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<title>ビジスタニュース - 近藤正高</title>
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<title>近藤正高「情報化の時代を生きた2011年物故者たち」</title>
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<description>担当者より：『新幹線と日本の半世紀』（交通新聞社新書）などの著書を持つ、ライター・近藤正高さんが2011年の物故者について綴った原稿です。2011年を振り返る縁としていただければ幸いです。なお、2011年12月31日に近藤さんのブログで補遺がアップされました。そちらもご...</description>
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<dc:date>2011-12-27T18:00:08+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/433018110X/">『新幹線と日本の半世紀』</a>（交通新聞社新書）などの著書を持つ、ライター・近藤正高さんが2011年の物故者について綴った原稿です。2011年を振り返る縁としていただければ幸いです。なお、2011年12月31日に近藤さんのブログで<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/20111231/p2" target="_self" title="">補遺がアップ</a>されました。そちらもご一読くださいませ。<br>
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<u>更新日：2011/12/28</u><br>
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すいません、2011年が終わる前にもうひとつだけ、この１年に亡くなった著名人を振り返ってみたいんですがね――なんて言うと、テレビドラマ『刑事コロンボ』のピーター・フォーク（6/23。以下、日付は故人の命日を示す）のセリフみたいですが――、こうすることで、2011年がどんな年だったのかを知る糸口みたいなものがつかめると思うのです。<br>
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2011年という年は、あの大震災と大津波、それから原発事故のあった３月11日を境にまっぷたつに分断され、それ以前のことはよく覚えていないという人も多いのではないでしょうか。たとえば、参議院議長在任中に死去した西岡武夫（11/5）は、自身の所属政党のトップである菅首相を批判していましたが、それは何も震災後に始まったことではありません。あと、ひょっとすると大相撲の春場所も震災の影響で中止になったと思いこんでいる人もいるかもしれませんが、あれは八百長問題の発覚によるものです。角界ではここ数年、外国人力士に日本人力士がすっかり押された観があったものの、９月場所の琴奨菊に続き、11月の九州場所では稀勢の里が、師匠の鳴門親方（元横綱・隆の里。11/7）の急逝という事態に見舞われながらも大関昇進を決めました。<br>
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他方、2010年末から2011年頭にかけてのチュニジアでの「ジャスミン革命」を発端に、北アフリカ・中東のアラブ諸国に広がった民主化要求運動は、いまも強い記憶に残っているという人も多いかと思います。このうちリビアでは反政府デモから内戦状態に陥り、1969年以来続いてきたカダフィによる独裁体制が崩壊。首都を追われたカダフィはその後、潜伏先で反カダフィ派に発見・拘束された際に死亡しました（10/18）。<br>
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こうした一連の動きは「アラブの春」とも呼ばれます。しかし1989年の東欧諸国での民主化が、ヴァツラフ・ハヴェル（12/18）の主導した旧チェコスロバキアの「ビロード革命」をはじめ、ほとんどの国で血を流すことなく実現されたことを思えば（旧体制指導者が処刑されたルーマニアなど例外はあるものの）、「アラブの春」で払われた犠牲はあまりにも大きく、手放しでは喜べません。同様に北朝鮮についても、総書記・金正日の急死（12/17）をもって独裁体制から脱却して穏便に民主化、さらに朝鮮半島の南北統一にいたると考える人は少ないでしょう。<br>
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アラブ諸国のうちエジプトでもまた、30年にわたり君臨したムバラク大統領が失脚しました。エジプトといえば、古代エジプトの女王を描いたアメリカの大作映画<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B003ZX8G7S/" target="_self" title="">『クレオパトラ』</a>（1963年）は、当のエジプトでは公開されなかったという逸話があります。その理由は、主演のエリザベス・テイラー（3/23）が撮影中にユダヤ教に改宗したため。これ以外にもわがままのかぎりを尽くしたテイラーのため製作費ははねあがり、製作会社の20世紀フォックスは倒産寸前にまで追いこまれます。エリカ様どころの話ではありませんね。なお、テイラーが子役として銀幕デビューしたのは1943年、同年には日本でやはり子役の沢村アキヲ、のちの長門裕之（5/21）が映画<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B000SM2NNW/" target="_self" title="">『無法松の一生』</a>に出演しています。<br>
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私生活もふくめ華やかな話題を振りまいたテイラーは、生きながらにして伝説的存在でした。アメリカの画家ウォーホルは、マリリン・モンローやプレスリーなどとともにテイラーをポップアイコンとして作品にとりあげています。このほかにも多くの有名人のポートレートを手がけたウォーホルのこと、90年代以降も生きていたら、インドの霊的指導者、サイ・ババ（4/24）あたりも描いていたかもしれません。ウォーホルらによって60年代のアメリカで全盛を迎えたポップアートですが、元はといえばイギリスの画家、リチャード・ハミルトン（9/13）が1956年に発表した「一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか？」と題するコラージュ作品に端を発します。<br>
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美術界では1950年代から60年代にかけてじつに多様な潮流が生まれました。日本でも「世紀」の桂川寛（10/16）、「具体美術協会」の元永定正（10/3）、「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の吉村益信（3/15）など、前衛芸術を志向する幾多のグループから作家が次々と輩出されています。同時期には美術評論においても瀬木慎一（3/15）や中原佑介（3/3）といった新人が現れ、前衛の作家たちの伴走者として活躍するようになります。瀬木はその後、日本の現代美術だけでなく浮世絵やピカソなど幅広く研究し、女優の高峰秀子（2010年12/28）と絵画をテーマにした対談集まで出しています。<br>
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一方の中原佑介は1970年、現代美術の最先端を紹介する第10回日本美術国際展（東京ビエンナーレ）のコミッショナーを務めました。このビエンナーレは、2005年に東京都現代美術館で一部が再現されています（企画展「東京府美術館の時代　1926～1970」）。このとき堀川紀夫という作家が再現した、自然石を美術館へ郵送するという“作品”では、石に針金でくくりつけられた札に宛名として当時の東京都現代美術館の館長だった氏家齊一郎（3/28）の名前が書かれていました。氏家は当時の日本テレビ会長でもあります。<br>
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80年代に一旦は読売グループを離れた氏家ですが、90年代初めに盟友の渡邉恒雄が読売新聞社長に就任したのを機に日本テレビに復帰しました。彼らの台頭で影が薄くなったのは、それまで巨人軍オーナーや読売新聞社主などを歴任しグループ内で実権を握ってきた正力亨（8/15）です（2011年は正力のほかにも阪神タイガースの久万俊二郎［9/9］、ヤクルトスワローズの松園直已［12/9］と各球団の元オーナーが亡くなっています）。<br>
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日本プロ野球史上前人未到の巨人の９年連続日本一は、正力がオーナーに就任した翌年、1965年から始まります。V9時代、じつに５回も日本シリーズで巨人と対戦した西本幸雄（11/25）監督率いる阪急ブレーブスは一度も日本一になれませんでした。西本はこの前後、大毎オリオンズと近鉄バファローズでも監督として日本シリーズに進出したものの、いずれも制覇はならず「悲運の闘将」と呼ばれることとなります。<br>
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1974年に巨人の日本シリーズ進出を阻んだのは、与那嶺要（2/28）監督率いる中日ドラゴンズでした。ハワイ出身の日系２世である与那嶺は、巨人などでの現役時代、ダイナミックな走塁やスライディングなどアメリカ流の野球を日本に伝えました。アメリカ人を父に持つ伊良部秀輝（7/27遺体発見）も、日本人離れしたプレイと言動で毀誉褒貶のある選手でした。千葉ロッテマリーンズや米メジャーリーグのニューヨークヤンキースなどで活躍した伊良部は2005年の現役引退後、アメリカで永住権を得たものの亡くなる直前には日本へ帰りたいと漏らしていたともいいます。<br>
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伊良部が活躍した1990年代、日本野球機構にあってプロ野球の国際化やフリーエージェント制の導入に尽力したのが第９代コミッショナーの吉國一郎（9/2）です。法務庁出身の吉國は、1989年のコミッショナー就任以前には千葉県知事の沼田武（11/26）が千葉市の幕張新都心開発の目玉として建設を進めた日本コンベンションセンター（幕張メッセ）の初代社長も務めました。<br>
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東京では21世紀初めにも開発ブームが起こりました。氏家齊一郎が日本テレビ会長在任中の2003年には、汐留に新社屋（日本テレビタワー）が完成、翌年より営業を開始しました。汐留にはこれより一足先の2002年に電通本社ビルが竣工しています。当時の電通会長である成田豊（11/20）は、氏家とは新社屋だけでなくジブリ映画の製作者としても名前を連ねた人物です。<br>
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電通の新社屋が完成したこの年、成田が実現に向け力を注いだ日韓共催のFIFAワールドカップが開かれました。FIFA女子ワールドカップ・ドイツ大会での「なでしこジャパン」の優勝に日本が沸いた2011年は、サッカー界でも訃報があいつぎました。銅メダルに輝いた1968年のメキシコ五輪サッカーの日本チームでキャプテンだった八重樫茂生（5/2）、八重樫とともに同五輪に出場したのち、日本代表監督や浦和レッズの初代監督を務めた森孝慈（7/17）、それから90年代以降、五輪やW杯で活躍した松田直樹も横浜・F・マリノスから松本山雅FCに移籍した今年、練習中に突然倒れ、34歳の若さで亡くなっています（8/4）。<br>
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前出の氏家齊一郎が東大在学中、先輩の渡邉恒雄とともに学生運動に入れこんでいたことはよく知られています。1950年、東横映画が戦没学生の手記<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4003315715/" target="_self" title="">『きけ　わだつみのこえ』</a>の映画化を企画した際、その内容に氏家らの所属する東大全学連は思想的な理由から横槍を入れました。当時、東横映画の若きプロデューサーであった岡田茂（5/9）は、氏家を呼び出し説得にあたったといいます。東横映画は同作のヒットの翌年、合併により東映となります。岡田は60年代に任侠路線を発案して大成功を収め、1971年には社長に就任しました。岡田社長時代の東映は、映画産業が斜陽を迎えるなか『仁義なき戦い』（1973年）に始まる実録路線を当て、さらに角川映画との提携で山をつくります。なかでもミュージシャンのジョー山中（8/7）が出演、主題歌も歌った<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B00005HM4J/" target="_self" title="">『人間の証明』</a>（1977年）はメディアミックスの効果もあり爆発的にヒットしました。<br>
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それにしても、岡田といい氏家や成田といい、また講談社の社長の野間佐和子（3/30）といい、2011年は巨大メディアの経営者たちの逝去が目立ち、時代の曲がり角を感じさせました。そのことをより印象づけたのはやはり、７月に実施された地上波テレビのデジタル放送への全面移行（ただし東北３県を除く）でしょう。地デジ化は視聴者、とくに若年層のテレビ離れにますます拍車をかけるのではないかとも懸念されています。しかしじつはこれより前、1980年前後にも若者のテレビ離れが進んでいたといいます。いま一度若者たちをテレビの前に引き戻すべく、フジテレビのプロデューサーだった横澤彪（1/8）が仕掛けたのが『THE MANZAI』（1980年。2011年には漫才グランプリとして復活しましたね）であり、それから『オレたちひょうきん族』（1981年）や『笑っていいとも！』（1982年）といったバラエティ番組でした。これら番組は、お笑いの世界に“フィクションからノンフィクションへ”ともいうべき革命をもたらします。<br>
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上記のうち『ひょうきん族』は、『THE MANZAI』で人気を集めた漫才コンビをバラして起用した点でも画期的といわれます。もっとも、放送作家出身のタレント・前田武彦（8/5）が大橋巨泉と司会を務めたバラエティ番組『巨泉×前武ゲバゲバ90分！』（1969年）ではすでに、当時人気絶頂にあったコント55号の坂上二郎（3/10）と萩本欽一が２人別々でコントを演じていました。<br>
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横澤彪は『いいとも』に、NHKを定年退職したばかりだったテレビディレクターの和田勉（1/14）をレギュラー出演者として引っ張り出してもいます。テレビ本放送の始まった1953年にNHKに入局した和田は、演劇とも映画とも異なるテレビドラマならではの表現を模索し続け、女性脚本家の草分けのひとりである大野靖子（1/6）と組み<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B00008DZ5T/" target="_self" title="">、『天城越え』</a>（1978年）や<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B00005OO6C/" target="_self" title="">『ザ・商社』</a>（1980年）といった名作も生みました。また、2011年に没後30年を迎えた向田邦子とも『阿修羅のごとく』（1979年）などの作品を手がけています。向田作品といえば、その常連俳優として『だいこんの花』『七人の孫』に出演した竹脇無我（8/21）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B00005G2LJ/" target="_self" title="">『あ・うん』</a><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B00005G2LL/" target="_self" title="">『父の詫び状』</a>に出演した杉浦直樹（9/21）が思い出されます。<br>
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向田の死後、その年のもっともすぐれたテレビドラマの脚本に与えられる賞として「向田邦子賞」が制定され、第１回には市川森一（12/10）の『淋しいのはお前だけじゃない』（1982年）が選ばれました。市川はNHK大河ドラマでも３度脚本を手がけており、その最初の作品『黄金の日日』（1978年）では徳川家康を児玉清（5/16）が演じ、セリフは少ないものの存在感を示して評判になったそうです。<br>
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いくら“終わったコンテンツ（オワコン）”といわれようとも、テレビの威力にはいまだに大きなものがあります。2001年９月11日に起きたアメリカでの同時多発テロは、テレビを通じて全世界の人たちにインパクトを与えるという効果を意識して実行されたものとも考えられます。この事件の首謀者とされるテロ組織「アルカイダ」の指導者オサマ・ビンラディンはパキスタン国内に潜伏中、米軍により殺害されたと報じられました（5/2）。<br>
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ビンラディン以外にもテロリスト、あるいは政治活動家の物故が目立った１年でもありました。たとえば、60年代末の東大紛争や成田空港建設反対運動（三里塚闘争）などにかかわり新左翼のイデオローグとして知られた荒岱介（5/3）、1970年の赤軍派によるよど号ハイジャック事件の最年少メンバー（当時16歳）だった柴田泰弘（6/23遺体発見）、アラブに渡った日本赤軍のメンバーで、1970年代にいくつかのハイジャック事件に関与した丸岡修（5/29）があげられます。ちなみに、よど号事件のさい赤軍派は「われわれは明日のジョーである」（原文ママ）と宣言しましたが、出崎統（4/17）監督によるテレビアニメ『あしたのジョー』の放映が始まったのは事件発生の翌日（70年４月１日）でした。出崎はその後1980年と81年には同作の劇場版を手がけ、このとき主人公・矢吹丈のライバル力石徹の声を俳優の細川俊之（1/14）があてています。<br>
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赤軍派からは前記のよど号グループや日本赤軍のほかに、革命左派（京浜安保共闘）と統一をはかった連合赤軍が派生しています。連合赤軍は1971年から翌年にかけて群馬山中で軍事訓練を行ないましたが、警察の山狩りにより幹部である森恒夫と永田洋子（2/5）が逮捕されました。長野県軽井沢の別荘地で起こったあさま山荘事件は、残されたメンバーたちが逃亡の末に引き起こしたものです。この事件のあと、連合赤軍内で「総括」と称するリンチ殺人が行なわれていたことが判明、社会に大きな衝撃を与えます。これをきっかけに若者たちによる政治運動は退潮の一途をたどることになりました。<br>
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映画監督の長谷川和彦は長らく連合赤軍を題材にした映画を構想していて、そのなかで永田洋子を樹木希林が、森恒夫を原田芳雄（7/19）が演じることを考えていたそうです。映画でアウトロー的な役を数多く演じた原田だけに、実現していたらどんな演技を見せたのか気になるところです。<br>
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さて、学生運動の熱は、カウンターカルチャーやサブカルチャーといわれるものに移っていった観があります。たとえば60年代末に全国に広がった学園紛争の火元のひとつである日本大学では、森田芳光（12/20）が紛争中で学校に行けなかったから……との理由で映画を撮り始めます。森田は、従来の撮影所経由ではない自主制作映画から劇場映画に進出した監督の嚆矢でもありました。<br>
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連合赤軍事件の起こった1972年には、佐藤嘉尚（11/19）が発行人を、当代の人気作家が交代で責任編集を務めるというユニークな雑誌『面白半分』が創刊しています。同誌は、野坂昭如が責任編集を務めた号で永井荷風作と伝えられる戯作「四畳半襖の下張」を掲載したところ、警視庁から猥褻文書として告発を受けました。佐藤と野坂を被告とする「四畳半襖の下張」裁判はこれより前、1960年代にサドの<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4309460771/" target="_self" title="">『悪徳の栄え』</a>をめぐり訳者の澁澤龍彦と発行人（現代思潮社社長）の石井恭二（11/29）が被告となった「サド裁判」などとともに文芸作品をめぐる代表的な猥褻裁判として知られます。<br>
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SMのうちS（サディズム）は、いうまでもなくサドの名に由来します。戦後まもなくに創刊されたSM雑誌『奇譚クラブ』からは、沼正三の「家畜人ヤプー」という稀代の奇作が生まれました。沼は覆面作家であり、その正体が長らく取沙汰されてきたのですが、1982年に東京高裁判事の倉田卓次（1/30）とする説が雑誌に掲載され物議をかもしています（ただし本人はこれを否定）。マゾヒストの核心を突いた本格的なM小説「ヤプー」について、「私の持つ嗜好趣味とは反対の被虐趣味の分野に入るものだが、その卓絶した文章力に驚かされた」と評したのは、同じ雑誌にS小説「花と蛇」を連載した団鬼六（5/6）です。<br>
