります。白昼のまばらとはいえ、人々がいる線路脇で車が子どもをはねる事故が起き、慌てて下りてきた運転手がひどい怪我をした子を抱えて車に戻ります。「救急車を待つ間が惜しくて、自分で病院へ運ぶんだな……」、と誰もが考えて見送ったあと、しばらくしてどこの病院にも怪我をした子どもが担ぎ込まれた形跡がないことがわかります。運転手も子どもも忽然と消えてしまい、目撃者たちも曖昧な記憶しかないまま緊急の捜査が始まる、という物語です。<br>
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じつはこの回は実話を基にしており、はねられて重傷を負い、運転手が「病院へ運ぶ」といって車に乗せられた田畑作之介ちゃん（３歳）が、そのまま失踪してしまうという事件がありました。事件発生は1978年３月。このドラマの放映は1979年７月で、まだ犯人が逮捕されていない時点での映像化となります。ドラマ内では長年の念願だったマイホームの優良物件を目の前にし、〆切の時間までに頭金を不動産屋に届けなければいけないのに、遅れそうで焦っていた男性が事故を起こしてしまいます。道で遊ぶ子どもをはね、事故対応をする間がなくて、悪意のないままとりあえず車に乗せてしまうというせっぱつまったお話で、サスペンスフルかつエモーショナルな物語となっていました。<br>
<br>
この作品のラストは、ようやく事故に遭った子どもが発見されるところでエンディングとなり、命を取り留められるかは曖昧な段階で終わるのですが、劇的に展開する流れはハッピーエンドを匂わせるものとなっています。そういった良い結果への虚構の飛躍は、せめて作劇上だけでも子どもを救いたいという、むごい現実に寄り添う分身として創作され息を吹き込まれた化身での慰みであり、救済への「祈り」の意味を表すものでしょう。しかし結局、現実の事件では犯人はもちろん、作之介ちゃんの安否や行方も杳としてわからぬまま、事件は時効を迎えています。<br>
<br>
とにかく現実と虚構のせめぎあいは不思議なまでに、我々の感覚に激しく揺さぶりをかけます。『特捜最前線』ではほかにも、新宿西口で「わたしの詩集買ってください」の札を下げて佇んでいる女性が、他殺による焼死事件を目撃してしまうとか、新宿バス放火事件をモデルにしつつ、被害者の遺族と容疑者の家族が親密になった場合の葛藤を描きこむなど、実在のヒトが虚構に昇華されていく脚本がたくさんあります。この、現実が虚構を侵食し、虚構がさらなる飛躍で事実を凌駕していく展開には、問答無用の面白さがあります。<br>
<br>
『相棒-劇場版-  絶体絶命！42.195km 東京ビッグシティマラソン』では、イラクで武装組織に拉致され、処刑された若い邦人の遺族が、連続殺人に深く関わるという設定でした。そこで映画が摘発したのは、過激派に拉致された一般人について、「自己責任」を連日うたって被害者家族を責めながら、むごい処刑後は急速に沈黙したマスコミと、退去の命令を耳に入れたかわからない一個人の悲劇を、自己責任に還元する政府対応でした。もちろんこれは虚構であり、複数の事件と人物像が交じり合わせてありますが、しかしまだ記憶にも新しい、特定の人物たちを指し示すことになりかねない危うさを持った設定といえます。際どい設定ながら、際どいがゆえに批判の対象が観客にも生々しく想起され、心に刺さる物語。やはりこの映画の魅力は、リアルが虚構を侵食し、虚構の登場人物だからこそできる事件への批判があり、曖昧に終結した現実とは異なる、新たな鋭いオチへと昇華されている自由さです。<br>
<br>
実録モノは現実から虚構へ移行するダイナミズムが、好奇心を満たしつつ新たな飛翔をもたらす、不思議な快楽をともなうもの。そこには関わった個人の情報に抵触する問題性や、事実の改変をどこまで許容するかといった倫理もあり、創作者が挑むには力量や繊細さ、熱意が必要とされます。しかし実録モノは好奇心を満たす域を超え、わたしたちが日々生きる中で、曖昧で恐ろしい事件への不安を昇華させ、不可解な心を理解し、祈りに変える重要な分野なのです。ぜひ、今後も優れた現実と虚構のせめぎあいを観たいものです。<br>
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●真魚八重子（まな・やえこ）<br>
ライター。<br>
『映画秘宝』や『TRASH UP!!』などで映画に関する原稿を中心に執筆。<br>
共著に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4861822564/">『戦う女たち』</a>（作品社）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4891947470/">『リビドー・ガールズ』</a>（パルコ）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862483399/">『市川崑大全』</a>（洋泉社）などがある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/anutpanna/">アヌトパンナ・アニルッダ</a>]]>
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1298189.html">
<title>真魚八重子「ゴスは醜いアヒルの子なのか？」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1298189.html</link>
<description>担当者より：ライターの真魚八重子さんについて「ゴス」に関してご執筆いただいた原稿です。ぜひ、ご一読ください。

配信日：200/03/10


