<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rdf:RDF
 xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
 xmlns="http://purl.org/rss/1.0/"
 xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
 xmlns:taxo="http://purl.org/rss/1.0/modules/taxonomy/"
 xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
 xmlns:syn="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
 xmlns:admin="http://webns.net/mvcb/"
>
<channel rdf:about="http://bisista.blogto.jp/">
<title>ビジスタニュース - 紙屋高雪</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/</link>
<description>
</description>
<dc:language>ja</dc:language>
<admin:generatorAgent rdf:resource="http://blog.livedoor.com/?v=2.0" />
<items>
 <rdf:Seq>
  <rdf:li rdf:resource="http://bisista.blogto.jp/archives/1329252.html" />
  <rdf:li rdf:resource="http://bisista.blogto.jp/archives/1300907.html" />
  <rdf:li rdf:resource="http://bisista.blogto.jp/archives/1259761.html" />
  <rdf:li rdf:resource="http://bisista.blogto.jp/archives/1214685.html" />
  <rdf:li rdf:resource="http://bisista.blogto.jp/archives/1210217.html" />
 </rdf:Seq>
</items>
</channel>

<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1329252.html">
<title>紙屋高雪「ドラえもんの革命、マルクスの革命」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1329252.html</link>
<description>担当者より：紙屋高雪さんがドラえもんとマルクスをクロスさせて論じた原稿です。文中にある「ぼくはマルクスの『資本論』を漫画（劇画）で出版する企画」は、『理論劇画　マルクス資本論』（かもがわ出版）として刊行されました。そちらも併せてご一読ください。

配信日：2...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-07-30T00:30:48+09:00</dc:date>
<dc:subject>紙屋高雪</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>紙屋高雪さんがドラえもんとマルクスをクロスさせて論じた原稿です。文中にある「ぼくはマルクスの『資本論』を漫画（劇画）で出版する企画」は、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4780302579/">『理論劇画　マルクス資本論』</a>（かもがわ出版）として刊行されました。そちらも併せてご一読ください。<br>
<br>
<u>配信日：2009/03/04</u><br>
<br>
<br>
「ドラえもんの道具で欲しいものは何？」という問いかけを小さい頃、一度くらいはしたことがあるだろう。<br>
<br>
ぼくはいつも「もしもボックス」だと答えていた。「もしも……だったら」と、その電話ボックスに入って電話すると、その仮定どおりの世界が実現するという道具である。なぜこの道具がほしいかというと、これがあれば「もしもぼくがタイムマシンを持っていたら」とか「もしもぼくがどこでもドアを持っていたら」といったように、どんな道具でも出せるからである。<br>
<br>
まあ、そんな賢しらなガキの話はどうでもいい。 この「もしもボックス」は、そんな思い出話のためにあるのではなくて、藤子・Ｆ・不二雄（以下「Ｆ」と略す）のＳＦ的世界観を最も濃縮して表現している道具だといえるのだ。「もしもボックス」は『ドラえもん』中で何度も登場する道具だが、ぼくが一番印象に残っているのは、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4091401058/">15巻</a>（小学館てんとう虫コミックス）に登場する「あやとり世界」での使用だ。<br>
<br>
のび太の取り柄は、あやとりしかない。勉強でもスポーツでも圧倒的劣位におかれている彼は、スクールカーストの最下層の存在だ。多くの同級生から蔑まれ、あるいは無視されるのび太にとって、日常世界は承認を得られぬ不満だらけの世界である。<br>
<br>
そこで、のび太は「もしもボックス」を使って、あやとりの能力こそが学校での尊敬度はもちろん、将来の社会的地位までも約束するという世界に変えてしまうのである。ちょうど「偏差値」のかわりに「あやとり能力」をもってくるようなものだ。<br>
<br>
のび太がまるで事のついでのようにその華麗なあやとりを街角で演じてみせると、衆人は瞠目するのである。あるいは、その世界にはあやとりのプロがスポーツ選手のように存在し、そこでの成功者は莫大な収入を得ている。そして、のび太はそこからスカウトされるまでになるのである。<br>
<br>
