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<title>ビジスタニュース - 伊藤聡</title>
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<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1519473.html">
<title>伊藤聡「比喩をめぐる冒険――村上春樹の辿りついた新しい日本語」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1519473.html</link>
<description>担当者より：『生きる技術は名作に学べ』（ソフトバンク新書）の著者であるブロガー、伊藤聡さんが村上春樹の比喩についての綴った一文です。ぜひお読みください。また、伊藤聡さんのインタビューもどうぞ。聞き手は加藤レイズナさんです。

更新日：2011/10/25


毎年...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2011-10-25T02:00:58+09:00</dc:date>
<dc:subject>伊藤聡</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/479735691X/">『生きる技術は名作に学べ』</a>（ソフトバンク新書）の著者であるブロガー、伊藤聡さんが村上春樹の比喩についての綴った一文です。ぜひお読みください。また、<a href="http://www.sbbit.jp/article/cont1/21060" target="_self">伊藤聡さんのインタビュー</a>もどうぞ。聞き手は<a href="http://bisista.blogto.jp/archives/cat_40993.html" target="_self">加藤レイズナ</a>さんです。<br>
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<u>更新日：2011/10/25</u><br>
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毎年のようにノーベル文学賞の候補に上がりながら、2011年も受賞を逃してしまった村上春樹。本人がどのていど受賞を望んでいるかはわからないが、いずれにせよ村上が全世界的に受容されうる小説の書き手であることはまちがいない。村上がここまで広範囲な人気を獲得している背景のひとつに、彼自身がシグネチャー（物語に刻印された、固有の作家性といった意味）と呼ぶ文章的特徴やストーリー運びが挙げられるようにおもう。<br>
<br>
仮に村上春樹を一度も読んだことがなくても、どこかから伝え聞いた村上小説のぼんやりした特徴、たとえば「恋人や妻がどこかへ失踪し、主人公は『やれやれ』とつぶやきながら、せっせと料理やアイロンがけをする小説」ぐらいは知っているものだが、彼にとって最大のシグネチャーはやはり、頻出する比喩の数々ではないだろうか。<br>
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村上作品の中で登場人物たちは、雨に打たれた猿のように疲れたり、きれいに壁土を塗っているみたいに喋ったり、ローマのコロセウムの遺跡みたいな形に崩れたケーキを食べたりする。こうした比喩における、ふたつの対象の意外な組み合わせやイメージの飛躍が村上のシグネチャーとなるわけだが、決して日本語の小説における比喩表現の使用そのものが目新しいわけではない。<br>
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先日も、漱石の<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4101010196" target="_self">『明暗』</a>や<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4101010137/" target="_self">『こころ』</a>を読んでいて、意外性のあるふたつのイメージを巧みに結びつけた比喩表現が多いことに気がつき驚いた。「彼の身体が土塀に行き当たった馬のように留まると共に、彼の期待も急に門前で喰い留められなければならなかった」（<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4101010196" target="_self">『明暗』</a>）「儒者の家へ切支丹の匂いを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった」（<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4101010137/" target="_self">『こころ』</a>）といった比喩には、読者の想像を喚起するイメージが込められているが、やはり村上と漱石の比喩には大きな差があるように感じられ、それは同時に村上が全世界的なポピュラリティを獲得できたこととも関係があるようにおもえる。<br>
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村上の比喩表現は、米小説家レイモンド・チャンドラーからの影響が大きい。村上が翻訳したチャンドラーの小説<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4150704619/" target="_self">『ロング・グッドバイ』</a>の訳者あとがきで村上は「プロットとはほとんど関係のない寄り道、あるいはやりすぎとも思える文章的装飾、あてのない比喩、比喩のための比喩、なくもがなの能書き、あきれるほど詳細な描写、無用な長広舌、独特の屈折した言い回し、地口のたたきあい、チャンドラーの繰り出すそういうカラフルで過剰な手管に、僕は心を強く引かれてしまうのだ」と説明しているが、これは比喩表現の手本としての作家チャンドラーを実に的確に表現したものだ。<br>
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「私にとって眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらい希である」「彼も私を見た。昆虫学者がカブトムシを見るような目つきだった」といった比喩は、より村上の文章に近いスタイルを感じさせる。精神科医の斎藤環が述べたように、ふたつのいっけん無関係な対象の間を大きく飛躍することが彼の比喩における特徴でもある。<br>
