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<title>ビジスタニュース - 近藤正高</title>
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<title>近藤正高「声に出して読みたい“泡沫候補”」</title>
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<description>担当者より：『私鉄探検』の著書をお持ちのライター・近藤正高さんが泡沫候補について論じたものです。

配信日：2007/09/05


このたび、「泡沫候補」をテーマに原稿を依頼された近藤でございます。わたくしがこのお題をいただいて真っ先に思い出したのは、1989年から92年の...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-06-12T18:12:31+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>の著書をお持ちのライター・近藤正高さんが泡沫候補について論じたものです。<br>
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<u>配信日：2007/09/05</u><br>
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このたび、「泡沫候補」をテーマに原稿を依頼された近藤でございます。わたくしがこのお題をいただいて真っ先に思い出したのは、1989年から92年のあいだに参院選や東京都知事選などに出馬された三井理峯（りほう）先生のことでした。理峯先生がいかなる人物であるか、最近では動画投稿サイトに政見放送の動画がUPされていたりするので、ご存知の方もいるかもしれません。口をモゴモゴさせながら容易には理解しがたい、それでいて非常にリリカルな演説を行ない、強烈なインパクトを人々に与えた、「史上最強の泡沫候補」ともいうべきおばあさんです。<br>
<br>
実は、理峯先生については個人的に浅からぬ思い出がございます。あれはもうかれこれ10年近く前でしょうか、当時わたくしが出入りしていた某大学の落語研究会で、三井理峯が一大ブームを巻き起こしていたのです。なにしろ、部員のほとんどが、理峯先生の政見放送を、さるルートから入手した録画テープを見て丸暗記していたのですから尋常ではありません。その当時、部員たちが集まれば、誰彼となく理峯先生の演説の暗誦がはじまるという按配で、部外者のわたくしはそれを唖然としながら眺めていたものです。<br>
<br>
そもそも、理峯先生の演説には独特のグルーヴがありました。ためしに、下に引用した演説の一節を音読してみてください。意味はわからなくとも、妙な引っかかりみたいなものが感じられるはずです。<br>
<br>
《茨城県八郷町のマルヤマ荘は、役場と、バス会社と、サツと、三位一体で、胴体の入るばかりの金属製箱があり、これに善良な旅行者を捕まえて押し込め、運びます。私は、まだいとこという先入観が抜けきらず、役場に総務課長を訪ねました。ウラナイヤの件で、相談に乗ってもらおうと思ってのこと。その結果、こうして運ばれました。私に膨大な生命保険がかけてあることはまだ知りませんでした。ありがとうございました》<br>
<br>
どうでしょう？　おそらくは先生の実体験から書かれたものだと思うのですが、しかし、それにしてはあまりにシュールではありませんか。これはもう詩といってもいいでしょう。『ユリイカ』あたりで理峯先生の特集を組んでもらいたいくらいです。<br>
<br>
先生はこのほか、選挙公報でも、《夏休みの学習は有害禁止》《にしんを食べると怒らない》《発掘で一番よかったのは新橋の「キーテキ一声」ホーム上で開通式の錦絵あり》などといった、「声に出して読みたい」フレーズを残しています。<br>
<br>
そんな理峯先生については、最近、大川豊興業の大川豊総裁が著わした<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4594053971">『日本インディーズ候補列伝』</a>（扶桑社）でもくわしくとりあげられています。この本のなかで総裁は、先生のご自宅を訪ねているのですが、親族の方からすでに先生が2002年に亡くなっていたという事実を知らされます。<br>
<br>
さらに、先生がなぜ出馬を思い立ったのか、その背景が聞き出されていて、親族のご苦労も何となくうかがい知ることができました。それでも親族の方は、「三井理峯本人は、（選挙に出ることを）本人なりに楽しんでいたんではないでしょうか」と語っていたのだとか。総裁もまた、理峯先生は、立候補するたびに票を投じてくれている人がいることに、内心では喜んでいたのではないかと推測しています。そう、どんなところにも自分の味方はいるのだ、と。<br>
<br>
大川総裁は、年配の人からよく「孤独だ」と相談を持ちかけられるらしく、そのたびに、理峯先生の話をしつつ、選挙に出てみては？　と持ちかけるのだそうです。また、「人を殺したい」といったメールを送ってくる人たちに対しても、「人を殺したいなら、『人を殺したい』と訴えて選挙に出なさい。政見放送は検閲がないから好きなことを堂々とテレビで言えるぞ」と、やはり出馬をすすめているのだといいます。<br>
<br>
考えてみれば、時間内であればどのような主張も表現も許されている政見放送は、とかく制約の多いテレビにあって、一種のアジール（自由領域、避難所）だともいえるかもしれません。大川総裁は、このアジールを、世に埋もれている人たちの社会との接点の場として、もっと活用すべきだといっているわけです。<br>
<br>
しかし近年では、「泡沫候補」……大川総裁が敬意をこめて呼ぶところの「インディーズ候補」は、全体的に小粒化しているというか、理峯先生のように突出したキャラがいなくなってしまったような気がしてなりません。総裁はこうした傾向について、先日、『スポーツ報知』に掲載されたインタビューで、「素質があっても引きこもりだったり、施設に入れられたりで表に出てこないのでは」「精神の免疫力が落ち、世間がいろんな人たちを受け入れられなくなってきた。そういう意味では、インディーズ候補は社会を映す鏡かもしれません」と分析していました（2007年8月19日付）。<br>
<br>
総裁のいうとおり、世間から理峯先生のような人たちを受け入れる「精神の免疫力」が失われつつあるとすれば寂しいことです。だとすればなおさら、かつて三井理峯という人物がいたことをもっと多くの人たちに知ってもらいたい。本稿がその一助となるなら、これにまさる喜びはありません。ありがとうございました。<br>
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<u>※本稿執筆にあたって、大川豊総裁の著書以外に、以下のブログを参考にさせていただきました。ここに厚く御礼申し上げます。</u><br>
<a href="http://d.hatena.ne.jp/zaikabou/20070327/1174960970">「日毎に敵と懶惰に戦う」</a><br>
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●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1301262.html">
<title>近藤正高「『1975年の新幹線』を超えて」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1301262.html</link>
<description>担当者より：『私鉄探検』の著者で、ライターの近藤正高さんに新幹線の過去と今に関して論じていただいた原稿です。あと、先日近藤さんが聞き手を担当した、速水健朗氏と円堂都司昭氏のインタビューもご関心ある方はぜひお読みください。

配信日：2010/05/19


先頃亡くなっ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-05-23T11:28:44+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>の著者で、ライターの近藤正高さんに新幹線の過去と今に関して論じていただいた原稿です。あと、先日近藤さんが聞き手を担当した、<a href="http://www.sbbit.jp/article/cont1/21690">速水健朗氏と円堂都司昭氏のインタビュー</a>もご関心ある方はぜひお読みください。<br>
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<u>配信日：2010/05/19</u><br>
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先頃亡くなった清水一行の小説<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4575658235/">『動脈列島』</a>を、最近仕事で読み返す機会があった。1974年12月に光文社のカッパ・ノベルスより刊行され、翌年には日本推理作家協会賞も受賞したこの作品は、当時問題化していた新幹線の騒音公害を題材にした社会派ミステリーである。<br>
<br>
<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4575658235/">『動脈列島』</a>では、「実行者」を名乗る人物が国鉄（現・JR）と政府に対し、新幹線公害の解決のため列車のスピードダウンなどを要求し、それが受け入れられないばあいは、新幹線開業10周年を迎える1974年10月１日に列車を転覆すると脅迫する。さらにそれが妄言ではないことを示すため、デモンストレーションとして、さまざまな手段により新幹線を停止してみせるのだった。<br>
<br>