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60年代から70年代にかけてはサブカルチャーを語ろうという動きも活発に起きました。音楽評論家の中村とうよう（7/21）が1969年に、新しい音楽としてのロックを批評的に論じるべく『ニューミュージック・マガジン』（現『ミュージック・マガジン』）を創刊したのはその走りといえます。また、マンガ評論家の亜庭じゅん（1/21）らは『迷宮』というマンガ批評集団の活動を進めるなかで、同人誌即売会の開催を思い立ちます。こうして1975年に始まったのがコミックマーケットでした。コミケは、イデオロギーなど既成の価値観にとらわれず自分たちの言葉でマンガを語ろうという亜庭たちの情熱の産物だったともいえます。<br>
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自分の言葉を持とうとしたという点では、同時期に一世を風靡した女性アイドル３人組のキャンディーズも同じでした。1977年の彼女たちの「普通の女の子に戻りたい」という突然の解散宣言には、事務所など周囲からのお仕着せではなく自分たちの意思で行動したいという願望がこめられていたように思います。翌年の後楽園球場でのキャンディーズ解散コンサートののち、メンバーのひとりだった田中好子（4/22）は一時活動休止を経て、女優として芸能界に復帰します。自分の言葉で語るという姿勢は、その葬儀で流された病床からの最期のメッセージにもしっかり表れていました。<br>
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田中の女優としての代表作である映画<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B000XE565C/" target="_self" title="">『黒い雨』</a>（1989年）では脚本を石堂淑郎（11/1）が手がけています。石堂は映画以外にテレビでの仕事も多く、北杜夫（10/24）の長編小説を原作としたドラマ『楡家の人びと』の脚色も手がけています。<br>
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キャンディーズのレコードは、当時まだ新興のレコード会社だったCBS・ソニーレコード（現ソニー・ミュージックレコーズ）からリリースされました。1968年の同社設立に携わり、キャンディーズのほか南沙織や山口百恵などといったアイドル路線を敷いたのが、東京芸大卒の元声楽家でのちにはソニー社長、会長を歴任した大賀典雄（4/23）です。<br>
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大賀はオランダのフィリップス社と共同でのコンパクトディスクの開発にも深くかかわり、1982年に商品化します。CDは前後してソニーが送り出したウォークマンとともに世界的なヒット商品となります。が、ソニーはCDにより音楽のデジタル化に、ウォークマンでは携帯音楽プレイヤーという新分野にそれぞれ端緒を開いたにもかかわらず、両者の融合であるデジタルオーディオプレイヤーによって世界を席巻することはできませんでした。代わりにそれを達成したのは、米アップル社の前CEOスティーブ・ジョブズ（10/5）が2001年に送り出した「iPod」でした。ソニーがこの分野で失敗したのは、傘下にレコード会社を持つゆえ著作権保護を優先しなければいけない事情もあったと説明されます。<br>
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ジョブズの亡くなる前日に発売された最新鋭のスマートフォン「iPhone 4S」には音声認識＋人工知能が組みこまれていました。人工知能（AI）という言葉を発案し、その研究の第一人者となったのがジョン・マッカーシー（10/24）です。このほか、コンピューターの標準オペレーティングシステムである「UNIX」を開発したデニス・リッチー（10/12）や、著作権の切れた古典作品をネット上に掲載していく「プロジェクト・グーテンベルク」の提唱者で、“電子書籍の父”とも呼ばれるマイケル・S・ハート（9/7）も、コンピューターと電子文化の歴史に大きくその名を刻みました。<br>
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テレビやコンピューターの登場する以前から、テクノロジーは人間の知覚や感性にさまざまな影響を与えてきました。旧東ドイツ出身のドイツ文学者・メディア理論家のフリードリヒ・キットラー（10/18）や、広範な批評で知られた多木浩二（4/13）は、家具・印刷物・写真・蓄音機・映画・タイプライターなどといったモノを通じて文化史を考察しています。モノと人間の関係といえば、日本の工業デザイナーの草分けである柳宗理（12/25）は、デザイナーはタッチしていないものの、その用途に即して自然とデザインされたモノ（たとえば野球のボールの縫い目など）に美を見出し、それを匿名のデザイン、「アノニマス・デザイン」と呼びました。こうした見方は、彼の父・柳宗悦が興した民藝運動の精神を継承したものでもありました。<br>
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落語にもまた匿名の芸という側面があると思うのですが、噺を演じるなかでどうしても“私”を出さずにいられなかったのが落語立川流家元の立川談志（11/21）でした。「落語とは、人間の業の肯定である」と定義した談志は、業とはその良し悪しに関係なくやらずにはいられないものであり、それがあったからこそ「文明」も生まれたと説明しています。さらに、文明から取り残されたものに光を当てたものを「文化」と呼び、「文明は、文化を守る義務がある」と言っているのが面白い。<br>
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談志の考えにならうなら人類は業にしたがって自然を征服し、快適な生活を手に入れたわけですが、その代償は小さくありませんでした。21世紀に入るとノーベル平和賞でも環境保全の分野が選考対象に加えられ、ケニアの環境活動家であるワンガリ・マータイ（9/25）がその最初の受賞者（2004年）となりました。<br>
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60年代、工業化の次に来る社会を示した「脱工業（化）社会」という概念がアメリカの社会学者ダニエル・ベル（1/25）によって提唱されます（著作としてまとめられたのは1973年ですが）。来たるべき社会を特徴づけるものとして情報を重視したベルの言説に対応する形で、同時期の日本では「情報化」という語が、経済企画庁の官僚から大学教授に転じた林雄二郎（11/29）らによって発案されました。林は民族学者の梅棹忠夫を中心とするサロンにも参加し、そこに集まった作家の小松左京（7/26）たちとの議論はやがて日本未来学会の設立、そして1970年の大阪万博へと発展していくことになります。<br>
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父親から継いだ町工場を経営していた昭和30年代に、関西の民放ラジオで夢路いとし・喜味こいし（1/23）の漫才番組の台本を書いていたこともある小松は、同時期よりSF小説を書き始め、1973年には９年がかりの長編<a href="http://p.tl/28L4">『日本沈没』</a>を刊行しました。その作中には「戦後の三十余年間、日本の、とくに大都会の人々は、巨大な災害に対して、瞬間的に身を処するマナー――戦前までに、大火や地震や水害などの数百年間を通じて形成されてきた『災害文化』ともいうべきものをきれいに失ってしまっていた」という一文が出てきます。岩手県出身の津波研究家・山下文男（12/13）は、津波のときは他人をかまわずてんでばらばらに逃げなさいと教える「津波てんでんこ」という三陸地方の言い伝えを広め、先の東北を襲った大津波でも少なからぬ人たちが救われました。「災害文化」とはまさにこういうものを指すのでしょう。<br>
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小松自身も1995年の阪神・淡路大震災を体験しています。この震災について、彼は新聞連載で１年をかけてさまざまな角度からルポを行ない<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4620311235/" target="_self" title="">『小松左京の大震災'95』</a>という本にまとめました。東日本大震災のあとには、将来の自然災害に備えるべく、様々な分野の専門家を組織して「総合防災学会」をつくれないかと提案をしたり、共著<a href="http://p.tl/W5mW">『3・11の未来』</a>の序文で「私は、まだ人間の知性と日本人の情念を信じたい。この困難をどのように解決していくのか、もう少し生きていて見届けたい」と書いた小松でしたが、まもなくして亡くなりました。阪神・淡路大震災ののち神戸市では当時の市長・笹山幸俊（12/10）のもと復興計画が推し進められましたが、果たしてこのときの経験が今回の震災からの復興にどれだけ活かせるでしょうか。<br>
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……と、まあ、このほかにもまだまだとりあげたい人物はいるのですが、これ以上あちこちへ行ったり来たりすると、声優の滝口順平（8/29）よろしく「おやおや、また寄り道ですか～」なんて言われそうなので、ひとまずこのへんにしておきましょう。それにしてもこうして振り返ると、ひとつの時代が終わったような思いをつくづく抱きます。ただ一方で、安易に「時代の終焉」を口走るのは、原発の事故処理のある段階の終了をもって「事故の収束」を宣言するのと同じくらい性急な判断ではなかろうか、と思ったりもします。とりあえずここは、ひとつのステップが終わったぐらいに考えて、彼ら、彼女たちの遺したもの（負の影響も含めて）を糸口に、2012年以降のビジョンを見出したいところです。<br>
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最後にあらためて、本稿でとりあげた人たちに加えて、東日本大震災で亡くなった人びとにも哀悼の意を表しつつ本稿を締めたいと思います。<br>
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●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>（ソフトバンク新書）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/433018110X/">『新幹線と日本の半世紀』</a>（交通新聞社新書）がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1519765.html">
<title>近藤正高「これでテレビも安心だ！　追悼・植木等」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1519765.html</link>
<description>担当者より：『新幹線と日本の半世紀』（交通新聞社新書）などの著者であるライター・近藤正高さんが、2007年の植木等逝去の際に書いた一文です。近藤さんは人気サイト「エキサイトレビュー」でも多くの記事を発表していますので、そちらも要チェックです。また「エキサイト...</description>
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<dc:date>2011-11-01T18:00:29+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/433018110X/">『新幹線と日本の半世紀』</a>（交通新聞社新書）などの著者であるライター・近藤正高さんが、2007年の植木等逝去の際に書いた一文です。近藤さんは人気サイト<a href="http://www.excite.co.jp/News/review/" target="_self">「エキサイトレビュー」</a>でも<a href="http://www.excite.co.jp/News/review/author/donkou/" target="_self">多くの記事</a>を発表していますので、そちらも要チェックです。また<a href="http://www.excite.co.jp/News/review/" target="_self">「エキサイトレビュー」</a>そのものについての<a href="http://www.sbbit.jp/article/cont1/22329" target="_self">インタビュー</a>（聞き手は<a href="http://bisista.blogto.jp/archives/cat_42582.html" target="_self">辻本力</a>さん）もご覧ください。<br>
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<u>配信日：2007/05/09</u><br>
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《地球が暑くなって　どこわりい　暖房いらずで　いいじゃないか》<br>
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<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/427000181X/" target="_self">『不都合な真実』</a>のアル・ゴアが聴いたら腰を抜かしそうなこの開き直った歌詞は、1991年に植木等がリリースした「地球温暖化進行曲」（伊藤アキラ作詞・宮川泰作曲）の出だしである。当時すでに問題となっていた地球温暖化をとりあげたこの歌は、問題の深刻さとは裏腹に音頭調の軽快なリズムでうたわれ、最後は植木が「お世話になりました……」とポツリと言うと木魚の音で締められる。ここらへん諦観の境地すら感じさせ、寺の嫡男として生まれた植木の面目躍如であった。<br>
<br>
この曲がリリースされる前年、植木は自ら発案して、クレージーキャッツ時代のヒット曲を宮川泰がメドレーに仕立てた「スーダラ伝説」をリリース、年末のNHK『紅白歌合戦』に20数年ぶりに出場し話題を集めた。91年に入ってからは、全国ツアーを行なったり、これまた20数年ぶりとなるメインでのレギュラー番組『植木等デラックス』（毎日放送・TBS系）が放映されたりと、植木等のリバイバルブームが到来する。さらにつけくわえれば、小林信彦が『小説新潮』に「植木等とその時代」を発表したのもこの年だった（翌年、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4103318171/" target="_self">『植木等と藤山寛美』</a>というタイトルで単行本化。のち増補改題版である<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4101158304/" target="_self">『喜劇人に花束を』</a>が新潮文庫から刊行された）。<br>
<br>
その後も植木は、大瀧詠一のプロデュースでテレビアニメ『ちびまる子ちゃん』の主題歌「針切じいさんのロケン・ロール」（95年）をリリースしたり、はたまた入れ歯洗浄剤のCMで、「タフタフタフタフ　タ～フデント♪」と歌ってみたりと（ちなみにこの歌は、植木の長男で作曲家の比呂公一が手がけたものだったはずである）、旺盛に活動を行なっている。若い世代にとって植木等といえば、どちらかというとこの時期の好々爺的なイメージのほうが、全盛期の60年代における「無責任男」のイメージよりも印象が強いのではなかろうか。ほかならぬぼく自身、90年代に入ってからのリバイバルブームで植木等にハマったクチである。<br>
<br>
さて、植木等に影響を受けたという人は芸能界のみならず、さまざまなジャンルに見うけられる。すぐに思い出せるだけでも、南伸坊、大瀧詠一、矢作俊彦、とり・みき、唐沢俊一……と実に多彩な顔ぶれが並ぶ。しかも彼らの多くがおのおのの人格形成において影響を受けたと言ってはばからない。<br>
<br>
たとえば、自身の根本的な思想は植木等だと語った南伸坊は、植木を「自由」の象徴とみなし、僧侶の上杉清文とともに「植木等思想」の復活を画策していたこともある。また、唐沢俊一は植木が亡くなった日（３月27日）の<a href="http://www.tobunken.com/diary/diary20070327161055.html" target="_self">日記</a>でやはり、自分の人格形成にもっとも影響を与えた人物が植木等であったと認めたうえで、《私の世代には、この人はなんというか、「植木等がいる限り、何をやっても大丈夫」という、極めて非・論理的だがしかし絶対の真理、というような存在、いわばトリックスター神的な人物だった》と書いていた。<br>
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考えてみると、ひとりのコメディアンがこれだけの人たちの人格形成に影響を与えたという例は、ちょっと稀ではないだろうか。戦後のある時期までに生まれた世代にとって、植木等は理想の大人像を体現する存在であった、ということもできるかもしれない。<br>
<br>
理想の大人像の体現といえば、植木等は1979年に「これで日本も安心だ！」という歌を吹き込んでいる。これはクレージー結成25周年を記念したもので、作詞・作曲では往年のクレージーソングのほとんどを手がけた青島幸男と萩原哲晶のコンビが久々にタッグを組み、編曲を宮川泰が担当した（このうち83年に急逝した萩原を除くと、宮川、青島、植木はこのほぼ１年のあいだに相次いで鬼籍に入ってしまった）。この歌で植木は、「マンガもディスコもスケボーもあきた　たまにゃ学校にもいってやろか」などと、遊びにうつつをぬかす頼りなさげな若者たちを、「これで日本も安心だ！」と逆説的に皮肉ってみせた。それは、どんどん子供っぽくなっていく時代の風潮に対する（思えば、大学のレジャーランド化が嘆かれるようになったのもこのころではないか）、当時すでに50代となっていた植木ら大人世代の憂えともとらえられる。もちろん、あの底抜けに明るい歌声でうたわれているので、ちっとも嫌味には聞こえないのだが。<br>
<br>
ところで、このシングルが発売された翌年、にわかに巻き起こったのが漫才ブームである。ちょうどTBSで植木等の追悼特番が組まれたのと同じ日（４月１日）には、かつて島田紳助とのコンビで漫才ブームを牽引した松本竜助の一周忌の特番がフジテレビで放映されていた。それを見ていてぼくが印象に残ったのは、紳助をはじめ、のりお・よしお、B&Bらかつてのブームの立役者たちが、ある層にターゲットを絞った笑いを生み出したことを自負していたことである。たしかに漫才ブーム以後、テレビでは特定の層、とりわけ若者にターゲットを絞った笑いが主流となった。そのことには功罪あるだろう。現在にいたる番組づくりへの影響を考えると、むしろ罪のほうが大きいかもしれない。<br>
<br>
植木等が亡くなった直後、テレビ各局は過去の番組の再放送や出演映画を含めて追悼番組をこぞって組み、その状況はさながら「崩御」という趣きすらあった。してみると、大御所から若手にいたるまで多数の芸能人が故人を偲んだこれらの番組は、幅広い層を対象とした大人による笑いをテレビから故人ともども送り出そうという、一種のセレモニーだったのか……。<br>
<br>
な～んて、深刻ぶるのはよそう。植木等が聞けば「そんなこたぁどうでもいいじゃねえか」（「いろいろ節」）と、きっと一笑にふされるに違いない。<br>
<br>
<br>
※文中紹介した「地球温暖化進行曲」「スーダラ伝説」「針切じいさんのロケン・ロール」「これで日本も安心だ」は、クレージーキャッツ結成50年を記念した２枚組アルバム<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B0006M1966/1" target="_self">『クレイジーキャッツ　HARAHORO盤』</a>（東芝EMI）に、「いろいろ節」はその姉妹編である<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B0006M195W/" target="_self">『クレイジーキャッツ　HONDARA盤』</a>（同）にそれぞれ収録されている。<br>
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●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>（ソフトバンク新書）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/433018110X/">『新幹線と日本の半世紀』</a>（交通新聞社新書）がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1503163.html">
<title>近藤正高「黒川紀章・都市に恋した男」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1503163.html</link>
<description>担当者より：ライターの近藤正高さんが建築家・黒川紀章の逝去（2007年10月12日）直後に書いた原稿です。近藤さんの著書『新幹線と日本の半世紀』（交通新聞社新書）も好評発売中ですので、そちらもぜひお読みください。

配信日：2007/10/17


芸能人やスポーツ選手、...</description>
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<dc:date>2011-08-29T16:00:07+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>ライターの近藤正高さんが建築家・黒川紀章の逝去（2007年10月12日）直後に書いた原稿です。近藤さんの著書<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/433018110X/">『新幹線と日本の半世紀』</a>（交通新聞社新書）も好評発売中ですので、そちらもぜひお読みください。<br>
<br>
<u>配信日：2007/10/17</u><br>