「ゴス」と聞いてイメージされるのは、黒いデコラティブな服を着て、耳がピアスだらけで青白い顔をした人でしょうか。いきなりすごく...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-05-16T17:18:14+09:00</dc:date>
<dc:subject>真魚八重子</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>ライターの真魚八重子さんについて「ゴス」に関してご執筆いただいた原稿です。ぜひ、ご一読ください。<br>
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<u>配信日：200/03/10</u><br>
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「ゴス」と聞いてイメージされるのは、黒いデコラティブな服を着て、耳がピアスだらけで青白い顔をした人でしょうか。いきなりすごく短絡的な表現ですけど、まあ実際そんな感じです。筆者も小学６年生のときに「これからは黒い服を着る」と決めた人間で、いま現在は社会人であるため、仕事中はデカくて怖いピアスはしないなど、世間様になじむ程度の薄めたゴス生活を送っています。ともあれ、ゴスと呼ばれる人たちのイメージはそれなりに共有されているかと思います。<br>
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映画でゴスが描かれる場合、キャラ設定はわかりやすいものです。映画『ブレックファスト・クラブ』は80年代を代表する、ジョン・ヒューズ監督の青春映画の良作。スポーツマンやガリ勉、チヤホヤされるお嬢様に不良といった、全然タイプの違う５人がたまたま罰で土曜日に出校し、一緒に作文を書かされるはめになります。最初は互いにいらいらし、全然とっかかりがないかと思われたのに、感情をぶつけ合ううち次第に理解し友情を持ち始めていく、瑞々しい映画です。<br>
<br>
ここにもうひとり、黒髪がもさっと額にかぶり、「精神科に通っていて、先生にセックスを強要された」とウソをついたり、気味の悪い雰囲気を放つ女の子がいます。そのアリソンは今でいうならゴスの系譜。露骨にファッション化されたゴスではないけれど、明るい赤毛の髪をウェイブさせた美少女クレアに比べて、彼女の黒髪に黒っぽい服でリストカットでもしてそうな病んだ様子は、今現在ゴスと呼ばれる人と同類です。<br>
<br>
『ブレックファスト・クラブ』はスポーツマンや優等生が抱えたプレッシャー、不良というレッテルで本質を見てもらえない苦悩をお互い語って、それぞれの立場に苦しみがあるんだと理解し、尊重しあう映画です。でも、ゴスっぽいアリソンの結末は「リボンで前髪をあげて、白い服に着替え、クレアに明るいお化粧をしてもらい、じつは美人なことがわかってみんなから一気に好印象」という、醜いアヒルの子オチでした。<br>
<br>
他の子はそれぞれの立場を理解してもらえるのに、アリソンだけは根底から、存在そのものを変えられてしまいます。〈ゴスであり続けることはコンプレックスを抱えた不幸であって、普通のファッションをまとうことで初めて素の自分が表現でき、幸福になれるのだ〉と、この映画は無意識のうちに語ります。<br>
<br>
そしてスクールカーストに着目した、『ロミーとミッシェルの場合』も同様。ロミーとミッシェルは高校において浮いていたけれど、クライマックスでは等身大のままでい続けることを選び、そしてその個性が成功に結びつくハッピーエンドになっています。そんなロミーやミッシェルと同じくスクールカーストの下層にいるオタクも、卒業後は趣味がこうじて富豪となっていたり、映画が持つメッセージは「等身大を恥じることはない、強い個性があって楽しいならそれをつきつめよう」というもの。しかし、その中でやはりひとり、黒髪に黒い服で、いつも校庭の片隅で煙草をスパスパ吸っていたゴスの女の子がいます。卒業しても彼女は相変わらず黒尽くめだけれど、本作では同窓会で再会した、同じく黒い服の男の子と恋に落ちる、同族同士で落ち着くステキな顛末が描かれます。<br>
<br>
しかし、最後にロミーとミッシェルが始めたカラフルな洋服屋さんで、ロミーたちはこのゴスッ娘に黒い服をやめてもっとオシャレをするようアドバイスし、黄色いヒマワリみたいな花柄の服を渡すのです。そしてゴスッ娘がしかめっ面をしつつも、（そうかもな）といった感じで更衣室に向かう姿をコミカルに描いて終幕を迎えます。それまで本作を好意的に観ていたわたしは、このエンディングの瞬間に凍りつきました。<br>
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スクールカーストにおける下層の、等身大での意趣返しを見事に描いたこんな映画ですら、ゴスは否定されていました。それも自分たちがゴスを差別していると認識してなさそうな、とても無意識に近い形で。ゴスはやっぱり、ゴスのままでいちゃいけないの？<br>
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ここで非常に粗略ですが、ゴスの背景を知るために歴史を説明します。ゴスは元々、エドガー・アラン・ポーやメアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、ブラム・ストーカー『ドラキュラ』などに代表されるゴシック文学がルーツと思われます。死や吸血鬼や幽霊などの怪奇趣味、古城の暗い神秘的な雰囲気をたたえた小説の、黒く病的な傾向を受け継いだもの・類似点が見出されたものが、現代のゴシックロックやゴシックファッションとなっています。<br>