その手口は、当時続発していた新幹線事故を髣髴とさせるものが多い。たとえば作中、豊橋駅で「こだま」がスリップしてオーバーランし、ポイントに乗り上げるが、これは1973年に大阪運転所（鳥飼基地）で起きた回送列車の脱線事故を思い出させる。この脱線事故は調査の結果、レールに摩擦防止用の油を塗りすぎたことが原因とされたが、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4575658235/">『動脈列島』</a>では、犯人が食用油をレールに塗ったため事故が引き起こされる。<br>
<br>
<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4575658235/">『動脈列島』</a>には実際に起きた事故がそのまま描かれていたりもする。それは、1974年９月12日（作中での日付も同じ）に東京運転所（品川基地）付近で起きた、「新幹線品川信号異常現示事故」と呼ばれる信号故障事故だ。<br>
<br>
新幹線では地上信号機のかわりに、車内に信号機が設けられ、前方に列車が接近したばあいなど、信号電流をレールづたいに受信しブレーキが自動的にかかるようになっている。品川での事故は、この車内信号が、列車停止を意味する「０信号」を出すべきところで進行をうながす信号を表示したというものだった。地上信号機でいえば、赤信号が出るべきときに青信号が出たのと同じで、一歩まちがえば大事故につながりかねない事態である。<br>
<br>
調査の結果、品川基地の信号機器室の階下に変電室があり、そこの変圧器と、その近くに取りつけられたコンデンサーの組み合わせが、信号電流に近い周波数の誘導電流を発生させていたことがわかった。ようするに、この誘導電流が信号機器に影響をおよぼし、「ニセ信号」を引き起こしていたのである。<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4575658235/">『動脈列島』</a>の犯人は、実際にあったこの事故をヒントに、故意に「ニセ信号」を発生させ、新幹線をストップさせてしまう。<br>
<br>
ここでおどろかされるのは、例の事故が起きたのが本書の刊行のわずか３カ月前ということである。徹底してリアリティを追求した清水は、期日ぎりぎりまで貪欲にこうした題材をとりこんでいたのだ。そもそも新幹線公害という題材も、すでにその前年、雑誌『宝石』に発表したルポルタージュでとりあげたものだった。<br>
<br>
<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4575658235/">『動脈列島』</a>は刊行からまもなくして映画化が決まり、1975年９月に東京映画製作・東宝配給により公開された（監督は増村保造、主演は近藤正臣と田宮二郎）。これと前後して、東映も佐藤純彌監督・高倉健主演で『新幹線大爆破』を同年７月に封切り、くしくも新幹線がテロリストの標的になるという映画が立て続けに公開されることになった。<br>
<br>
1964年の東京オリンピック開催にあわせて華々しく開業した東海道新幹線は、まさに高度成長の象徴として登場した。だが、第１次石油危機（1973年）で高度成長にピリオドが打たれるとともに、開業10年目の新幹線も、深刻化する騒音公害やあいつぐ事故と、混迷と模索の時期に入ったといっていい。『動脈列島』も『新幹線大爆破』も、こうした背景から生まれた作品だった。<br>
<br>
1975年３月には山陽新幹線の岡山～博多間が開業、東京から博多までを「ひかり」が６時間56分で結ぶようになったが（現在は「のぞみ」が最速で５時間28分で結ぶ）、当時すでに着工されていた東北・上越・成田の各新幹線は、石油危機の影響や国鉄の経営悪化により大幅に建設が遅れた（成田新幹線はその後計画自体が失効）。また、1973年、<br>
「全国新幹線鉄道整備法」にもとづき整備計画が決定したいわゆる整備新幹線（北海道新幹線、東北新幹線の盛岡以北、北陸新幹線、九州新幹線の長崎ルートと鹿児島ルートの５路線）も着工のめどが立たないままだった。<br>
<br>
このほか、1975年前後には新幹線にとってエポックともいうべきできごとがあいついだ。名古屋での新幹線公害をめぐっては1974年３月に沿線住民らが国鉄を相手どって名古屋地裁に提訴し、これを機に新幹線公害反対運動は建設中の地域にまで拡大する。<br>
<br>
また1975年５月には、国賓として来日したイギリスのエリザベス女王が新幹線に乗車した。これは、ほかならぬ女王の国より日本に伝えられた鉄道技術が、ひとつの到達点にたどり着いたことをアピールし、感謝の念を伝える絶好の機会となった。ただし、このとき東京から京都までの女王列車運転は、おりからの春闘のストライキで中止され、東京へもどるときのみの乗車となった。もっとも当の女王は、イギリス国内でもストはよくあることと、さほど気にとめなかったようだが。<br>
<br>
なお、イギリスでの労働者によるストの頻発は、やがて国民の強い反感を買い、サッチャー政権誕生の背景となった。日本でも70年代には、国鉄の労働組合である国労（国鉄労働組合）や動労（国鉄動力車労働組合）が頻繁にストライキを打ったが、国民の支持を得るどころかかえって国鉄離れを招くことになる。<br>
<br>
1975年の11月から12月にかけて８日間にわたり国鉄全線が運休した「スト権奪還スト」（法律で禁じられた公共企業体の労働者のストライキ権を獲得するために行なわれたスト）はその頂点であり、以後大規模なストは行なわれなくなった。このとき、与党自民党でストに対しもっとも非妥協的な主張を展開したのが、党幹事長だった中曽根康弘である。後年首相となった中曽根は国鉄民営化を実現させるが、そこには国鉄の経営再建とともに急進的な労働組合の解体というねらいもあった。<br>
<br>
1975年にはまた、新幹線の海外輸出に向けた動きもすでにあった。この年12月、海外鉄道技術協力協会（JARTS）は、イランのテヘラン～マシャド間の高速鉄道を建設するため同国政府とコンサルティング契約を結んでいる。翌年の年明けにはJARTSから専門家によるチームがイランに派遣され、１年半あまりかけてマスタープラン（総合計画）がつくられた。だが、さらにディテール・デザイン（詳細設計）にとりかかろうかというころ、イラン・イスラム革命（1978～79年）が起こり、この計画は中止へと追いこまれてしまう。<br>
<br>
さて、1975年前後に起こったこれら新幹線をめぐる事項は、その後どのような経緯をたどったのか。<br>
<br>
まず、名古屋での新幹線公害訴訟は、1980年の地裁での一審判決、1985年の高裁での控訴審判決ともに、列車の減速などによる公害差し止めという住民らの請求が、新幹線の公共性を重視して棄却されるいっぽう、過去の被害に対する賠償金支払いが国鉄に命じられた。だが、住民たちの公害解決の願いは強く、交渉の結果、国鉄に公害の不拡大と改善、賠償金の支払いを約束させ、1986年３月に両者のあいだで和解が成立する。<br>
<br>
1975年のスト権ストをひとつの原点とする国鉄民営化は、中曽根政権下の1987年４月に実施された。これと前後して、東海道新幹線の名古屋市内の区間では、和解協定書にもとづき防音壁などの設置など公害対策が進められた。さらに、国鉄時代には財政赤字や労使関係の険悪化などで実現しなかった車両のフルモデルチェンジもはかられ、1992年に東海道新幹線で運転を開始した初代「のぞみ」の300系以来、続々と新車両が登場し、スピードアップとともに騒音の軽減もかなりの水準で達成された。<br>
<br>
民営化にさいしては、1982年より凍結されていた整備新幹線計画も再始動し、1997年に開業した北陸新幹線の一部である長野新幹線を手はじめに、徐々に建設が進められていった。今年12月４日には東北新幹線の盛岡～新青森間が全通、九州新幹線の鹿児島ルートも来年３月には博多～鹿児島中央間の全線が開業し、山陽新幹線との直通運転もはじまる予定である。現時点ではこのほか、北海道新幹線の新青森～新函館間、北陸新幹線の長野～金沢間の建設も進行中だ（北陸新幹線をめぐっては最近、福井県の西川一誠知事が鳩山首相へ高速増殖炉「もんじゅ」の運転再開を報告したさいに、未着工の金沢～敦賀間の早期建設認可を求めている）。<br>
<br>
新幹線の海外輸出に関しては、イランでの計画の頓挫ののちも何度かチャレンジがあった。1993年には韓国高速鉄道（KTX）の車両システム選定にあたり、日本の企業連合が新幹線を売りこんだが、独・仏のプランの前に敗れ去り、結果的にフランスのTGVが選ばれた（2004年に暫定開業）。その後の台湾高速鉄道の計画でも当初、入札により日本ではなく独・仏の企業連合が選ばれている。しかし1999年の台湾中部での大地震をきっかけに地震に強い日本の新幹線が注目されたことなどもあり、車両など新幹線の技術を導入することになった（開業は2007年）。とはいえ、基本設計はあくまでもフランスが行なっており、日本のシステムが全面的に採用されたわけではない。<br>
<br>
現在、オバマ政権の「グリーン・ニューディール」政策の一環として計画されているアメリカ各地の高速鉄道をはじめ、ベトナム、ブラジルなど各国に向けて新幹線やリニアモーターカーの技術輸出が検討されている。この背景には、整備新幹線の全路線開業もそう遠い話ではなくなったため、国内市場の行きづまりを見越してということもあるようだ。<br>
<br>
民主党の現政権は、これまで政府が積極的にバックアップしてこなかったことへの反省から発足以来、各国へのセールスに力を入れている。このゴールデンウィーク中には前原誠司国交相がアメリカとベトナムをあいついで訪問、新幹線を売りこんだ。ただ、計画の初期段階から発注者へのコンサルタントができるオールジャパン会社もない――そもそも核となるべきJR東海とJR東日本の足並みもそろっていない――状態で、はたして年々激しさの増す国際競争を勝ち抜くことができるのか、疑問視する声も出ている（『週刊東洋経済』2010年４月３日号を参照）。<br>
<br>