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芸能人やスポーツ選手、あるいは作家が政治家に転身するというケースはざらだが、では、建築家はどうだろうか？　歴史をひもとけば、ナチスドイツでは、ヒトラーのお抱え建築家として党大会会場の設計などを手がけたシュペーアが、第二次大戦中に軍備・軍需生産相を務めたという例がある。日本でも丹下健三が、東京都知事だった鈴木俊一を後援するにとどまらず、新宿の新都庁舎を設計したり、臨海副都心の開発の起爆剤として博覧会（のちに鈴木の後任の青島幸男によって中止された世界都市博）の開催を提案するなど、積極的に都政に介入している。だが、不思議なことに民主的な手続きを踏んで……つまり、選挙を経て政治家となった建築家というのを、僕は寡聞にして知らない。<br>
<br>
ひょっとしたらそれは、建築家という職業の持つ特性に理由があるのではないだろうか。建築はあらゆる芸術のなかでも、現実にもっとも制約される。技術的制約はもちろん、経済的制約や環境面での制約もあるだろう。その制約のなかで自らの理想を少しでも実現しようとするなら、どうしたって調整能力が求められる。そう考えると、建築家とは想像以上に政治的な職業なのだ。とすれば、彼らがわざわざ民意の洗礼を受けてまで政治家になる必然性はほとんどないといえよう。<br>
<br>
こうした“必然性”からいえば、今年、黒川紀章が東京都知事選と参議院選と立て続けに出馬したことはまったく異例だった。このうち都知事選出馬については、黒川の盟友だった石原都知事が、目下招致中の東京オリンピックや「新東京計画2050」などのビッグプロジェクトに、自分ではなく後進の安藤忠雄を重用したことへの意趣返しではないか……などといった憶測も呼んだ。<br>
<br>
しかし僕には、黒川の出馬の理由は、そんな下世話なものではなく、もっと本質的なところにあったように思われてならない。そのヒントは、黒川と夫人である女優の若尾文子のなれそめに求められる。1976年に、テレビの対談番組『すばらしき仲間』でふたりが初めて対面したときのこと。黒川は、若尾をこんなふうに賞賛したという。<br>
<br>
《芝居、演劇というのはその場で消えるが、強烈な印象を残して姿を消す。だが、建築というのは最低20年や30年は残る。恐ろしいことですよ。どんな作品にもボクは常に不満だ。人目にさらして残していくというのは、実につらい部分ですよ、建築家としては。大文字（京都の大文字焼）のように、人の心に食い込んでサッと消えていく、舞台の女優は実にいい。若尾さんのうらやましいところですよ》（『週刊宝石』1984年2月3日号）<br>
<br>
思えば、「人の心に食い込んでサッと消えていく」ことこそ、建築家・黒川紀章がデビュー以来、常に追い求めてきたものではなかったか。現に黒川は、メタボリズム（新陳代謝）やメタモルフォーシス（突然変異）、それから選挙戦でのマニフェストや政党名にも掲げられた共生などをキーワードに、一貫して、生物のように変容性や多様性をはらんだ建築や都市を提唱してきた。<br>
<br>
そんな彼にとって、いくつもの姿を持ち、絶えず変貌を続ける都市・東京は、最大の憧れともいうべき存在だったはずである。とすれば、少なくとも都知事選出馬に関しては説明がつく。黒川を出馬へと駆り立てたのは、東京という都市を他人に奪われたくないという“恋心”からだったのではないか、と。<br>
<br>
しかし恋は盲目とはよくいったもので、黒川が果たして東京の現状をどれだけ見ていたのか、やや疑問ではある。たとえば近年、その初期の代表作である「中銀カプセルタワービル」がアスベストに汚染されていると判明したとき、黒川は一時的な補修で済ませ、あくまでも外観はとどめるよう懇願したという。この対応は、先に引いた「（自作を）人目にさらして残していくというのは、実につらい」という彼自身の言葉とはあきらかに矛盾している。<br>
<br>
かつてルポライターの竹中労は、黒川の提唱したメタボリズムについて、《メシ食ってクソ垂れて、人が成長し老衰していくごとくにダ、建物も都市もまた生成と崩壊の過程をたどるてェ当たり前のことをシチめんどくさく述べただけのことだわサ》（『週刊読売』1970年10月2日号）と、ミもフタもない解説をしていたが、当の黒川は、どんな魅力ある建物も都市も「クソを垂れる」という厳然たる事実を見すごしていたのではないか。前述の中銀タワーをめぐる一件はそのことを端的に示しているように思う。<br>
<br>
ひょっとしたら、黒川は僕たち一般人よりもずっと高いところから東京という都市を見ていたのかもしれない。ちなみに、若き日の黒川は、「ガガーリン・クロカワ」と、人類初の宇宙飛行士になぞらえたあだ名で呼ばれていたという。つまり、地に足が着いていないというわけで、意味としては「宇宙人」とほぼ同じである。<br>
<br>
宇宙人・黒川紀章は、たしかに東京という都市に恋をし、“彼女”との未来を夢想し続けた。だが、この恋が成就することはなかった。彼はついに一度も地上に降り立つことなく、宇宙へ帰らざるをえなかったからである。しかし、地べたから“彼女”の素顔を目のあたりにし一瞬にして恋が醒めるよりは、そのほうがずっと幸せだったのではないだろうか。<br>
<br>
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●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>（ソフトバンク新書）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/433018110X/">『新幹線と日本の半世紀』</a>（交通新聞社新書）がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1485804.html">
<title>近藤正高「それはアグネス・ラムからはじまった」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1485804.html</link>
<description>担当者より：ライターの近藤正高さんが2007年のリア・ディゾンがブレイクした頃に、アグネス・ラムについて論じた原稿です。また、近藤さんが著書『新幹線と日本の半世紀』（交通新聞社新書）について語ったインタビューもぜひご一読ください。

配信日：2007/03/07


...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2011-06-29T17:00:38+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>ライターの近藤正高さんが2007年のリア・ディゾンがブレイクした頃に、アグネス・ラムについて論じた原稿です。また、近藤さんが著書<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/433018110X/">『新幹線と日本の半世紀』</a>（交通新聞社新書）について語った<a href="http://www.sbbit.jp/article/cont1/22905" target="_self">インタビュー</a>もぜひご一読ください。<br>
<br>
<u>配信日：2007/03/07</u><br>
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<br>
「グラビア界の黒船」ことリア・ディゾンの人気がうなぎのぼりだ。ただ、母国アメリカにいたころから『セーラームーン』や『ドラゴンボール』など日本製アニメに親しみ、ファンから「日本においでよ」とメールをもらったことをきっかけに来日した彼女に、果たして「黒船」という称号がふさわしいのかどうか。私としては、黒船というよりむしろ、「グラビア界のラフカディオ・ハーン」とかそういったほうがしっくり来るんですがね。リアもハーンも日本びいきだし、出自がディアスポラ的（※）だし。……って、わかりにくいか。<br>
<br>
それはまあともかく、リアについては黒船以外にも、「アグネス・ラムの再来」とスポーツ紙などで書かれているのを見かける。が、このフレーズはあくまでもある世代以上に向けたものだろう。というのも、アグネス・ラムがそのグラマラスなボディと愛くるしいフェイスで日本の若い男たちの心をさらったのは、いまからほぼ30年も前のことだからだ。きっと、ブーム当時、あるいはそれ以降に生まれた若い世代はアグネス・ラムといわれてもピンと来ないだろう。<br>
<br>
おりしもつい先月、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4121502388/" target="_self">『アグネス・ラムのいた時代』</a>という本が中公新書ラクレから出た。同書は昨年亡くなった写真家・長友健二の遺著（ライターの長田美穂との共著）で、雑誌グラビアなどでアグネスを撮影し、ブームの一端を担った立場から彼女について語られている。正直いって、アグネスを知らない若い世代には、私がここで下手に紹介するよりも、この本を読んでいただいたほうがずっとよろしかろう。とはいえ、せっかくいただいた機会である。アグネス・ブームについて、まさにその真っ只中にあった1976年に生まれた世代としてちょっと振り返ってみたい。<br>
<br>
さっき、リア・ディゾンはディアスポラ的だとチラッと書いたが、リアがフランス系アメリカ人と中国系フィリピン人のあいだに生まれたアメリカ人なのに対して、アグネスもまたヨーロッパ系（ポルトガル、イングランド、アイルランドの血を受け継いでいるという）の母と中国系の父とのあいだに生まれたハワイアンと、その出自はよく似ている（アグネスにいたっては黒髪に東洋的な顔立ちということもあり、当初は日本人と信じて疑わない向きも多かったという）。ただ、両者が決定的に違うのは、自ら進んで日本へやって来たリアとは反対に、アグネスはあくまでも拠点はハワイに置いたまま、日本の芸能界に入った点である。<br>
<br>
彼女の人気に火をつけたのは、レコードでも映画やドラマでもなく、1975年11月に出演したライオン油脂（現・ライオン）のエメロン・ミンキー・トリートメントのTV-CMだった。ほぼ同時期には、クラリオンのカーエアコンの宣伝ポスターに起用され、このとき刷られた1000枚のポスターはまたたく間になくなったという（このことから彼女は初代クラリオンガールとも呼ばれるが、それはあくまでもあとづけにすぎないようだ。詳細は前掲書でどうぞ）。ブームのピークは翌76年の夏で、旭化成の初代水着キャンペーンガールを務めたほか、水着姿の彼女が多くの雑誌のグラビアを飾る。とりわけ若い男性向けの週刊誌『平凡パンチ』ではクラリオンとのタイアップで「アグネス・ポスター2万枚プレゼント」という企画が組まれ、これまた好評を博した。<br>
<br>
これらのことからいえるのは、アグネスは、歌や演技などの「実」よりも、ビジュアルイメージが先行した最初のアイドルだったということである。もちろん、それ以前からファッションモデルやヌードモデルはいたが、大胆な水着姿というそのイメージが複数のメディアを占拠し、これほどまでに人々の目を奪ったことはなかった。しかも先述したように、当の彼女は日本にはおらず、多くの日本人にとって憧れの地だったハワイにいたのである（ちなみに当時は1ドル＝300円を切るか切らないかという頃。日本人にとってハワイはまだまだ遠かった）。イメージばかりが膨らんでいくのは当然だったといえよう。<br>
<br>
長友の前掲書にも、こんな象徴的なエピソードが紹介されている。それは1976年の年末になって、満を持してアグネス本人がブーム後初めて来日したときのこと。何と、彼女の《サイン会に来た若い男の子たちが、本物のアグネスがそこにいるのに、会場に張ってあるポスターの写真を熱心に撮って》いたというのだ。そういえば、高橋留美子のマンガ『うる星やつら』のヒロインで、二次元萌えの元祖ともいわれるラムちゃんの名前はアグネス・ラムからとったものだった。上記のエピソードを読むと、それはけっして恣意的な命名ではなかったのではないか、とすら思えてくる。<br>
<br>
そのほかアグネスが日本に残した影響としては、彼女のブームに乗じて生まれたキャンペーンガールやグラビアアイドルが、その後メディアに欠かせない存在となったことがあげられる。1977年のカネボウの夏目雅子、1980年のミノルタの宮崎美子などは、キャンギャルから一躍スターダムへとのしあがった。アグネスがその初代とされるクラリオンガールからも、のちにキャスターとなり現在は参院議員を務める蓮舫や、巨乳ブームの立役者であるかとうれいこ、あるいはタレントで新庄剛夫人の大河内志保（現在は離婚）など多彩な人材が輩出された。当のアグネスはその後芸能活動を休止したものの、彼女が結果的に創出したキャンギャルやグラドルは、現在にいたるまで、女性がメディアに進出する際のステップのひとつとして大きな役目を果たしている。<br>
<br>
アグネス・ブーム自体はたしかに一過性のものにすぎなかった。が、これまで紹介してきたように、そのブームは以後の日本に少なからぬ影響を残した。そう考えると、アグネス・ラムはまさに「黒船」だったといえよう。ひるがえって、リア・ディゾンは果たして真の意味での黒船となりうるのかどうか。いや、21世紀になっても、いくら物のたとえとはいえ、黒船の襲来を期待してしまう日本人もどーよ!?　という気もしなくはないが……。<br>
<br>
<br>
<b>参考文献</b><br>
<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4880639117/" target="_self">『1980年大百科』</a>（JICC出版局、1990年）<br>
<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4870317842/" target="_self">『団塊パンチ』</a>第４号（飛鳥新社、2007年）<br>
<br>
<u>※ディアスポラ：本来は分散・離散を意味するギリシャ語で、特にバビロン捕囚後のユダヤ人を指す。最近の文化研究などでは、ユダヤ人以外にも広く、故郷を離れて世界各地に離散した人々という意味で使われることも多い。</u><br>
<br>
<br>
●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>（ソフトバンク新書）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/433018110X/">『新幹線と日本の半世紀』</a>（交通新聞社新書）がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1383073.html">
<title>近藤正高「時代を仕掛けた2010年物故者たち」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1383073.html</link>
<description>担当者より：著書『新幹線と日本の半世紀』（交通新聞社新書）が好評発売中のライター・近藤正高さんが2010年に亡くなった人々について綴った原稿です。2010年を振り返るきっかけとしてぜひお読みください。なお、本稿に出てくる月日は全て2010年のものです。また、前著『私...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-12-29T06:00:38+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>著書<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/433018110X/">『新幹線と日本の半世紀』</a>（交通新聞社新書）が好評発売中のライター・近藤正高さんが2010年に亡くなった人々について綴った原稿です。2010年を振り返るきっかけとしてぜひお読みください。なお、本稿に出てくる月日は全て2010年のものです。また、前著<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>（ソフトバンク新書）に関する<a href="http://www.sbbit.jp/article/cont1/16775">インタビュー</a>もどうぞ。<br>
<br>
<u>更新日：2010/12/29</u><br>
<br>
<br>
一年間のごぶさたでした。<br>
<br>
……と、TBSテレビの往年の歌番組『ロッテ歌のアルバム』での司会者・玉置宏（2/11。以下、日付は故人の命日を示す）の決まり文句「一週間のごぶさたでした」をもじってみたところで、2008年・2009年に続き、2010年もこの一年間に亡くなった著名人たちを振り返ってみたい。<br>
<br>
玉置の没後、昭和のヒット歌謡を彼のナレーション付きで収録したCDシリーズ<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B003I8WZT0/">『玉置宏の昭和ヒットコレクション』</a>がリリースされた。そのうちVol.2に収録された小林旭の「昔の名前で出ています」のイントロには、こんな玉置によるナレーションがかぶせられていた。<br>
<br>
〈木の葉が枯れて冬になる／若葉が萌えて夏になる／たった一つのこの愛を抱き続けて日が過ぎる／一つの川が流れるように／海までひたすら流れるように／私の恋はあなただけ／「昔の名前で出ています」〉<br>
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思えば今年は、まさに「昔の名前で出ています」とばかりに、芸能人やミュージシャンの活動再開が目立った。たとえば、小沢健二。小沢が13年ぶりのライブツアー決定を発表したのと前後して、アメリカの小説家、J.D.サリンジャー（1/27）の訃報が流れた。アメリカ文学に造詣の深い小沢だけに、そのタイミングに驚いたファンも多いのではないだろうか。サリンジャーもまた45年ものあいだ完全に隠遁状態にあったため、その訃報じたいが「昔の名前で出ています」という感があった。<br>
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復帰組としてはほかに歌手の佐良直美がいる。27年ぶりの新曲を発表した佐良は、30年前、とあるスキャンダルを芸能レポーターの梨元勝（8/21）にスクープされた。芸能活動を休止したのもそれが原因だとまことしやかにささやかれていたが、佐良は復帰時にこれを明確に否定、梨元についても「直接話をうかがってみたかった」とその死を悼んだ。<br>
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さて、「昔の名前で出ています」を作詞した星野哲郎（11/15）には、元遠洋漁業の船乗りだったせいもあってか、この歌以外にも流浪を歌った作品が多い。たとえば、北島三郎「函館の女」「風雪ながれ旅」、都はるみ「アンコ椿は恋の花」、黒沢明とロス・プリモス「城ヶ崎ブルース」――ここでは吉岡治（5/17）作詞の「天城越え」とニアミスする――、あるいは水前寺清子「東京でだめなら」などが思い出される。<br>
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「東京でだめなら」というつもりではなかっただろうが、東京都の副知事として1964年の東京オリンピックを成功させたのち、いったん東京を離れて、大阪での万博開催に尽力したのが鈴木俊一（5/14）である。鈴木は、次期知事の呼び声も高かったものの、自民党の指名を得られず、都庁を離れた。その直後、日本万国博覧会協会の事務総長に推され、開幕までの準備、1970年3月から半年間におよぶ会期中の運営と、万博の実務レベルでの全責任を負うことになる。<br>
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大阪万博については開催前より、美術評論家の針生一郎（5/26）が「民衆不在の祭典」と批判するなど反対の声もあったが、結果的に、多くの学者や芸術家たちが動員された。民族学者の梅棹忠夫（7/3）もその一人である。このとき梅棹は、テーマ館に展示するため、世界各地の民族資料の収集を担当している。集められた資料は、のちに万博会場跡地に建設され、梅棹が初代館長に就いた国立民族学博物館の基礎となった。<br>
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この万博はまた、日本のコンテンツ産業の一つの原点ともいえる。電気事業連合会が出展したパビリオン「電力館」のプロデュースを手がけた本橋浩一（10/26）は、これを契機にアニメーション製作に乗り出し、1975年には日本アニメーションを設立、世界名作劇場シリーズや『ちびまる子ちゃん』などを手がけた。<br>
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尖閣諸島沖での海上保安庁の巡視船と中国漁船との衝突事件の動画がYouTubeに流出したり、内部告発サイト「ウィキリークス」にアメリカの外交機密文書が大量に公開されるなど、今年ほど情報のあり方をめぐって議論が起こった年もないだろう。先述の梅棹忠夫は、すでに1963年に情報産業が中心となる時代の到来を予見、「情報産業論」という論文を『放送朝日』という雑誌に寄稿している。<br>
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『放送朝日』は大阪の民放・朝日放送が発行していた広報誌である。当時の同局の最大の人気番組は何といっても、藤田まこと（2/17）主演のコメディ『てなもんや三度笠』だった。1960年代の多くの日本人にとって、日曜日の夕方には大阪発の『てなもんや三度笠』と、東京発（日本テレビ）のバラエティ『シャボン玉ホリデー』を見るのが定番だったという。『シャボン玉ホリデー』にはクレージーキャッツが出演、そのメンバーだった谷啓（9/11）が「ガチョーン」などのギャグを披露し、流行語となった。<br>
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藤田まことは『てなもんや三度笠』の放映終了後、しばらく人気が低迷するが、1973年、朝日放送製作のテレビ時代劇『必殺仕置人』で江戸町奉行所の同心・中村主水（もんど）を演じて以来、同役で必殺シリーズの顔となった。中村主水は設定こそ関東出身ながら、金をもらって仕置を請け負うというところは、じつに関西的だった（実際、東京のキー局の上層部は、このことを嫌がり変更を求めたという）。<br>
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1984年に阪神間を中心に起こった江崎グリコや森永製菓に対する脅迫事件（グリコ・森永事件）では、ルポライターの朝倉喬司（11/6に死亡確認）が、「かい人21面相」を名乗った犯人の関西弁による脅迫状と河内音頭との共通性を指摘するなど、事件の背景に関西の風土をみてとった。<br>