「あやとり世界」では、ふだんの『ドラえもん』のエピソードにはないくらい濃密に、この価値の転倒を描いていく。学校制度における「偏差値」で編成されたヒエラルキーを一度転覆させてみたいという、ぼくらの世代の顕在的・潜在的欲求に対して鮮やかに応えるとともに、偏差値序列の世界というものは、客観的に見るとどういうものなのかということを逆にあぶり出してもいる。<br>
<br>
さらにこの作品のオチは、「手がゴムまり」だからあやとりができないドラえもんは自尊心を傷つけられ、激高したドラえもんによって元の世界に戻されてしまうというもので、なかなか笑える。<br>
<br>
ＦのＳＦは、社会的価値を転倒・逆転させるものに優れたものが多いとぼくは思う。短編<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4091920624/">『気楽に殺ろうよ』</a>はその白眉である。そこでは、性欲が公然化され、食欲が隠蔽される。そして殺人が公認されているのだ。<br>
<br>
日常に当たり前に存在するものが社会的価値の転倒によってまったく別のものになってしまうという爽快感は、まさに革命が果たす仕事そのものである。革命はそれまで価値のあったものを無価値に変え、逆に無価値のものを価値あるものに変える。<br>
<br>
レーニンはかつて、次のように述べた。「われわれが世界的規模で勝利したあかつきには、われわれは世界のもっとも大きないくつかの都市の街頭に金の共同便所をつくることになろうとおもわれる」（<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B000JBJUR4/">全集33巻</a>、104ページ）。<br>
<br>
ここでいう金とは無論goldのことだ。この「金の公衆便所」論はわりと有名で、ネットでも紹介している人がいるようなのだが、どうもレーニンが労働者階級へ過剰なサービスをした話だと思っている人もいる。しかし、そうではない。<br>
<br>
これは、社会主義では労働配分を計画によって行うことになるので、商品交換（市場）が盲目的な調整作用によってそれを行う必要はなくなり、商品が廃止され、貨幣もまたなくなり、金（gold）は不要になる、という革命観にもとづいているのだ。<br>
<br>
金が要らなくなった社会では、そんなもののために多くの人が苦しめられてきた歴史の記念碑として便所の材料にでもしてやろうじゃないかというレーニンの皮肉である（政治的公正さのために付け加えておくと、ぼくは商品や貨幣の廃止を社会主義に必然的なものだとは思っていない）。<br>
<br>
現在、ぼくはマルクスの『資本論』を漫画（劇画）で出版する企画にかかわっている。だから、いま『資本論』に首っ引きなのだが、それを読んでいると、ぼくらが日常当たり前に目の当たりにしている商品だの貨幣だの資本だの賃金だのという存在が、いかに歴史的に特殊なものかを嫌というほど思い知らされる。<br>
<br>
とくに他の時代の経済体制と資本主義経済との比較をしばしばマルクスは『資本論』で行う。そのとき、読者であるぼくらは、社会的に当たり前だと思っている価値を軽々と転倒させられ、商品だの貨幣だの資本だの賃金だのという「日用品」とは別の世界のことを想像させられてしまうのだ。<br>
<br>
20世紀初頭のロシアにおいては第一級の「マルクス読み」であったレーニンは、そこからイメージを発展させて「金の公衆便所」なんていうことを考え出したのだろうと思う。この爽快感は、ＦのＳＦを読んだときの爽快感に通じるものがある。空想によってたどり着いた感覚と、社会科学にとってたどり着く結論が似通うのは面白い現象だ。<br>
<br>
レーニンは、アリストテレスの『形而上学』についてのノートを作っているが、そのノートに次のように書き付けている。「もっとも厳密な科学においてさえ、空想の役割を否定することはばかげている」（<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B000JBM9UE/">全集38巻</a>、338ページ）。思考を飛躍させる力こそが、卑俗な日常から精神を解き放つことができるのである。<br>
<br>
<br>
●紙屋高雪（かみや・こうせつ）<br>
紙屋研究所所長。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4806713562/">『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』</a>（築地書館）がある。<br>
また、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4780302579/">『理論劇画　マルクス資本論』</a>（かもがわ出版）では、構成・解説を担当した。<br>
サイト：<a href="http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/">紙屋研究所</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1300907.html">
<title>紙屋高雪「マンガから聞こえるナショナリズム」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1300907.html</link>
<description>担当者より：紙屋高雪さんにマンガを通してナショナリズムを論じていただいた原稿です。ご一読ください。

配信日：2008/04/23


ぼくの住む福岡県の公立小学校の一部で実際に使われている道徳のテストを紹介しよう。

【問】正代さんの住む町は、歴史と伝統のある町で、文化...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-05-22T15:40:22+09:00</dc:date>
<dc:subject>紙屋高雪</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>紙屋高雪さんにマンガを通してナショナリズムを論じていただいた原稿です。ご一読ください。<br>
<br>
<u>配信日：2008/04/23</u><br>
<br>
<br>
ぼくの住む福岡県の公立小学校の一部で実際に使われている道徳のテストを紹介しよう。<br>
<br>