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わけても<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4101001545/" target="_self">『海辺のカフカ』</a>で使われた「キュウリのごとくクール」は、村上の比喩表現のなかでももっとも身も蓋もないものだといえる。ここで村上は、英語における慣用句、cool as a cucumber をそのままに直訳してしまっているのである。彼の比喩がユニークなのは、こうした表現がほとんど直輸入に近いストレートさで使われる点であり、日本語で書かれながら日本語のくさみを抜いた独特の印象をもたらす。村上は日本語における小説作法に限界を感じていて、デビュー作では英語で書いた小説を日本語に訳す手法が試されたといったエピソードもある。<br>
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<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4101001413/" target="_self">『ねじまき鳥クロニクル』</a>では、don’t take it personally という慣用句を直訳した「個人的に取らないでくれ」というせりふが登場し、これを英語に訳そうとした米国人の翻訳者ジェイ・ルービンが「このような日本語はない」と困惑したらしいが、村上の小説が全世界的に読まれる理由もまた、こうした日本語のドメスティックな文脈に依存しない文章によって書かれた小説である点も少なからず作用しているようにおもえる。<br>
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村上はどうやら動物を使った比喩が好きなようで、「僕はそのあいだ北の森のオオツノジカのように進化とは無縁に生きてきたわけである」（<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4101001375/" target="_self">『日出づる国の工場』</a>）「僕はただでさえ晩秋のリスみたいにいろんな問題をせっせと抱え込んでいる人間なのだ」（<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4101001405/" target="_self">『村上朝日堂 はいほー！』</a>）「エレベーターは肺病を病んだ大型犬みたいにかたかたと揺れた」（<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062749122/" target="_self">『羊をめぐる冒険』</a>）といった動物の比喩が出てくるたびに、今度はロバか、渡り鳥かとそのバリエーションの多さに感心するが、村上の文章があまり好きではない人たちに話を聞くと、「あの人、すぐ北極熊がどうのこうのって言いだすからキライ」と、動物シリーズはどうやら一部ではあまり評判がよくないようである。<br>
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個人的には「でもオカダ・トオルっていう名前にはなんとなく戦前の外務大臣みたいな響きがあると思うんだけど」（<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4101001413/" target="_self">『ねじまき鳥クロニクル』</a>）といったユーモラスなイメージの喚起力や、「広々としたフライパンに新しい油を敷いたときのような沈黙がしばらくそこにあった（<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062731290/" target="_self">『スプートニクの恋人』</a>）といったシュールな比喩にこそ彼らしさを見出すことができるし、村上作品を読むよろこびを感じる。<br>
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●伊藤聡（いとう・そう）<br>
ブロガー。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/479735691X/">『生きる技術は名作に学べ』</a>（ソフトバンク新書）がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/zoot32/">空中キャンプ</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1346035.html">
<title>伊藤聡「ベン・ワット『ノース・マリン・ドライブ』とスタートする瞬間」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1346035.html</link>
<description>担当者より：『生きる技術は名作に学べ』（ソフトバンク新書）の著者、伊藤聡さんにベン・ワットのファーストアルバムとスタートすることについて書いていただきました。ご一読ください。

更新日：2010/09/13


ガス・ヴァン・サント監督の映画『パラノイド・パーク』は、街...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-09-13T00:00:31+09:00</dc:date>
<dc:subject>伊藤聡</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/479735691X/">『生きる技術は名作に学べ』</a>（ソフトバンク新書）の著者、伊藤聡さんにベン・ワットのファーストアルバムとスタートすることについて書いていただきました。ご一読ください。<br>
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<u>更新日：2010/09/13</u><br>
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ガス・ヴァン・サント監督の映画<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B001B3KK14/">『パラノイド・パーク』</a>は、街のスケートボート少年たちが集う公園「パラノイド・パーク」で起こるできごとを描いた作品である。主人公はスケートボートを始めたばかりで、自分の技術にあまり自信がない。できれば公園で滑ってみたいが、そこへ集まる他の少年たちのレベルの高さを考えるとどうも気後れしてしまう。「今度パラノイド・パークにいってみないか」と友人に誘われるものの、「まだ俺はうまく滑れないから、もっとうまくなってからにするよ」とあいまいに返事をする主人公。そこで友人がこんなせりふを口にするのはとても印象的だ。<br>
<br>
"Yeah, but no one's ever really ready for Paranoid Park."<br>
（まあね、でも最初からパラノイド・パークで滑れるやつなんてひとりもいないよ）<br>
<br>