いまや新幹線は、国内外に対してCO2排出量の少なさなど“エコ”をセールスポイントにしている。かつて公害の発生源として新幹線がとりざたされていたことを思えば、これは大転換だ。その原点はやはり1975年あたりにあるのだと思う。あの時期に新幹線の停滞を生んだ公害などの諸問題は、その後いかに解決されたのだろうか。<br>
<br>
これまで新幹線の歴史というと、とかく“高度成長期の神話”として東海道新幹線の開発がとりあげられがちだった。が、今後は開業以降の新幹線についても、いかに国民生活に定着していったのかなど細かに検証される必要があると思う。「1975年の新幹線」は、それを考えるうえでさまざまな材料に満ちている。こうした作業を経てこそ、世界各国に新幹線技術を広めるヒントも見出せるのではないだろうか。<br>
<br>
<br>
●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>がある。<br>
新幹線については、ここに書いたことだけでなく、一冊本ができるほどネタを集めていて、現にいま年内刊行に向けて本を書いている最中です。なお、『動脈列島』映画版で主演を務めた近藤正臣は父、ではありません。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1286885.html">
<title>近藤正高「石原都知事がオリンピック招致にこだわる理由」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1286885.html</link>
<description>担当者より：『私鉄探検』の著者で、ライターの近藤正高さんに東京オリンピック招致が話題になっていた2007年にご執筆いただいた原稿です。なお、2007年から数年経過していることもあり、一部を近藤さんには追記で補っていただいております。ご一読ください。

配信日：2007/...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-04-22T18:29:41+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>の著者で、ライターの近藤正高さんに東京オリンピック招致が話題になっていた2007年にご執筆いただいた原稿です。なお、2007年から数年経過していることもあり、一部を近藤さんには追記で補っていただいております。ご一読ください。<br>
<br>
<u>配信日：2007/01/24</u><br>
<br>
<br>
慎ちゃんが東京でオリンピックをやりたいと言い出した。慎ちゃんというのは、もちろん東京都の石原慎太郎知事のことである。彼はどうやら、2016年のオリンピックを、国威をかけた「ナショナルイベント」という位置づけで招致するつもりだったらしい。<br>
<br>
東京都は2006年8月に、JOC（日本オリンピック委員会）の選定委員による投票で、対抗馬の福岡を破り国内候補地の座を獲得した。2007年9月にはいよいよ各国の候補地との招致レースにのぞむべく、IOC（国際オリンピック委員会）に立候補申請を行なっている［筆者追記：ただしその後、2009年10月のIOC総会にて、東京が落選したのは周知のとおりである］<br>
<br>
さて、いまからさかのぼること43年前、1964年に東京で開催されたオリンピックは、間違いなくナショナルイベントであった。オリンピックに向け、国費をかけて代々木体育館や日本武道館などの競技施設が建てられたほか、首都高速や東海道新幹線などインフラの整備も急ピッチで進められた。一方、地元開催とあって日本選手の活躍もめざましく、金メダル獲得数16個（一大会における金メダルの数では、2004年のアテネ五輪がこれに並ぶのみ）と、国別ではアメリカ、ソ連に次ぐ第３位と健闘している。首都の急速な近代化をもたらすとともに、肝心の競技においても、冷戦下のふたつの超大国に迫る成績を残したこのオリンピックは、国威発揚に大いに貢献したことだろう。<br>
<br>
だが、十分な成果を収めたはずのこのオリンピックを見て、国を憂えた青年作家がいた。ほかでもない、石原慎太郎その人である。<br>
<br>
東京オリンピックの会期中、『読売新聞』では毎日、「オリンピック断章」と題し、複数の文学者が持ち回りでエッセイを連載した。この連載に、当時32歳だった慎ちゃんは（ちなみに彼が参院選に当選し政界入りを果たすのはこの４年後）、４度寄稿している。<br>
<br>
オリンピック開幕翌日（10月11日）の最初の寄稿でこそ「オリンピックにあるものは、国家や民族や政治、思想のドラマではなく、ただ人間の劇でしかない」「そこにあるのは、日本の代表選手ではなく、ただ一人の人間なのである。同様に、外国からやって来た選手も我々と同じ一人の人間である」とヒューマニスティックな論調で書いていた慎ちゃんだが、その５日後の２度目の寄稿では、日本水泳陣の不調をダシに前言をあっさりと翻す。「どたん場にくれば平素の実力以上のものを出してしまう外国選手と、実力も出し切れずに敗れ去る日本選手。われわれに欠けているものはなになのか」「仏作って魂入れずという言葉があるが、東京オリンピックの施設一つを見ても、驚異的に復興し、いまや再び栄えようとしている日本という国に、確かに魂が欠けているようだ」と断じ、戦後の日本は新たな国家の理念、ナショナルなものの確立を怠ってきたと批判する。その後の10月21日と25日の寄稿も終始こんな調子で、大会終盤の日本選手の不振を太平洋戦争の経過になぞらえたりしている。<br>
<br>
2016年の東京のオリンピック招致については、往年の東京オリンピックの栄光を再現するべく企図されたものと見る向きも目立った。しかし、言いだしっぺである慎ちゃんの意図はそんな甘いノスタルジックなものではなく、真の狙いはむしろ、あのオリンピックを境に魂を失ってしまった（とされる）日本人を、これを機に徹底的に叩き直すことにこそあったのではなかろうか。かつての東京オリンピックに対する慎ちゃんの論調を見ると、どうもそんな気がしてならない。<br>
<br>
<br>
●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
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<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1237464.html">
<title>近藤正高「現代史のなかの2009年物故者たち」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1237464.html</link>
<description>担当者より：ライターの近藤正高さんに2009年に亡くなった人々についてご執筆いただいた原稿です。なお、この原稿は2009年末に配信されたものですので、文中の「昨年」は2008年、「今年」は2009年を指すことをご留意ください。

配信日：2009/12/24


おそらく多くの人が思っ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-01-13T00:18:53+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>ライターの近藤正高さんに2009年に亡くなった人々についてご執筆いただいた原稿です。なお、この原稿は2009年末に配信されたものですので、文中の「昨年」は2008年、「今年」は2009年を指すことをご留意ください。<br>
<br>
<u>配信日：2009/12/24</u><br>
<br>
<br>
おそらく多くの人が思っていることでしょうが、今年は例年になく各界を代表する人物たちの訃報があいつぎました。<br>
<br>
今回、昨年に続きこの一年間の物故者を回顧するにあたって、文化人類学者の川喜田二郎（7/8。以下、日付は故人の命日を示します）の考案した「KJ法」などを使ったりしていざ整理にとりかかったものの、あまりにもとりあげるべき人物が多い上に、各人同士との接点がいくつもあったりして、かえって収拾がつかなくなってしまいました。<br>
<br>
しかしこの収拾のつかなさこそ、人と人とが、事象と事象とが複雑に絡み合った現代という時代の反映なのかもしれません。そこで、ここはあえて収拾のつかないまま、今年亡くなった人たちから接点を見出しつつ、2009年とはどんな年だったのか、さらには彼ら彼女らの生きた時代を振り返ってみたいと思います。<br>
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今年は、日本とアメリカでの政権交代や昨年来の世界同時不況など、時代の変わり目を感じさせるようなできごとがあり、また、昭和や冷戦の終焉から20年を迎えるなどさまざまな節目の年でもありました。今年７月にはアメリカの宇宙船・アポロ11号による人類初の月面着陸から40年を迎えています。<br>
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ちょうどアポロ11号が月に向かっているさなかの1969年７月18日、地上では米上院議員のエドワード・ケネディ（8/25）が自動車事故を起こし、同乗の女性が水死したにもかかわらず現場を立ち去ったため起訴されていました（のち州法廷で禁固２カ月の有罪判決）。そもそも人類を月に送るという計画は、エドワードの兄であるジョン・Ｆ・ケネディが大統領在任中に提唱したものです。そう考えると、この事件はいかにも間が悪すぎました。<br>
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アポロの月旅行は、アメリカの小説家、ジョン・アップダイク（1/27）の『帰ってきたウサギ』にも中心的メタファーとして登場します。同作を含む「ウサギ」４部作と呼ばれるシリーズの後半では、主人公のハリーが妻の父からトヨタの代理店を引き継ぎ成功を収め、80年代半ばには息子に家業を譲って隠居します。もちろん、ここには70年代以降の日本車の“侵略”という歴史的事実が背景にあるわけですが。<br>