【問】正代さんの住む町は、歴史と伝統のある町で、文化財もたくさんあり、国内、国外からの観光客も少なくありません。また、「ふるさとの町をよくする案」の募集も始まりました。正代さんは、自分も案を出そうと思いました。正代さんは、いつも自分の町に対して、どのような気持ちでいるでしょうか。<br>
<br>
ア　この町が大好きで、ほこりにしている。<br>
イ　この町を特に好きでもないし、あまり守ろうとも思わない。<br>
ウ　この町の文化や伝統を、進んで守っていきたい。<br>
エ　特にこの町を好きだとは思わないが、大切にしなくてはならない。<br>
<br>
ちなみに各選択肢の配点は、ア＝３点、イ＝１点、ウ＝４点、エ＝２点。<br>
昨年度は全国で38万の小中学生がこの業者のテストを受けている。テスト結果の評価コメントには、重点的な指導が必要な項目として、「愛国心」「郷土愛」などが挙げられていた（朝日新聞2008年４月10日付。テストは図書文化社のものより抜粋）。右派からみても、こんな陳腐なテストを通してナショナリズムを子どもに教えられてはたまったものではないだろう。<br>
<br>
ナショナリズムは本来、身分の差や部族の違いをこえて、みんな「平等」な国民となり、お互いを「友愛（同胞愛）」で結び、「自由」な政治主体（公民）としてその国をよくする義務を果たそうという運動、エートスである。「国＝同胞のために死ぬ」という義務が問われる「戦争」では、それが最も極端に現れる。<br>
<br>
学校で使うかどうか別として、若い人にナショナリズムを考えてもらうなら、漫画がいい。中でもアニメ化もされた人気作である、鬼頭莫宏<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4091885020">『ぼくらの』</a>（小学館）は最適だ。<br>
<br>
そんなことをいうと怒る人もいるだろう。<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4091885020">『ぼくらの』</a>は日常の中ではぼんやりとしている倫理観や人間観をクリアにするために、戦争という極限状況の設定を借りているだけなのだから、それを「ナショナリズムの書」として読むのはあまりに表層的だ、と。そういう批判を承知で以下続けてみる。<br>
<br>
<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4091885020">『ぼくらの』</a>は、臨海学校で出会った１５人の少年少女が「ジアース」と呼ぶ戦闘ロボットに乗り込むことになり、敵のロボットと順番に戦う物語である。１勝ごとにパイロットは必ず死ぬ。もし負ければ地球ごと破滅する――これがルールだ。<br>
<br>
15人の少年少女は、ぼくらと同じような日常生活を過ごしている。『ダ・ヴィンチ』誌編集長の横里隆は「まるで中学生日記のような」とそこに描かれた日常を評した。サッカーで人気者の少年。いじめにあっている少女。幼い弟妹を養っている少年……。そのあまりの日常性ゆえに、物語がするりとぼくらの心に入ってくる。<br>
<br>
少年の一人・切江洋介は、アクション映画でヒーローの生死と同等に、戦闘で犠牲になる名もない無数の住民のことが気になる。「すべての命は等価だ」というわけである。自分が相手を倒せば、「相手側の地球」が消滅し、100億もの命が消えるのだ。<br>
<br>
これは戦争で必ず出会う現実である。<br>
<br>
命が等価であれば、自分が負けて相手側の100億の命を救っても悪くはない。だが、そのとき切江は“世界中の命は自分にとって等価ではありえず、自分につながる愛しい者を優先させるエゴが必ず働く”と一人の軍人に諭される。例えばぼくらが食べる肉は何かの命の犠牲だ。今すでに自分の生は誰かの犠牲の上にある。命を差別している。それに気づかずに安易な生命賛美をするな、と。他人の命と愛する者の命なら後者を選べ、「愛する者のために戦う」がベターなのだと説得される。<br>
<br>
そういえば、とぼくは思い出す。宮沢賢治は菜食主義だった。自分の命が何かを犠牲にして成り立っていることを拒否しようとしたためだ。だが、それでも賢治は懊悩した。「命は等価だ」という主張を本気で徹底させるとはそういうことなのだ。<br>
<br>
自分をこえたもののために命を投げ出す。そのとき「国のため」と言うよりも、「愛するたった一人のため」と言ったほうが現代でははるかに説得力がある。現代の戦争映画の多くがこのロジックをとるのもそのためだ。<br>
<br>
ゆえに、本作を批判するにせよ受け入れるにせよ、「中学生日記」的日常に暮らす少年少女が、愛する人たちを守るという気持ちを媒介にして命を投げ出す<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4091885020">『ぼくらの』</a>ほど、ナショナリズムを考えるうえでリアリティに満ちた漫画はないだろう。<br>
<br>
切江は敵のパイロットにも会う。切江は敵も自分たちと同じような人間なのだ、と感じた。だが、同じだと感じたからこそ、切江は互いが自分の世界に責任を負って戦うのが義務じゃないかと思い、戦闘を始めるのである。<br>
<br>
戦争の正邪についての判断を止め、抽象的な「任務の遂行」という美学の中に自分の死を意味づけた切江の決意は、太平洋戦争の特攻で死んだ学徒兵が日記に次のように記した苦悩と瓜二つである。「戦の性格が反動であるか否かは知らぬ。ただ義務や責任は課せられるものであり、それを果たすことのみが、我々の目標なのである。全力を尽くしたいと思う。反動であろうとなかろうと、人として最も美しく崇高な努力の中に死にたいと思う」（<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4003315715/">『きけ わだつみのこえ』</a>）。<br>
<br>
「ナショナリズムなんてばっさり否定してしまえば話は早いだろ？　それはサヨクのお家芸じゃねーの？」という人がいるかもしれない。よく「プロレタリアは祖国をもたない」という『共産党宣言』の一節をひいてマルキストは反ナショナリズムだ、と言われる。しかし、この一文の後に『宣言』が次のように続いていることは意外と知られていない。<br>
<br>