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ただもはや、18世紀末のゴシック小説を原点とするのは、いささかファンダメンタルすぎるでしょう。現代的なゴスの源流は、80年代初頭のゴシックロックにあります。バウハウス、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、バースデイ・パーティ、ザ・キュアーといったところがゴスロックの有名バンド。これらの音楽はパンクなども密接に関わっているので、ファッションも黒や誇張された病的なメイクに加え、入墨やピアスといった身体変工、ラバーやレザーのアイテムなどが特徴となっています。日本でもオート・モッド、マダム・エドワルダ、G-シュミットなどが80年代にポジティブ・パンク（ポジパン）と呼ばれていましたが、これが今でいうゴス系のバンドです。<br>
<br>
その後アメリカでは、黒尽くめの若者が反社会的・反道徳的と認識され始めました。そのカテゴライズされた「ゴス」の代表的な存在がマリリン・マンソンです。日本ではヴィジュアル系バンドが一世を風靡し、それらの誇張されたファッションがゴスと混同されたり、意匠が優先されたゴスロリへと変化していきます。何事も見た目がより誇張され形骸化していくものですが、本来のゴスのファッションは病んだ、暗黒に惹かれる精神性などの発露であり体現です。死や血、怪奇への偏愛を抱えたパンキッシュなゴシック趣味を持ったうえでの黒い意匠が、正当派のゴスといえるでしょう。<br>
<br>
ゴスは、もちろん思春期などに沈んだ心境を反映して、後天的に偏向していく場合もあります。でも、それで黒ずんでいくのも落ち着くところに落ち着くアイデンティファイといえますし、必ずしも物心ついてからのコンプレックスを覆い隠すものであったり、劣等感の裏返しとしてのファッションではありません。そして生まれつき、気がついたら心にコウモリを飼っていて、初恋がピーター・マーフィーや『セサミ・ストリート』のカウント伯爵や、岸田森だったようなゴスも存在していて、そういう者にとって黒い服装は自分の趣味や内面に誠実なものです。<br>
<br>
わたし自身、幼稚園の頃からアニメの再放送を観ていても、『魔女っ子メグちゃん』で好きだったのは青ざめた顔に黒いドレスのノンだったし、『デビルマン』では青い悪魔の主人公が、闘うたびに肉が斬られて血が流れたりするのを大喜びしていました。生まれつき変態……ともいえるかもしれませんが、気がついたらすでに、死や鮮血は自分の美学であり、心に寄り添うものだったのです。<br>
<br>
映画では吸血鬼モノをはじめ、ホラーでゴスが描かれることは当然多くあります。最近では『トワイライト～初恋～』なんて似非ゴスもありましたが、スクールカーストをはらんだゴス表現としては、ゴスッ娘が仲間はずれにされている99年『コンヴェント』があります。でも元々層が薄いのと、スクールシューティングの問題などから、最近は腫れ物的に扱われて、あまり積極的に学園モノでは登場しなくなった印象があります。<br>
<br>
それ以前の映画において、学校にいるゴスへ早々に着眼した85年の『ブレックファスト・クラブ』も97年の『ロミーとミッシェルの場合』も、創り手がゴスはコンプレックスを覆い隠すために、おかしなファッションをしているという、見下しのまじった認識を持っているのが丸わかりでした。こちら側としては、『ブレックファスト・クラブ』のアリソンから暗い個性を剥奪することなく、黒い前髪にひそむ憂鬱さの魅惑を見出してほしかったし、ロミーたちにはゴスにとっては黒い服こそが、最高にいとおしい衣装であることを受けいれてほしかった。<br>
<br>
黒い網タイツも血の雫のピアスもコウモリのチョーカーも、虚勢じゃないしコンプレックスの派手な裏返しじゃない。生まれついた精神への誠実さの顕れです。それに私的には境界性パーソナリティ障害などでゴスに走る人も、そこで落ち着くならしかたがないと考えています。それにもちろん、死や残虐の美学を大事にしていても、実際の行為とは隔たりがあり、空想や創作物として創造をするだけです（まあ、広い世界には実行する人もいるとは思いますが）。<br>
<br>
最近のアメリカでのゴスの扱いは、相変わらず保守派の反発に考慮したものや、いまだ無意識的な偏見に基づく表現もありますが、映像ではコンプレックスの象徴として扱われてきたファッションが、ありのままの自己主張として登場するようになりました。アメリカのテレビドラマ『NCIS ～ネイビー犯罪捜査班』には、レギュラーで科学捜査官のゴスッ娘キャラがいます。ただし、ゴスのおぞましさを打ち消すように、性格はお茶目で明るく設定されています。<br>
<br>
ゴスが「自分は吸血鬼だ」「この世にヴァンパイアは実在する」といった、吸血鬼妄想によって殺人事件の容疑者になるという、冷やかし気味に扱われる犯罪ドラマも何度か観ましたが、奔放で自虐的な生き方ゆえに殺害されるゴスッ娘という、重々しいテーマを扱ったものもありました。<br>
<br>
2006年に放映された海外ドラマ『CSI:NY』の第５話「オイディプスの悲劇」。ここでは殺害される少女を含め、実在するSuicide Girls(スーサイド・ガールズ)が取り上げられています。彼女たちの中のゴス性は、特にこのドラマでは後天的な人格障害などによる自虐性が強調されていました。ラストでその名の通り痛々しく、レザーの露出狂的な服をつけ、ピアスや入墨に溢れたスーサイド・ガールズたちが徒党を組んで歩く姿に向けられた視線は、病んだ心も表現し闊歩する少女たちを認め尊重しつつ、その偏向した自傷的な姿に、あえて距離を置くというスタンスでした。それは、とても正しい立ち位置だったと思います。<br>
<br>
「同意はせずとも存在は認める」<br>
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ものすごく当たり前のことですが、その当たり前で繊細なことを、テレビという大きな声で宣言するのは創り手たちに明確な意思がなければできないことです。不穏なものを自分たちの考える健全な色に染め替えるのではなく、また魔女狩りのごとく存在を否定し叩きのめして回るのでもなく、不穏なままで保留すること。90年代からゼロ年代にかけてのゴスをめぐる状況は揺らぎましたが、このドラマで描かれた微妙なバランスを保っていけることを願います。<br>