スタート地点とはつねにそのようなものだ。準備万端で出発できる者などいない。誰もが未成熟なまま、とりあえずいま手元にあるなけなしの経験とアイデアだけを抱えて、まずは飛びだしてみるしかない。それが小説家であっても、映画監督やミュージシャンであっても、スタート地点においてはまだセンスやテクニックが定まっておらず、表現を支える型もできあがっていないことがほとんどである。そのためとりあえずは手探りで表現をつづけていくしかないし、準備が万全に整うのを待っていてはとても出発などできない。必要なのはどのようなかたちであってもまずスタートを切ることであり、自分なりに納得のいく型やフォーマットを身につけるのはずっと後のことだ。ことほどさように処女作において、表現者は未完成であることが前提となっていて、彼らはみずからが抱く理想の表現へ向かってほとんど徒手空拳で挑んでいかなくてはならない。<br>
<br>
エブリシング・バット・ザ・ガールとしてのバンド活動だけではなく、プロデューサー、DJ業など30年近いキャリアのあるイギリスのミュージシャン、ベン・ワット。彼がバンド結成以前の83年（当時21歳）に初めてリリースしたアルバムが<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B0030FKUN4/">『ノース・マリン・ドライブ』</a>である。長い活動歴のなかでさまざまな音楽性を取り入れサウンドを変化させてきたベン・ワットだが、このアルバムはギターを中心としたシンプルな構成が特徴で、みずみずしいサウンドや美しいメロディからいまだに人気の高いアルバムだ。また、モノクロームの写真で構成されたジャケットの秀逸なデザインも印象的である。しかし<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B0030FKUN4/">『ノース・マリン・ドライブ』</a>をなにより魅力的にしているのは、まだ若く経験に欠けたひとりの青年（レコーディングを開始したときの彼は19歳だった）が、それまでに培った音楽センスやアイデアをすべてぶつけるように曲を作り、処女作ならではの緊張感と一回性を備えた作品としてアルバムを完成させているところにある。<br>
<br>
その後ベン・ワットが手がけたサウンドの幅広さ（ジャズ、AOR、ダンスミュージック）から比較すれば、このアルバムに収録されている曲はやや地味に聴こえるかもしれない。エブリシング・バット・ザ・ガールはバンドサウンドとしてのアンサンブル、アレンジを重視しながら完成度の高い楽曲を作る方向へとシフトしていったが、そうした表現の型、フォーマットに到達していなかったティーンエイジャーのベン・ワットは、ほぼギターひとつで<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B0030FKUN4/">『ノース・マリン・ドライブ』</a>を作ることになる。クオリティの高いアルバムだが、使用する楽器の少なさから同じタイプの曲がいくつか並んでしまっているといった欠点もあった。<br>
<br>
しかし、こうした不完全さやつたなさも含めた上で、アルバムにはベン・ワットがレコーディングした最初の作品としての緊張感があり、魅力的な輝きがあるのだ。楽曲から感じられる十代ならではの理想の高さや繊細さは、まさにひとりの若き表現者が世界へ飛びだしていく瞬間のスリルにあふれている。「スタート地点に立つこと」の心の震えや高揚は、決して表現者だけに限定された経験ではなく、すべての人びとに共通するものだが、そうした時期に誰もが経験する感情の揺れを音楽によっておもいださせてくれるアルバムが<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B0030FKUN4/">『ノース・マリン・ドライブ』</a>である。<br>
<br>
このアルバムを聴きながらわたしが連想するのは、22歳で小説<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4102095020/">『遠い声 遠い部屋』</a>を発表し、驚異とともに米文学界に迎え入れられた若かりし日のトルーマン・カポーティだ。少年の視点から見た世界を、美しい描写と巧みな比喩で表現したこのデビュー作で、カポーティは永遠の少年ジョエル・ノックスを創造することに成功している。カポーティの少年時代におけるイノセンスをすべて封じ込めたかのような『遠い声 遠い部屋』を読みながら感じるのは、文学を志すひとりの青年が理想の文体やモチーフを追い求め、若き表現者ならではの透きとおった視点であらためてこの世界を描きだそうとする姿勢である。まさにここがカポーティにとってのスタート地点なのだ。彼はその後<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/410209508X/">『ティファニーで朝食を』</a>や<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4102095063/">『冷血』</a>などさまざまなタイプの作品を発表していくが、主人公ジョエルが世界を観察するその美しいイマジネーションやみずみずしさは、半自伝的要素を持った処女作においてしか表現しえない一度限りのものだ。少年にとって世界はこのように魅惑的に写るものなのか、という驚き。<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4102095020/">『遠い声 遠い部屋』</a>の美しさは<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B0030FKUN4/">『ノース・マリン・ドライブ』</a>の楽曲が持つ透明なイメージにとてもよく似ている。<br>
<br>
われわれがスタート地点に立てる機会はおそらく一度きりだ。だからこそ、新しくものごとを始めようとする者には独特の緊張がある。スタート地点に立つ者はみな、初めてパラノイド・パークでスケートボートに挑戦する少年のように未熟で、心の準備などできていないままにただ滑り始めるしかない。だからこそ、新しいものごとが始まるその瞬間ほど刺激的なことはないようにおもえる。なにかを一度経験してしまえばもうスタート地点に戻ることはできないし、そこでおそらく表現者は、テクニックや技術といった経験値と引き換えになにかを失っている。だからこそ<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B0030FKUN4/">『ノース・マリン・ドライブ』</a>は、一度きりのスタート地点として独特の輝きを放っているように感じられるのだ。<br>
<br>
<br>
●伊藤聡（いとう・そう）<br>
ブロガー。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/479735691X/">『生きる技術は名作に学べ』</a>（ソフトバンク新書）がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/zoot32/">空中キャンプ</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1252248.html">
<title>伊藤聡「がんばれ男の子！　ジャド・アパトー版 しあわせな男女関係のすすめ」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1252248.html</link>