「プロレタリアートは、まず政治的支配をかちとり、国民的階級にみずからを高め、国民としてみずからを組織しなければならないから、ブルジョアジーの意味で言うのでは決してないが、それみずからやはり国民的なのである」<br>
<br>
つまり「プロレタリアは祖国をもたない」というのは、労働者に選挙権すら与えずに「国民の義務」だけ背負わせても、自由な政治主体、すなわち「国民」になりようがねーよ、というマルクス一流の皮肉なのである。マルクス自身が選挙権運動を熱心に支持したように、ブルジョアジーとは異なるナショナリズムを考えていた。<br>
<br>
この世が主権国家の集合体である以上、世の中をよくしようと思えば、その主権国家をよくしていく以外にない。ましてやこの国が対米従属の下にあるという認識をもつぼくは、否応無しにナショナリストであらざるをえないのだ。であるからこそ、ナショナリズムの否定ではなく、「健全なナショナリズム」をつくりだすために、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4091885020">『ぼくらの』</a>を読んで考えてみるのである。<br>
<br>
<br>
●紙屋高雪（かみや・こうせつ）<br>
紙屋研究所所長。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4806713562/">『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』</a>（築地書館）がある。<br>
また、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4780302579/">『理論劇画　マルクス資本論』</a>（かもがわ出版）では、構成・解説を担当した。<br>
サイト：<a href="http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/">紙屋研究所</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1259761.html">
<title>紙屋高雪「マンガで労働を考えて何が悪いか！」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1259761.html</link>
<description>担当者より：『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』（築地書館）の著者で、人気サイト「紙屋研究所」でもお馴染みの紙屋高雪さんに、以前マンガを通して「労働」について論じていただいたものを改めてアップいたしました。

配信日：2007/11/21


ＩＴ業界の重鎮と理系学生た...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-02-26T18:55:10+09:00</dc:date>
<dc:subject>紙屋高雪</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4806713562/">『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』</a>（築地書館）の著者で、人気サイト<a href="http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/index.html">「紙屋研究所」</a>でもお馴染みの紙屋高雪さんに、以前マンガを通して「労働」について論じていただいたものを改めてアップいたしました。<br>
<br>
<u>配信日：2007/11/21</u><br>
<br>
<br>
ＩＴ業界の重鎮と理系学生たちの討論会が最近あり、学生たちがＩＴ業界のイメージを「きつい、帰れない、給料が安い」の「３Ｋ」でネガティブに語ったのにたいして、お偉方たちが色をなして反論した。「3Kの“帰れない”は、帰りたくない人が帰れないだけ」「スケジュール管理の問題」などと。<br>
<br>
おいおい、いくらなんでもそれはないだろう。そのうえで、かの重鎮はこう付け加えた。「私は40年間近くIT業界で仕事しているが、何が一番幸せかというと退屈している暇がないことだ。技術が進歩するにつれわれわれの仕事も複雑化してくるが、一生懸命追いかけていくだけでも退屈しない。いい仕事を選んだと思う」<a href="http://www.atmarkit.co.jp/news/200710/31/ipa.html">（＠ＩＴ／07年10月31日配信）</a>。<br>
<br>
労働実態を直視しろよ、というレベルの話はおいておくとして、ここには「労働とはやむを得ざる苦役」だという労働観（学生側）と、「労働をつうじて自己実現をする」という労働観（重鎮側）の基本的な対立がある。この対立でぼくが思い出すのは、評論家の関川夏央が「現代のプロレタリア文芸」だと評した、新井英樹の漫画<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4778320751/">『宮本から君へ』</a>（講談社）であった。<br>
<br>
バブル末期に登場したこの漫画を、同じ連載誌にあった弘兼憲史<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4063606341/">『課長 島耕作』</a>（講談社）にたいする徹底したアンチテーゼだと関川はとらえた。島は大企業に勤め「あまり働いているふうには見えないのに出世」するし、「働いているところなど読者には興味なかろう」といわんばかりに「女性とのつきあいと社内権力闘争のシーンばかりが描かれる」漫画だと見据えたのである。浮世離れした「労働」描写に、ある漫画家はこの漫画を「ＳＦ」と評したほどだ。それほどまでに「島耕作」は根底で労働を嫌悪している。<br>
<br>
これにたいして、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4778320751/">『宮本から君へ』</a>の主人公が「島耕作」と対比して「容貌、性格、趣味」「職業観、職業環境、『業界』をめぐる群像、すべてが挑むように対照的」だと関川は考えた。「垢ぬけない」「騒々しくてくどい」「暑苦しい」主人公が、みっともない営業で自己流に一人前をめざそうとする。そこに反島耕作流の労働観をみたのである。<br>