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グリコ・森永事件のように、メディアを通じて犯行を誇示するといった類いの犯罪を「劇場型犯罪」と呼ぶ。この種の犯罪の嚆矢としては、1968年に、在日朝鮮人2世の金嬉老（3/26）が、静岡・寸又峡温泉の旅館に篭城し、集まった報道陣を前に民族差別の現状を訴えた事件をあげることもできよう。あるいは、小説家の立松和平（2/8）が<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4103336072/">『光の雨』</a>（1998年）で題材とした1971～72年の連合赤軍事件（とくにあさま山荘事件）も、劇場型犯罪の走りといえる。<br>
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そういえば、劇作家・演出家のつかこうへい（7/10）の出世作『熱海殺人事件』（1973年初演）は、幼なじみの女工を殺した「ありきたりの犯人」を、刑事たちが「どこに出しても恥ずかしくない、よりすぐれた犯人」に仕立て上げようとするという、後年の劇場型犯罪を予見するかのような作品だった。<br>
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都市を文字どおり劇場に仕立て上げた先駆的存在として、阪急グループが生んだ宝塚歌劇がある。元阪急電鉄社長の小林公平（5/1）は、宝塚歌劇団の理事長だった1974年に『ベルサイユのばら』を企画、ヒットさせるなど文化事業に力を入れた。そのいっぽうで1988年には、戦前からの伝統を誇ったプロ野球チーム・阪急ブレーブスをオリエンタル・リース（現・オリックス）に売却している。<br>
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その阪急ブレーブスからオリックス・ブルーウェーブ（現・バファローズ）時代を通じて、それぞれ「ブレービー」と「ネッピー」というマスコットキャラのスーツアクターを務めたのが、かつて巨人や阪急でプレイした島野修（5/8）である。球場でのマスコットのパフォーマンスはいまやプロ野球ファンの楽しみの一つとなっているが、それも島野の存在なしにはありえない。なお、島野がかつて演じた「ネッピー」は、来シーズンからの球団デザイン一新により、今季かぎりで卒業することになった。<br>
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プロ野球界では、いわゆる「江川事件」の“犠牲”となる形で、1979年に巨人から阪神にトレードされ「悲劇のエース」とも呼ばれた小林繁（1/17）、巨人優勝に貢献した昨シーズンかぎりで引退した木村拓也（4/7）と、元選手の急死があいついだ。両者とも、それぞれ日本ハム、巨人のコーチに就任したばかりだったこともあり衝撃は大きかった。<br>
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このほかにも、「ミサイル打線」と称された大毎オリオンズ（現・千葉ロッテマリーンズ）の主砲の一人・田宮謙次郎（5/5）、立教大学野球部の黄金時代の監督で、プロ経験は皆無ながら国鉄（現・東京ヤクルト）スワローズでも指揮をとり、国鉄時代唯一のAクラス入り（1961年・3位）へと導いた砂押邦信（7/18）、その砂押から立大時代に指導を受けた、元南海（現・福岡ソフトバンク）ホークスの選手で、引退後は日本ハムなどの監督を務め「親分」の愛称で親しまれた大沢啓二（10/7）が亡くなっている。<br>
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球界ではまた、横浜ベイスターズの売却話が持ち上がったものの、買収に名乗り出た住生活グループと、現在の親会社であるTBSホールディングスとのあいだで話がまとまらず、破談に終わった。とくに焦点になったのは、本拠地の移転問題であったという。<br>
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ベイスターズの本拠地である横浜スタジアムの建設に際し、横浜市の技監として各方面との調整にあたったのが田村明（1/25）である。田村はこのとき、ベイスターズの前身で、それまで川崎に拠点を置いていた大洋ホエールズを迎えるにあたり、チーム名に横浜と冠することを条件につけた。結果的にこの条件は受け入れられ、その後、チームの愛称や親会社が変わっても継承されている。<br>
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もともと民間の都市プランナーだった田村だが、飛鳥田一雄市長の招きで横浜市入りし、1968年から13年間にわたって、ハードもソフトも含む総合的な都市計画を推進した。田村はこれを「まちづくり」と名づけている。まちづくりといえば、戦後を通じて日本各地の民家をフィールドワークし、建造物の保存や町の景観の保護などにも大きな影響を与えた建築史家の伊藤ていじ（1/31）の名もぜひあげておきたい。<br>
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田村明は、横浜市にあって民間企業とも協調しながらまちづくりを進めた。1980年代以降、こうした手法は民間活力（民活）の導入として脚光を浴びるようになる。都市計画において民活を大胆に取り入れたのは何といっても、鈴木俊一知事時代の東京だろう。大阪万博を成功させたのち、1979年に念願の東京都知事に就任した鈴木は、4期16年におよんだその在任中に、都庁の新宿移転を実現、臨海副都心の建設も端緒につけた。<br>
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鈴木都政のもとでは都内各地に多くのハコモノが建設された。江戸東京博物館もその一つである。JR両国駅の旧国鉄用地に建てられた同博物館は1993年、国技館の横に開館した。ほぼ同時期、国技館内にある相撲博物館の館長を務めていたのが花田勝治、元横綱・若乃花幹士（初代。9/1）である。現役時代のライバル・栃錦より20年も長生きをし、82歳と歴代横綱では稀有な長寿だった初代若乃花だが、その晩年は、弟（初代貴ノ花）の早世や甥兄弟（花田勝・貴乃花親方）の確執に加え、角界の不祥事もあいつぎ、幸せなものだったとは言い切れまい。<br>
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名アスリートとして栄光を得ながらも、晩年に挫折を経験した点では、オランダの柔道家、アントン・ヘーシンク（8/27）も似ている。東京オリンピックの柔道・無差別級において、神永昭夫を下して金メダルを獲得したヘーシンクは、70年代にプロレスラーとして活躍したのち、柔道の世界に戻り後身の指導に専念した。1987年からは国際オリンピック委員会（IOC）委員としてカラー柔道着の導入などの功績を残したものの、ソルトレーク冬季オリンピック招致にからむ買収スキャンダルで1999年、警告処分を受けている。<br>
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多くの処分者が出たこのときの五輪スキャンダルでは、当時のIOC会長、ファン・アントニオ・サマランチ（4/21）の責任も厳しく問われた。サマランチは、1980年に会長に就任すると、財政の逼迫していたIOCを、放映権の販売やスポンサーシップの導入などにより再建を果たしている。しかしこうしたオリンピックの急速な商業主義化は、サマランチの長期支配もあいまって、組織の腐敗をもたらすことにもつながってしまった。彼の栄光の絶頂は、1992年、母国スペインでのバルセロナ・オリンピックの開催を見届けたときではなかったか。冷戦の終結直後に行なわれたこの大会は、政治的対立による参加国のボイコットも久々になかった。<br>
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ソビエト連邦が解体されたのはバルセロナ五輪の前年のことである。ソ連解体は、当時の副大統領、ゲンナジー・ヤナーエフ（9/24）らがゴルバチョフ大統領の静養中に企てたクーデターの失敗以降、一気に現実のものとなった。解体直前のソ連政府では、グラスノスチと呼ばれた情報公開が急速に推し進められたが、そのなかで、第二次大戦中の1940年にソ連の領土内で起こった、ソ連軍によるポーランド軍将校たちの虐殺事件（カチンの森事件）も初めて公式に認められた。<br>
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カチンの森事件の発生から70年を迎えた今年、現地にて追悼式典が行なわれる予定だった。だが、ポーランド大統領のレフ・カチンスキは式典出席のため現地に向かう途中、搭乗していた政府専用機が墜落、同乗していた夫人や同国の多くの要人などとともに死亡が確認された（4/10）。この事故はロシアだけでなく、カチンスキとは歴史認識の問題で対立していたドイツなど、各国に大きな衝撃を与えた。<br>
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冷戦終結は、旧ソ連のほかヨーロッパ各国でさまざまな公文書が公開される契機となった。イギリスの現代史家、トニー・ジャット（8/6）の大著『ヨーロッパ戦後史』（2005年）もそうした幸運なしには完成しなかったという。日本でも今年、民主党政権の意向により、沖縄返還交渉に関するものなど多くの外交文書が公開された。これら新資料をもとに、わが国の戦後史も書き換えられるべき時期に来ているのかもしれない。<br>
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明治維新から戦後へといたる政治史については、「55年体制」という言葉を発案した政治学者の升味準之輔（8/13）や、共同通信社の元記者で、政治評論家の内田健三（7/9）といった人たちが多くの著作を刊行している。このうち内田は、細川護熙が熊本県知事選に出馬する際、同郷のよしみから協力を頼まれて以来、細川が1993年に首相に就いたのちもことあるごとに相談に乗っていた。<br>
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細川を首相に担ぎ上げたのは、いうまでもなく小沢一郎である。しかし当時より、小沢には「強権」などといったレッテルがつきまとった。内田はこのような「小沢一郎悪党論」が出てくるのは、小沢という政治家の持つ特異な本質ゆえと説明した。その小沢の評価は、昨年の政権交代を経たいまも定まるどころか、批判と称賛のあいだでますます激しく揺れ動いているように思われる。ちなみに、竹下登元首相の政治団体代表を務めるなど、「最後のフィクサー」と呼ばれた異色の財界人・福本邦雄（11/1）は7年前のインタビューのなかで、小沢について「企画力はあるのだろうが、情がない」「暗い」と評している。<br>
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内田や福本のほかにも、元首相・田中角栄の地元後援会「越山会」の会計責任者で、田中の愛人でもあった佐藤昭子（3/11）、長らく裁判所制度などの改革に取り組み、細川内閣では法務大臣も務めた法学者の三ケ月章（11/14）など、今年は政界のブレーン、黒幕的存在の人々の訃報が目立った。<br>
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ブレーンといえば、1980年代に中曽根康弘内閣が設置した臨時行政改革推進審議会には、日本教職員組合（日教組）委員長や日本労働組合総評議会（総評）議長を務めた槇枝元文（12/4）も委員として参加していた。槇枝は、日教組委員長時代の1974年、全国統一4・11ストを指導して地方公務員法違反に問われるなど、急進的労働組合の指導者の代表的存在であった。<br>
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旧国鉄の労働組合である国鉄労働組合（国労）と国鉄動力車労働組合（動労）も、大規模ストライキを実施するなど急進的な姿勢で知られた。とくに後者は「鬼の動労」と恐れられたが、中曽根内閣の推進した国鉄の分割・民営化に対しては、最初こそ国労とともに反対していたものの、やがて賛成に転じる。国鉄民営化の実現へと大きく前進させたこの方針転換を決定したのが、動労中央本部委員長の松崎明（12/9）だった。1987年の国鉄民営化後には、鉄道労連（現・JR総連）やJR東労組の幹部を務めた松崎は、新左翼セクト「革マル派」の結成時からのメンバーとしても知られる。<br>
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海外の政界ブレーンに目を向ければ、ケネディ米大統領の側近で、弁護士・作家のセオドア・C・ソレンセン（10/31）があげられる。ソレンセンは、1961年のケネディの就任演説に、「国が何をしてくれるのだろうかと問うことはやめていただきたい。反対に自分が国のために何をなすことができるかを問うていただきたい」という名文句を盛りこんだことで知られる。ケネディはまた、大統領選挙中に対立候補・ニクソンとテレビ討論を行なうにあたり、映画監督のアーサー・ペン（9/28）から「カメラをまっすぐに見据え、答えを短く」とのアドバイスを受けた。これが有権者に自信と落ち着きのある雰囲気を印象づけ、大統領選勝利へとつながったといわれる。<br>
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ペンはその後、1967年に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B003EVW5F0/">『俺たちに明日はない』</a>を監督した。反体制的、アンハッピーエンドといった、それまでのハリウッド映画にはない新しい傾向を持つこの作品を、『タイム』誌は「アメリカン・ニューシネマ」と称し、以後、米映画界に大きな流れが形成されることになった。俳優のデニス・ホッパー（5/29）が監督・出演した<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B0035QHWES/">『イージー・ライダー』</a>（1969年）もそのなかで生まれた名作である。<br>
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文化の世界にも、政界と同じく仕掛人や黒幕がいる。たとえば、イギリスの音楽プロデューサー、マルコム・マクラーレン（4/8）。彼は1970年代半ば、セックス・ピストルズというロックバンドを世に送り出した。ピストルズは、マルコムとそのパートナーでブティック「セックス」を共同経営していたヴィヴィアン・ウエストウッドや、グラフィックデザイナーのジェイミー・リードらとの共同プロデュースによるものだともいえるが、それでもすべての決定権を握っていたのはマルコムだった。やがてメンバーのジョニー・ロットン（のちのジョン・ライドン）は、彼に支配されることに嫌気が差してピストルズを脱退してしまう。<br>
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クセの強いプロデューサーといえば、日本にも西崎義展（11/7）がいた。1970年代にテレビアニメから劇場版シリーズへと進展した『宇宙戦艦ヤマト』のプロデュースを手がけた西崎は、昨年には自身初の監督作品である『宇宙戦艦ヤマト　復活篇』を劇場公開した。この間、『ヤマト』の著作者は西崎なのか、それともマンガ家の松本零士なのかをめぐって法廷で争われたが、最終的に西崎であることが認められている。それにしても、『ヤマト』における西崎と松本の関係は、ピストルズにおけるマルコムとジョニー・ロットンの関係とどこか似てはいまいか。<br>
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出版界では、JICC出版局（現・宝島社）の編集者として『別冊宝島』を創刊し、のちに洋泉社の社長となった石井慎二（2/12）をはじめ（付録つき女性誌や電子タバコなどで売り上げを伸ばし続ける現在の宝島社を、石井はどう見ていたのだろうか）、文芸誌『新潮』の新人編集者として太宰治の連載「斜陽」（1947年）を担当し、その後『週刊新潮』の創刊に参加、編集長も務めた野平健一（7/5）、『文藝』『海燕』の編集長として中上健次・島田雅彦・よしもとばなななどといった作家たちを育てた寺田博（3/5）、人文・社会科学系の学術専門書を多数出版しているミネルヴァ書房の創業者・杉田信夫（9/14）、米男性誌『ペントハウス』を創刊し、のちにハードコアポルノ映画<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B00006F1VC/">『カリギュラ』</a>（1980年）も製作したボブ・グッチョーネ（10/20）と、名物編集者・経営者らの死去があいついだ。自宅で刺殺されるという痛ましい死をとげた「鬼畜ライター」の村崎百郎（7/23）も、もともとはマイナーな海外文学やカルチャー誌の出版で知られたペヨトル工房の編集者だった。<br>
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ノンフィクション作家の黒岩比佐子（11/17）は、『編集者　国木田独歩の時代』（2007年）では作家・国木田独歩がグラフ雑誌の発行のため設立した「独歩社」を、亡くなる前月に刊行された遺作<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4062164477/">『パンとペン』</a>では社会主義者・堺利彦のつくった日本初の編集プロダクション「売文社」を、というぐあいに、その時代の文化人たちの接点となった“場所”を好んで題材にとりあげた。社会科学者・評論家の小室直樹（9/14）が、参加者の所属・専攻・年齢を問わず門戸を開き、広く社会科学の基礎を指導した自主ゼミからは、社会学者の橋爪大三郎や宮台真司などが輩出されたが、これもまた文化的接点の一種といえるだろう。<br>
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文化の本体は、地上に出ている花というよりは、むしろ地下に菌糸のようにはりめぐらされた、ややこしい人間関係みたいなものにこそある……と、ユニークな文化論を展開したのは数学者の森毅（7/24）だ。キノコに関する編著もある森はさらに、文化を樹木に寄生するカビやキノコになぞらえ、キノコ＝文化は時の権力の成長の証しであるいっぽうで、権力から養分を吸い尽くしてつぶす役割も果たしていると喝破した。<br>
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戦後誕生した民間放送は、経済成長とともに発展をとげつつあった日本企業にある意味、寄生することで育ったということもできるかもしれない。さらにその民放のなかでも、放送局に“寄生”することで、若者たちの解放区たりえたのがラジオの深夜放送だったとはいえまいか。俳優・声優の野沢那智（10/30）が白石冬美とDJを担当したTBSラジオ『パックイン・ミュージック』、渡邊一雄（10/11）がプロデューサーを務め、桂三枝・谷村新司・明石家さんまなどがパーソナリティーを担当した毎日放送の『MBSヤングタウン』などは、一時代を築いた深夜番組だった。<br>
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在京の民放テレビのなかでは後発局にあたるフジテレビには、女性のテレビ制作者の草分けである常田久仁子（11/3）もその設立に参加していた。常田は、『欽ちゃんのドンとやってみよう！』など同局での萩本欽一のすべての出演番組を手がけ、萩本から「テレビ界のおっかさん」と慕われた人物である。コント55号としてテレビに出始めたばかりの萩本は、常田から「テレビは女の人が見てんの。女はね、いくらコントがおもしろくても、汚いかっこしてると見てくれないわよ」とアドバイスを受けたという。思えばこのときこそ、浅草の芸人だった萩本が、テレビタレントへと生まれ変わった瞬間だったのかもしれない。<br>
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「テレビは女の人が見ている」ということは、同じくフジテレビが放映しヒット作となった昼のメロドラマ『日日の背信』（1960年）が証明していた。このドラマに主演したのが池内淳子（9/26）である。池内は後年、NHKの連続テレビ小説『天うらら』（1998年）でヒロインの祖母を演じ、介護される様子も描かれたが、実生活では実母の介護経験を持ち手記も著している（ちなみに池内は、やはり今年亡くなった俳優の池部良［10/8］、小林桂樹［9/16］と、松本清張原作の映画『けものみち』で共演している）。すでに日本は、本格的な少子・高齢社会に突入している。今年亡くなった著名人のなかにも、舞踏家の大野一雄（6/1）、女優の長岡輝子（10/18）と、100歳をすぎてなおも活動を続けていた人たちがいた。<br>
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小説家・劇作家の井上ひさし（4/9）の長編小説<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4101168164/">『吉里吉里人』</a>（1981年）では、日本からの独立を宣言した東北の農村が、海外から一流の医師を集めて医療立国を標榜し、不老不死のユートピアをめざすさまが描かれた。果たして人間が永遠に生き続けることなど、本当に可能なのか。<br>
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美術家の荒川修作（5/19）は、「人間は死んではならない」という課題を設定し、妻で詩人のマドリン・ギンズと作品をつくり続けた。死なない＝「天命の反転」のために荒川がとった方法は、延命治療などではなく、「人間の可能性の拡張」というものだった。彼の手がけた「養老天命反転地」（岐阜県養老町にある体験型庭園）や「三鷹天命反転住宅」（東京都三鷹市）は、歩いたりするのに特別なバランス感覚が必要とされる。後者について、荒川は「ここに住むと身体の潜在能力が引き出され、死ななくなる」と説明した。<br>
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荒川はまた、三重苦を乗り越えたヘレン・ケラーを「天命の反転」を成し遂げた人物として称えた。そういえば、先述の梅棹忠夫もまた、60歳をすぎて失明したが、それを克服して亡くなるまでになおもたくさんの本を著した。あるいは、脳梗塞によって右半身麻痺や言語障害に陥り一時は絶望のふちに立ちながらも、やはりこれを乗り越え、克明な闘病記『寡黙なる巨人』（2007年）を上梓するなど著述活動を続けた免疫学者の多田富雄（4/21）も、「天命反転」を達成した人物とはいえまいか。<br>
