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<title>ビジスタニュース - 芹沢一也</title>
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<title>芹沢一也「『狂気と犯罪』の反響を見る」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1350001.html</link>
<description>担当者より：芹沢一也さんの好著『狂気と犯罪』に寄せられたリアクションに関して、著者自身が2005年にまとめた原稿です。現在、芹沢さんは知の交流スペース「シノドス」を中心として活躍なさっており、その「シノドス」の試みについては、芹沢さんと荻上チキさんのインタビ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-09-22T22:00:25+09:00</dc:date>
<dc:subject>芹沢一也</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>芹沢一也さんの好著<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062722984/">『狂気と犯罪』</a>に寄せられたリアクションに関して、著者自身が2005年にまとめた原稿です。現在、芹沢さんは知の交流スペース<a href="http://synodos.jp/">「シノドス」</a>を中心として活躍なさっており、その<a href="http://synodos.jp/">「シノドス」</a>の試みについては、<a href="http://www.sbbit.jp/article/13736/">芹沢さんと荻上チキさんのインタビュー</a>（聞き手は前田久さん）をぜひご覧ください。<br>
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<u>配信日：2005/06/01</u><br>
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<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062722984/">『狂気と犯罪』</a>は歴史的な事実だけをとってみれば、それほどレアな事柄を扱っているわけではない。それでも、本書を読んだ人々の反応としてまずあげられるのは、「知らなかった」ということだった。精神医療や刑事司法の歴史を知らなかっただけではない、いま現在、日本には世界一多くの精神病院とベッドが存在している事実を知らなかったというのだ。<br>
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また、各章それぞれに対する反響があった。文明が貧困や「狂気」など、文明に相容れないものを排除していくプロセス（第一章）に、ある種の文化論的な分析のモデルを見出した人もいれば、警察と「狂気」の管理が結びついていく「相馬事件」の描写（第二章）に、歴史的な読物としての面白みを感じてくれた人もいる。あるいは、残酷な身体刑を科していた江戸時代の刑罰が、監獄における矯正という近代的な刑罰に転換し、そうしたなかで「狂気」が法の世界から排除されていったことに（第三章）、思想史的な作業の醍醐味を味わってくれた人もいた。<br>
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そして、戦前にはまったく振るわなかった精神医学が、「狂気」と犯罪を結びつけながら社会的に力をもち（第四章）、戦後になって巨大な精神病院群が現われ、そこに精神障害者たちが隔離されていく歴史に（第五章）、われわれが現に生活する社会における排除のリアリティを感じ取ってくれた方もいた。<br>
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だが、本全体への反応として何よりも多かったのは、刑法39条（心神喪失者には罪を問うことができない）の問題をより深く考えるのに役立つというものだった。批評家の方々にもおおむね好評で、「近代社会を根源的に問い直す一冊」（呉智英氏）や「思想史の冒険」（宮崎哲弥氏）などと評価された。「社会防衛」への目配りがないという批判もあったが、「なぜ精神障害者のみが社会防衛の対象とならねばならなかったのか」というのがテーマである本書に対しては、そのような批判はいささか的外れなものだと思われた。<br>
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とはいえ、凶悪な犯罪が頻発しているようにみえる現在、確かに社会防衛への欲求が生ずるのは不可避なことかもしれない。それゆえ、少年犯罪、精神障害者や人格障害者による犯罪、そして性犯罪といったここ十年ほどのトレンドを追うことによって、現在、われわれの社会が抱えつつある不安の根源を明らかにする作業にとりかかっている。<br>
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●芹沢一也（せりざわ・かずや）<br>
1968年生まれ。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了。専門は近代日本思想史、現代社会論。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4788507757/">『〈法〉から解放される権力』</a>(新曜社)、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062722984/">『狂気と犯罪』</a>、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062723565/">『ホラーハウス社会』</a>(ともに講談社＋α新書)、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862483682/">『暴走するセキュリティ』</a>(新書ｙ)。<br>
サイト：<a href="http://synodos.jp/">シノドス</a>]]>
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<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1241479.html">
<title>芹沢一也「日本思想における国家とは何か――『北一輝　国家と進化』を読む」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1241479.html</link>
<description>担当者より：知の交流スペース「シノドス」を中心に活発に活動をされている芹沢一也さんによる、嘉戸一将『北一輝　国家と進化』（講談社）の書評です。また、「シノドス」の試みについては、芹沢さんと荻上チキさんのインタビューをご覧ください。

配信日：2010/01/13


北...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-01-20T15:15:30+09:00</dc:date>
<dc:subject>芹沢一也</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>知の交流スペース<a href="http://synodos.jp/">「シノドス」</a>を中心に活発に活動をされている芹沢一也さんによる、嘉戸一将<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062787598/">『北一輝　国家と進化』</a>（講談社）の書評です。また、<a href="http://synodos.jp/">「シノドス」</a>の試みについては、<a href="http://www.sbbit.jp/article/13736/">芹沢さんと荻上チキさんのインタビュー</a>をご覧ください。<br>
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<u>配信日：2010/01/13</u><br>