<description>担当者より：著書『生きる技術は名作に学べ』（ソフトバンク新書）が好評のブロガー、伊藤聡さんに映画監督ジャド・アパトーの作品について論じていただきました。なお、本文中で映画『スーパーバッド 童貞ウォーズ』『40歳の童貞男』のエンディングに触れておりますので、そ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-02-10T15:33:00+09:00</dc:date>
<dc:subject>伊藤聡</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>著書<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/479735691X/">『生きる技術は名作に学べ』</a>（ソフトバンク新書）が好評のブロガー、伊藤聡さんに映画監督ジャド・アパトーの作品について論じていただきました。なお、本文中で映画『スーパーバッド 童貞ウォーズ』『40歳の童貞男』のエンディングに触れておりますので、その点ご了承ください。また、<a href="http://www.sbbit.jp/article/cont1/21060">伊藤聡さんの読書やブログに関するインタビュー</a>もアップされていますので、そちらも併せてご覧ください。<br>
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<u>配信日：2010/01/27</u><br>
<br>
<br>
ジャンルを問わず、あらゆる男性作家にとって、ひとつのむずかしい課題としてあるのは、いかに女性を描くかではないだろうか。映画であれ、小説であれ、女性をどれだけ現実離れさせずに、リアルに描くかは、作品の印象を決定づける重要な部分である。こうした作業に失敗した男性作家はおおむね、辛らつな批判や失笑にさらされる羽目になる。この作者の考えている女性像とは、しょせんこのていどのものなのか、というわけだ。<br>
<br>
むろん、男性を描けない女性作家もあるていどは存在するのだろうが、こと男性作家が女性を描こうとすると、とたんにリアリティが欠如してしまうケースは多い。かなり人生経験を積んでいるように見える作者であっても、いざストーリーを語りはじめると、おもいのほか古くさく素朴な女性観で物語を進めてしまうことがあるのだ。ストーリーのなかで女性を動かしていこうとすると、なぜか想像上でこしらえた架空の存在のようになりがちであり、ほとんど空想に近いような非現実性をともなってしまう。<br>
<br>
『40歳の童貞男』『スーパーバッド 童貞ウォーズ』などの作品で知られる、アメリカの映画監督ジャド・アパトーは、その極端に品のないコメディタッチの作風からは想像がつかないほど真摯に、ストーリーを通して、いかに女性を学び、どうつきあっていくかを考えていこうという姿勢を持つ作品を撮りつづけている。<br>
<br>
登場する男性は、むさくるしくてだらしのない、デリカシーの欠如した男性ばかり。作品は、彼ら男性が陥りがちな恋愛の失敗をいくつも散りばめながら、男女関係、ひいては人間のコミュニケーションそのものについてあらためて考えさせるものである。<br>
<br>
男性によく見られる失敗は、自分が想像のなかで作り上げた女性、イメージのなかの恋人に夢中になってしまい、現実の女性を見失ってしまうことだ。ぐうぜん、自分と音楽の趣味がほんのすこし似ている女性と知り合っただけで、彼女なら自分のすべてをわかってくれるはずだと一方的に期待してしまった、映画『（500）日のサマー』の主人公トム君のように、相手をきちんと見ずに、男性にとって心地よいイメージばかりを仮託<br>
してしまい、結果としてただ空まわりするだけというケースは多い。イメージのなかの恋人とたわむれ、他者としての女性には到達できずに終わる男性たち。ジャド・アパトーは、男性が女性を知ることの困難を認めたうえで、ではいかに両者は歩み寄れるのかを探ろうとする。<br>
<br>
『寝取られ男のラブ♂バカンス』では、失恋を乗りこえようとする男性を描くが、ミュージシャンである主人公が失恋を乗りこえるきっかけは、あたらしい恋人ではなく、長らく目標としていたロックオペラの上演に向けて準備を始めることだった。『無ケーカクの命中男』では、妊娠した恋人に寄り添い、彼女の不安を取りのぞく男性が主人公となり、妊娠から出産というできごとよって成長していく男女の姿が描かれる。<br>
<br>
『40歳の童貞男』では、フィギュア収集が趣味の男性が主人公となるが、「未開封の箱入りフィギュア」に固執する主人公が、40歳で性経験のない男性というメタファーがおもしろい。彼らはイメージとしての女性像から脱却し、現実に向きあうことで成長しようとし、リアルな女性を知ろうともがくのだ。<br>
<br>
また、ジャド・アパトー作品を特徴づけるモチーフとして、彼らが女性との関わり方を模索するあいだに、気がつけば男性同士の友情も深まっていくという展開が挙げられる。<br>
<br>
『スーパーバッド 童貞ウォーズ』において、ふたりの主人公は、恋人を見つけるという共通の目的から行動するのだが、しだいに、他人に心を開くこと、他人を知ることのよろこびは、相手が男であっても女であってもさほど変わらないことを学ぶ。あれほどに夢見ていた恋人の獲得は、実はほろ苦い喪失感とともにやってくるものなのだ、というエンディングがすばらしい。<br>
<br>
女性を知る、といっても、それはきっと、さほど大げさなことではないのかもしれない。わたしは大人になってみてはじめて、女性がいかにふだんからよく手を洗うのかを知った。女性はほんとうによく手を洗う。外から帰ってきたり、なにかをさわったりすれば、すぐに手を洗うが、こうした感覚は男性にはあまりないようにおもう。それを知ったとき、わたしはなんだかとてもうれしかったし、女性に近づいたような気がしたものだ。<br>
<br>
『40歳の童貞男』のエンディングで、主人公は40歳にして初めての性行為を終え、その新鮮なよろこびは、人びとがうたい踊るゴージャスなミュージカルとして輝かしく表現され、華やかに映画は幕を閉じる。人より経験が遅かったからといって、それがなんだというのか。彼はついに性行為をおこなったのだ。すべての男女関係を祝福する、ハッピーな賛歌。そしてジャド・アパトーが描こうとしているのは、あいまいなイメージの向こう側にある、リアルな女性の息づかいなのではないか。<br>
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●伊藤聡（いとう・そう）<br>
ブロガー。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/479735691X/">『生きる技術は名作に学べ』</a>（ソフトバンク新書）がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/zoot32/">空中キャンプ</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1240775.html">