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絵本作家・佐野洋子（11/5）の<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4061272748/">『100万回生きた猫』</a>（1977年）は、100万回生き返りながら一度も他者を好きになったことのなかった猫が、一匹の猫を初めて本気で好きになり、相手が死ぬと、あまりの悲しさに泣き続け、ついには自分も死んでしまい二度と生き返ることはなかった……という話だった。この絵本から私は、人生は一回きりだからこそ幸福や充実感が得られるのだというメッセージを読み取った。しかしそれは、荒川修作のめざしたものと何ら矛盾しないような気がする。たとえ何度も生き返ることができても、自分の可能性を引き出せないのであれば、それは生きているとはいえないように思うからだ。<br>
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とはいえ、自らの可能性を十分に出し切って死ぬことはやはり難しい。アニメーション映画監督の今敏（8/24）は新作の制作途中、46歳にして末期がんで亡くなったが、その死後公開された遺書により、がんを宣告された彼が、生き延びるための方法を模索するいっぽうで、「ちゃんと死ぬための準備」を可能なかぎりして逝ったことがあきらかにされた。この遺書を読んで、自分が同じ境遇に立たされたとき、ここまでできるだろうかと思った人は結構多いのではないか。<br>
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おそらく、ここまでとりあげた人の多くは、自分の可能性を出し切ったとまではいかなくても、引き立すべく常に努力を続けてきたはずである。今年亡くなった人にはまた、各分野の黒幕やプロデューサー的な人たちが目立つ。これらの人々はいわば、時代の可能性を引き出したともいえないか。時代を仕掛け、歴史を動かした彼ら彼女らを称えながら、あらためて哀悼の意を捧げたところで、本稿を締めたい。<br>
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●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>（ソフトバンク新書）、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/433018110X/">『新幹線と日本の半世紀』</a>（交通新聞社新書）がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1379605.html">
<title>近藤正高「2008年物故者をめぐるストーリー」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1379605.html</link>
<description>担当者より：2008年にその年にの物故者についてライターの近藤正高さんに書いていただいたものです。近藤さんは著書『新幹線と日本の半世紀』（交通新聞社新書）が上梓されたばかり。そちらもぜひご一読ください。なお、本稿に出てくる月日は全て2008年のものです。

配信日...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-12-18T15:00:43+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>2008年にその年にの物故者についてライターの近藤正高さんに書いていただいたものです。近藤さんは著書<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/433018110X/">『新幹線と日本の半世紀』</a>（交通新聞社新書）が上梓されたばかり。そちらもぜひご一読ください。なお、本稿に出てくる月日は全て2008年のものです。<br>
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<u>配信日：2008/12/24</u><br>
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今回、今年一年に亡くなった人たちを振り返る、というテーマをいただいた。とはいえ、ただ名前を時系列に列挙するだけでは味気ない。そこで、ここは物故者たちになにかしらの関連性を見出しながら、語ってみようと思う。あくまでも僕の勝手な人選なので漏れも出てくるだろうが、その点はあらかじめご容赦願いたい。<br>
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北京五輪が盛大に行なわれるさなか、中国元首相の華国鋒（8/20。以下、日付は故人の命日を示す）が亡くなった。その華国鋒から実権を奪ったトウ小平が改革開放路線を始めたのはちょうど30年前のこと。この政策が本格化するとともに、中国国内では西側諸国の流行歌が紹介されるようになり、なかでも遠藤実（12/6）が作曲した「北国の春」は歌詞を翻訳されて人々に愛唱されたという。<br>
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北京五輪といえば、野球の日本代表チームで投手コーチを元広島東洋カープの大野豊が務めた。その大野をはじめ衣笠祥雄、高橋慶彦、達川光男などカープ黄金期の名選手を発掘し、「スカウトの神様」と呼ばれたのが木庭教（5/23）だ。今年はまた、1975年に開幕から３週間で監督を辞任しつつも、チームの帽子の色を現在の赤に変更し、同年のカープ初優勝の基礎をつくったとも評されるジョー・ルーツが亡くなっている（10/20）。<br>
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カープが初優勝を達成した頃、同球団の親会社である東洋工業（現・マツダ）は深刻な経営危機を迎えていた。その再建のため住友銀行から出向し副社長に就いたのが村井勉（10/30）だった。彼は東洋工業を立て直すと、さらにアサヒビール社長～会長として同社の再建に尽力、1987年には新たに誕生したJR西日本の初代会長に就任する。<br>
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JR西日本を含むJRグループ７社は国鉄の分割民営化によって発足したわけだが、杉浦喬也（1/16）は最後の国鉄総裁としてその幕引きを果たした。一方、国鉄内部で民営化を推進した一人である山之内秀一郎（8/8）はJR東日本の初代副社長に就任、のちには会長も務めた。山之内はまた、『新幹線がなかったら』など一般向けの鉄道本も著している。『私鉄探検』の著者である僕としては、山之内以外にも、鉄道史研究の第一人者として多くの著作を残した原田勝正（4/7）と中川浩一（8/19）の名も忘れがたい。<br>
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ところで、今年の物故者を振り返る上で特筆すべきは、放送史に大きな業績を残した人が目立つことである。たとえば、元NHKアナウンサーの藤倉修一（1/11）は、敗戦直後に始まった「街頭録音」の専属インタビュアーのほか、ラジオの人気番組『二十の扉』や最初期の紅白歌合戦などで司会を務めた。あるいは宇井昇（3/18）は1951年、日本初の民放・中部日本放送（名古屋）の開局第一声を担当したアナウンサーである。同じ年にはNHKラジオ体操の第一体操が服部正（8/2）の作曲により装いも新たに再開された。やがて放送の主役はラジオからテレビに移る。1958年には川内康範（4/6）原作の『月光仮面』が現在のTBSで放映開始され、テレビが生んだ最初のヒーローとなった。<br>
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テレビ番組制作の現場で活躍したなかでは、紅白歌合戦や『夜のヒットスタジオ』などの人気番組を手がけた放送作家の塚田茂（5/13。彼については亡くなる直前に当メルマガに寄稿した<a href="http://bisista.blogto.jp/archives/1224272.html">「放送作家のあがり方」</a>という原稿でも触れた）、TBSの同僚らとともに番組制作会社の草分けであるテレビマンユニオンを設立した村木良彦（1/21）、フジテレビで『ひらけ!ポンキッキ』を手がけ、のちに日本テレワーク設立に参加した野田昌宏（6/6）、NHKディレクターとして大河ドラマや大型ドキュメンタリーの原型をつくった吉田直哉（9/30）、それから朝日新聞社を退職後ニュースキャスターに転身し、テレビを代表するジャーナリストとなった筑紫哲也（11/7）といった人たちが鬼籍に入っている。テレビ業界ではまた、フリーアナウンサーの川田亜子が29歳で自殺するという痛ましい事件もあった（5/25）。<br>
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上記のうち吉田が1965年に演出した大河ドラマ『太閤記』では、まだ新国劇の若手俳優だった緒形拳（10/5）が秀吉役に抜擢され、出世作となった。また、野田の手がけた『ポンキッキ』は、アメリカの子供番組『セサミ・ストリート』の日本版として始まったものだが、ガチャピン（のモデルは野田自身……というのはテレビ番組『トリビアの泉』でも紹介されていた）とムックというオリジナルキャラや、大ヒット曲「およげ!たいやきくん」が生まれるなど、本家とはまた違った道を歩んだ。このあたり、評論家の加藤周一（12/5）が提言した「日本文化の雑種性」の表れともいえるかもしれない。テレビで活躍した人物としてはもう一人、『ポンキッキ』と並び子供たちに親しまれたNHKの『みんなのうた』で、数々の名作を手がけた作曲家の福田和禾子（10/5）もここでぜひあげておきたい。<br>
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さて、村木良彦や吉田直哉の没後に放映された追悼番組では、主にテレビドキュメンタリーでの業績にスポットが当てられていた。そんな彼らに対し、土本典昭（6/24）のように、「自主製作・自主上映」を前提にドキュメンタリー映画を撮り続けた存在も見逃せない。戦後日本のドキュメンタリーを語る上では、映画<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B0001Z2VX8/">『東京オリンピック』</a>もまたはずせない作品だが、その総監督を務めた市川崑（2/13）は、アニメーターをふりだしに、戦後は劇映画の傑作を多数残したほか、CM、テレビドラマと幅広いジャンルで活躍した、まさに映像の時代が生んだ巨匠だった。市川崑が92歳の大往生だったのに対し、同姓の映画監督・市川準は59歳で突然逝った（9/19）。個人的にはその劇映画以上に、「タンスにゴン」「禁煙パイポ」といったCM作品が記憶に残る。その数日前に訃報が伝えられた野田凪（9/7）もまた、CMやミュージックビデオで映像の面白さを味わわせてくれた。<br>
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映像時代の申し子といえば、フランスの作家、ロブ・グリエ（2/18）のヌーボー・ロマンなどと呼ばれた一連の小説作品における徹底した客観的な視覚描写は、やはり映画の影響を抜きには語れないだろう。彼自身、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/B00277TH62/">『去年マリエンバードで』</a>の脚本をはじめ、何本かの映画を監督した映像作家でもあった。<br>
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映像メディアの影響は美術の世界にもおよんだ。アメリカの美術家・ラウシェンバーグ（5/12）は、テレビやグラフ雑誌などを通じて流布されるイメージをそのままキャンバスにちりばめて見せ、ポップアートの先駆けとなった。アメリカでポップアートが全盛を迎えていた60年代には、日本ではあるビジュアル雑誌が100万部を突破する。その雑誌、『週刊少年マガジン』で編集長を務めた内田勝（5/30）は、「巨人の星」「あしたのジョー」などの名作を送り出した。同誌1970年正月号の巻頭特集「劇画入門」における「一枚の絵は一万字にまさる」という宣言は象徴的である。<br>
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まさにその時代の『マガジン』に「天才バカボン」を連載し、ギャグをとことんまで追求した赤塚不二夫も、長い闘病の末鬼籍に入った（8/2）。同じく長い闘病生活の末に亡くなった人物としては、歌手のフランク永井（10/27）も思い出される（そのヒット曲「有楽町で逢いましょう」の歌碑が建てられたのは今年７月のことだ）。ちなみに、赤塚マンガの人気キャラの一つである不屈の猫・ニャロメは、60年代末の東大闘争において最後まで抵抗を続けた全共闘の学生たちに触発されて生まれたものだという。このとき事態を打開するため、東大構内への機動隊導入を要請したのは、当時の学長代行・加藤一郎（11/11）だった。<br>
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東大闘争が60年代を象徴する事件だとすれば、三浦和義（10/10）の「ロス疑惑」と宮崎勤（6/17）の連続幼女誘拐殺人事件は80年代の象徴的な事件だった。いずれの事件も、メディアが彼ら当事者に与えた影響、また彼らをめぐる報道をも含め、現在までいたるさまざまな課題を残した。<br>
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80年代といえば、バブル景気の発端といわれるプラザ会議（1985年）に出席した当時の日銀総裁・澄田智（9/7）も今年死去している。くしくもというべきか、彼の死の翌週には、リーマン・ブラザーズが経営破綻し、アメリカ発の金融危機が世界中をかけめぐった。そのさなか、今年度の文化勲章に、金融工学で用いられる価格方程式の基礎となる公式を発案し、「ウォール街でもっとも有名な日本人」と呼ばれた数学者・伊藤清（11/10）が選ばれている。<br>
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ここへ来て円高も加速している。そもそも現在の変動相場制は、1971年のアメリカのニクソン政権のドル防衛策に由来する。同政権はその３年後、ウォーターゲート事件で崩壊するが、そのきっかけとなったワシントンポスト紙のスクープは、「ディープ・スロート」と呼ばれる情報源からもたらされた。後年、その正体として元FBI副長官のマーク・フェルト（12/18）が名乗りをあげている。なお、この“情報源”を意味する隠語は、ジェラルド・ダミアーノ（10/25）が監督したポルノ映画のタイトルからとられたものだ。<br>
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アメリカでのウォーターゲート事件に対し、日本政界に疑惑が持ち上がった事件としてロッキード事件がある。この戦後最大の疑獄事件は1976年、米上院公聴会での当時のロッキード社副会長・コーチャン（12/14）の証言により発覚し、田中角栄元首相の逮捕にまで発展したのは周知のとおりだ。<br>
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最後に、月本裕（1/9）、草森紳一（3/20）、鈴木芳樹（5/25）、山口由美子（6/18）、島村麻里（8/24）といった、主に雑誌、あるいはネットを舞台に筆を振るったユニークな書き手たちの名前をあげて、本稿を締めたい。とりわけ草森、鈴木、島村の各氏は、面識はないものの知人の編集者を通じていろいろと話を聞いてるだけに（草森氏を除くお二人は当メルマガの寄稿者でもあった）、とても他人事とは思えない。それにしても、中国の古典に造詣が深く、文化大革命でのプロパガンダについての研究も残した草森氏が、もし北京五輪を見ることができたら、一体どんな感想を抱いただろうか？<br>
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……と、話がちょうど一回りしたところで、本稿でとりあげた人々全員にあらためて哀悼の意を表したい。合掌。<br>
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※トウ正平のトウは正しくは「登」におおざと。<br>
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●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/433018110X/">『新幹線と日本の半世紀』</a>（交通新聞社新書）がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1310087.html">
<title>近藤正高「声に出して読みたい“泡沫候補”」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1310087.html</link>
<description>担当者より：『私鉄探検』の著書をお持ちのライター・近藤正高さんが泡沫候補について論じたものです。

配信日：2007/09/05


このたび、「泡沫候補」をテーマに原稿を依頼された近藤でございます。わたくしがこのお題をいただいて真っ先に思い出したのは、1989年から92年の...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-06-12T18:12:31+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>の著書をお持ちのライター・近藤正高さんが泡沫候補について論じたものです。<br>
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<u>配信日：2007/09/05</u><br>
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このたび、「泡沫候補」をテーマに原稿を依頼された近藤でございます。わたくしがこのお題をいただいて真っ先に思い出したのは、1989年から92年のあいだに参院選や東京都知事選などに出馬された三井理峯（りほう）先生のことでした。理峯先生がいかなる人物であるか、最近では動画投稿サイトに政見放送の動画がUPされていたりするので、ご存知の方もいるかもしれません。口をモゴモゴさせながら容易には理解しがたい、それでいて非常にリリカルな演説を行ない、強烈なインパクトを人々に与えた、「史上最強の泡沫候補」ともいうべきおばあさんです。<br>
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実は、理峯先生については個人的に浅からぬ思い出がございます。あれはもうかれこれ10年近く前でしょうか、当時わたくしが出入りしていた某大学の落語研究会で、三井理峯が一大ブームを巻き起こしていたのです。なにしろ、部員のほとんどが、理峯先生の政見放送を、さるルートから入手した録画テープを見て丸暗記していたのですから尋常ではありません。その当時、部員たちが集まれば、誰彼となく理峯先生の演説の暗誦がはじまるという按配で、部外者のわたくしはそれを唖然としながら眺めていたものです。<br>
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そもそも、理峯先生の演説には独特のグルーヴがありました。ためしに、下に引用した演説の一節を音読してみてください。意味はわからなくとも、妙な引っかかりみたいなものが感じられるはずです。<br>
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《茨城県八郷町のマルヤマ荘は、役場と、バス会社と、サツと、三位一体で、胴体の入るばかりの金属製箱があり、これに善良な旅行者を捕まえて押し込め、運びます。私は、まだいとこという先入観が抜けきらず、役場に総務課長を訪ねました。ウラナイヤの件で、相談に乗ってもらおうと思ってのこと。その結果、こうして運ばれました。私に膨大な生命保険がかけてあることはまだ知りませんでした。ありがとうございました》<br>
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どうでしょう？　おそらくは先生の実体験から書かれたものだと思うのですが、しかし、それにしてはあまりにシュールではありませんか。これはもう詩といってもいいでしょう。『ユリイカ』あたりで理峯先生の特集を組んでもらいたいくらいです。<br>
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先生はこのほか、選挙公報でも、《夏休みの学習は有害禁止》《にしんを食べると怒らない》《発掘で一番よかったのは新橋の「キーテキ一声」ホーム上で開通式の錦絵あり》などといった、「声に出して読みたい」フレーズを残しています。<br>
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そんな理峯先生については、最近、大川豊興業の大川豊総裁が著わした<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4594053971">『日本インディーズ候補列伝』</a>（扶桑社）でもくわしくとりあげられています。この本のなかで総裁は、先生のご自宅を訪ねているのですが、親族の方からすでに先生が2002年に亡くなっていたという事実を知らされます。<br>
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さらに、先生がなぜ出馬を思い立ったのか、その背景が聞き出されていて、親族のご苦労も何となくうかがい知ることができました。それでも親族の方は、「三井理峯本人は、（選挙に出ることを）本人なりに楽しんでいたんではないでしょうか」と語っていたのだとか。総裁もまた、理峯先生は、立候補するたびに票を投じてくれている人がいることに、内心では喜んでいたのではないかと推測しています。そう、どんなところにも自分の味方はいるのだ、と。<br>
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大川総裁は、年配の人からよく「孤独だ」と相談を持ちかけられるらしく、そのたびに、理峯先生の話をしつつ、選挙に出てみては？　と持ちかけるのだそうです。また、「人を殺したい」といったメールを送ってくる人たちに対しても、「人を殺したいなら、『人を殺したい』と訴えて選挙に出なさい。政見放送は検閲がないから好きなことを堂々とテレビで言えるぞ」と、やはり出馬をすすめているのだといいます。<br>