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●真魚八重子（まな・やえこ）<br>
ライター。<br>
『映画秘宝』や『TRASH UP!!』などで映画に関する原稿を中心に執筆。<br>
共著に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4861822564/">『戦う女たち』</a>（作品社）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4891947470/">『リビドー・ガールズ』</a>（パルコ）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862483399/">『市川崑大全』</a>（洋泉社）などがある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/anutpanna/">アヌトパンナ・アニルッダ</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1267380.html">
<title>真魚八重子「死んでも戦う女たち──お岩さんから貞子まで」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1267380.html</link>
<description>担当者より：ライターの真魚八重子さんに「死んでも戦う女たち」について、多くの映画を参照しながら論じてくださった原稿を掲載いたします。四方田犬彦・鷲谷花編『戦う女たち』（作品社）にも真魚さんの論考は掲載されていますので、そちらもぜひ。

配信日：2009/09/02


...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-03-14T16:48:18+09:00</dc:date>
<dc:subject>真魚八重子</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>ライターの真魚八重子さんに「死んでも戦う女たち」について、多くの映画を参照しながら論じてくださった原稿を掲載いたします。四方田犬彦・鷲谷花編<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4861822564/">『戦う女たち』</a>（作品社）にも真魚さんの論考は掲載されていますので、そちらもぜひ。<br>
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<u>配信日：2009/09/02</u><br>
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日本の怪談映画では非業の死を遂げたのち、幽霊となって登場する有名キャラが幾人かいます。お岩さんはもちろん、最近も中田秀夫監督作品『怪談』で取り上げられた『累ヶ淵』の豊志賀（とよしが）や、「一枚足りない……」が決めゼリフの『番町皿屋敷』のお菊、そして焦がれ死にした後も好きな新三郎を求めて現れる、押せ押せな『牡丹灯籠』のお露。<br>
<br>
彼女たちが死後もこの世に留まるのは、未練や恨みのためです。女が主人公である怪談の多くは、成就できなかった愛や、惨めな死に至る定めであった運命に対し、死んだ後でもまだ抗って、宿命を覆すため戦いを繰り広げる執念から生まれたものといえるでしょう。<br>
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もはや亡霊と化して実体のない彼女たちのアクションは、霊力や呪力によるものとなります。怨念は風雨などの騒然とした天候を呼び、幻惑で憎い相手に狂乱を起こして命を奪い、なおかつ末代まで祟ったりします。そんな一途な恨みの念が、成仏するという当たり前な成り行きすら彼女たちに忘れさせ、因果応報といったアクションを招いていきます。<br>
<br>
『牡丹灯籠』ではお露が夜毎訪れるようになってから、新三郎はひどく消耗するようになります。たまたま覗き見た隣人に恋人の正体が幽霊だと教えられ、急に恐ろしくなってお寺へ相談に出かけ、死霊除けのお守りを貰い戸口にお札を貼って幽霊が入ってこられないようにする新三郎。しかしお露さんのすごいところは、新三郎の隣家に住む伴蔵夫婦の元へ赴き、ワイロを渡してお札を剥がさせるのです。そしてなんなく新三郎の元へ突入し、彼を取り殺してしまうお露さん。<br>
<br>
でも、確かに突然お札を貼って自分を毛嫌いするかのように退けたにせよ、お露さんが愛する男を死に引きずり込むのはなぜなのでしょうか。そもそも死んだ後に、霊力で生前と変わらぬ姿で現れて愛を交わしていたのだから、幽霊になっても恋をすることに支障はないのでは……？ <br>
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一般的に怪談物では、霊力の使い道が限られるなど、物語上の制約が伴います。わたしたちが『牡丹灯籠』から察せられることは、やはり肉体を失った幽霊が生者と同様にこの世で暮らすことは異常であり、現世に強烈な未練を残したお露が、生身の娘同様に新三郎と蜜月を過ごすのは、彼岸に渡りきれない非常事態であるということです。<br>
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新三郎にとり憑いて必死になって彼の命を奪うと、ようやく納得してあの世へ渡り、彼女のさまよう魂も沈着します。そして物語はそこで途絶えてそれ以上は黙して語らず、あの世へ渡った二人がどうなったかなどわからない──＜終＞と出た映画には、もはやその後は無いという当然の事実に突き当たるだけです。<br>