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自動車は20世紀における大量消費社会のシンボルでした。イギリスの小説家、J.G.バラード（4/19）はアップダイクよりもっと過激に、自動車事故でしか性的興奮を得られなくなった人々を描いた『クラッシュ』などの作品を発表しています。日本のノンフィクション作家の上坂冬子（4/14）も、戦後まもない時期のトヨタ自動車での勤務体験を記録した『職場の群像』でデビューしています。<br>
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コピーライターで「日本デザインセンター」の創立メンバーでもある梶祐輔（10/4）は、トヨタの広告を40年近く手がけた、日本における自動車広告の第一人者でした。たとえば「白いクラウン」（68年）は、それまで黒塗りの高級車というイメージのあったクラウンをより幅広いユーザー層に広げるというコンセプトを一言でいいあらわしたコピーとして、いまだに語り継がれています。<br>
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自動車業界はまた政界にも人材を送り込みました。米自動車ビッグスリーの一角、フォード社に管理システムを初めて導入し経営を再建したロバート・マクナマラ（7/6）は、社長昇進直後の61年、その手腕を買われてケネディ政権の国防長官に任命されます（ちなみに同政権は、経済ブレーンに経済学者のポール・サミュエルソン［12/13］を招いています）。<br>
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ただ、次のジョンソン政権まで続いたその在任中、マクナマラは徹底した軍事予算の管理のもとベトナムへの軍事介入を推し進めました。やがて彼の精緻な計算は、ベトナム人民のゲリラ戦法の前に狂い始めます。ついには、戦争の泥沼化の責任をとる形で辞任へ追い込まれたのでした。<br>
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ウォルター・クロンカイト（7/17）が、全米ネットワークの一つ、CBSテレビの『イブニング・ニュース』のキャスターとなったのはケネディ政権２年目の62年のこと。同年、日本でもキャスターニュース第１号となる『ニュースコープ』がTBSテレビで始まり、クロンカイトと同じく通信社出身の田英夫（11/13）がキャスターに抜擢されました。けれども、ベトナム戦争の報道をめぐって両者は対照的な道をたどることになります。<br>
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67年に、当時の北ベトナムを取材し、これをドキュメンタリー番組『ハノイ――田英夫の証言』として放映した田は、アメリカがこの戦争に勝利するのは困難だという見通しを示しました。これをときの自民党政府が偏向報道だと非難、結果的に田はキャスターを降板しています。<br>
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対してクロンカイトは翌68年、国の戦況報告への疑問からベトナムに飛びました。それまで中立主義を貫いてきた彼ですが、帰国後の報告では「いまやとるべき道は和平交渉しかない」と主張しました。これを受けて、ときの米大統領・ジョンソンは北ベトナムへの爆撃の停止、さらには次期大統領選への不出馬を決めたともいわれています。<br>
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その後、テレビでの戦争報道は日常化し、91年の湾岸戦争では、空爆の中継映像がテレビゲームのようだと形容されたりもしました。このとき、日本ではニュース番組に頻繁に出演した軍事評論家の江畑謙介（10/10）が一躍ときの人となりました。<br>
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テレビもまた、自動車とともに20世紀を象徴する存在です。日本でテレビ本放送が開始された53年当時、水の江滝子（11/16）らが出演したバラエティ番組の元祖ともいえる『ジェスチャー』が人気を集めました。<br>
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水の江は戦前、松竹歌劇団の男役として脚光を浴びましたが、戦後はテレビ出演のほか日活のプロデューサーとして活躍しました。彼女が56年に製作した映画『太陽の季節』には、のちに結婚する長門裕之と南田洋子（10/21）が主演しています。<br>
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『ジェスチャー』は女性陣と男性陣が対抗するという形式で、それぞれのキャプテンを水の江と落語家の柳家金語楼が務めました。この金語楼の息子、山下武（6/13）は60年代にNET（現テレビ朝日）のディレクターとして『大正テレビ寄席』を手がけ、演芸ブームを巻き起こしました。しかしブームに乗じて類似番組がどんどんつくられるうちに人材が払底すると、落語家が狩り出されるようになります。三遊亭圓楽（５代目。10/29）ら当時の若手落語家が出演した『笑点』もそのような背景から生まれました。<br>
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テレビ放送開始以来の人気番組といえば、日本テレビのプロレス中継もあげねばなりません。しかしそれもついに今年２月、地上波から消えてしまいました。力道山の日本プロレス、ジャイアント馬場の全日本プロレスの流れをくむ「プロレスリング・ノア」の地上波での中継打ち切りからまもなくして、ノアの社長でプロレスラーの三沢光晴（6/13）が急死しています。<br>
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在京民放テレビ局のうち後発局であるフジテレビは、鹿内信隆・春雄父子による一族経営によって急成長をとげました。同局が「軽チャー路線」を打ち出した84年、春雄は、元NHKアナウンサーでフジに移籍していたキャスターの頼近美津子（5/17）を妻に迎えます。しかし結婚からわずか４年で春雄が急死。その後女優やコンサート・プランナーとして活躍した頼近もまた53歳という若さで亡くなりました。<br>
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テレビによって人気が高まったスポーツにはプロレス以外にプロ野球があります。山内一弘（2/2。旧名は和弘）は50年代から60年代にかけて大毎オリオンズ（現・千葉ロッテ）などで活躍した大打者、土井正三（9/25）は1965～73年の読売ジャイアンツのV9に、主に２番打者として貢献した選手です。<br>
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この二人には奇妙な共通点があります。それは、プロ野球の監督として大選手の才能を見抜けなかったという“悪評”がつきまとうことです。山内は社会人野球からロッテに入ったばかりだった落合博満の独特のバッティングフォームを見て、これではプロで通用しないと言い放ったといいます。土井は、オリックス入団２年目のイチローを一軍になかなか定着させませんでした。イチローが一軍に定着し、シーズン安打210本という日本記録を打ち立てるのは翌年、仰木彬監督に変わってからです。<br>
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とはいえ、落合本人は、山内の高度な理論が当時の自分には理解できなかったとのちに語っています。イチローにしても、くだんの悪評について土井の死後、「そうじゃないのにね」と否定しました。<br>
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なお、土井が監督を務めたオリックスは2004年に大阪近鉄バファローズと合併、オリックス・バファローズとして京セラドーム大阪を本拠地としました。もともと大阪ドームとしてオープンした同球場は、関西の大手私鉄・近鉄の会長で球団オーナーだった上山善紀（8/25）によって建設が推進されました。<br>
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上山はまた、三重県の志摩半島に大規模リゾート・志摩スペイン村の建設を進めました。けれども、大都市から離れていることもあって経営は苦戦が続いています。これに対して、元千葉県知事・川上紀一（8/14）が実現を公約に掲げた東京ディズニーランド（TDL）は、大都市型テーマパークとして大成功を収めました。ただし、当の川上は、1975年の知事選出馬前に不正献金を受けていたことが在任中の81年になって発覚、83年のTDLのオープンを待たぬまま辞任しています。<br>
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TDLには87年、「キャプテンEO」というマイケル・ジャクソン（6/25）主演のアトラクションが登場しています。マイケル自身、大のディズニーきで、その大邸宅をネヴァーランドと名づけたほどでした。<br>
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マイケルが83年にリリースした「スリラー」は、そのプロモーションビデオ（PV）とともに世界的なヒットになりました。日本でも翌年にはメリカのMTVと提携してPVを流す番組も始まったものの、国内アーティストにはPVはまださほど必要とされていませんでした。これについては、歌番組やCMでのイメージソングがその代わりを担っていたからとの見方もあります。そう考えると、忌野清志郎（5/2）の歌番組での、噛んでいたガムをカメラに向かって飛ばしたり、自分の曲の放送を“自粛”したラジオ局を非難する曲を突然歌い出したりといったパフォーマンスは、格好のプロモーションだったといえるかもしれません。<br>