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考えてみれば、時間内であればどのような主張も表現も許されている政見放送は、とかく制約の多いテレビにあって、一種のアジール（自由領域、避難所）だともいえるかもしれません。大川総裁は、このアジールを、世に埋もれている人たちの社会との接点の場として、もっと活用すべきだといっているわけです。<br>
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しかし近年では、「泡沫候補」……大川総裁が敬意をこめて呼ぶところの「インディーズ候補」は、全体的に小粒化しているというか、理峯先生のように突出したキャラがいなくなってしまったような気がしてなりません。総裁はこうした傾向について、先日、『スポーツ報知』に掲載されたインタビューで、「素質があっても引きこもりだったり、施設に入れられたりで表に出てこないのでは」「精神の免疫力が落ち、世間がいろんな人たちを受け入れられなくなってきた。そういう意味では、インディーズ候補は社会を映す鏡かもしれません」と分析していました（2007年8月19日付）。<br>
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総裁のいうとおり、世間から理峯先生のような人たちを受け入れる「精神の免疫力」が失われつつあるとすれば寂しいことです。だとすればなおさら、かつて三井理峯という人物がいたことをもっと多くの人たちに知ってもらいたい。本稿がその一助となるなら、これにまさる喜びはありません。ありがとうございました。<br>
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<u>※本稿執筆にあたって、大川豊総裁の著書以外に、以下のブログを参考にさせていただきました。ここに厚く御礼申し上げます。</u><br>
<a href="http://d.hatena.ne.jp/zaikabou/20070327/1174960970">「日毎に敵と懶惰に戦う」</a><br>
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●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。<br>
著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1301262.html">
<title>近藤正高「『1975年の新幹線』を超えて」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1301262.html</link>
<description>担当者より：『私鉄探検』の著者で、ライターの近藤正高さんに新幹線の過去と今に関して論じていただいた原稿です。あと、先日近藤さんが聞き手を担当した、速水健朗氏と円堂都司昭氏のインタビューもご関心ある方はぜひお読みください。

配信日：2010/05/19


先頃亡くなっ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-05-23T11:28:44+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>の著者で、ライターの近藤正高さんに新幹線の過去と今に関して論じていただいた原稿です。あと、先日近藤さんが聞き手を担当した、<a href="http://www.sbbit.jp/article/cont1/21690">速水健朗氏と円堂都司昭氏のインタビュー</a>もご関心ある方はぜひお読みください。<br>
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<u>配信日：2010/05/19</u><br>
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先頃亡くなった清水一行の小説<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4575658235/">『動脈列島』</a>を、最近仕事で読み返す機会があった。1974年12月に光文社のカッパ・ノベルスより刊行され、翌年には日本推理作家協会賞も受賞したこの作品は、当時問題化していた新幹線の騒音公害を題材にした社会派ミステリーである。<br>
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<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4575658235/">『動脈列島』</a>では、「実行者」を名乗る人物が国鉄（現・JR）と政府に対し、新幹線公害の解決のため列車のスピードダウンなどを要求し、それが受け入れられないばあいは、新幹線開業10周年を迎える1974年10月１日に列車を転覆すると脅迫する。さらにそれが妄言ではないことを示すため、デモンストレーションとして、さまざまな手段により新幹線を停止してみせるのだった。<br>
<br>
その手口は、当時続発していた新幹線事故を髣髴とさせるものが多い。たとえば作中、豊橋駅で「こだま」がスリップしてオーバーランし、ポイントに乗り上げるが、これは1973年に大阪運転所（鳥飼基地）で起きた回送列車の脱線事故を思い出させる。この脱線事故は調査の結果、レールに摩擦防止用の油を塗りすぎたことが原因とされたが、<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4575658235/">『動脈列島』</a>では、犯人が食用油をレールに塗ったため事故が引き起こされる。<br>
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<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4575658235/">『動脈列島』</a>には実際に起きた事故がそのまま描かれていたりもする。それは、1974年９月12日（作中での日付も同じ）に東京運転所（品川基地）付近で起きた、「新幹線品川信号異常現示事故」と呼ばれる信号故障事故だ。<br>
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新幹線では地上信号機のかわりに、車内に信号機が設けられ、前方に列車が接近したばあいなど、信号電流をレールづたいに受信しブレーキが自動的にかかるようになっている。品川での事故は、この車内信号が、列車停止を意味する「０信号」を出すべきところで進行をうながす信号を表示したというものだった。地上信号機でいえば、赤信号が出るべきときに青信号が出たのと同じで、一歩まちがえば大事故につながりかねない事態である。<br>
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調査の結果、品川基地の信号機器室の階下に変電室があり、そこの変圧器と、その近くに取りつけられたコンデンサーの組み合わせが、信号電流に近い周波数の誘導電流を発生させていたことがわかった。ようするに、この誘導電流が信号機器に影響をおよぼし、「ニセ信号」を引き起こしていたのである。<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4575658235/">『動脈列島』</a>の犯人は、実際にあったこの事故をヒントに、故意に「ニセ信号」を発生させ、新幹線をストップさせてしまう。<br>
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ここでおどろかされるのは、例の事故が起きたのが本書の刊行のわずか３カ月前ということである。徹底してリアリティを追求した清水は、期日ぎりぎりまで貪欲にこうした題材をとりこんでいたのだ。そもそも新幹線公害という題材も、すでにその前年、雑誌『宝石』に発表したルポルタージュでとりあげたものだった。<br>
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<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4575658235/">『動脈列島』</a>は刊行からまもなくして映画化が決まり、1975年９月に東京映画製作・東宝配給により公開された（監督は増村保造、主演は近藤正臣と田宮二郎）。これと前後して、東映も佐藤純彌監督・高倉健主演で『新幹線大爆破』を同年７月に封切り、くしくも新幹線がテロリストの標的になるという映画が立て続けに公開されることになった。<br>
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1964年の東京オリンピック開催にあわせて華々しく開業した東海道新幹線は、まさに高度成長の象徴として登場した。だが、第１次石油危機（1973年）で高度成長にピリオドが打たれるとともに、開業10年目の新幹線も、深刻化する騒音公害やあいつぐ事故と、混迷と模索の時期に入ったといっていい。『動脈列島』も『新幹線大爆破』も、こうした背景から生まれた作品だった。<br>
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1975年３月には山陽新幹線の岡山～博多間が開業、東京から博多までを「ひかり」が６時間56分で結ぶようになったが（現在は「のぞみ」が最速で５時間28分で結ぶ）、当時すでに着工されていた東北・上越・成田の各新幹線は、石油危機の影響や国鉄の経営悪化により大幅に建設が遅れた（成田新幹線はその後計画自体が失効）。また、1973年、<br>
「全国新幹線鉄道整備法」にもとづき整備計画が決定したいわゆる整備新幹線（北海道新幹線、東北新幹線の盛岡以北、北陸新幹線、九州新幹線の長崎ルートと鹿児島ルートの５路線）も着工のめどが立たないままだった。<br>
<br>
このほか、1975年前後には新幹線にとってエポックともいうべきできごとがあいついだ。名古屋での新幹線公害をめぐっては1974年３月に沿線住民らが国鉄を相手どって名古屋地裁に提訴し、これを機に新幹線公害反対運動は建設中の地域にまで拡大する。<br>
<br>
また1975年５月には、国賓として来日したイギリスのエリザベス女王が新幹線に乗車した。これは、ほかならぬ女王の国より日本に伝えられた鉄道技術が、ひとつの到達点にたどり着いたことをアピールし、感謝の念を伝える絶好の機会となった。ただし、このとき東京から京都までの女王列車運転は、おりからの春闘のストライキで中止され、東京へもどるときのみの乗車となった。もっとも当の女王は、イギリス国内でもストはよくあることと、さほど気にとめなかったようだが。<br>
<br>
なお、イギリスでの労働者によるストの頻発は、やがて国民の強い反感を買い、サッチャー政権誕生の背景となった。日本でも70年代には、国鉄の労働組合である国労（国鉄労働組合）や動労（国鉄動力車労働組合）が頻繁にストライキを打ったが、国民の支持を得るどころかかえって国鉄離れを招くことになる。<br>
<br>
1975年の11月から12月にかけて８日間にわたり国鉄全線が運休した「スト権奪還スト」（法律で禁じられた公共企業体の労働者のストライキ権を獲得するために行なわれたスト）はその頂点であり、以後大規模なストは行なわれなくなった。このとき、与党自民党でストに対しもっとも非妥協的な主張を展開したのが、党幹事長だった中曽根康弘である。後年首相となった中曽根は国鉄民営化を実現させるが、そこには国鉄の経営再建とともに急進的な労働組合の解体というねらいもあった。<br>
<br>
1975年にはまた、新幹線の海外輸出に向けた動きもすでにあった。この年12月、海外鉄道技術協力協会（JARTS）は、イランのテヘラン～マシャド間の高速鉄道を建設するため同国政府とコンサルティング契約を結んでいる。翌年の年明けにはJARTSから専門家によるチームがイランに派遣され、１年半あまりかけてマスタープラン（総合計画）がつくられた。だが、さらにディテール・デザイン（詳細設計）にとりかかろうかというころ、イラン・イスラム革命（1978～79年）が起こり、この計画は中止へと追いこまれてしまう。<br>
<br>
さて、1975年前後に起こったこれら新幹線をめぐる事項は、その後どのような経緯をたどったのか。<br>
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まず、名古屋での新幹線公害訴訟は、1980年の地裁での一審判決、1985年の高裁での控訴審判決ともに、列車の減速などによる公害差し止めという住民らの請求が、新幹線の公共性を重視して棄却されるいっぽう、過去の被害に対する賠償金支払いが国鉄に命じられた。だが、住民たちの公害解決の願いは強く、交渉の結果、国鉄に公害の不拡大と改善、賠償金の支払いを約束させ、1986年３月に両者のあいだで和解が成立する。<br>
<br>
1975年のスト権ストをひとつの原点とする国鉄民営化は、中曽根政権下の1987年４月に実施された。これと前後して、東海道新幹線の名古屋市内の区間では、和解協定書にもとづき防音壁などの設置など公害対策が進められた。さらに、国鉄時代には財政赤字や労使関係の険悪化などで実現しなかった車両のフルモデルチェンジもはかられ、1992年に東海道新幹線で運転を開始した初代「のぞみ」の300系以来、続々と新車両が登場し、スピードアップとともに騒音の軽減もかなりの水準で達成された。<br>
<br>
民営化にさいしては、1982年より凍結されていた整備新幹線計画も再始動し、1997年に開業した北陸新幹線の一部である長野新幹線を手はじめに、徐々に建設が進められていった。今年12月４日には東北新幹線の盛岡～新青森間が全通、九州新幹線の鹿児島ルートも来年３月には博多～鹿児島中央間の全線が開業し、山陽新幹線との直通運転もはじまる予定である。現時点ではこのほか、北海道新幹線の新青森～新函館間、北陸新幹線の長野～金沢間の建設も進行中だ（北陸新幹線をめぐっては最近、福井県の西川一誠知事が鳩山首相へ高速増殖炉「もんじゅ」の運転再開を報告したさいに、未着工の金沢～敦賀間の早期建設認可を求めている）。<br>
<br>
新幹線の海外輸出に関しては、イランでの計画の頓挫ののちも何度かチャレンジがあった。1993年には韓国高速鉄道（KTX）の車両システム選定にあたり、日本の企業連合が新幹線を売りこんだが、独・仏のプランの前に敗れ去り、結果的にフランスのTGVが選ばれた（2004年に暫定開業）。その後の台湾高速鉄道の計画でも当初、入札により日本ではなく独・仏の企業連合が選ばれている。しかし1999年の台湾中部での大地震をきっかけに地震に強い日本の新幹線が注目されたことなどもあり、車両など新幹線の技術を導入することになった（開業は2007年）。とはいえ、基本設計はあくまでもフランスが行なっており、日本のシステムが全面的に採用されたわけではない。<br>
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現在、オバマ政権の「グリーン・ニューディール」政策の一環として計画されているアメリカ各地の高速鉄道をはじめ、ベトナム、ブラジルなど各国に向けて新幹線やリニアモーターカーの技術輸出が検討されている。この背景には、整備新幹線の全路線開業もそう遠い話ではなくなったため、国内市場の行きづまりを見越してということもあるようだ。<br>
<br>
民主党の現政権は、これまで政府が積極的にバックアップしてこなかったことへの反省から発足以来、各国へのセールスに力を入れている。このゴールデンウィーク中には前原誠司国交相がアメリカとベトナムをあいついで訪問、新幹線を売りこんだ。ただ、計画の初期段階から発注者へのコンサルタントができるオールジャパン会社もない――そもそも核となるべきJR東海とJR東日本の足並みもそろっていない――状態で、はたして年々激しさの増す国際競争を勝ち抜くことができるのか、疑問視する声も出ている（『週刊東洋経済』2010年４月３日号を参照）。<br>
<br>
いまや新幹線は、国内外に対してCO2排出量の少なさなど“エコ”をセールスポイントにしている。かつて公害の発生源として新幹線がとりざたされていたことを思えば、これは大転換だ。その原点はやはり1975年あたりにあるのだと思う。あの時期に新幹線の停滞を生んだ公害などの諸問題は、その後いかに解決されたのだろうか。<br>
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これまで新幹線の歴史というと、とかく“高度成長期の神話”として東海道新幹線の開発がとりあげられがちだった。が、今後は開業以降の新幹線についても、いかに国民生活に定着していったのかなど細かに検証される必要があると思う。「1975年の新幹線」は、それを考えるうえでさまざまな材料に満ちている。こうした作業を経てこそ、世界各国に新幹線技術を広めるヒントも見出せるのではないだろうか。<br>
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●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>がある。<br>
新幹線については、ここに書いたことだけでなく、一冊本ができるほどネタを集めていて、現にいま年内刊行に向けて本を書いている最中です。なお、『動脈列島』映画版で主演を務めた近藤正臣は父、ではありません。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1286885.html">
<title>近藤正高「石原都知事がオリンピック招致にこだわる理由」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1286885.html</link>
<description>担当者より：『私鉄探検』の著者で、ライターの近藤正高さんに東京オリンピック招致が話題になっていた2007年にご執筆いただいた原稿です。なお、2007年から数年経過していることもあり、一部を近藤さんには追記で補っていただいております。ご一読ください。

配信日：2007/...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-04-22T18:29:41+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>の著者で、ライターの近藤正高さんに東京オリンピック招致が話題になっていた2007年にご執筆いただいた原稿です。なお、2007年から数年経過していることもあり、一部を近藤さんには追記で補っていただいております。ご一読ください。<br>
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<u>配信日：2007/01/24</u><br>
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慎ちゃんが東京でオリンピックをやりたいと言い出した。慎ちゃんというのは、もちろん東京都の石原慎太郎知事のことである。彼はどうやら、2016年のオリンピックを、国威をかけた「ナショナルイベント」という位置づけで招致するつもりだったらしい。<br>
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東京都は2006年8月に、JOC（日本オリンピック委員会）の選定委員による投票で、対抗馬の福岡を破り国内候補地の座を獲得した。2007年9月にはいよいよ各国の候補地との招致レースにのぞむべく、IOC（国際オリンピック委員会）に立候補申請を行なっている［筆者追記：ただしその後、2009年10月のIOC総会にて、東京が落選したのは周知のとおりである］<br>
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さて、いまからさかのぼること43年前、1964年に東京で開催されたオリンピックは、間違いなくナショナルイベントであった。オリンピックに向け、国費をかけて代々木体育館や日本武道館などの競技施設が建てられたほか、首都高速や東海道新幹線などインフラの整備も急ピッチで進められた。一方、地元開催とあって日本選手の活躍もめざましく、金メダル獲得数16個（一大会における金メダルの数では、2004年のアテネ五輪がこれに並ぶのみ）と、国別ではアメリカ、ソ連に次ぐ第３位と健闘している。首都の急速な近代化をもたらすとともに、肝心の競技においても、冷戦下のふたつの超大国に迫る成績を残したこのオリンピックは、国威発揚に大いに貢献したことだろう。<br>
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だが、十分な成果を収めたはずのこのオリンピックを見て、国を憂えた青年作家がいた。ほかでもない、石原慎太郎その人である。<br>
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東京オリンピックの会期中、『読売新聞』では毎日、「オリンピック断章」と題し、複数の文学者が持ち回りでエッセイを連載した。この連載に、当時32歳だった慎ちゃんは（ちなみに彼が参院選に当選し政界入りを果たすのはこの４年後）、４度寄稿している。<br>
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オリンピック開幕翌日（10月11日）の最初の寄稿でこそ「オリンピックにあるものは、国家や民族や政治、思想のドラマではなく、ただ人間の劇でしかない」「そこにあるのは、日本の代表選手ではなく、ただ一人の人間なのである。同様に、外国からやって来た選手も我々と同じ一人の人間である」とヒューマニスティックな論調で書いていた慎ちゃんだが、その５日後の２度目の寄稿では、日本水泳陣の不調をダシに前言をあっさりと翻す。「どたん場にくれば平素の実力以上のものを出してしまう外国選手と、実力も出し切れずに敗れ去る日本選手。われわれに欠けているものはなになのか」「仏作って魂入れずという言葉があるが、東京オリンピックの施設一つを見ても、驚異的に復興し、いまや再び栄えようとしている日本という国に、確かに魂が欠けているようだ」と断じ、戦後の日本は新たな国家の理念、ナショナルなものの確立を怠ってきたと批判する。その後の10月21日と25日の寄稿も終始こんな調子で、大会終盤の日本選手の不振を太平洋戦争の経過になぞらえたりしている。<br>
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2016年の東京のオリンピック招致については、往年の東京オリンピックの栄光を再現するべく企図されたものと見る向きも目立った。しかし、言いだしっぺである慎ちゃんの意図はそんな甘いノスタルジックなものではなく、真の狙いはむしろ、あのオリンピックを境に魂を失ってしまった（とされる）日本人を、これを機に徹底的に叩き直すことにこそあったのではなかろうか。かつての東京オリンピックに対する慎ちゃんの論調を見ると、どうもそんな気がしてならない。<br>