<title>伊藤聡「ヘビー級の小説家、リチャード・パワーズの醍醐味」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1240775.html</link>
<description>担当者より：作家、リチャード・パワーズについて、「空中キャンプ」のブロガー、伊藤聡さんにご執筆いただきました。また、伊藤さんは著書『生きる技術は名作に学べ』（ソフトバンク新書）が刊行されたばかり。そちらも併せてぜひお読みください。

配信日：2009/04/30


数...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-01-19T02:48:54+09:00</dc:date>
<dc:subject>伊藤聡</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>作家、リチャード・パワーズについて、<a href="http://d.hatena.ne.jp/zoot32/">「空中キャンプ」</a>のブロガー、伊藤聡さんにご執筆いただきました。また、伊藤さんは著書<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/479735691X/">『生きる技術は名作に学べ』</a>（ソフトバンク新書）が刊行されたばかり。そちらも併せてぜひお読みください。<br>
<br>
<u>配信日：2009/04/30</u><br>
<br>
<br>
数多くの書評家が08年のベスト翻訳小説と推した、アメリカ作家リチャード・パワーズの長編<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4105058711/">『われらが歌う時』</a>。アメリカにおける黒人の歴史のうねりを描いたこの小説は、同国に初のアフリカ系アメリカ人大統領が誕生したまさにその年、ベストなタイミングで翻訳され話題になった。<br>
<br>
個人的にも、パワーズこそが、小説を読むことほんらいのスリルと刺激を再確認させてくれる、現代アメリカにおける最重要作家だと確信している。<br>
<br>
映画『ネバーエンディング・ストーリー』のあらすじを覚えているだろうか。主人公の少年は本を読むことでそのストーリーに侵入し、最後には自分のいる世界の現実までもを変えてしまう。あの映画を見た誰もがそうおもうように、わたしは、主人公の少年のような読書がしてみたいとずっとおもっていた。<br>
<br>
パワーズという作家がおもしろいのは、本と読者とが双方向的に関係しあう読書を、どうやら真剣にめざしているふしがあることだ。そして彼は、いったい『ネバーエンディング・ストーリー』のような本を現実に書くことはできるのか？　と自らに本気で問いかけている。わたしは、そんな小説家がほんとうにいるとはおもわなかったから、パワーズの小説をはじめて手に取ったとき、まさにあの少年がそうしたように、夢中で読みふけってしまった。<br>
<br>
現在、翻訳されているパワーズのテキストは４冊。なかでも、85年発表の<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4622045176/">『舞踏会へ向かう三人の農夫』</a>は、一作目にして代表作と呼ぶべきすばらしい内容で、彼の小説世界が持つエッセンスがすべて凝縮している。<br>
<br>
歴史の再構築というパワーズの手法が確立されているだけではなく、たくさんの登場人物が複雑に関係しあう展開、時間軸を横断した巧みな伏線とその回収、無数に散りばめられた引用など、後のパワーズの小説を特徴づけるスタイルがすでに完成しており、読者は小説のなかで再創造される二十世紀を一気に走り抜けるような感覚を味わうことができる。<br>
<br>
この小説では、「見る」という行為がとても重要な意味を持っている。博物館に飾られた一枚の古い写真を見た男性が、写真のなかの農夫たちのまなざしに衝撃を受ける。そこからこの小説ははじまっていく。過去の古い写真を見るとき、農夫たちのまなざしは、現代に生きるその男性をとらえている。<br>
<br>
「写真が我々を惹きつけるのは、何よりもまず、写真がわれわれを見返すからだ」とパワーズは書いている。古い写真にうつる農夫が現代のわれわれを見つめている、という双方向性のモチーフがとてもユニークである。小説はその古い写真が撮られた時代へとさかのぼり、被写体である三人の農夫の視線から、二十世紀の歴史をふたたび描こうとする。<br>
<br>
なにかを見ようとすることは、イコールその対象にかかわり合い、対象を変えてしまうことでもある。たとえば、われわれが過去の記憶をおもいだそうとするとき、それが正確に、完全に再現されるということはありえない。誰にでも覚えがあるように、過去をおもいだそうとするたびに、記憶はすこしずつかたちを変えていく。<br>
<br>
どのタイミングで過去をふりかえるかによって、過去の様相はさまざまに変化していくのである。記憶をさぐるという行為は、それじたいが記憶をあらためて記述しなおし、改変していくことでもあるのだ。<br>
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このテーマは、二作目である<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4622072963/">『囚人のジレンマ』</a>でも同様に展開されている。第二次世界大戦をたたかうアメリカという縦糸に、とある家族の抱える謎が横糸として織り込まれる。国の歴史という大きな物語と、ひとつの家族の小さな物語が、同じ水準で交わっていくのも彼の特徴だ。<br>
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パワーズのテキストのなかで、読んでいて純粋にたのしかった一冊、読みながらつい声を上げてしまいそうなほどに興奮した小説は、なんといってもこの<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4622072963/">『囚人のジレンマ』</a>である。第二次世界大戦中のアメリカを、ウォルト・ディズニーという意外なフィルターを通して観察したとき、そこからはまったく別の歴史が見える。<br>
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95年発表の<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4622048183/">『ガラテイア2.2』</a>は、コンピューターの人工知能に文学を教えるというストーリーである。ヘレンと名付けられた人工知能が、しだいに知識を持ち、主人公たちとの会話が可能になっていく。人工知能が知識を身につけていくなかで、すこしずつ感情が生まれていく、その過程がみごとに描写されている。<br>
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小説家のジョン・アップダイクが、書評で「おもわず涙を流した」と告白するほどのラストも含め、いくつかのサイドストーリーがひとつに収束していく展開も読みどころである。<br>
