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<title>ビジスタニュース - 瀧坂亮</title>
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<title>瀧坂亮「セカンド・サマー・オブ・ラブ世代って？」</title>
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<description>担当者より：音楽や映像などの分野でご活躍中のライター・瀧坂亮さんが「セカンド・サマー・オブ・ラブ」の世代について2007年に書いたものです。ご一読のほど。

配信日：2007/10/24


「セカンド・サマー・オブ・ラブ直撃世代だから」。これは先日「インターネット先進ユー...</description>
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<dc:date>2010-07-20T13:30:30+09:00</dc:date>
<dc:subject>瀧坂亮</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>音楽や映像などの分野でご活躍中のライター・瀧坂亮さんが「セカンド・サマー・オブ・ラブ」の世代について2007年に書いたものです。ご一読のほど。<br>
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<u>配信日：2007/10/24</u><br>
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「セカンド・サマー・オブ・ラブ直撃世代だから」。これは先日<a href="http://miau.jp/">「インターネット先進ユーザーの会（MIAU）」</a>を発足した津田大介氏が、わざわざ手弁当の任意団体を立ち上げる自身の理由として述べた言葉だ。<br>
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そんな世代、ほんとにあるの？　というのはともかく、彼が名指そうとしている気分はなんとなくわかる。要するに世界史が動いて見えた89年から３～４年の間のあの感じ、カオスではあってもポジティヴだった時代感が原体験としてあるということだろう。<br>
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セカンド・サマー・オブ・ラブ（SSOL）とは、88年からイギリスで起こったダンス・ミュージックのムーヴメントだ。スペインのイビザ島から来た多幸性の新ドラッグ「エクスタシー」とアシッド・ハウスと呼ばれる音楽、そして野外や倉庫で開かれる享楽的なレイヴ・パーティの興隆は、まるで67年のヒッピー・ムーヴメント（＝サマー・オブ・ラブ）の再来を思わせた……というのが、教科書的な説明になる。<br>
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が、「SSOL直撃世代」といえる当時10代の団塊ジュニアたちは、すぐにそんな「ダンスとドラッグによる解放」を体験できたわけもなく、基本的には輸入盤CDや雑誌記事を通して幻想のSSOLを育んでいたわけだ。<br>
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例えば、当時もっとも影響力があったバンド、ストーン・ローゼズのジョン・スクワイアは「90年代はオーディエンスが主役になる」と予言した。ステージ上の大アーティストではなく、観客なり草の根のパーティこそが何かを生む、何かができる。こうした一種のDIY思想が、ある種の時代背景もあって歓迎された。<br>
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ベルリンの壁が崩れてソ連邦もなくなり、昭和天皇は崩御して土井たか子社会党がブームになったりもする「山が動く（Move Any Mountain）」時代。これに円高を背景とした輸入文化消費が重なれば、妙に世界史的で、コスモポリタンな高揚を呼び起こすことにもなるだろう。<br>
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さまざまなインディー・レーベルや新しいタイプのバンドが登場し、それに呼応したミニコミ／リトル・マガジンが発刊された。92年創刊のインディー雑誌『Bar-f-Out!』の巻頭言は、ロンドン、パリ、東京の「クール・レジスタンス」たちとの会合と連帯を伝えている。なんとキザな……と言いたくなるけれど、当時はそんな大口にもそれなりにリアリティがあったのだ。それを橋本治にならって「90年安保」とか呼んだら、やっぱり言い過ぎだろうか。<br>
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その後日本でも90年代を通してレイヴ的なものは定着したし、快楽主義の負の側面が爆発したスーパーフリー事件なんてのもあり、美しい夢ばかり見てはいられなくなった。しかし90年代初頭のサブカルチャーをめぐる理念先行の「気分としてのSSOL」、たかがバブルの余韻の小春日和と片付けるのは早急だろう。当時のチルドレンが大人になり、蒔かれた種が花咲きはじめたのはいまかもしれないからだ。<br>
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●瀧坂亮（たきさか・りょう）<br>
編集／ライター。<br>
執筆参加に『音楽誌が書かないＪポップ批評』シリーズ（宝島社）など。<br>
サイト：<a href="http://omo-8.blogspot.com/">omo*8</a>]]>
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1226992.html">
<title>瀧坂亮「あの娘はハデ好き　飯島愛の15年戦争」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1226992.html</link>
<description>担当者より：音楽や映像などのテーマを中心にご活躍中のライターの瀧坂亮さんに昨年末急逝した飯島愛について論じていただいたものを掲載いたします。