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プロモーションといえば、2016年の五輪招致のため東京都がつくった10分間のPVは、製作費に５億円もかかっていたことが判明し物議をかもしました。今回の五輪招致では、敗戦直後、競泳で立て続けに世界記録を出した古橋廣之進（8/2）にも、元JOC会長、国際水泳連盟副会長にして名誉都民という立場から協力が期待されていました。けれども、古橋は10月のIOC総会での最終投票を待たずにローマで客死、五輪招致も失敗に終わったことは周知のとおりです。<br>
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往年のアスリートでは、56年のコルティナダンペッツォ冬季五輪のアルペン３種目で優勝したオーストリアのスキー選手で、のちに俳優に転身したトニー・ザイラー（8/24）も亡くなりました。ザイラーは日本にもたびたび訪れ、59年には松竹映画『銀嶺の王者』に主演しています。60年の来日時には東レの広告に登場、このとき「ことしの流行はザイラーの黒」というコピーを書いたのが、土屋耕一（3/27）でした。<br>
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もともと資生堂宣伝部のコピーライター第１号として出発した土屋は、フリーになってからも資生堂の広告を手がけました。80年の「ピーチパイ」というコピーからは、竹内まりやの歌うイメージソング「不思議なピーチパイ」が生まれています。<br>
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この「不思議なピーチパイ」の作曲を手がけたのは加藤和彦（10/17）でした（作詞は当時夫人だった安井かずみ）。加藤と広告のかかわりは深く、70年には“脱商品広告”のさきがけといわれる富士ゼロックスのテレビCM「モーレツからビューティフルへ」に出演、若者たちのフィーリングに訴えかけました。<br>
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この一年は、先述の梶祐輔や土屋耕一のほか、日本のグラフィックデザインのパイオニアと称される早川良雄（3/28）、それに続く世代にあたる木村恒久（08年12/27）、福田繁雄（1/11）、粟津潔（4/28）と、広告業界周辺の人物の訃報が目立ちました。このうち粟津は、70年の大阪万博でアミューズメントゾーンの基本構想計画にも参加していますが、これは今年閉園したエキスポランドの原型となるものでした。<br>
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コピーライターでは、土屋の影響下から出発した眞木準（6/22）も亡くなっています。眞木は、93年に羽田孜や小沢一郎らが自民党を離脱し新党を旗揚げしたさい、「新生党」という党名を考案するなど幅広い仕事を手がけました。<br>
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津久井克行（10/2）を中心とする男性デュオグループclassの「夏の日の1993」がヒットした93年夏、ときの宮澤喜一内閣への不信任案可決を受けて総選挙が実施されます。同内閣で外相だった武藤嘉文（11/4）は、大平正芳首相の急死直後に大勝を収めた80年の総選挙を引き合いに出して、「宮澤さんもお亡くなりになれば……」と口を滑らせてしまいますが、羽田や小沢のほかにも離党者があいついだため自民党は大敗、日本新党の細川護熙を首相とする非自民連立政権が発足しました。<br>
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連立政権成立の立役者である小沢一郎は翌94年にはポスト細川政権もにらんだ上で、自民党の有力政治家だった渡辺美智雄らを切り崩しにかかります。渡辺をうながすべく、その側近だった柿澤弘治（1/27）たちが先行するかたちで自民党を離党、自由党（後年小沢のつくった同名の党とは別物）を結成しました。けっきょく渡辺の取り込みには失敗、細川に代わって羽田が政権を引き継ぎ、柿澤は同内閣で外相に就任します。ただしその在任期間は約２カ月と短いものでしたが。<br>
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大蔵省出身の柿澤は、77年の参院選で新自由クラブ（新自ク）から出馬し初当選を果たしました。新自クはその前年、ロッキード事件によってあかるみになった金権体質への批判から自民党を離党した河野洋平ら若手政治家たちによって結成された保守新党です。その総元締め的存在だったのが河野のいとこにあたる田川誠一（8/7）でした。<br>
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70年代には、名古屋市長となった本山政雄（5/11）など全国の大都市に革新首長が誕生し、国政でも「保革伯仲」の時代を迎えていました。さらに、評論家の室伏哲郎（10/26）が「構造汚職」と呼んだ、自民党政権と官界・財界の癒着構造に起因する汚職事件があいつぎ国民の不満が高まります。新自由クラブと、先述の田英夫が代表となった社会民主連合（社民連）は、こうした背景からそれぞれ保革を代表する都市型の新党として登場し、期待を集めました。<br>
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けれども、新自クは勢力を伸ばせず86年に解散。河野などほとんどのメンバーは自民党に復帰したものの、田川だけはかたくなに金権政治の打破を訴え一人で進歩党をつくりました。社民連では早くから田ら「旧社会党派」と菅直人ら「市民派」とが対立し、細川政権発足時には当時の代表である江田五月が入閣しましたが、田は連立政権を批判して脱退、けっきょく94年に解党します。<br>
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政界関係ではこのほか、2006年、当時の民主党執行部の総退陣にまで発展したいわゆる「偽メール問題」の火付け役である元衆院議員の永田寿康（1/3）が自殺、また麻生内閣の財務相として出席したG7の財務相・中央銀行総裁会議の終了後の“もうろう会見”で物議をかもした中川昭一（10/3）が、総選挙での落選後まもなくして急死<br>
するなど衝撃的なできごとがあいつぎました。<br>
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麻生自民党から鳩山民主党への政権交代は、彼らの祖父にあたる吉田茂から鳩山一郎への政権交代（54年）と何かと重ね合わせられました。そういえば、83年の映画『小説吉田学校』で吉田を演じたのは森繁久彌（11/10）でした。その森繁に「国民のおじいちゃんのような方」だからとの理由で、鳩山一郎の孫から国民栄誉賞が贈られるというのは何か因縁めいているような……。なお、『小説吉田学校』で美術監督を務めたのは、黒澤明監督作品にも多数かかわった村木与四郎（10/26）でした。<br>
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クロサワアキラといえば、ムード歌謡の「ロス・プリモス」のそれぞれ初代と２代目リーダーである黒沢明（4/9）と森聖二（10/18）が立て続けに亡くなっています。歌謡界での物故者はこのほか、作詞家の松井由利夫（2/19。代表作に氷川きよし「箱根八里の半次郎」など）、石本美由起（5/27。美空ひばり「悲しい酒」など）、音羽たかし（8/6。ザ・ピーナッツ「情熱の花」など）、丘灯至夫（11/24。舟木一夫「高校三年生」など）、作曲家の三木たかし（5/11。石川さゆり「津軽海峡・冬景色」など）がいます。<br>
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歌謡曲がらみでは、『山口百恵は菩薩である』『大歌謡論』などたくさんの歌謡曲論を著した評論家の平岡正明（7/9）もぜひあげておきたい。その２カ月前には、平岡やルポライターの竹中労とともに70年代に「３バカゲバリスタ」と称して活動を行なった革命思想家の太田龍（5/19）も亡くなっています。彼らにとって、アジアに対する日本の戦争責任の追及は重要なテーマでした。<br>
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アジア各国でもかつての指導者たちの訃報があいつぎました。韓国前大統領の盧武鉉（5/23）が自殺した３カ月後には、彼の前任者であり、民主化運動のリーダーだった金大中（8/18）が死去。さらに73年の金大中拉致事件を主導したとされる元KCIA部長の李厚洛（イ・フラク。10/31）も亡くなり、同事件の真相究明はますます困難になりました。<br>
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金大中は80年、民主化運動で国内に混乱を招いたとの理由で逮捕、一時は死刑宣告も受けますがのちに刑執行が停止され、しばらくアメリカで事実上の亡命生活を送っています。このとき、金はやはり亡命中だったフィリピンの野党議員、ベニグノ・アキノと親交を持ちました。ベニグノは83年、３年ぶりに帰国するも到着した空港で暗殺されてしまいます。86年のフィリピン２月革命でマルコス政権が倒れると、ベニグノの未亡人のコラソン・アキノ（8/1）が大統領に就任しました。<br>
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鳩山首相は今年、「東アジア共同体」創設を提唱しました。いっそ、そのマスコットに、いまやアジア各国で人気を集めている臼井儀人（9/11）の『クレヨンしんちゃん』を起用してみてはいかがでしょうか。<br>
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冷戦終結から今年で20年を迎えました。アメリカの国際政治学者、サミュエル・ハンティントン（08年12/24）は96年に刊行した『文明の衝突』のなかで、冷戦後の国際社会はいくつかの文明圏に分裂し、それらの対立・衝突によって世界秩序がつくられていくという見方を示しています。同書は鈴木主税（10/25）によって邦訳され、日本でも話題になりました。<br>