<br>
「作者（新井）は、労働とはやむを得ざる労苦だという昨今流行の西欧型労働観を敢然と否定している。努力すれば報われると思いたい、金だけが目的ではなく生命の燃焼感と達成感にも意味を感じたい、すなわち労働のなかに自己実現をめざしたいという、日本独特の『危険な思想』が居直るときの、暑苦しいすがすがしさとでも呼ぶべきなにものかが、この作品にはある」（関川<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/416344940X/">『知識的大衆諸君、これもマンガだ』</a>文藝春秋）<br>
<br>
この「労働をつうじた自己実現」という労働観は、現在でも女性漫画に根強い。幾多の障壁をのりこえて社会進出をはたそうとする女性にとって、労働が単なる苦役であってたまるか！　そうした労働観の最前衛に槇村さとるがいる。<br>
<br>
彼女の最新作<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4088653955/">『Real Clothes』</a>（集英社）はデパートの寝具売場から婦人服売場に配置替えになった女性の物語である。仕事では無能なぼくからすると、主人公の女性・天野の働きぶりは完璧にしかみえない。クレーム対応に失敗した部下を、教育的にフォローし、迷っている客をセールストークでなく自然なトークで購買にみちびくのだ。<br>
<br>
しかし、そんな完璧な天野であってさえも、作者・槇村からすればまったく足りないのである。婦人服売場に配属され、服ひとつ満足に売れない。年下の契約販売員から遠まわしにお前はヘアもメイクも垢ぬけないしデブだから、本気で売ろうと思ったら自分を変えろと注文される。いや、少なくとも漫画上のグラフィックをみると天野は十分にかわいいし、中肉中背。それなのになぜ、売れないのはお前がプロとしてのこだわりがないからだ、デブだイモだと罵られなければならないのか。<br>
<br>
そして槇村は、この契約販売員の一言が、最終的には正論であったという流れにしてしまうのである。天野は自分を見つめ直し鍛え直す。なんで！？　ここまで自己改造をかさねて服を売って利益をあげることが、本当に自己実現なのか！？　とぼくなどは思ってしまう。<br>
<br>
自己実現ができる仕事は、実はそれほど多くない。なのに「最初からそんなものは用意されてはいない。自分で切り開くのだ」という説教とともに、労働で自己実現ができるかのように描いてしまう女性誌系漫画は後を絶たないのである。<br>
<br>
<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/409188377X/">『俺はまだ本気出してないだけ』</a>（小学館）という青野春秋のギャグ漫画がある。40歳で本当の自分を探すために会社をやめて（係長だった）、漫画家をめざすという話だ。しかし実力も根拠もなく表題の言葉が彼の自己弁護だというイタイ漫画である。<br>
<br>
この漫画では奇妙なことに主人公は、まず会社に勤めながら漫画を描いてヒットを出す、ということをしない。会社をいきなり辞めてしまうのだ。ここには仕事とは「自分」を実現するものであり、決して片手間でやるものではない、という抜きがたい信念、かたくなな労働観がある。<br>
<br>
その意味において、『俺はまだ本気出してないだけ』の主人公と、槇村さとる的主人公は実は同じ思想の持ち主であり、一味である。<br>
<br>
本当にそれは幸せな労働観だろうか。<br>
<br>
これらにたいして、たとえば、きらたかしの漫画<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4063612570/">『赤灯えれじい』</a>（講談社）は工事現場のバイトで知り合った男女が、恋愛し、同棲し、やがて正規の職をもち、一歩一歩自立していく物語であるが、ここでは労働は決して過剰な「自己実現」の物語としては語られない。<br>
<br>
ヘタレの主人公・サトシは、美女で侠気のあるチーコに「一人前の男」として認められたい一心で恋愛にも労働にも奮闘する。サトシにとって、労働における奮闘とは正社員として安定した職をめざすことだ。はじめは、エロ本のＤＴＰ、つぎにはラブホの事務員として仕事を覚えることに懸命になる。たしかに、多少は技術をあげようという意欲や格闘はあるけども、サトシにとって必要なのは、チーコとの安定した生活の基盤になるような収入である。<br>
<br>
ここでは労働は「自己実現」ではなくて「収入を得るためのやむを得ざる苦役」でしかない。おそらく労働の大半がそういうものだ。「労働をつうじた自己実現」という夢をかなえられるのは、ほんの一部の人ではないかと思えるのだが、いかがだろうか。<br>
<br>
マルクスは若い頃、共産主義社会になって労働が人間を解放させる全面性をもつようになるのではないかと考えたが、後にその考えを捨てた。マルクスが死ぬ頃にたどりついた考えは、どうやっても労働には「やむを得ざる苦役」という面が残る、だから時短をすすめて自由時間をふやしその自由時間でさまざまな能力を発達させて人間を解放しようというものだった（資本主義では機械化は時短にならずにリストラへすすむ）。<br>
<br>
ぼくは結局それがリアルじゃないかと思う。ぼくがこうやって駄文を書き連ねる幸せを獲得できたのは「余暇」のおかげだったのだから（おかげで本まで出せました）。<br>
<br>
そういえば、現代では生産力が発達しているので、社会を維持するだけの「必要労働時間」がどれだけで済むかを、学者が計算したことがあるのだが、１日のうちそれは２時間しかなかった。あとは資本の利潤のために働かされているというのだ。<br>
<br>
これを聞いた左翼の友人が「じゃあ、午前中だけ働いて後は帰れるね」と喜んだものだった。そしてこう付け加えた。「でもさあ、午前中で家に帰ったら、おれ、酒ばっか飲んじゃうよ」と。<br>
<br>
自由時間で能力を発達させる人ばかりではないようだ。うーむ……本当にいちばんリアルなのは労働で自己実現でもなく、自由時間で好きなことにうちこむでもなく、自己実現などせずに余暇を楽しくのんびりだらだら過ごすことかもしれない。<br>
<br>
<br>