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●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
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</item>
<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1237464.html">
<title>近藤正高「現代史のなかの2009年物故者たち」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1237464.html</link>
<description>担当者より：ライターの近藤正高さんに2009年に亡くなった人々についてご執筆いただいた原稿です。なお、この原稿は2009年末に配信されたものですので、文中の「昨年」は2008年、「今年」は2009年を指すことをご留意ください。

配信日：2009/12/24


おそらく多くの人が思っ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2010-01-13T00:30:10+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>ライターの近藤正高さんに2009年に亡くなった人々についてご執筆いただいた原稿です。なお、この原稿は2009年末に配信されたものですので、文中の「昨年」は2008年、「今年」は2009年を指すことをご留意ください。<br>
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<u>配信日：2009/12/24</u><br>
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おそらく多くの人が思っていることでしょうが、今年は例年になく各界を代表する人物たちの訃報があいつぎました。<br>
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今回、昨年に続きこの一年間の物故者を回顧するにあたって、文化人類学者の川喜田二郎（7/8。以下、日付は故人の命日を示します）の考案した「KJ法」などを使ったりしていざ整理にとりかかったものの、あまりにもとりあげるべき人物が多い上に、各人同士との接点がいくつもあったりして、かえって収拾がつかなくなってしまいました。<br>
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しかしこの収拾のつかなさこそ、人と人とが、事象と事象とが複雑に絡み合った現代という時代の反映なのかもしれません。そこで、ここはあえて収拾のつかないまま、今年亡くなった人たちから接点を見出しつつ、2009年とはどんな年だったのか、さらには彼ら彼女らの生きた時代を振り返ってみたいと思います。<br>
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今年は、日本とアメリカでの政権交代や昨年来の世界同時不況など、時代の変わり目を感じさせるようなできごとがあり、また、昭和や冷戦の終焉から20年を迎えるなどさまざまな節目の年でもありました。今年７月にはアメリカの宇宙船・アポロ11号による人類初の月面着陸から40年を迎えています。<br>
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ちょうどアポロ11号が月に向かっているさなかの1969年７月18日、地上では米上院議員のエドワード・ケネディ（8/25）が自動車事故を起こし、同乗の女性が水死したにもかかわらず現場を立ち去ったため起訴されていました（のち州法廷で禁固２カ月の有罪判決）。そもそも人類を月に送るという計画は、エドワードの兄であるジョン・Ｆ・ケネディが大統領在任中に提唱したものです。そう考えると、この事件はいかにも間が悪すぎました。<br>
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アポロの月旅行は、アメリカの小説家、ジョン・アップダイク（1/27）の『帰ってきたウサギ』にも中心的メタファーとして登場します。同作を含む「ウサギ」４部作と呼ばれるシリーズの後半では、主人公のハリーが妻の父からトヨタの代理店を引き継ぎ成功を収め、80年代半ばには息子に家業を譲って隠居します。もちろん、ここには70年代以降の日本車の“侵略”という歴史的事実が背景にあるわけですが。<br>
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自動車は20世紀における大量消費社会のシンボルでした。イギリスの小説家、J.G.バラード（4/19）はアップダイクよりもっと過激に、自動車事故でしか性的興奮を得られなくなった人々を描いた『クラッシュ』などの作品を発表しています。日本のノンフィクション作家の上坂冬子（4/14）も、戦後まもない時期のトヨタ自動車での勤務体験を記録した『職場の群像』でデビューしています。<br>
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コピーライターで「日本デザインセンター」の創立メンバーでもある梶祐輔（10/4）は、トヨタの広告を40年近く手がけた、日本における自動車広告の第一人者でした。たとえば「白いクラウン」（68年）は、それまで黒塗りの高級車というイメージのあったクラウンをより幅広いユーザー層に広げるというコンセプトを一言でいいあらわしたコピーとして、いまだに語り継がれています。<br>
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自動車業界はまた政界にも人材を送り込みました。米自動車ビッグスリーの一角、フォード社に管理システムを初めて導入し経営を再建したロバート・マクナマラ（7/6）は、社長昇進直後の61年、その手腕を買われてケネディ政権の国防長官に任命されます（ちなみに同政権は、経済ブレーンに経済学者のポール・サミュエルソン［12/13］を招いています）。<br>
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ただ、次のジョンソン政権まで続いたその在任中、マクナマラは徹底した軍事予算の管理のもとベトナムへの軍事介入を推し進めました。やがて彼の精緻な計算は、ベトナム人民のゲリラ戦法の前に狂い始めます。ついには、戦争の泥沼化の責任をとる形で辞任へ追い込まれたのでした。<br>
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ウォルター・クロンカイト（7/17）が、全米ネットワークの一つ、CBSテレビの『イブニング・ニュース』のキャスターとなったのはケネディ政権２年目の62年のこと。同年、日本でもキャスターニュース第１号となる『ニュースコープ』がTBSテレビで始まり、クロンカイトと同じく通信社出身の田英夫（11/13）がキャスターに抜擢されました。けれども、ベトナム戦争の報道をめぐって両者は対照的な道をたどることになります。<br>
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67年に、当時の北ベトナムを取材し、これをドキュメンタリー番組『ハノイ――田英夫の証言』として放映した田は、アメリカがこの戦争に勝利するのは困難だという見通しを示しました。これをときの自民党政府が偏向報道だと非難、結果的に田はキャスターを降板しています。<br>
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対してクロンカイトは翌68年、国の戦況報告への疑問からベトナムに飛びました。それまで中立主義を貫いてきた彼ですが、帰国後の報告では「いまやとるべき道は和平交渉しかない」と主張しました。これを受けて、ときの米大統領・ジョンソンは北ベトナムへの爆撃の停止、さらには次期大統領選への不出馬を決めたともいわれています。<br>
<br>
その後、テレビでの戦争報道は日常化し、91年の湾岸戦争では、空爆の中継映像がテレビゲームのようだと形容されたりもしました。このとき、日本ではニュース番組に頻繁に出演した軍事評論家の江畑謙介（10/10）が一躍ときの人となりました。<br>
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テレビもまた、自動車とともに20世紀を象徴する存在です。日本でテレビ本放送が開始された53年当時、水の江滝子（11/16）らが出演したバラエティ番組の元祖ともいえる『ジェスチャー』が人気を集めました。<br>
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水の江は戦前、松竹歌劇団の男役として脚光を浴びましたが、戦後はテレビ出演のほか日活のプロデューサーとして活躍しました。彼女が56年に製作した映画『太陽の季節』には、のちに結婚する長門裕之と南田洋子（10/21）が主演しています。<br>
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『ジェスチャー』は女性陣と男性陣が対抗するという形式で、それぞれのキャプテンを水の江と落語家の柳家金語楼が務めました。この金語楼の息子、山下武（6/13）は60年代にNET（現テレビ朝日）のディレクターとして『大正テレビ寄席』を手がけ、演芸ブームを巻き起こしました。しかしブームに乗じて類似番組がどんどんつくられるうちに人材が払底すると、落語家が狩り出されるようになります。三遊亭圓楽（５代目。10/29）ら当時の若手落語家が出演した『笑点』もそのような背景から生まれました。<br>
<br>
テレビ放送開始以来の人気番組といえば、日本テレビのプロレス中継もあげねばなりません。しかしそれもついに今年２月、地上波から消えてしまいました。力道山の日本プロレス、ジャイアント馬場の全日本プロレスの流れをくむ「プロレスリング・ノア」の地上波での中継打ち切りからまもなくして、ノアの社長でプロレスラーの三沢光晴（6/13）が急死しています。<br>
<br>
在京民放テレビ局のうち後発局であるフジテレビは、鹿内信隆・春雄父子による一族経営によって急成長をとげました。同局が「軽チャー路線」を打ち出した84年、春雄は、元NHKアナウンサーでフジに移籍していたキャスターの頼近美津子（5/17）を妻に迎えます。しかし結婚からわずか４年で春雄が急死。その後女優やコンサート・プランナーとして活躍した頼近もまた53歳という若さで亡くなりました。<br>
<br>
テレビによって人気が高まったスポーツにはプロレス以外にプロ野球があります。山内一弘（2/2。旧名は和弘）は50年代から60年代にかけて大毎オリオンズ（現・千葉ロッテ）などで活躍した大打者、土井正三（9/25）は1965～73年の読売ジャイアンツのV9に、主に２番打者として貢献した選手です。<br>
<br>
この二人には奇妙な共通点があります。それは、プロ野球の監督として大選手の才能を見抜けなかったという“悪評”がつきまとうことです。山内は社会人野球からロッテに入ったばかりだった落合博満の独特のバッティングフォームを見て、これではプロで通用しないと言い放ったといいます。土井は、オリックス入団２年目のイチローを一軍になかなか定着させませんでした。イチローが一軍に定着し、シーズン安打210本という日本記録を打ち立てるのは翌年、仰木彬監督に変わってからです。<br>
<br>
とはいえ、落合本人は、山内の高度な理論が当時の自分には理解できなかったとのちに語っています。イチローにしても、くだんの悪評について土井の死後、「そうじゃないのにね」と否定しました。<br>
<br>
なお、土井が監督を務めたオリックスは2004年に大阪近鉄バファローズと合併、オリックス・バファローズとして京セラドーム大阪を本拠地としました。もともと大阪ドームとしてオープンした同球場は、関西の大手私鉄・近鉄の会長で球団オーナーだった上山善紀（8/25）によって建設が推進されました。<br>
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上山はまた、三重県の志摩半島に大規模リゾート・志摩スペイン村の建設を進めました。けれども、大都市から離れていることもあって経営は苦戦が続いています。これに対して、元千葉県知事・川上紀一（8/14）が実現を公約に掲げた東京ディズニーランド（TDL）は、大都市型テーマパークとして大成功を収めました。ただし、当の川上は、1975年の知事選出馬前に不正献金を受けていたことが在任中の81年になって発覚、83年のTDLのオープンを待たぬまま辞任しています。<br>
<br>
TDLには87年、「キャプテンEO」というマイケル・ジャクソン（6/25）主演のアトラクションが登場しています。マイケル自身、大のディズニー好きで、その大邸宅をネヴァーランドと名づけたほどでした。<br>
<br>
マイケルが83年にリリースした「スリラー」は、そのプロモーションビデオ（PV）とともに世界的なヒットになりました。日本でも翌年にはメリカのMTVと提携してPVを流す番組も始まったものの、国内アーティストにはPVはまださほど必要とされていませんでした。これについては、歌番組やCMでのイメージソングがその代わりを担っていたからとの見方もあります。そう考えると、忌野清志郎（5/2）の歌番組での、噛んでいたガムをカメラに向かって飛ばしたり、自分の曲の放送を“自粛”したラジオ局を非難する曲を突然歌い出したりといったパフォーマンスは、格好のプロモーションだったといえるかもしれません。<br>
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プロモーションといえば、2016年の五輪招致のため東京都がつくった10分間のPVは、製作費に５億円もかかっていたことが判明し物議をかもしました。今回の五輪招致では、敗戦直後、競泳で立て続けに世界記録を出した古橋廣之進（8/2）にも、元JOC会長、国際水泳連盟副会長にして名誉都民という立場から協力が期待されていました。けれども、古橋は10月のIOC総会での最終投票を待たずにローマで客死、五輪招致も失敗に終わったことは周知のとおりです。<br>
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往年のアスリートでは、56年のコルティナダンペッツォ冬季五輪のアルペン３種目で優勝したオーストリアのスキー選手で、のちに俳優に転身したトニー・ザイラー（8/24）も亡くなりました。ザイラーは日本にもたびたび訪れ、59年には松竹映画『銀嶺の王者』に主演しています。60年の来日時には東レの広告に登場、このとき「ことしの流行はザイラーの黒」というコピーを書いたのが、土屋耕一（3/27）でした。<br>
<br>
もともと資生堂宣伝部のコピーライター第１号として出発した土屋は、フリーになってからも資生堂の広告を手がけました。80年の「ピーチパイ」というコピーからは、竹内まりやの歌うイメージソング「不思議なピーチパイ」が生まれています。<br>
<br>
この「不思議なピーチパイ」の作曲を手がけたのは加藤和彦（10/17）でした（作詞は当時夫人だった安井かずみ）。加藤と広告のかかわりは深く、70年には“脱商品広告”のさきがけといわれる富士ゼロックスのテレビCM「モーレツからビューティフルへ」に出演、若者たちのフィーリングに訴えかけました。<br>
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この一年は、先述の梶祐輔や土屋耕一のほか、日本のグラフィックデザインのパイオニアと称される早川良雄（3/28）、それに続く世代にあたる木村恒久（08年12/27）、福田繁雄（1/11）、粟津潔（4/28）と、広告業界周辺の人物の訃報が目立ちました。このうち粟津は、70年の大阪万博でアミューズメントゾーンの基本構想計画にも参加していますが、これは今年閉園したエキスポランドの原型となるものでした。<br>
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コピーライターでは、土屋の影響下から出発した眞木準（6/22）も亡くなっています。眞木は、93年に羽田孜や小沢一郎らが自民党を離脱し新党を旗揚げしたさい、「新生党」という党名を考案するなど幅広い仕事を手がけました。<br>
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津久井克行（10/2）を中心とする男性デュオグループclassの「夏の日の1993」がヒットした93年夏、ときの宮澤喜一内閣への不信任案可決を受けて総選挙が実施されます。同内閣で外相だった武藤嘉文（11/4）は、大平正芳首相の急死直後に大勝を収めた80年の総選挙を引き合いに出して、「宮澤さんもお亡くなりになれば……」と口を滑らせてしまいますが、羽田や小沢のほかにも離党者があいついだため自民党は大敗、日本新党の細川護熙を首相とする非自民連立政権が発足しました。<br>
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連立政権成立の立役者である小沢一郎は翌94年にはポスト細川政権もにらんだ上で、自民党の有力政治家だった渡辺美智雄らを切り崩しにかかります。渡辺をうながすべく、その側近だった柿澤弘治（1/27）たちが先行するかたちで自民党を離党、自由党（後年小沢のつくった同名の党とは別物）を結成しました。けっきょく渡辺の取り込みには失敗、細川に代わって羽田が政権を引き継ぎ、柿澤は同内閣で外相に就任します。ただしその在任期間は約２カ月と短いものでしたが。<br>
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大蔵省出身の柿澤は、77年の参院選で新自由クラブ（新自ク）から出馬し初当選を果たしました。新自クはその前年、ロッキード事件によってあかるみになった金権体質への批判から自民党を離党した河野洋平ら若手政治家たちによって結成された保守新党です。その総元締め的存在だったのが河野のいとこにあたる田川誠一（8/7）でした。<br>
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70年代には、名古屋市長となった本山政雄（5/11）など全国の大都市に革新首長が誕生し、国政でも「保革伯仲」の時代を迎えていました。さらに、評論家の室伏哲郎（10/26）が「構造汚職」と呼んだ、自民党政権と官界・財界の癒着構造に起因する汚職事件があいつぎ国民の不満が高まります。新自由クラブと、先述の田英夫が代表となった社会民主連合（社民連）は、こうした背景からそれぞれ保革を代表する都市型の新党として登場し、期待を集めました。<br>
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けれども、新自クは勢力を伸ばせず86年に解散。河野などほとんどのメンバーは自民党に復帰したものの、田川だけはかたくなに金権政治の打破を訴え一人で進歩党をつくりました。社民連では早くから田ら「旧社会党派」と菅直人ら「市民派」とが対立し、細川政権発足時には当時の代表である江田五月が入閣しましたが、田は連立政権を批判して脱退、けっきょく94年に解党します。<br>
<br>
政界関係ではこのほか、2006年、当時の民主党執行部の総退陣にまで発展したいわゆる「偽メール問題」の火付け役である元衆院議員の永田寿康（1/3）が自殺、また麻生内閣の財務相として出席したG7の財務相・中央銀行総裁会議の終了後の“もうろう会見”で物議をかもした中川昭一（10/3）が、総選挙での落選後まもなくして急死<br>
するなど衝撃的なできごとがあいつぎました。<br>
<br>
麻生自民党から鳩山民主党への政権交代は、彼らの祖父にあたる吉田茂から鳩山一郎への政権交代（54年）と何かと重ね合わせられました。そういえば、83年の映画『小説吉田学校』で吉田を演じたのは森繁久彌（11/10）でした。その森繁に「国民のおじいちゃんのような方」だからとの理由で、鳩山一郎の孫から国民栄誉賞が贈られるというのは何か因縁めいているような……。なお、『小説吉田学校』で美術監督を務めたのは、黒澤明監督作品にも多数かかわった村木与四郎（10/26）でした。<br>
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クロサワアキラといえば、ムード歌謡の「ロス・プリモス」のそれぞれ初代と２代目リーダーである黒沢明（4/9）と森聖二（10/18）が立て続けに亡くなっています。歌謡界での物故者はこのほか、作詞家の松井由利夫（2/19。代表作に氷川きよし「箱根八里の半次郎」など）、石本美由起（5/27。美空ひばり「悲しい酒」など）、音羽たかし（8/6。ザ・ピーナッツ「情熱の花」など）、丘灯至夫（11/24。舟木一夫「高校三年生」など）、作曲家の三木たかし（5/11。石川さゆり「津軽海峡・冬景色」など）がいます。<br>
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歌謡曲がらみでは、『山口百恵は菩薩である』『大歌謡論』などたくさんの歌謡曲論を著した評論家の平岡正明（7/9）もぜひあげておきたい。その２カ月前には、平岡やルポライターの竹中労とともに70年代に「３バカゲバリスタ」と称して活動を行なった革命思想家の太田龍（5/19）も亡くなっています。彼らにとって、アジアに対する日本の戦争責任の追及は重要なテーマでした。<br>
<br>
アジア各国でもかつての指導者たちの訃報があいつぎました。韓国前大統領の盧武鉉（5/23）が自殺した３カ月後には、彼の前任者であり、民主化運動のリーダーだった金大中（8/18）が死去。さらに73年の金大中拉致事件を主導したとされる元KCIA部長の李厚洛（イ・フラク。10/31）も亡くなり、同事件の真相究明はますます困難になりました。<br>
<br>
金大中は80年、民主化運動で国内に混乱を招いたとの理由で逮捕、一時は死刑宣告も受けますがのちに刑執行が停止され、しばらくアメリカで事実上の亡命生活を送っています。このとき、金はやはり亡命中だったフィリピンの野党議員、ベニグノ・アキノと親交を持ちました。ベニグノは83年、３年ぶりに帰国するも到着した空港で暗殺されてしまいます。86年のフィリピン２月革命でマルコス政権が倒れると、ベニグノの未亡人のコラソン・アキノ（8/1）が大統領に就任しました。<br>
<br>
鳩山首相は今年、「東アジア共同体」創設を提唱しました。いっそ、そのマスコットに、いまやアジア各国で人気を集めている臼井儀人（9/11）の『クレヨンしんちゃん』を起用してみてはいかがでしょうか。<br>