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2001年のタリバンが首謀したとされる９・11テロ、それに先立つアフガニスタンのバーミヤン渓谷の巨大仏像の破壊は、ハンティントンの予見が的中した事例ともいえます。なお、大仏の破壊にさいして、日本画家の平山郁夫（12/2）は、ユネスコ親善大使として抗議活動を行ないました。<br>
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予見といえば、ドイツの振付家、ピナ・バウシュ（6/30）の演出により89年11月に初演された舞台『パレルモ、パレルモ』では、幕が開くとともに400個もの煉瓦を積み上げた壁が一瞬にして崩れ落ち、観衆に衝撃を与えました。ベルリンの壁の崩壊はそれから約１週間後のことです。振付家では、バウシュの先行世代にあたるアメリカのマース・カニングハム（7/26）も今年亡くなっています。<br>
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本稿でとりあげた自動車にしてもテレビや広告にしても、大きな転換期を迎えています。出版の世界もまた例外ではありません。評論家の中島梓（5/26。栗本薫の名で作家としても活躍）は26年前に著した『ベストセラーの構造』で、赤字を補うために出版点数を増やすというやりかたはいずれ破綻し、出版社も本も著者も容赦ない淘汰にさらされるのではないかと懸念しましたが、その予見はほぼ的中してしまいました。<br>
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中島は前掲書において、現代社会はスケープゴートを必要とする社会であり、ベストセラーにもその傾向が見られることを指摘しています。それを読んでふと、昨年のいまごろの飯島愛の死（08年12/17？）を思い出しました。それにしても彼女といい、大原麗子（8/3）や山城新伍（8/12）といい、芸能人の孤独死があいついだ一年でもありました。<br>
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最後にとりあげるのは、やはりこの人をおいてほかにないでしょう。100歳で大往生したフランスの文化人類学者、クロード・レヴィ=ストロース（10/30）です。<br>
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80年代にめざましい経済成長をとげつつあった韓国を訪れたものの、朝鮮文明の遺跡しか求め歩かなかったレヴィ=ストロースを見て、現地のある学生は「レヴィ=ストロースは、もはや存在しないものにしか興味を示さない！」と言ったといいます。<br>
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原始文明と先進文明という区分を取っ払い、すべての人類に不変的な構造を見出したこの偉大なる思想家にとって、たかだか一世紀のうちに起きた変動など、人類の長い営みからすればささいなものとしか思えなかったのかもしれません。<br>
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これまでにあげた人たちすべての人生がすっぽり納まるほど生きながらえた人物をとりあげたところで、本稿を締めたいと思います。<br>
あらためて、彼ら彼女らに哀悼の意を表しつつ――。<br>
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●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1224272.html">
<title>近藤正高「放送作家のあがり方」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1224272.html</link>
<description>担当者より：著書に『私鉄探検』（ソフトバンク新書）があるライターの近藤正高さんに放送作家という職業とその“あがり方”について論じていただきました。

配信日：2008/04/09


放送作家出身の小説家・景山民夫はかつて「放送作家40歳定年説」なるものを提唱していたとい...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2009-12-19T01:11:30+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>（ソフトバンク新書）があるライターの近藤正高さんに放送作家という職業とその“あがり方”について論じていただきました。<br>
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<u>配信日：2008/04/09</u><br>
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放送作家出身の小説家・景山民夫はかつて「放送作家40歳定年説」なるものを提唱していたという。テレビの仕事ができるのはせいぜい反射神経のある30代までだという考え方だ。当の景山自身、40歳をむかえる前後に吉川英治文学新人賞と直木賞をあいついで受賞し、本格的に小説家の道に進んでいる。<br>
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反射神経の問題かどうかはともかく、放送作家には景山のみならずほかの分野へと転進したケースが目立つ。ちょっと調べただけでも、青島幸男・赤江瀑・秋元康・阿久悠・井上ひさし・永六輔・大橋巨泉・川崎洋・神吉拓郎・邦光史郎・小林信彦（中原弓彦）・野坂昭如・野末陳平・畑山博・藤本義一・前田武彦・宮沢章夫・向田邦子・隆慶一郎（池田一朗）などなど、かなりの名前があがる。<br>
<br>
ここにあげた大半はテレビ創生期に放送作家として活躍し、のちに文学や政治、あるいはタレントや作詞家に転進するなどして別の分野でも名をあげた人たちである。なかには直木賞や芥川賞の受賞者もいるし、参院議員経験者もいる。青島にいたっては、作詞家・タレント・直木賞・東京都知事と、いまあげたすべての分野でこれ以上ないというぐらいの成功を収めている。また、井上ひさしは日本ペンクラブの会長まで務めたし、秋元康もいつのまにか京都造形芸術大学の副学長という要職に就いていたりする。<br>
<br>
ただ、このことは放送作家という職業の地位の低さの裏返しといえるのかもしれない。とくにテレビ創生期の放送作家はそうだろう。放送作家の仕事では将来の見通しが立たなかったからこそ、彼らの多くは別の分野に進まざるをえなかった、と解釈するのが妥当ではないか。<br>
<br>
それでもドラマを手がける脚本家のばあい、その地位の向上は比較的早かった。直木賞作家にまでのぼりつめた向田邦子の名は、その没後、テレビドラマの脚本を対象にした賞に冠され、この分野ではもっとも権威のある賞の一つとなっているし、向田とはほぼ同世代（というか４つ年上。今年83歳というから驚く）で、いまなおテレビの世界に君臨しつづける橋田壽賀子は、財団を設立し、放送関係者や番組を対象に、みずから「橋田賞」という“あがり”をつくってしまった。<br>
<br>
そんな脚本家たちに対して、バラエティの放送作家――いわゆる構成作家の立場はかなり長いあいだ軽んじられてきたように思われる。ほかの分野に転進しなかった構成作家一筋というような人には、忘れ去られてしまった人が多いのではないか。<br>
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ビートたけしの番組などを手がけた放送作家で、タレントとしても活躍する高田文夫が1984年に刊行した『コントもかけば恥もかく』（日本文芸社）では、そんないまでは歴史に埋もれてしまった構成作家たちについても触れられている。<br>
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たとえば、三波伸介司会で人気を集めた『お笑いオンステージ』を企画した前川宏司や、その一番弟子で、女性の構成作家の草分けとして『クイズ・ドレミファドン！』の企画などにかかわった福地美穂子などだ。だが、福地は76年に35歳でテレビ局内で急死、前川もまた82年、『お笑いオンステージ』の終了とほぼ時期を同じくして亡くなっている。45歳とやはり早世だった。<br>
<br>
ちなみに、高田は日大芸術学部在学中の70年に塚田茂に弟子入りしている。塚田茂という人もテレビ史を語る上で重要な作家だ。『NHK紅白歌合戦』が初めてテレビで放送された際に、会場となった日劇の舞台監督として参加して以来、テレビ業界への転進後も30年以上にわたって紅白の制作にたずさわったほか、『夜のヒットスタジオ』や『オールスター家族対抗歌合戦』などといった人気番組を手がけている。このうち『夜ヒット』では、塚田自身も「歌謡ドラマ」という歌手らが演じる寸劇コーナーに出演もした。<br>
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さて、テレビが創生期を脱し、巨大産業となっていった70年代には、放送作家の歴史を語るうえでエポックともいえるできごとが起きている。このエポックをつくったのはコメディアンの萩本欽一だ。萩本は、坂上二郎とのコンビ・コント55号から個人での活動に移行するにあたり、自分と一緒にコントをつくる作家を育てるため、大岩賞介・永井準・詩村博史 ・鈴木しゅんじといった当時20代の若者たちを集めた。放送作家集団「パジャマ党」の誕生である。<br>
<br>
それから５年ほどの修行期間を経て、萩本は『どちらさまも欽ちゃんです』というニッポン放送のラジオ番組でパジャマ党を初めてスタッフに起用、そのうちの一コーナー「欽ちゃんのドンといってみよう」がやがて『欽ちゃんのドンとやってみよう！』というテレビ番組に発展していくことになる。<br>