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北一輝ほど多様な解釈を誘う思想家も珍しい。手元の日本史辞典をめくってみると、「大正・昭和期の国家主義運動指導者」と規定されてはいる。だが、つづく簡単なプロフィールを一瞥するだけで、そのような明確な像はすぐさま揺らぐ。<br>
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1906(明治39)年、『国体論及び純正社会主義』を出版。明治憲法を読み解くことで、国体論から社会主義を論ずる。その後、辛亥革命に身を投じ、中国革命同盟会・黒龍会にあって宋教仁を支援。だが、中国の排日運動が激化すると、日本国内の改革優先を痛感し、『国家改造案原理大綱』(加筆され『日本改造法案大綱』)を執筆。これが後に、皇道派青年将校に多大な影響を与える。1920(大正９)年、大川周明に迎えられ国家主義運動を行う結社・猶存社に参加。1936(昭和11)年の2・26事件では直接関与しなかったが、民間側の中心人物として死刑となる。<br>
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ざっとみただけでも、社会主義、憲法論、国体論、亜細亜主義、国家改造、国家主義、軍とクーデターと、そのひとつひとつが日本思想史上の一大トピックとなるようなテーマに、北一輝の思想と行動はまたがっている。<br>
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それゆえ、論者の力点のおきどころによって、その都度、異なった相貌をもった北一輝が現われる。その分裂具合も極端であって、「ファシスト」や「超国家主義者」とレッテルが貼られたかと思えば、政治的な立ち位置としてはまったく反対の、「民主主義者」や「社会民主主義者」といった評価を受けたりもする。<br>
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こうした分裂的な様相を生み出してきたのが、北のふたつの主著のあいだに横たわる、きわめて大きな〈差異〉である。一方には、民意にもとづく議会での社会主義革命を説いた『国体論及び純正社会主義』。そして他方には、軍隊主導の暴力革命を唱えた『日本改造法案大綱』。<br>
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容易には埋めがたいこの差異に、国家論の視角から挑んだのが本書<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062787598/">『北一輝　国家と進化』</a>（講談社）である。<br>
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著者の主張は以下のように明快だ。ふたつの主著のあいだの差異を、左から右への旋回、社会主義から国家社会主義への転向として、つまりは思想的な〈断絶〉として評価してはならない。たしかに革命の方法論上の〈転回〉はある。しかしながら、そこに国家思想の根幹に関わるような断絶など存在しない。北一輝の国家思想の核心は一貫して不変なのだ、と。<br>
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ではなぜ、転回は生じたのか。しかも、議会の民意から軍隊の暴力へという、どうみても180度の転向としか思われない転回が。それを解くためのカギは、北の国家概念にあると著者はいう。北一輝はじつは終生変わらぬ国家社会主義者であった。このことが初期にあっても、幸徳秋水などの明治社会主義者と北とを隔てたのだが、問題は北一輝にとって国家とは何だったのかだ。<br>
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著者の説明に耳を傾けよう。北にとって国家とは、人間の理想状態が実現される場所であった。それは「実在する有機体としての国家であり、天皇と国民とが一体と化した物理的実在の国家」である。したがって、そこでは民主主義と国家主義は一致する。しかもそれはプラトン的なイデアであって、そしてここがきわめて独特なのだが、プラトンと違ってそれは物理的実在として実現されうると北は信じた。<br>
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イデアを実在化する存在は誰かといえば、もちろん神だということになる。では神とはいったい誰か。この問いにおいて、北一輝の転回が画される。『国体論及び純正社会主義』にあっては、人は神たる「神類」へと進化して、イデアの実在化をもたらすとされた。社会主義とはそのための手段にほかならなかった。<br>
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だが、中国での革命を通じて、北は人の「神類」への進化を待つことを断念する。とはいえ、北一輝の国家概念と、それへの信が持続しているとするならば、いまだイデアを実在化するためには神が必要であることに変わりはない。<br>
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どうするか。北一輝自身が神になればよい。「彼自身が神仏となることによって、彼の国家論を真理として保証し、人々にはその真理をただ信じ、忠実に実行せよと命じる」。これが『日本改造法案大綱』に示された、天皇の号令下における軍事クーデターの内実だ。<br>
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クリアな分析であることは間違いない。北一輝の思想がもつ構造を、きわめてロジカルにあぶりだした本書によって、数多の論争に終止符が打たれるはずだ。だが、脱神秘化され尽くした北一輝を前にしたとき、面白味が消えてしまっているのも否みがたい。思うに思想家論には、いくばくかの神秘化が必要なのだ。<br>
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とはいえ、本書には通常の思想家論とは異なる面白味が随所にある。北一輝の思想の輪郭を浮かび上がらせるために、さまざまな思想家との比較が次々となされていくのだが、そのような作業に際して、日本思想において国家論を支配していた構造のようなものが、ときに垣間見える瞬間があるのだ。じつはこれこそが、本書の醍醐味ではないか。<br>
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おそらく、著者の才は、個々の思想家をこえたところにある、そうした言説構造を明るみに出すことにこそ、もっとも奉仕するものではないだろうか。この私の直感は、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4753102653/">『明治国家の精神史的研究』</a>（以文社）に収録された、同じ著者の「「忠君」と「愛国」――明治憲法体制における「明治の精神」」という、ブリリアントな論考によっても裏打ちされると思う。<br>
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日本思想において国家とは何だったのか。この問いに答えることのできる数少ない論者が、著者・嘉戸一将だと確信している。<br>
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●芹沢一也（せりざわ・かずや）<br>
1968年生まれ。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了。専門は近代日本思想史、現代社会論。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4788507757/">『〈法〉から解放される権力』</a>(新曜社)、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062722984/">『狂気と犯罪』</a>、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062723565/">『ホラーハウス社会』</a>(ともに講談社＋α新書)、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862483682/">『暴走するセキュリティ』</a>(新書ｙ)。<br>
サイト：<a href="http://synodos.jp/">シノドス</a>]]>
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