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そして、現在のところ日本において最新刊となるのが、冒頭で紹介した<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4105058711/">『われらが歌う時』</a>である。この小説を読むことで、日本人のわれわれには経験することも想像することもむずかしいアメリカの人種社会を肌で感じとり、小説を通じて、その社会を生きることができる。<br>
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黒人の兄弟ふたりがクラシック歌手として成功していく音楽小説であると同時に、公民権運動を中心とした黒人運動を、物語として再構築した歴史小説でもある。ふたつのストーリーが交差しながら、資料や客観的な記述だけでは実感できない、人種問題の根底にある歴史のうねりを、皮膚感覚として描きだしていく。<br>
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ワシントンの大行進でキング牧師が演説をしたことは知っていても、そこに集まった人びとの熱気を想像することはむずかしい。しかし、この小説を読めば、まるで自分がそこに参加したかのような、圧倒的なリアリティが感じられる。<br>
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どれもが重量級の長編ばかりで、手に取りにくい印象があるパワーズだが、どのテキストにもおもいがけない発見と興奮がぎっしりと詰まっている。『ネバーエンディング・ストーリー』にでてくる少年のように、すべてを忘れて没頭できる読書体験を求める人たちにぜひ推薦したい。現在、翻訳が準備されているあらたな二冊も含めて、ぜひ注目していきたい作家である。<br>
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●伊藤聡（いとう・そう）<br>
ブロガー。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/479735691X/">『生きる技術は名作に学べ』</a>（ソフトバンク新書）がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/zoot32/">空中キャンプ</a>]]>
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1212786.html">
<title>伊藤聡「映画館は闇を駆逐してしまうのか？」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1212786.html</link>
<description>担当者より：人気ブログ「空中キャンプ」で多くの映画についても書いている伊藤聡さんにシネコンに関する原稿をご執筆いただきました。

配信日：2008/09/03


〇八年八月二日、池袋にある単館系の映画館シネマ・ロサ。この日、レイトショー上映で封切りになったのは、井口昇...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2009-11-29T00:58:24+09:00</dc:date>
<dc:subject>伊藤聡</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>人気ブログ<a href="http://d.hatena.ne.jp/zoot32/">「空中キャンプ」</a>で多くの映画についても書いている伊藤聡さんにシネコンに関する原稿をご執筆いただきました。<br>
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<u>配信日：2008/09/03</u><br>
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〇八年八月二日、池袋にある単館系の映画館シネマ・ロサ。この日、レイトショー上映で封切りになったのは、井口昇監督の新作『片腕マシンガール』である。やくざに左腕を切り取られた少女が、失った片腕にマシンガンを取りつけて復讐に挑む。メインとなる激しいアクションシーンでは、首がもげ、からだがまっぷたつに斬られ、派手に返り血を浴びたセーラー服の女子高生が、それでもなお、次々に敵を惨殺していく。こんな映画を見ていては、お母さんに叱られるのではないかと心配になるような内容である。<br>
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初日、舞台あいさつのおこなわれた回では、約180席ある座席が満員、補助の椅子が置かれるほどの盛況ぶりで、上映後、舞台に上がった井口監督は、「この映画をぜひデートに使ってください」と笑顔でアピール。客席にきていた監督のご両親も紹介され、会場からは大きな拍手がわき起こった。見たところ、いくぶんご高齢でいらっしゃったおふたりだが、劇中の「やくざの情婦が胸に取りつけた『ドリルブラ』がするどく回転し、女子高生のからだを抉りながら血まみれにする場面」など、どのような気持ちでご覧になったのだろうか。息子の仕事がドリルブラ。ぜひ感想を訊いてみたいところである。<br>
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『片腕マシンガール』とほぼ同時期に公開され、こちらもヒットとなった英映画『HOT FUZZ』など、輸入DVDが先行して映画ファンのあいだで話題になり、劇場公開へとつながっている作品が増えてきているのは興味ぶかい（『片腕マシンガール』は海外資本で作られた映画のため、国内上映より先に輸入DVDが入手できた）。<br>
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輸入DVDのマーケットは広がってきており、リージョンフリーの再生機を持ち、輸入されたDVDを見る映画ファンはかなり増えている。日本語字幕をつけた海外盤DVDも数多く販売されており、それらは日本国内のマーケットを視野に入れて作られている。<br>
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こうしたマニアックな映画ファンたちの動きに合わせるように、単館系の映画館も、ある一定の客層を意識しながら上映作品を選ぶことで、それぞれの独自性を打ちだしてきている。<br>
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渋谷の映画館シアターＮは、ホラー路線を前面に押しだすことで成功した例だ。ここでは連日、特大の斧やチェーンソーで首を刎ねたり、ライフルで人のからだに穴を開けたりする映画が、入れ替わりで上映されている。ゆかいなことです。<br>