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ところで、パジャマ党のメンバーのうち、はかま満緒の弟子だった大岩をのぞく３人は日本大学の学生だったという。彼らが在学していたのは、ちょうど68年よりはじまった日大闘争とよばれる学生運動が激化していたころだ。萩本は入門したばかりの彼らから日大闘争の話を興味深く聞いたという。<br>
<br>
先述の高田文夫が日大に在籍したのもちょうど闘争の最中だった。彼自身はおそらく運動に参加していないだろうが、彼の落語研究会での後輩だった森田芳光（のち映画監督）は運動に身を投じている。やはり同時期に日大生だったのが演出家のテリー伊藤である。つい先日放送されていた、日本テレビの開局55年の記念番組では、日大闘争の記録映像に映っている学生時代の伊藤の姿が紹介されていた。<br>
<br>
そのテリー伊藤もまた放送作家の育成に力を入れている。80年代から90年代にかけて伊藤が演出を手がけた『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』では、「放送作家予備校」という企画が組まれ、このとき伊藤のもとに、そーたに・おちまさと・都築浩・池田一之・田中直人といった放送作家志望の若者が集まることになる。<br>
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それまで伊藤の事務所ロコモーション（85年設立）には放送作家がいなかったこともあり、彼らはかなり自由な雰囲気のなかで、たがいに切磋琢磨しながら腕を磨いていったようだ。そんな彼らの才能が一気に開花したのが、92年よりはじまった『進め！電波少年』である。<br>
<br>
『電波少年』は、『元気が出るテレビ』で伊藤のもとで演出を務めた土屋敏男により企画され、前述のロコモーションの作家たちをはじめ、すでに深夜番組『カノッサの屈辱』でその名を知られていた小山薫堂や、雑誌『ビックリハウス』の投稿者出身で古舘プロジェクトに所属する鮫肌文殊といった当時の若手作家が結集した。<br>
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これは、60年代末の伝説的番組『巨泉・前武ゲバゲバ90分！』で、一回の放送につき150本ものコントをつくるため、三木鶏郎やキノトールといった大御所から、河野洋・井上ひさし・小林信彦・松原敏春・喰始など当時の中堅・新人まで大勢の気鋭の放送作家が集められたというのとよく似ている。その意味では、90年代においてかつての『ゲバゲバ90分』にあたる存在が『電波少年』だったのではないか。<br>
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『電波少年』の作家チームは、土屋みずから声をかけて集められたゲリラ集団のようなものだったという。なかには、高須光聖のように声をかけられながらも、ダウンタウンの番組以外の仕事は断らざるをえないという当時の状況から、参加を断念した者もいる。のちに<a href="http://www.mikageya.com/yu/11/index3.html#talk">高須は『電波少年』のチームがすごくうらやましかったと、参加した海老克哉に打ち明けている</a>ほどだ。<br>
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とはいえ、高須がかかわったほぼ同時期の『ダウンタウンのごっつええ感じ』にも、三木聡・倉本美津留・内村宏幸・木村祐一など、いまから思えば『電波少年』に負けず劣らず多彩な作家陣が集まっていた。<br>
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『電波少年』や『ごっつええ感じ』に参加した若手放送作家の多くもすでに40代をむかえ、業界の中核となっている。それに先行する高田文夫、あるいはパジャマ党の面々（永井準は一昨年鬼籍に入ったが）など現在60歳前後の作家たちにも現役の者が目立つ。なかにはおちまさとや小山薫堂のように、放送にかぎらず幅広い分野でプロデュース業などを手がける者もいるが、それでも軸足はまだ放送作家に置いており、肩書きもそのままになっていたりする。<br>
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こうした状況をみると、放送作家がようやく職業として確立されたように思われる。彼らは放送作家をステップではなくベースとして、別の分野に移ることなくテレビの世界で“あがる”方法を示しているといってもいいだろう。<br>
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サブカルチャーやユースカルチャーとよばれるものには、マンガやロックなど、本来なら若者特有のものだったはずの文化がいつのまにか世代を越えて定着してしまった、というようなケースが多々みられる。それはジャンルの成熟には避けられないことだろう。とすれば、放送作家という職業が年齢とあまり関係ないものになったいま、テレビのバラエティ番組というジャンルも成熟をむかえた、といえるのかもしれない。<br>
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●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
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<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1189965.html">
<title>近藤正高「板東英二、その副業人生」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1189965.html</link>
<description>担当者より：近藤正高さんは、テレビ史、広告、建築、戦後政治、新幹線、オリンピックや万博といったビッグイベントなど多岐にわたる分野に関心を寄せるライターです。著書に『私鉄探検』（ソフトバンク新書）があります。サブカルチャーにも明るい方で、この原稿では目下ブ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2009-11-08T12:30:41+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>近藤正高さんは、テレビ史、広告、建築、戦後政治、新幹線、オリンピックや万博といったビッグイベントなど多岐にわたる分野に関心を寄せるライターです。著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>（ソフトバンク新書）があります。サブカルチャーにも明るい方で、この原稿では目下ブレイク中の板東英二について論じていただきました。<br>
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<u>配信日：2009/09/02</u><br>
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あなたは、深夜に電話で友人から延々と板東英二のものまねをされた経験があるだろうか。私はある。板東英二の声は特徴があるせいか、私の友人もふくめ素人にも比較的まねしやすいようだ。タレントでも板東のものまねをレパートリーにしている者は多いが（松村邦洋とか）、ここへ来て松竹芸能の芸人・かみじょうたけしが、似ているだけでなく、これまでにないパターンで板東のものまねを披露し一部で人気を博している。板東本人もかみじょうをいたく気に入って、二人でテレビ番組『爆笑レッドカーペット』に出演するべく目下、ネタを練習中だとか（『サンスポ』2009年７月３日）。<br>
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そもそもいま、当の板東自身が人生何度目かのブレイクを迎えている。そのブログ<a href="http://stblog.stardust-web.net/bandoeiji/">「ブレイクしたいねんっ!!」</a>というタイトルに込めた願いがかなったのか、いまや板東をテレビで見ない日はないほどだ。<br>
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私の出身地で現住所である愛知は、もともと板東の古巣・中日ドラゴンズの本拠地であるため、昔からよく地元テレビ局のローカル番組で彼の姿を見かけた。なかでも中部日本放送（CBC）の『そこ知り板東リサーチ』は10年続く長寿番組で、板東ほかタレント２人が東海三県（愛知・岐阜・三重）の各地に赴いては、地元の人たちと交流したりご当地グルメの紹介などをしている。<br>
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この４月からは、オールロケ、しかも生放送の『ひるおび！バンバンバン』という番組も始まった。金曜昼のこの番組で板東は、さまざまな場所に出かけては、激流を下ったり山を登ったり、はたまた漁師と一緒に魚を獲るなど『そこ知り』以上に体を張ったレポートを行なっている。私はてっきり、これも東海地区限定の番組だと思っていたのだが、調べてみると制作は大阪の毎日放送、しかもTBS系列で全国各地にネットされていた。<br>
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それにしても、1940年生まれで今年69歳（麻生太郎と同い年！）となった彼が、どうしてここまで体を張り続けているのだろうか。本来なら、レポートは若手に任せて、スタジオでふんぞりかえってエラソーにコメントしていてもおかしくはないと思うのだが。その答えの一つは、これまた今回のブレイクでよく知られるようになった、彼のゆで卵好きに隠されているようだ。<br>