●紙屋高雪（かみや・こうせつ）<br>
紙屋研究所所長。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4806713562/">『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』</a>（築地書館）がある。<br>
また、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4780302579/">『理論劇画　マルクス資本論』</a>（かもがわ出版）では、構成・解説を担当した。<br>
サイト：<a href="http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/index.html">紙屋研究所</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1214685.html">
<title>紙屋高雪「マルクスブームは来ているか？」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1214685.html</link>
<description>担当者より：『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』（築地書館）の著者、紙屋高雪さんに昨今のマルクスブームといわれる現象について論じていただいた原稿です。

配信日：2009/11/27


大きな本屋にいくとマルクス関連本が並べられていて、ちょっとしたブームなんだな、とわ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2009-12-02T10:46:20+09:00</dc:date>
<dc:subject>紙屋高雪</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4806713562/">『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』</a>（築地書館）の著者、紙屋高雪さんに昨今のマルクスブームといわれる現象について論じていただいた原稿です。<br>
<br>
<u>配信日：2009/11/27</u><br>
<br>
<br>
大きな本屋にいくとマルクス関連本が並べられていて、ちょっとしたブームなんだな、とわかる。しかし「マルクスブームは来ているか？」という問いの答えを言ってしまえば、「本格的なものは未だ来らず」というのがぼくの答えである。<br>
<br>
主に二つの理由をあげたい。<br>
<br>
一つ目は、まあ言うまでもないことだけど、マルクス自身の文章が難しすぎる、という至極単純な理由による。『資本論』を手にとったものの数ページで挫折をしたという経験は少なからぬ人が持っているはずだ。『蟹工船』のわかりやすさ、読書としての興奮を考えると、比べ物にならぬほどである。<br>
<br>
現在巷間にあふれている「マルクス本」は、このマルクスの難解さを「やさしく読む」ということにむけて書かれたものが圧倒的に多い。「だいたいお前が解説と構成をした<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4780302579/">『理論劇画　マルクス資本論』</a>（かもがわ出版）からしてそうではないか」と言われそうだが。<br>
<br>
こうした解説本では、学者ではなく、学者以外の職業の人々が解説したもののほうがわかりやすく書けている、というのは皮肉なところだ。<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4434101854/">『マルクスる？』</a>（マトマ商事）を書いた木暮太一は広告代理店のサラリーマンだし、嶋崇<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/402273230X/">『いまこそ『資本論』』</a>（朝日新書）は大衆誌の編集者である。<br>
<br>
ぼくが「本格的なマルクスブームは未だ来らず」と思うもうひとつの理由は、現代の最も根源的な資本主義の病理の一つである恐慌についてマルクスの見解であるとするものが「定まっていない」ということにあると見ている。<br>
<br>
マルクスブームの到来ではないか、と一部で言われ始めたのは2006～07年くらいからだろうと思うのだが（出版物が多く出始めたのはその直後）、この時期は日本で「格差と貧困」が大きな問題になってきた時期でもある（実はマルクスブームは海外でも見られるのだがここでは度外視する）。<br>
<br>
この「格差と貧困」をマルクスが説明してくれるのではないか、という声がふくらみ、その声に応えて多くのマルクス本が出版されたのではないかとぼくは見ている。<br>
<br>
マルクスは『資本論』を書いた、とよく言われるが、実際にマルクスの生前に出版までこぎつけたのは３部あるうちの第１部でしかない。<br>
<br>
マルクスはくり返しこの第１部の改稿を試み、自分の満足するものに仕上げることに余念がなかった。しかし余念がなさすぎて、盟友エンゲルスが「早く後の巻に取りかかれ」と忠告したにもかかわらず、２部、３部を出版する前に死んでしまった。<br>
<br>
今回マルクス本で出版されているものにはこの第１部までを解説しているものが目立つ。そして「資本主義的蓄積の一般的法則」と呼ばれる部分であるが、生産力を巨大に解放して物質的には未曾有のものがつくられるはずの資本主義のもとでなぜ「格差と貧困」が生まれるのかを、堅牢な論理のもとで説明しているのが、第１部である。<br>
<br>
だから、「格差と貧困」を説明してくれる人としてマルクスを読むと大変スッキリするのだ。<br>
<br>
ところがである。2008年秋におきたリーマン・ショックを本格的な契機として世界的恐慌が始まった。「派遣切り」や「生産休止」などが次々起きるようになった。<br>
<br>
では、この「恐慌」の説明主として、マルクスは適任者だろうか。前述のとおり、マルクスは２・３部の刊行をせずに死んだのだが、あとには２・３部の準備用メモが膨大に遺された。エンゲルスは、稀代の悪筆であったマルクスの「象形文字」のメモと暗いランプのもとで格闘したために、すっかり目を悪くしてしまったほどだ。<br>