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『牡丹燈籠』のお露さんもしのいで、日本でもっとも知られる女の幽霊は、なんといっても『東海道四谷怪談』のお岩さん。映像化された回数もダントツに多いです。物語はご存知の通り、浪人暮らしで鬱屈する伊右衛門に、裕福な伊藤家の娘であるお梅が横恋慕。伊右衛門は出世のためお梅との祝言を約束し、産後の肥立ちが悪い妻お岩に、良薬と偽って伊藤家から貰った面貌が崩れる毒薬を飲ませ、なおかつ離縁するため、彼女が間男していたかのように不義も捏造します。お岩は苦悶と恨みにまみれて刃で死に、伊右衛門はそれ以来お岩の亡霊に苦しめられます。<br>
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『四谷怪談』においては、亡霊となったお岩さんは顔が爛れ、こめかみの髪が抜けた恐ろしい姿で現れます。伊右衛門がお梅との婚礼の夜に、抱こうとした新妻の顔を見るとそれは顔が崩れ、見るも無残な姿となったお岩。驚愕して斬りつけると、亡霊の幻惑でお梅を斬り殺してしまったことに気付きます。同様に伊藤家の養父も殺してしまい、伊右衛門は人殺しの身を隠すため寺の庵室へと逃げ込んでいきますが、そこで霊障払いなど受けて過ごしつつ、ある日気晴らしに庵を出て隠亡堀へ釣りに出かけたところで、有名な戸板返しの段となります。<br>
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お岩さんが怨念を持つに至った理由は、<br>
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１　夫が外に女を作った<br>
２　毒を盛られ醜悪な容姿にされた<br>
３　不義の捏造などの謀略によって命を落とした<br>
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以上の３点かと思われます。しかし、お岩の復讐によって同様の状況に追い込まれていく、お梅がお岩に怨みを持ったら……？<br>
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木下恵介監督作品『四谷怪談』では、お梅は焦がれ死にしかけるほど伊右衛門を愛し、周りの取り計らいで伊右衛門と祝言をあげることになります。お岩の相貌が崩れるのも、お岩が熱湯に転がりこんでしまったことが引き金であり、毒薬の一件もお梅の関知しないところで起こります。しかしこのお梅は殺されはしないものの、映画の最後で伊藤家に火事が起こり、彼女は顔にやけどを負って、お岩と同じように二目と見られない面相になったと語られます。<br>
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お梅も同じ男性を狂おしいほど愛することで、お岩の妻という立場は妬ましかったでしょうし、お岩の呪いによって生きながら醜悪な姿にされたことは、生霊となるくらい憎んでもおかしくない出来事です。この後『四谷怪談』は作品を追うごとに、お梅はいかにも金持ちで身勝手なセレブお嬢様になっていくのですが、木下恵介版の、娘らしいお梅の苦しみは因果応報で済むものでしょうか。<br>
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そもそも、お岩さんはいたわしく残忍な目に遭いますが、彼女だけが格別嫉妬深いとはいえないでしょうし、怨念に関して類まれな霊力を持っていたわけでもないでしょう。古今問わずこういった愛憎劇は頻繁にあって、嫉妬に狂った他の幽霊も日常で多発していいはずなのです。<br>
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今コレを読んでいる諸氏の中にも「……死んで、アイツを祟ってやる！」とか、物騒なことを考えている方も万が一いるかもしれませんが、それでもわたしたちは復讐するため幽霊となって、再びこの世へ現れることなどはできない。<br>
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ではなぜ、『四谷怪談』のお岩さんだけが、一身に恨みを晴らす幽霊の役を背負ったのか。『四谷怪談』のお岩というのは、我々のそういった怨念を集約するように体現し、代弁し、昇華する完全すぎるほどのプロトタイプなのです。<br>
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お岩の物語は特定の誰でもなく、そして同時に我々一人ひとりが抱く怒りや怨みを具現化します。ほとんど黄金律のような、屈辱と憤怒の末の死と、幽霊となって憎い相手に恨みを思い知らせて反省させ、見事関係者全員に祟りをなす、報復の完璧な原型。たいていの愛憎怪談ドラマはこのお話をなぞるだけであり、だから木下恵介版のお梅の恨めしさすら、たとえ一からまた語っても、お岩の物語をただなぞり繰り返すにすぎません。もはやお梅の悔しさすら、古典的悲劇『四谷怪談』という完全な物語の内に、お岩自身が象徴してしまっているのです。<br>
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ただ、たいていは映画においても、本当にお岩の亡霊がとり憑いているのか、伊右衛門が罪悪感から錯乱して幻覚を見ているのかは、ぼかして解釈できるようになっています。映画という虚実ない交ぜの世界ゆえに、見えている幽霊の像が幻覚か本当の亡霊か、境界線が曖昧なところで畳み掛けるこけおどしが続き、伊右衛門は自滅していきます。<br>