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ホラーファンにとっては古典といえる傑作『悪魔のいけにえ』（一九七四年）を爆音上映するなど、シアターＮの独自路線はユニークだが、こうした単館系の動きは、その対極にある巨大化したシネコンが、作品を「鑑賞」するというよりはむしろ、音響や劇場設備を含めて「体感」するものへと変化していく大きな流れの裏側で、相対的に進行しているものだ。<br>
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大作を中心に上映されるシネコンは、なによりも快適さを第一に追求している。ネットで席が予約できる点や、各人の座席がすべて指定されて、じゅうぶんに広いスペースが確保されているところ。スクリーンは大きく、デジタルシネマプロジェクターが使用された映像はきわめてうつくしい。<br>
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音響も、THX基準をクリアした強力なサウンドがたのしめる。こうした設備を用いて映画を見ることでわれわれは、「座席がふわふわしてて、音がずしんずしん響いて、映像がぴかぴかしてて、とにかくすごかった」という、五感を通じた「体感」が可能になる。３Ｄメガネを使用した立体映像の作品も増えており、よりアトラクションに近い感覚で映画を見せようという、シネコン側の意図が読み取れる。３Ｄのクオリティもすごいんですよ。おもわず「びくっ」とからだが反応して動いてしまうくらいに飛びだしてくる。怪獣とかが。<br>
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また、帝国劇場やNHKホールなどにおいてすでに導入済みである「携帯電話抑止装置」（あるエリア内の電波を強制的に圏外にするシステム）が組み入れられる可能性もある。上映中の着信音を防ぐこのシステムは、劇場やシネコンにおけるサービスの方向性を象徴的に示唆しているようにおもえる──それとは気がつかないうちに、自分の持っている携帯の電波が入らなくなっていること。<br>
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この点については、いくつかのシネコンに問い合わせてみたのだが、「防音設備が電波を入りにくくするので、圏外になってしまうことが多い」といった返答で、現時点での導入については訊けなかった。<br>
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あと、問い合わせの電話をかけたわたしが、いかにも不審な誘導尋問だったという反省点もある。なにしろ「劇場内はもう、いきなり圏外なんですよねー」といった訊き方だった。ともあれ多くのシネコンが、観客にとって快適なアーキテクチャを、ある部分では目に見えないかたちであらかじめ構築し、それを徹底して管理することによって、サービスの質を向上させていく方向性を持つことは確実である。<br>
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しかし、こうしたシネコンの方向性は、コアな映画ファンからは意外に評判がわるい。より頻繁に映画館に通う人ほど、シネコン型の環境管理をきらう。彼らはシンプルな鑑賞を望んでいるのであり、映画館にでかけて適当な座席にすわり、ふつうに作品を見る。そこでいちいち座席を指定されたり、そのために行列をつくって手続きをしたりすることがかったるい。求めているものと供給されるものにずれが生じているようにも見える。<br>
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ここに、単館系における「鑑賞」という従来的なスタイルと、シネコンにおける「体感」との乖離を見ることができるようにおもう。独自性を打ちだすようになった単館系の作品と、環境管理されたシネコンで見る大作映画はいかにも対照的である。そう考えたとき、クエンティン・タランティーノの「グラインドハウス」という着眼点は、決して表層的ではなく、すぐれて現代的なテーマを含んでいるのだと感心させられる。<br>
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ほんらい、Ｂ級映画を中心に上映する、場末の映画館を意味する言葉であった「グラインドハウス」から、映画『グラインドハウス』（二〇〇七年）はインスパイアされている。劇中で強調されるのは、フィルムの傷や劣悪な上映環境、もしくはリールの紛失といった事故までもを、作品の一部として含めていこうとする姿勢である。ノイズを許容するということ。<br>
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現在、シネコンは「非グラインドハウス化」を目指し、観客にとって不快な要素をできるだけ排除していこうとしており、その流れはこれからも進んでいくはずである。この方向性は否定しがたい。しかし、旧来の映画館における「グラインドハウス的なもの」がすべて淘汰されるとも考えにくい。シネコンってどうも落ち着かないんですよ。それは、映画館という場所が本質的に持っている「親密な闇」とでもいうべきほの暗さの有無であって、すべてのノイズがたんねんに排除された場所では、そうしたほの暗さは生まれないような気がするためだ。<br>
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●伊藤聡（いとう・そう）<br>
ブロガー。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/zoot32/">空中キャンプ</a>]]>
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1206775.html">
<title>伊藤聡「きまり文句への反抗のために――藤本和子の翻訳の魅力」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1206775.html</link>
<description>担当者より：伊藤聡さんは、映画、本、音楽などについて軽妙に記す文章で人気を博しているブロガーです。この原稿では、藤本和子の翻訳についてご執筆いただきました。なお、秋葉原無差別殺傷事件が起きたのは2008年６月８日であることを付記しておきます。

配信日：2008/12...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2009-11-18T13:15:54+09:00</dc:date>
<dc:subject>伊藤聡</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>伊藤聡さんは、映画、本、音楽などについて軽妙に記す文章で人気を博しているブロガーです。この原稿では、藤本和子の翻訳についてご執筆いただきました。なお、秋葉原無差別殺傷事件が起きたのは2008年６月８日であることを付記しておきます。<br>
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<u>配信日：2008/12/03</u><br>