<br>
マルクスの恐慌論の中心は実は２・３部に収められている。ところがたとえば「恐慌」みたいなタイトルでまとまって論じている箇所はなく、遺されたメモを扱ったエンゲルスはマルクスの意図を十分にくみきれなかった。採用しなかった原稿のほうに大事な部分があったり、恐慌にかかわる信用を論じた部分では、膨大な「注」を本文に組み込んでしまったり、研究のための議会報告書の抜粋を載せてしまったりしているのだ。<br>
<br>
これではわけがわからないものに仕上がるはずである。「格差と貧困」についての説明は、今回出たマルクス本はかなりそろっているのだが、恐慌をマルクスはどう説明したか、という点になると驚くほどバラバラになってしまうのはこうした理由からだ。<br>
<br>
ただし、「マルクスは生産と消費の矛盾を恐慌の原因として論じた」というのは有力な定説の一つになっている。利潤を求めて爆発的に解放される生産力にたいし、貧困に沈められている労働者大衆の消費の狭さが恐慌の究極的な原因なのだ、と。<br>
<br>
しかし、「2008年の恐慌は金融恐慌であり、それが実体経済に波及した」と考える論者が多いから、実体経済における恐慌について論じたマルクスの恐慌論本体にはあまり出番がない、とひそかに思っている論者が少なくないのではないか。<br>
<br>
そうすると、今回出たマルクス本の多くが2008年恐慌についてはほとんど論じないか、マルクスが信用や貨幣について論じた部分をあれこれ使って、もっと直裁にいえば、マルクスの言及に「ひっかけて」今回の恐慌を論じるというものが圧倒的多数になってしまうのだ（ぼくの解説した『理論劇画…』もこの範囲のものであると見なされても仕方がないだろう）。<br>
<br>
マルクスの恐慌論そのものから2008年の恐慌を論じたマルクス解説本はほとんど存在しない。その唯一例外といってよい試みは、不破哲三<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4582854613/">『マルクスは生きている』</a>（平凡社新書）であろう。<br>
<br>
マルクスの恐慌論には、（１）恐慌の可能性――物々交換ではない市場経済では売りと買いが分離しているので、どれだけ売れるか分からずにモノをつくるのでそれが恐慌を起こす火種となる（２）恐慌の原因――利潤を求めて過剰な生産がなされ、搾取によって貧困に押しとどめられた労働者大衆の消費が矛盾する――という二つの柱がある。しかし不破によれば、それだけでは恐慌の説明にならない、という。<br>
<br>
資本主義の市場のもとでは需給メカニズムが働くので、モノをつくりすぎたと思ったら普通は資本は撤退する。恐慌の場合、それがなぜ修正不能のところまで不均衡が累積してしまうのかが説明されなくてはならない、と不破は主張する。<br>
<br>
そして、その不均衡を累積させるメカニズムを、マルクスは『資本論』の各種草稿で論じている、というのが不破の研究の結論なのだ。それを一言でいうと、「架空の需要」が積み重なっていくということである。実はマルクスはこのメカニズムを『資本論』草稿のなかで論じているのだが、エンゲルスの編集の不十分さもあって、うまく反映されなかった、と不破は考える。<br>
<br>
そこで、不破は08年恐慌の発端であるサブプライムローンの問題を、「架空需要の累積」として説明し、マルクスの恐慌論の本体から説明するという挑戦をおこなっている。<br>
<br>
いまマルクス派に圧倒的に不足しているのは、08年恐慌をマルクスそのものから説明する試みである。しかもそれはマルクスのあれこれの言及にひっかけて論じるのではなく、マルクスの恐慌論そのものを復元し、それと現実との距離をきちんと計ることなのだ。<br>
<br>
本稿の最初の問いに帰れば、マルクスブームが本格的なものになるかどうかは、その努力にかかっているのだろうとぼくは思う。<br>
<br>
<br>
●紙屋高雪（かみや・こうせつ）<br>
紙屋研究所所長。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4806713562/">『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』</a>（築地書館）がある。<br>
また、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4780302579/">『理論劇画　マルクス資本論』</a>（かもがわ出版）では、構成・解説を担当した。<br>
サイト：<a href="http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/index.html">紙屋研究所</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1210217.html">
<title>紙屋高雪「“政治”入門は漫画から」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1210217.html</link>
<description>担当者より：紙屋高雪さんは、『しんぶん赤旗』『ダ・ヴィンチ』『ザ・スニーカー』など多くの媒体で、主にマンガに関する原稿を多数執筆されている書き手で、読み応えのあるレビューは高い評価を得ています。著書『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』（築地書館）で、それ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2009-11-24T15:05:46+09:00</dc:date>
<dc:subject>紙屋高雪</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>紙屋高雪さんは、『しんぶん赤旗』『ダ・ヴィンチ』『ザ・スニーカー』など多くの媒体で、主にマンガに関する原稿を多数執筆されている書き手で、読み応えのあるレビューは高い評価を得ています。著書<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4806713562/">『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』</a>（築地書館）で、それらのマンガ評論はまとまったかたちで読むことができます。政治とマンガというテーマでこの原稿は執筆していただきました。なお、冒頭で触れられている参院選とは、2007年に自民党が大敗した第21回参議院議員通常選挙を指しています。<br>