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その中で異色なのが、深作欣二監督作品『忠臣蔵外伝　四谷怪談』。この映画の中で伊右衛門は赤穂藩の元藩士で、忠臣蔵の本来なら四十八士目となるはずなのに、怖気づいて直前で脱落した男。『四谷怪談』としては、お梅を初夜の晩に斬り殺すあたりまでは一緒ですが、最後はお岩の祟りではなく、討ち入りへ向かう旧藩の仲間に襲われます。<br>
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クライマックスの赤穂四十七士が討ち入りした吉良邸。そこへ現れたお岩の亡霊は、霊力によって具体的なアクションを起こします。戸板へ自分の死骸を釘で打ちつけた吉良の家臣を、「ハーッ！」の掛け声と共に手のひらからビカッと光を発し、矢を飛ばして射殺すという、幻惑で死に至らしめていたほかのお岩と違い、すっごいアクティブさ。死んだおかげでそんな超能力が身につくなら、恨みつらみを抱えつつ余生を送るより良かったのではとさえ思えてしまいます。<br>
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また、死者がそこまで生前と変わらず自我を持つなら、霊界において死んだ者同士の三角関係がまた始まってしまうんじゃないかと心配にもなりますが、この映画において最後は幽霊となった伊右衛門と、やはり霊化したお梅は切なげに視線を交わしながら、各々の世界へと消え去っていきます。怨霊は念が晴れぬうちは幽霊となってこの世に留まるけれど、それが済むと沈静化し昇華してしまうという、やはり物語上何気なく編まれた法則が彼らを司ります。<br>
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荻野目慶子のキレッぷりはインパクトありますし、湯女だったお岩（高岡早紀）が、彼女を訪ねて風呂屋に現れた伊右衛門に「いらっしゃ～い！お客さん、ここは初めて？」と話しかける、時代を超越した風俗業界っぽさがフレンドリーでイイです。<br>
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お岩さんから時を経て、エポックメイキング的に登場した現代の女の幽霊が、『リング』の貞子と『呪怨』の伽梛子（かやこ）です。彼女たちもやはり、殺害された恨みからこの世に念が留まり、なおかつ憎い相手のみならず、呪いは増幅して無関係な人にまで広がっていきます。風体は両者とも長い髪で顔を隠し、不意に覗いて見える目の狂い方、そして異様な姿勢で至近距離に近づいてくる異形性が戦慄モノ。<br>
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二人の恐ろしさは、貞子はテレビから、伽梛子は階段から這い降りてきて、こちらへと近づいてくる際に最高潮となります。これまでのわたし個人の人生を思い返してみても、他人に這って近づいてこられたことはないですし、二人の醸しだす恐怖は、やはり這いつくばって進んでくるという動作と、俯いた顔や目線がその体勢によって、通常ならありえない位置にあるためではないでしょうか。<br>
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たとえば首吊り自殺などでも、人の死はもちろん即物的に怖いのですが、生理的に恐怖を覚えるのは、「あってはいけない宙に浮いたところに足がある」その違和感です。なおかつ貞子と伽梛子は幽霊で、恐ろしい呪力や霊力を自在に操れる者。<br>
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ならば宙に浮かぶといった幽霊独特の超常現象もできるはずが、心底恐怖を追及するＪホラーはファンタジックなそんな手法を選ばないし、彼女たちは得体の知れない意思で這ってくるのです。まるで、半成仏のまだ純然たる透明な霊ではなく、生身の質感を残すほど強烈な怨念を持った存在であるかのように。<br>
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ゆえに、彼女たちの霊はまだ人間が重力を受けるかのごとく、その体重を感じさせて地を這うし、なおかつ不自然に腹ばいで近づいてくる姿には、普通の人間の心理から逸脱した、狂気の精神が表れます。その狂気はまた、復讐の対象が無限大に設置された、怒りの狂った大きさとも同調しています。<br>
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「這う」というのは、近年のＪホラーの中で見出された恐怖の演出表現です。何気ない動作ですが、「這って近づいてくる人は、下半身に損傷を負うなどなんらかの非常事態か、もしくはまともではない精神状態にあって、どのみち何か恐ろしいことが起きている」ということに、映画演出が気づいた瞬間でした。<br>
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お岩さんにすらあった「恨めしい」という感情はおろか、正気さえ失った異常な挙動。Ｊホラーは彼女たちにそういった狂気の演出を施すことで、より恐ろしい表現と呪いを手中にしたのでした。<br>
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悪や、人々を抑圧する権力と戦う生きた女たちに対し、死んでも戦う女たちは、自分の不幸な死も受け入れず、運命という厳かな自然の摂理にさえ抗っていきます。しかしそんな強力な意志とアナーキーさを持ちつつ、お露やお岩が未練や怨念の虜となるのは、やはり女性らしい愛に根ざした感情ゆえでした。だからこそ、貞子や伽梛子の、無関係な者にまで及んでいく呪いは不条理で恐ろしいのです。<br>
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そしてビデオの中で近づいてくる貞子の、異形でありながらも今までの怪談にはなかった奇妙な生々しさと、現実味。伊右衛門のような悪事を犯すことのない我々にとって、受ける心当たりがある怨念より、都会で不条理に襲いくる災厄の方がリアルな恐怖です。貞子の無差別な殺戮と狂気は、我々が肌で感じ取っている現在の不安と呼応した、まさに現代的怪談といえるでしょう。<br>