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翻訳家、藤本和子がいかに画期的だったか、七〇年代において彼女の表現がどれだけの影響力を持ったかということを説明するのはむずかしい。なぜなら「今までになかった、圧倒的に斬新な表現」が生まれたとき、われわれはまず、感動や興奮の前にいくばくかの困惑を感じるためである。四方田犬彦は、ブルース・リーの作品がはじめて日本の映画館で上映されたさいの衝撃を表して、「われわれにはそれを理解するコードがなかった」と述べた。<br>
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まさしくその通りである。みじかい棒を二本、鎖でつないだだけの珍妙な武器をふりまわしながら、それまでに誰も聞いたことのない「アチョー」という奇声を発し、顔にはどこか悲しそうな表情をたたえつつ、敵を次々になぎ倒していく中国人の男。こうした、あまりに斬新すぎる作品を理解するための前提が、かつてのわれわれにはなかった。四方田がいうように、あたらしい表現には、それに呼応する文化的なコード、受け手になんらかの参照元が必要になる。<br>
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カート・ヴォネガットやリチャード・ブローティガンといった作家が、ユニークな作風を持った小説によって支持を広げていった六〇年代から七〇年代にかけて、米文学はひとつの転換期にあった。受け手側にあたらしいコードを要求するような、今までにないスタイルを持った小説があらわれたのだ。彼らが画期的だったのは、なによりも文体やリズム、文章が持つ声（ヴォイス）の新鮮さにこそあった。小説が、あたらしい声でストーリーを語るようになったのだ。<br>
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ところが、それまで日本で読まれていた海外文学には、旧態依然とした翻訳調の文体しか存在していなかった。ヴォネガットやブローティガンの文章が持つ声を受け止められるような日本語の文体、翻訳のスタイルがなかった。七五年に、ブローティガンの小説『アメリカの鱒釣り』の日本語訳を刊行した藤本のすごいところは、まったくあたらしい翻訳のかたちを、つまりはあたらしいコードを、ほとんどひとりで作り上げてしまったことにある。<br>
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ただ単に英語を日本語にするだけではなく、ブローティガンの持つ文章のうねり、原文にあった心地よさ、そのビート、息づかいや声を、もっとも適した日本語に置きかえ、再現すること。そのために、誰も読んだことのないようなユニークな文体を発明したこと。藤本訳『アメリカの鱒釣り』について、翻訳家の柴田元幸はこう記している。<br>
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「『アメリカの鱒釣り』邦訳刊行は、僕個人にとって、何とも解放的にあたらしい作品が理想的な翻訳で登場したという、大きな事件、ほとんど革命だったのである。そして、翻訳史ということで考えるなら、僕一人の問題ではなく、翻訳史上の革命的事件だったと言ってよいと思う」（『アメリカの鱒釣り』文庫版解説）<br>
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今、わたしが藤本訳のブローティガンをあらためて読んでみて感じるのは、「やっぱりものすごくかっこいい！」ということで、あの文体のリズム感、句読点の打ち方や、ひらがなを多用したやわらかい翻訳のスタイルには唸ってしまう。藤本の翻訳家としてのデビューがこの『アメリカの鱒釣り』邦訳であるというのは、にわかには信じられないことだ。なにしろ、彼女はそれまで、翻訳などほとんどしたことがなかったのだから。<br>
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ニコルソン・ベイカーやジュディ・バドニッツといった人気作家の翻訳で知られる岸本佐知子も、今年になって文庫化された、ブローティガンの『芝生の復讐』に解説を書いており、藤本訳に触れなければ翻訳家にはならなかっただろうといっている。柴田にせよ、岸本にせよ、藤本の翻訳スタイルからの影響は大きく、現在の米文学翻訳の多くは、藤本チルドレンとでも呼ぶべき翻訳家たちによっておこなわれているといえる。<br>
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柴田や岸本といった第一線の翻訳者だけではなく、藤本訳の影響力について考えるなら、やはり村上春樹の文体に触れないわけにはいかない。七九年デビューの村上も、やはりあたらしい文体、独自のスタイルを作り上げる必要性にかられていた。日本の作家から小説技法を学んだことのなかった村上は、その叩き台として、英文で読んだ米小説や、ブローティガンの日本語訳などをひとつの定型とした、と回想している。<br>
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藤本がブローティガンを輸入するさいに作り上げた文体、あたらしいコードが、その後の日本文学における大きな潮流にまでなった。そうした役割を果たしたのが、小説家ではなく、翻訳家であったというのは実に興味ぶかい。<br>
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では、〇八年にブローティガンを読む意義があるとすればなんだろうか。それは藤本が「きまり文句への反抗」と呼んだ、ブローティガンのたくましい想像力にあるのではないかとおもう。<br>
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秋葉原の殺傷事件があったとき、わたしはあの犯行者がブローティガンを読んでいてくれたら、と強くおもった。勝ち組、負け組という安っぽいきまり文句に負け、そこへ唯々諾々と回収されてしまった青年。藤本は、ブローティガン研究として発表した自著の中でこう書いている。<br>
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「しかしおそろしい場にも、愉快はある。暗鬱な空間にも笑いはある。想像力の視力さえ衰えていなければ、せまいすき間から垣間みえる愉快と笑いを指さすことはできる」（『リチャード・ブローティガン』）<br>
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あの犯行者は、秋葉原へいくかわりに、彼自身のための鱒を釣りにいくことはできなかったのか。人びとが「きまり文句」に煽られ、孤立してしまいやすい今こそ、藤本訳のブローティガンは読まれるべきだとわたしはおもう。<br>
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●伊藤聡（いとう・そう）<br>
ブロガー。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/zoot32/">空中キャンプ</a>]]>
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