<br>
<u>配信日：2007/07/25</u><br>
<br>
<br>
参院選の投票日も近い。それで、争点である年金や格差について……というのも直球すぎるので、ここはひとつ政治に関する漫画をご紹介しよう。<br>
<br>
赤石路代<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/409169201X/">『市長 遠山京香』</a>（小学館）。前市長の息子の嫁かつ推理小説作家が市長になる物語だ。なかなかにむちゃくちゃな漫画である。正直、笑いがこらえられない無謀な展開が多くてステキ。<br>
<br>
舞台は横浜市なみの巨大政令市。なのに、議会の常任委員会をやっている部屋が小学校の教室みたいなところで、しかもパイプ椅子という、政令市の議会では考えられないショボさ（笑）。さらに、常任委員会に市長が出席し、県の役人を呼んで、市議ではなく市長が直接追及しているのである。絶対にありえないとは言わないが、一度でも議会を傍聴したことがあればかなり勇気のある描写である。<br>
<br>
そもそも、こういうディティール以前の問題として、この市長は大量によせられる市民からのメールにすべて目を通し、そこで「事件」の臭いがすると現場に隠密的に出かけていくという設定自体がすごい。そして、ほぼ毎回殺人級の刑事事件が発生。市長が遠山金四郎よろしく正体を明かして事件を解決するという香ばしさだ。<br>
<br>
ドラッグを全市に拡散させる暴力団組長と市長自ら直接対峙。サイレンが聞こえるほどパトカー群が迫っているというのに、組長自身がいきなり市長に銃口を！　組長よ、市長を撃って今さらどうしようと？　タイトスカートの市長はハジキを蹴り上げてたたき落とす。間一髪だ。あぶなかった。<br>
<br>
もう息ができないほど笑うしかない。<br>
<br>
いやいや。今ぼくが述べたような「政治プロ」としてツッコミこそ、この漫画では野暮きわまることなのだ。というか、そういう悪しき「常識」こそ、この漫画は批判しているのである。<br>
<br>
本作は主婦を含む30代前後の女性をターゲットにした漫画誌『月刊JUDY』に連載されている。ターゲット層の読者たちは、議会や役所のコムズカシイ慣習や法令の制約によって「できません」と言われることに腹を立てている。いま目の前にある不合理、それを正してほしいのである。そのために権力を与えたのではないか、と。読者が「いま政治家にすぐやってほしいこと」を何の躊躇もなく実行する、無防備なまでに直裁な漫画が本作である。現実に対して小賢しい遠慮をすることは、この作品の本質を損なうものだ。<br>
<br>
議会などの描写は「むちゃくちゃ」なのに、提起されている住民の要求や生活の皮膚感覚は驚くほどリアル。この作品の最初に、自転車に子どもをたくさん乗せて走るお母さんを「危険」とか「ダサイ」と非難・嘲笑する声が出てくるが、子を持つ身（遠山市長も「ありす」という娘の母）からすれば、身にしみるように理解できる行為なのだ。<br>
<br>
「笑わないでよ　私もやったもの<br>
ありすを乗せて　買い物の荷物のせて<br>
忙しい日の雨の日なんか泣きたくなる<br>
子供が歩くには遠い保育園<br>
時間どおりに来なくて当てにならないバス<br>
仕事中のダンナは当てにならない<br>
車は停める場所がない」<br>
<br>
子を持つ前と後で、この「必死さ」への共感度合いが大きく変わるというのは、ぼくも実によくわかる。他にも、毎日介護する身からすれば、いつまでするかわからない同居者が、ある程度手を抜くのは当たり前で、たまに来て「完璧な介護」を見せる親族のほうがおかしい、とか、無洗米を「主婦の怠け」だという非難に対し、詳細な反論を加えたりとか。<br>
<br>
そのような生活の感覚からすべて出発させる。その目からみれば、「市民からのメールには全部目を通して親身になってほしい」「議会なんてパイプ椅子で十分」「市長が直接県を追及して何が悪いの」「ドラッグをばらまく暴力団を直接乗り込んでこらしめて！」――すべてが「当然」なのである。<br>
<br>
遠山市長の政治哲学は「市民を守る」である。誰も異論はあるまい。しかし、それを生活の感覚でありながら――つまり自分の子どもを守るように、なおかつ政治の最優先原則としてこれを貫くとなるとなかなか“過激”なことになる。しばしば政治においては、財政を口実に、あるいは他のロジックから、このことは忘れられるからである。<br>
<br>
実は地方自治法では自治体本来の仕事は「住民及び滞在者の安全、健康及び福祉を保持」とされていた（現在この条文は「住民の福祉の増進」と改定）。まさに遠山の思想である。<br>
<br>
平凡な市民の願いを貫徹すると、ラジカルな思想と行動になる。「パンと平和」がロシア革命のスローガンであったという。革命とは平凡な市民の願いの実行だ、ただし断固として――とぼくは学生時代、左翼の先輩に教えられたことがある。遠山からそのことを学べるのかも知れない。<br>
<br>
<br>
●紙屋高雪（かみや・こうせつ）<br>
紙屋研究所所長。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4806713562/">『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』</a>（築地書館）がある。<br>
また、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4780302579/">『理論劇画　マルクス資本論』</a>（かもがわ出版）では、構成・解説を担当した。<br>
サイト：<a href="http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/index.html">紙屋研究所</a>]]>
</content:encoded>
</item>

</rdf:RDF>