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●真魚八重子（まな・やえこ）<br>
ライター。<br>
『映画秘宝』や『TRASH UP!!』などで映画に関する原稿を中心に執筆。<br>
共著に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4861822564/">『戦う女たち』</a>（作品社）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4891947470/">『リビドー・ガールズ』</a>（パルコ）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862483399/">『市川崑大全』</a>（洋泉社）などがある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/anutpanna/">アヌトパンナ・アニルッダ</a>]]>
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<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1243229.html">
<title>真魚八重子「悪女があなたを魅了する――映画でみる魔性の女たち」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1243229.html</link>
<description>担当者より：映画の分野を中心にご活躍中のライター、真魚八重子さんが「悪女」をテーマにご執筆くださった原稿を掲載いたします。また、四方田犬彦・鷲谷花編『戦う女たち』（作品社）にも真魚さんの論考が掲載されていますので、そちらもぜひご覧ください。

配信日：2009/...</description>
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<dc:date>2010-01-24T00:42:40+09:00</dc:date>
<dc:subject>真魚八重子</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>映画の分野を中心にご活躍中のライター、真魚八重子さんが「悪女」をテーマにご執筆くださった原稿を掲載いたします。また、四方田犬彦・鷲谷花編<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4861822564/">『戦う女たち』</a>（作品社）にも真魚さんの論考が掲載されていますので、そちらもぜひご覧ください。<br>
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<u>配信日：2009/05/27</u><br>
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今、テレビで想像通りの悪女を演じてみせている代表例が叶姉妹。その関係はイイ補完の役割が働いていて、いかにも男性を破滅に導きそうな魔性の女である恭子様に対し、穏やかでちょっと隙がある美香様の存在は、茶の間にとって多少親しみやすくする中和の役目を果たします。<br>
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実際、いつもカッと目を見開いている獰猛な印象の恭子様と比べて、先日テレビで見かけた美香様はメイド服を着せられており、司会者の「似合いますよ」の声に「そうかなあ（笑）」と砕けた口調で答え、テレて頭をボリボリ掻いていました。アア、この美香様の隙だらけな仕草がたまらない！<br>
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悪女にはいくつかのパターンや段階があります。一般的に、自分の欲望を最優先するエゴイスティックさが悪女とみなされる要素ですが、なかには「あの人が好きでたまらないから独占したい」という、なりふり構わぬ必死さで利己的な振る舞いに出る女性がいて、そういった悪女には〈けなげさ〉が滲みます。<br>
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映画においてはたとえば、いきなり濃厚ですが、大島渚の『愛のコリーダ』や田中登『実録 阿部定』。情事がエスカレートした挙句、相手を殺してイチモツを切り取ってしまった阿部定の実録犯罪モノです。過激な事件ではあるけれども、愛に耽って果てがなかった一途さが溢れるから、彼女の犯罪は何度も究極の恋愛劇として取り上げられます。<br>
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また、『清作の妻』（増村保造監督）の若尾文子も、狂おしい愛ゆえに常軌を逸した行動に出ます。貧しい家に生まれ、年寄りのもとへ妾奉公をさせられていたお兼（若尾）は、村に戻った今も村人から妾だったことで白眼視されています。そんな中、唯一分け隔てなく接してくれた清作（田村高廣）と恋に落ちますが、日露戦争へ出兵してしまう清作に対し、お兼は彼を失いたくない一心で、清作の身体を傷つける恐ろしい所業に及んでしまいます。そんな愛は到底周囲の理解の範疇を超えており、お兼も他人など度外視してひたすら愛のみを見据え続けます。この村人と女性本人の互いに対する無理解と無視が、一途で情の深すぎる女に「悪女」というレッテルをはることになるのです。<br>