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板東のゆで卵好きはなにも最近に始まったことではない。20年以上前の雑誌のインタビュー（『週刊サンケイ』1986年10月２日号）をひもとくとすでに、新幹線に乗るときにはまずゆで卵を買うと発言している。さらにこの嗜好は少年期にまでさかのぼるという。<br>
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板東にとって卵は、少年時代の体験と分かちがたく結びついていた。旧満州で生まれた彼は、太平洋戦争末期のソ連軍の侵攻、そして敗戦の混乱のなか、母親（父は現地で召集され不在だった）と兄弟たちとともに命からがら引き揚げ、父の故郷である徳島県板東町（現・鳴門市）の引揚者寮で新たな生活を始めた。<br>
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ちなみにこの寮はもともとは第一次大戦末期のドイツ兵の捕虜収容所で、ベートーベンの「第九」の日本初演が行なわれたことで有名だ（余談ながら同収容所を舞台にした映画『バルトの楽園』で板東は収容所所長を演じている）。<br>
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それはともかく、引揚寮の住民たちはヒエやアワ、麦飯しか食べられないほど貧しかった。板東が銀シャリ（白米）を食べたのは、じつに中日ドラゴンズに入団してから。板東少年は少しでも空腹をしのぐため、川でウナギやエビ、カニを獲るばかりでなく、ときには夜中に鶏小屋に忍び込み、卵を盗むこともあったという。<br>
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そんな少年時代をすごした板東にとって、銀シャリと、そして卵を不自由なく食べられることこそ豊かな暮らしの指標となった。そして、二度と貧乏に戻りたくないという思いが、70歳を目前にしたいまでも彼に「ブレイクしたいねんっ!!」と仕事に駆り立てているのだ。これはちょっと彼より下の世代にはない感覚である。<br>
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こうした思いはまた、彼がこれまでにさまざまな副業を手がけるにあたり最大の動機づけにもなってきた。<br>
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1959年、徳島商業高校から中日ドラゴンズに投手として入団した板東は、まもなくして芦屋の旅館（ドラゴンズの寮という説もある）の近くで老夫婦の経営していた牛乳屋を契約金から270万円を支払って買い取っている。経営は他人にまかせていたようだが、みずから牛乳配達を行なうなど、まぎれもなく彼にとって最初の副業だった。<br>
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ここにはプロ入りしてすぐに、身の程を思い知ったということもあったようだ。自分よりはるかに体が大きく能力もある選手がたくさんいる球界で、一生野球を続けていられるわけがない──早くもそう悟った板東は引退後を見越して、ほかの商売の基礎をつくっておこうと考えたのである。<br>
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その後も彼は副業に精を出すことになる。牛乳配達も続けつつ、ジュークボックスの販売、マッサージ、株取引、ビルオーナーとして会員制サウナにはじまりクラブ、雀荘、割烹を営業するなど、とにかくあらゆるものに手を出した。ビルの落成式当日は、広島での遠征試合に参加する予定だったが、仮病を使って休んだという逸話も残っている。<br>
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プロ野球選手としては、入団当初よりすでに肘に損傷を抱え、長いイニングを投げるのは難しくなっていたが、1965年から当時のドラゴンズの投手コーチの近藤貞雄（のち監督）の指示で、試合終盤の抑えにまわるようになる。それまで投手は先発完投するのが当然だったが、このころよりようやく日本球界にも導入され始めた「投手分業制」により、板東はいわゆるリリーフピッチャーの先駆けとなったのだ。<br>
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こうして選手寿命を延ばした板東も、1969年に球団の意向から「任意引退」に追いこまれる。しかしここから、おおよそ元プロ野球選手という域を越えた活動を展開するようになるのだから、人生はわからない。<br>
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引退の翌年にCBC専属の野球解説者になったのは常道ではあったが、歯に衣着せぬ彼の物言いはなにかと物議をかもし、1980年のシーズン途中に解任されている。その理由は、当時のジャイアンツ監督・長嶋茂雄のサインを放送中にことこまかに説明して、抗議が殺到したためだとも、「巨人と中日は優勝できない」という発言が中日球団の逆鱗を買ったからだともいわれる。<br>
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それでもなお彼はフリーランスの立場で、放送のみならずスポーツ紙や『プロ野球知らなきゃ損する』（青春出版社、1984年）などの著作を通じて評論活動を継続した。<br>
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1971年にやはりCBCでラジオ番組『ばつぐんジョッキー』のパーソナリティを務めたことに始まる芸能活動についてくわしくはここでは省くが、同番組から生まれたドラゴンズの応援歌「燃えよドラゴンズ！」を歌手としてレコーディングし、約40万枚のヒットとなったり（1974年）、一時期やっていた野球漫談などが認められ「日本放送演芸大賞」の最優秀ホープ賞を獲得（1984年）、俳優としても、高倉健と共演した映画『あ・うん』で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞している（1990年）。<br>
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芸能活動以外では、1977年の参院選の際に自民党から愛知地区からの出馬要請を受けたこともあった（事前調査では40～57万票は固いとの結果が出たという）。だが、かなり話を進めた段階で妻や娘から猛反対を受け（とりわけ、「パパのポスターが町中に貼られたら恥ずかしくて学校に行けない」と娘が泣いて反対したのが、子煩悩の板東にはこたえたらしい）、公示日の前日になって立候補しないと自民党に伝えたという。<br>
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さらに板東は作家としての顔も持ち、1998年にはみずからの引き揚げ体験をもとにした自伝小説『赤い手』を、翌年にはその第２部である『赤い手　運命の岐路』を立て続けに上梓した（青山出版社刊）。<br>
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作詞家で直木賞作家のなかにし礼も、やはり少年期の引き揚げ体験から『赤い月』というよく似たタイトルの小説を2001年に発表しているが、板東のほうが早かったことになる。そもそも板東はすでに1986年頃から『赤い手』の構想を語っており、ゴーストライターを使わず自分で書いていることを証明するためにも直木賞にノミネートされたいとまでうそぶいていた。<br>
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……と、これだけ多岐にわたる活動をしながら、それでも自分の本業は野球解説だという意識が板東には常にあったようだ。だが、それで飯を喰っていく気はないとも語っている。金をもらって解説をすればどうしても妥協する部分が出てくる。だったら生活費は副業で稼ぎ、解説では誰に媚びることなく好き放題言わせてもらう、というのが彼のスタンスであった。<br>
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ともあれ、本業では金をもらわないというのはおもしろい。これは裏返していえば、純粋に金を儲けるために行なう副業ならばいくらでも媚びるし、なんでもやる、ということではないか。そう考えると、野球解説以外の芸能活動も板東にとってはすべて副業であり、だからこそ若手芸人ばりに体を張ることもいとわないのだともいえそうである。<br>
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唐突ながら、この不況下にあって、ワークシェアリングが政府や各企業などで真剣に検討されている。これが定着すれば、雇用は増えるかもしれないが、一人あたりの労働時間と賃金は減る。そうなったとき、これまでの生活レベルを維持するため副業に手を染める人もたくさん出てくるはずだ。<br>
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となれば、また板東英二の出番だろう。いかに本業のかたわらうまく副業で稼ぐか、彼ならきっとみずからの体験を交えてとうとうと語ってくれるに違いない。「投手分業制」の導入により日本プロ野球にエポックをつくった板東が、今度は「労働の分業制」によってふたたびブレイクする──近い将来、そんな日がやってくるかもしれない。<br>
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●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
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