配信日：2009/02/12


「あの娘はハデ好き　友達がいっぱい／だけど入院した時　来たのはママだけ」 

「あの娘はハデ好...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2009-12-24T08:45:02+09:00</dc:date>
<dc:subject>瀧坂亮</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>音楽や映像などのテーマを中心にご活躍中のライターの瀧坂亮さんに昨年末急逝した飯島愛について論じていただいたものを掲載いたします。<br>
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<u>配信日：2009/02/12</u><br>
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「あの娘はハデ好き　友達がいっぱい／だけど入院した時　来たのはママだけ」 <br>
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「あの娘はハデ好き　いつも楽しそう／だけどクリスマスの夜　淋しく過ごした」 <br>
（「あの娘はハデ好き」作詞・飯島愛、1993年）<br>
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2008年のクリスマス・イブに報じられた、タレント飯島愛の訃報。すわ自殺か、と一瞬思われたものの、その後の報道では「死後数日経過していた」「死因は肺炎らしい」と、想像以上に寂しく孤独な最期が明らかになりつつある。<br>
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冒頭に引いたのは、彼女の２ndシングルの歌詞だ。この予言的な内容が本人の手によるものだとは、まったく因果な話である。<br>
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飯島愛はバブル崩壊後の92年３月にAVデビューした。72年生まれの意外な“団塊ジュニア”世代でもある。デビューと同時にテレビ東京系のお色気バラエティ番組『ギルガメッシュないと』でのＴバック姿が人気を博し、翌年には司会に昇格。また次第に一般トークバラエティにも活動の場を広げ、コメンテイター的ポジションを得る。<br>
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さらに2000年の著書『プラトニック・セックス』（小学館）は100万部を超えるベストセラーとなった。14歳から家出を繰り返し、ディスコやラブホテルを渡り歩いて、次第にクラブのホステスやAVの仕事をするようになっていった自身の10代～20代前半を振り返った半自伝的エッセイだ。波瀾万丈なエピソードに時おりポエムのような日記を織り交ぜた不幸語りのスタイルは、のちの「ケータイ小説」に通ずるものとも言われている。<br>
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AV女優への道を進んだ家出少女から、全国区のテレビタレントへ。飯島愛が体現した運と才能の物語は、ある種の女の子たちにとって希望であり続けた。<br>
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だからこそ、というべきか、『小悪魔ageha』（インフォレスト）の最新号（2009年３月号）は、巻頭２ページにわたって少々行き過ぎた追悼ビジュアルを展開している。キャバ嬢風ファッションに時おりトラウマ的な心情吐露をミックスした誌面が独得な同誌だが、この見開きは“age嬢”モデル44名が黒衣で合掌する中、「大好きです。飯島愛さん、ゆっくりお休みになってください。」と大書されているものだ。まるで五百羅漢のような迫力である。<br>
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もちろん、『プラトニック・セックス』に代表される、親子の断絶、刹那的な夜遊び、濃密な恋愛模様といったドラマティックな要素が、こうした共感や憧れを呼ぶのは当然とも言える。ただ、この人のプロフィールには、そうした紋切り型に収まらないユニークさがあるように思われる。<br>
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例えば、ディスコ通いの挙げ句、DJの彼氏とつき合っていたというのは想像の範囲だが、彼の影響で自分もDJを目指していたというのは、『プラトニック・セックス』には描かれないエピソードだ。15歳でターンテーブルとDJ機材一式を買い、「ミキサーは誰が良くって、レーベルはこう見て、ミックスはこれでって、会話出来るのが幸せ。だから向上心はありましたよ。彼には凄く洗脳されました」（『レコードマップ'96』学陽書房、1995、p.23）。意外な“クリエイター志向”の側面がそこにある。<br>
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実際、AVデビュー前の90年冬にニューヨークへ行った際には、洋服などに目もくれず、現場のDJが使用する12インチ盤ばかり50枚ほども買い込んで帰ってきたのだという。また、現地の大箱クラブ「パラディアム」の天井に流されていたCG映像にはカルチャーショックを受け、後にはこんな発言もしている。<br>
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「で、アタシの夢はねえ、ソーホーのロフトみたいな部屋を借りて、壁を自分の好きな色に塗り変えたりなんかしてね。アートスクールにも通って一人前のCGデザイナーになれたら最高！　いつのことかはわからないけれど、「絶対ニューヨークで暮らすんだ！」」（『どうせバカだと思ってんでしょ!!』徳間書店、1994、p.215）。<br>
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ちなみにこの本の表紙は、Macintosh Quadora 800を駆使した、CGアーティスト飯島愛の処女作だ。19歳になったばかりの彼女が、1000万円の契約金と引き換えにAVデビューを決心したのは、この“ニューヨーク移住”への憧れゆえだった。逆に言えば、セクシー・アイドルとしての職業意識は微妙なものだったことがさまざまな発言からも伺える。<br>
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筆者には、『ギルガメッシュないと』の“卒業式”での彼女の姿が印象に残っている。同僚の女の子たちに花束を贈られながら、「みんなお尻出して、恥ずかしかったよね。でも番組をよくするために、がんばったんだよね」と声をかけていたのだ。仲間の前ではっきりと「恥ずかしかった」と口にする姿に、なんだかこちらも厳粛な気持ちになってしまったものである。<br>
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死の直前まで続いた自身のブログでも、さまざまなサブカルチャー志向が滲んでいた。押井守のアニメや『機動戦士ガンダム』に泣き、カサビアンやアークティック・モンキーズといったバンドを愛し、「FUJI ROCK」や「サマソニ」を楽しむ夏フェス派の音楽ファン。2007年３月の芸能界引退宣言後は、“無職”に窮して「デザイン事務所でバイト」しようかなどと殊勝なことを漏らしたりもしていた。<br>
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そこから感じられるのは、エロから発して芸能人へ、という奇跡の転身を遂げた本人の意志やしたたかさよりも、「よく生き残ってきたなあ」という偶然や運のはかなさだ。冒頭に引いた歌にしても、華やかなイメージの裏側を自虐的なユーモアを交えて歌ったものだった。まばゆい希望のシンデレラ・ストーリーと、あくまで「タレント」止まりに徹した聡明さや身の丈感覚との奇妙な同居。平成不況の15年を駆け抜けた、彼女の孤独な死が複雑な感慨を残したゆえんである。 <br>
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●瀧坂亮（たきさか・りょう）<br>
編集／ライター。<br>
執筆参加に『音楽誌が書かないＪポップ批評』シリーズ（宝島社）など。<br>
サイト：<a href="http://omo-8.blogspot.com/">omo*8</a>]]>
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