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極端であっても、こういう素直な欲望が見える女性はけなげさが感じられます。しかし悪女には当然もっとタチの悪さがついて回るものであり、金や地位のため自らの肉体を武器にし、のしあがっていく者は悪女のステージがグレードアップします。この悪女には二タイプあり、一方は脊髄反射のように短絡的で、人を踏み台にすることになんの感覚もない女。そしてもう一方は知力で作戦を巡らし、男性をたぶらかしたり、人を踏み台とすることに楽しみや快楽を覚えるような女性です。<br>
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どちらがより悪いかは人によって判断が分かれるところでしょうが、映画作品において前者は『スサーナ』（ルイス・ブニュエル監督）、『私のように美しい娘』（フランソワ・トリュフォー監督）などのヒロインが典型的。とにかく利用できる男は虜にして使い捨て、彼女自身も目先の欲望に囚われるので、場当たり的な行動で結果的に自己破壊につながる場合もあります。本能的に狡猾ですが無思慮ゆえ、野蛮でエゴイスティックな印象です。<br>
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そして後者は『エヴァの匂い』（ジョセフ・ロージー監督）のジャンヌ・モローや、『氷の微笑』（ポール・ヴァーホーヴェン監督）のシャロン・ストーンが代表格でしょう。洗練された悪女で、悪巧みも高尚な趣味のひとつといった風情。叶恭子様はもちろんこの部類に入ります。<br>
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この両者のタイプに魅入られたら、社会的地位を失ってしまったり、貯金をむしり取られるぐらいのことは覚悟した方がいいでしょう。ただどちらも見た目からして悪女であり、用心深い男性なら避けて通れるともいえます。でもこの上に、まだもう一段階恐ろしい悪女がいます。それは見た目が悪女じゃない悪女。<br>
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『ガス人間第一号』（本多猪四郎監督）のヒロインを演じる八千草薫は、まさに絵巻物から抜け出てきたように美しく、品の良い日舞の家元。しかし人を寄せ付けない気位の高さが、どうやら一門の没落を招いたらしく、人をあしらう言動の端々に冷たさが匂います。そして人体実験の失敗でガス人間となった男（土屋嘉男）は、自分の体質を生かして銀行強盗を繰り返し、愛する彼女に貢ぎます。その金を別派の買収や黒塗りの大型車購入など、けっこう派手に使う八千草さん。<br>
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また、怪談映画『生きている小平次』（青柳信雄監督）でも、八千草さんが二股かけた男同士で殺し合いになってしまい、殺害された小平次が幽霊になって何度でも出てくるのを、八千草さんはもう一人の恋人に「出てきたらまた殺しゃいいじゃないか」と、可愛らしく上品なまま言い放っていました。この虫も殺さぬような可憐さ、最凶です。<br>
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悪女の条件はやはり、一般人から読み取れないモノが多いほどステージが上がっていきます。叶恭子様は理解の範疇を超えるという意味ではレベルが高いのですが、見た目がすでに悪女然としている辺り、まだ率直な自己表出といえます。やはり叶姉妹をしてもかなわないのは、死んだ小平次について、彼は幽霊になっても自分に惚れているから「あの人にはきっとわたしは殺せない」とたおやかに平然と口にする、八千草薫です。この可憐で上品に泥沼へ引っ張り込む恐ろしさは、悪女の最上ステージでしょう。<br>
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悪女は関わった人間の人生に波風を立てにやってくる、嵐のような存在です。しかし美貌やグラマラスな肉体、そしてあれよあれよという間に男性を絡めとる情念など、どのタイプであれ突出した引力を持つもの。彼女らの危険度を察知して、人生設計が破綻するような深みにさえはまらなければ、お付き合いはその魅力を堪能できる蠱惑的なひとときのはず。<br>
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ぜひ人生のうち一度くらいは、悪女にいざなわれて日常を逸脱する瀬戸際な経験もしておきたいですね。でも、その際も財布のヒモだけはくれぐれも、きっちり締めておいてください。<br>
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●真魚八重子（まな・やえこ）<br>
ライター。<br>
『映画秘宝』や『TRASH UP!!』などで映画に関する原稿を中心に執筆。<br>
共著に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4861822564/">『戦う女たち』</a>（作品社）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4891947470/">『リビドー・ガールズ』</a>（パルコ）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862483399/">『市川崑大全』</a>（洋泉社）などがある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/anutpanna/">アヌトパンナ・アニルッダ</a>]]>
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