<br>
冷戦終結から今年で20年を迎えました。アメリカの国際政治学者、サミュエル・ハンティントン（08年12/24）は96年に刊行した『文明の衝突』のなかで、冷戦後の国際社会はいくつかの文明圏に分裂し、それらの対立・衝突によって世界秩序がつくられていくという見方を示しています。同書は鈴木主税（10/25）によって邦訳され、日本でも話題になりました。<br>
<br>
2001年のタリバンが首謀したとされる９・11テロ、それに先立つアフガニスタンのバーミヤン渓谷の巨大仏像の破壊は、ハンティントンの予見が的中した事例ともいえます。なお、大仏の破壊にさいして、日本画家の平山郁夫（12/2）は、ユネスコ親善大使として抗議活動を行ないました。<br>
<br>
予見といえば、ドイツの振付家、ピナ・バウシュ（6/30）の演出により89年11月に初演された舞台『パレルモ、パレルモ』では、幕が開くとともに400個もの煉瓦を積み上げた壁が一瞬にして崩れ落ち、観衆に衝撃を与えました。ベルリンの壁の崩壊はそれから約１週間後のことです。振付家では、バウシュの先行世代にあたるアメリカのマース・カニングハム（7/26）も今年亡くなっています。<br>
<br>
本稿でとりあげた自動車にしてもテレビや広告にしても、大きな転換期を迎えています。出版の世界もまた例外ではありません。評論家の中島梓（5/26。栗本薫の名で作家としても活躍）は26年前に著した『ベストセラーの構造』で、赤字を補うために出版点数を増やすというやりかたはいずれ破綻し、出版社も本も著者も容赦ない淘汰にさらされるのではないかと懸念しましたが、その予見はほぼ的中してしまいました。<br>
<br>
中島は前掲書において、現代社会はスケープゴートを必要とする社会であり、ベストセラーにもその傾向が見られることを指摘しています。それを読んでふと、昨年のいまごろの飯島愛の死（08年12/17？）を思い出しました。それにしても彼女といい、大原麗子（8/3）や山城新伍（8/12）といい、芸能人の孤独死があいついだ一年でもありました。<br>
<br>
最後にとりあげるのは、やはりこの人をおいてほかにないでしょう。100歳で大往生したフランスの文化人類学者、クロード・レヴィ=ストロース（10/30）です。<br>
<br>
80年代にめざましい経済成長をとげつつあった韓国を訪れたものの、朝鮮文明の遺跡しか求め歩かなかったレヴィ=ストロースを見て、現地のある学生は「レヴィ=ストロースは、もはや存在しないものにしか興味を示さない！」と言ったといいます。<br>
<br>
原始文明と先進文明という区分を取っ払い、すべての人類に不変的な構造を見出したこの偉大なる思想家にとって、たかだか一世紀のうちに起きた変動など、人類の長い営みからすればささいなものとしか思えなかったのかもしれません。<br>
<br>
これまでにあげた人たちすべての人生がすっぽり納まるほど生きながらえた人物をとりあげたところで、本稿を締めたいと思います。<br>
あらためて、彼ら彼女らに哀悼の意を表しつつ――。<br>
<br>
<br>
●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
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<title>近藤正高「放送作家のあがり方」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1224272.html</link>
<description>担当者より：著書に『私鉄探検』（ソフトバンク新書）があるライターの近藤正高さんに放送作家という職業とその“あがり方”について論じていただきました。

配信日：2008/04/09


放送作家出身の小説家・景山民夫はかつて「放送作家40歳定年説」なるものを提唱していたとい...</description>
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<dc:date>2009-12-19T01:11:30+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>（ソフトバンク新書）があるライターの近藤正高さんに放送作家という職業とその“あがり方”について論じていただきました。<br>
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<u>配信日：2008/04/09</u><br>
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放送作家出身の小説家・景山民夫はかつて「放送作家40歳定年説」なるものを提唱していたという。テレビの仕事ができるのはせいぜい反射神経のある30代までだという考え方だ。当の景山自身、40歳をむかえる前後に吉川英治文学新人賞と直木賞をあいついで受賞し、本格的に小説家の道に進んでいる。<br>
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反射神経の問題かどうかはともかく、放送作家には景山のみならずほかの分野へと転進したケースが目立つ。ちょっと調べただけでも、青島幸男・赤江瀑・秋元康・阿久悠・井上ひさし・永六輔・大橋巨泉・川崎洋・神吉拓郎・邦光史郎・小林信彦（中原弓彦）・野坂昭如・野末陳平・畑山博・藤本義一・前田武彦・宮沢章夫・向田邦子・隆慶一郎（池田一朗）などなど、かなりの名前があがる。<br>
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ここにあげた大半はテレビ創生期に放送作家として活躍し、のちに文学や政治、あるいはタレントや作詞家に転進するなどして別の分野でも名をあげた人たちである。なかには直木賞や芥川賞の受賞者もいるし、参院議員経験者もいる。青島にいたっては、作詞家・タレント・直木賞・東京都知事と、いまあげたすべての分野でこれ以上ないというぐらいの成功を収めている。また、井上ひさしは日本ペンクラブの会長まで務めたし、秋元康もいつのまにか京都造形芸術大学の副学長という要職に就いていたりする。<br>
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ただ、このことは放送作家という職業の地位の低さの裏返しといえるのかもしれない。とくにテレビ創生期の放送作家はそうだろう。放送作家の仕事では将来の見通しが立たなかったからこそ、彼らの多くは別の分野に進まざるをえなかった、と解釈するのが妥当ではないか。<br>
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それでもドラマを手がける脚本家のばあい、その地位の向上は比較的早かった。直木賞作家にまでのぼりつめた向田邦子の名は、その没後、テレビドラマの脚本を対象にした賞に冠され、この分野ではもっとも権威のある賞の一つとなっているし、向田とはほぼ同世代（というか４つ年上。今年83歳というから驚く）で、いまなおテレビの世界に君臨しつづける橋田壽賀子は、財団を設立し、放送関係者や番組を対象に、みずから「橋田賞」という“あがり”をつくってしまった。<br>
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そんな脚本家たちに対して、バラエティの放送作家――いわゆる構成作家の立場はかなり長いあいだ軽んじられてきたように思われる。ほかの分野に転進しなかった構成作家一筋というような人には、忘れ去られてしまった人が多いのではないか。<br>
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ビートたけしの番組などを手がけた放送作家で、タレントとしても活躍する高田文夫が1984年に刊行した『コントもかけば恥もかく』（日本文芸社）では、そんないまでは歴史に埋もれてしまった構成作家たちについても触れられている。<br>
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たとえば、三波伸介司会で人気を集めた『お笑いオンステージ』を企画した前川宏司や、その一番弟子で、女性の構成作家の草分けとして『クイズ・ドレミファドン！』の企画などにかかわった福地美穂子などだ。だが、福地は76年に35歳でテレビ局内で急死、前川もまた82年、『お笑いオンステージ』の終了とほぼ時期を同じくして亡くなっている。45歳とやはり早世だった。<br>
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ちなみに、高田は日大芸術学部在学中の70年に塚田茂に弟子入りしている。塚田茂という人もテレビ史を語る上で重要な作家だ。『NHK紅白歌合戦』が初めてテレビで放送された際に、会場となった日劇の舞台監督として参加して以来、テレビ業界への転進後も30年以上にわたって紅白の制作にたずさわったほか、『夜のヒットスタジオ』や『オールスター家族対抗歌合戦』などといった人気番組を手がけている。このうち『夜ヒット』では、塚田自身も「歌謡ドラマ」という歌手らが演じる寸劇コーナーに出演もした。<br>
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さて、テレビが創生期を脱し、巨大産業となっていった70年代には、放送作家の歴史を語るうえでエポックともいえるできごとが起きている。このエポックをつくったのはコメディアンの萩本欽一だ。萩本は、坂上二郎とのコンビ・コント55号から個人での活動に移行するにあたり、自分と一緒にコントをつくる作家を育てるため、大岩賞介・永井準・詩村博史 ・鈴木しゅんじといった当時20代の若者たちを集めた。放送作家集団「パジャマ党」の誕生である。<br>
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それから５年ほどの修行期間を経て、萩本は『どちらさまも欽ちゃんです』というニッポン放送のラジオ番組でパジャマ党を初めてスタッフに起用、そのうちの一コーナー「欽ちゃんのドンといってみよう」がやがて『欽ちゃんのドンとやってみよう！』というテレビ番組に発展していくことになる。<br>
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ところで、パジャマ党のメンバーのうち、はかま満緒の弟子だった大岩をのぞく３人は日本大学の学生だったという。彼らが在学していたのは、ちょうど68年よりはじまった日大闘争とよばれる学生運動が激化していたころだ。萩本は入門したばかりの彼らから日大闘争の話を興味深く聞いたという。<br>
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先述の高田文夫が日大に在籍したのもちょうど闘争の最中だった。彼自身はおそらく運動に参加していないだろうが、彼の落語研究会での後輩だった森田芳光（のち映画監督）は運動に身を投じている。やはり同時期に日大生だったのが演出家のテリー伊藤である。つい先日放送されていた、日本テレビの開局55年の記念番組では、日大闘争の記録映像に映っている学生時代の伊藤の姿が紹介されていた。<br>
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そのテリー伊藤もまた放送作家の育成に力を入れている。80年代から90年代にかけて伊藤が演出を手がけた『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』では、「放送作家予備校」という企画が組まれ、このとき伊藤のもとに、そーたに・おちまさと・都築浩・池田一之・田中直人といった放送作家志望の若者が集まることになる。<br>
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それまで伊藤の事務所ロコモーション（85年設立）には放送作家がいなかったこともあり、彼らはかなり自由な雰囲気のなかで、たがいに切磋琢磨しながら腕を磨いていったようだ。そんな彼らの才能が一気に開花したのが、92年よりはじまった『進め！電波少年』である。<br>
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『電波少年』は、『元気が出るテレビ』で伊藤のもとで演出を務めた土屋敏男により企画され、前述のロコモーションの作家たちをはじめ、すでに深夜番組『カノッサの屈辱』でその名を知られていた小山薫堂や、雑誌『ビックリハウス』の投稿者出身で古舘プロジェクトに所属する鮫肌文殊といった当時の若手作家が結集した。<br>
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これは、60年代末の伝説的番組『巨泉・前武ゲバゲバ90分！』で、一回の放送につき150本ものコントをつくるため、三木鶏郎やキノトールといった大御所から、河野洋・井上ひさし・小林信彦・松原敏春・喰始など当時の中堅・新人まで大勢の気鋭の放送作家が集められたというのとよく似ている。その意味では、90年代においてかつての『ゲバゲバ90分』にあたる存在が『電波少年』だったのではないか。<br>
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『電波少年』の作家チームは、土屋みずから声をかけて集められたゲリラ集団のようなものだったという。なかには、高須光聖のように声をかけられながらも、ダウンタウンの番組以外の仕事は断らざるをえないという当時の状況から、参加を断念した者もいる。のちに<a href="http://www.mikageya.com/yu/11/index3.html#talk">高須は『電波少年』のチームがすごくうらやましかったと、参加した海老克哉に打ち明けている</a>ほどだ。<br>
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とはいえ、高須がかかわったほぼ同時期の『ダウンタウンのごっつええ感じ』にも、三木聡・倉本美津留・内村宏幸・木村祐一など、いまから思えば『電波少年』に負けず劣らず多彩な作家陣が集まっていた。<br>
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『電波少年』や『ごっつええ感じ』に参加した若手放送作家の多くもすでに40代をむかえ、業界の中核となっている。それに先行する高田文夫、あるいはパジャマ党の面々（永井準は一昨年鬼籍に入ったが）など現在60歳前後の作家たちにも現役の者が目立つ。なかにはおちまさとや小山薫堂のように、放送にかぎらず幅広い分野でプロデュース業などを手がける者もいるが、それでも軸足はまだ放送作家に置いており、肩書きもそのままになっていたりする。<br>
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こうした状況をみると、放送作家がようやく職業として確立されたように思われる。彼らは放送作家をステップではなくベースとして、別の分野に移ることなくテレビの世界で“あがる”方法を示しているといってもいいだろう。<br>
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サブカルチャーやユースカルチャーとよばれるものには、マンガやロックなど、本来なら若者特有のものだったはずの文化がいつのまにか世代を越えて定着してしまった、というようなケースが多々みられる。それはジャンルの成熟には避けられないことだろう。とすれば、放送作家という職業が年齢とあまり関係ないものになったいま、テレビのバラエティ番組というジャンルも成熟をむかえた、といえるのかもしれない。<br>
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●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
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<item rdf:about="http://bisista.blogto.jp/archives/1189965.html">
<title>近藤正高「板東英二、その副業人生」</title>
<link>http://bisista.blogto.jp/archives/1189965.html</link>
<description>担当者より：近藤正高さんは、テレビ史、広告、建築、戦後政治、新幹線、オリンピックや万博といったビッグイベントなど多岐にわたる分野に関心を寄せるライターです。著書に『私鉄探検』（ソフトバンク新書）があります。サブカルチャーにも明るい方で、この原稿では目下ブ...</description>
<dc:creator>bisista_news</dc:creator>
<dc:date>2009-11-08T12:30:41+09:00</dc:date>
<dc:subject>近藤正高</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>担当者より：</b>近藤正高さんは、テレビ史、広告、建築、戦後政治、新幹線、オリンピックや万博といったビッグイベントなど多岐にわたる分野に関心を寄せるライターです。著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>（ソフトバンク新書）があります。サブカルチャーにも明るい方で、この原稿では目下ブレイク中の板東英二について論じていただきました。<br>
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<u>配信日：2009/09/02</u><br>
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あなたは、深夜に電話で友人から延々と板東英二のものまねをされた経験があるだろうか。私はある。板東英二の声は特徴があるせいか、私の友人もふくめ素人にも比較的まねしやすいようだ。タレントでも板東のものまねをレパートリーにしている者は多いが（松村邦洋とか）、ここへ来て松竹芸能の芸人・かみじょうたけしが、似ているだけでなく、これまでにないパターンで板東のものまねを披露し一部で人気を博している。板東本人もかみじょうをいたく気に入って、二人でテレビ番組『爆笑レッドカーペット』に出演するべく目下、ネタを練習中だとか（『サンスポ』2009年７月３日）。<br>
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そもそもいま、当の板東自身が人生何度目かのブレイクを迎えている。そのブログ<a href="http://stblog.stardust-web.net/bandoeiji/">「ブレイクしたいねんっ!!」</a>というタイトルに込めた願いがかなったのか、いまや板東をテレビで見ない日はないほどだ。<br>
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私の出身地で現住所である愛知は、もともと板東の古巣・中日ドラゴンズの本拠地であるため、昔からよく地元テレビ局のローカル番組で彼の姿を見かけた。なかでも中部日本放送（CBC）の『そこ知り板東リサーチ』は10年続く長寿番組で、板東ほかタレント２人が東海三県（愛知・岐阜・三重）の各地に赴いては、地元の人たちと交流したりご当地グルメの紹介などをしている。<br>
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この４月からは、オールロケ、しかも生放送の『ひるおび！バンバンバン』という番組も始まった。金曜昼のこの番組で板東は、さまざまな場所に出かけては、激流を下ったり山を登ったり、はたまた漁師と一緒に魚を獲るなど『そこ知り』以上に体を張ったレポートを行なっている。私はてっきり、これも東海地区限定の番組だと思っていたのだが、調べてみると制作は大阪の毎日放送、しかもTBS系列で全国各地にネットされていた。<br>
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それにしても、1940年生まれで今年69歳（麻生太郎と同い年！）となった彼が、どうしてここまで体を張り続けているのだろうか。本来なら、レポートは若手に任せて、スタジオでふんぞりかえってエラソーにコメントしていてもおかしくはないと思うのだが。その答えの一つは、これまた今回のブレイクでよく知られるようになった、彼のゆで卵好きに隠されているようだ。<br>
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板東のゆで卵好きはなにも最近に始まったことではない。20年以上前の雑誌のインタビュー（『週刊サンケイ』1986年10月２日号）をひもとくとすでに、新幹線に乗るときにはまずゆで卵を買うと発言している。さらにこの嗜好は少年期にまでさかのぼるという。<br>
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板東にとって卵は、少年時代の体験と分かちがたく結びついていた。旧満州で生まれた彼は、太平洋戦争末期のソ連軍の侵攻、そして敗戦の混乱のなか、母親（父は現地で召集され不在だった）と兄弟たちとともに命からがら引き揚げ、父の故郷である徳島県板東町（現・鳴門市）の引揚者寮で新たな生活を始めた。<br>
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ちなみにこの寮はもともとは第一次大戦末期のドイツ兵の捕虜収容所で、ベートーベンの「第九」の日本初演が行なわれたことで有名だ（余談ながら同収容所を舞台にした映画『バルトの楽園』で板東は収容所所長を演じている）。<br>
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それはともかく、引揚寮の住民たちはヒエやアワ、麦飯しか食べられないほど貧しかった。板東が銀シャリ（白米）を食べたのは、じつに中日ドラゴンズに入団してから。板東少年は少しでも空腹をしのぐため、川でウナギやエビ、カニを獲るばかりでなく、ときには夜中に鶏小屋に忍び込み、卵を盗むこともあったという。<br>
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そんな少年時代をすごした板東にとって、銀シャリと、そして卵を不自由なく食べられることこそ豊かな暮らしの指標となった。そして、二度と貧乏に戻りたくないという思いが、70歳を目前にしたいまでも彼に「ブレイクしたいねんっ!!」と仕事に駆り立てているのだ。これはちょっと彼より下の世代にはない感覚である。<br>
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こうした思いはまた、彼がこれまでにさまざまな副業を手がけるにあたり最大の動機づけにもなってきた。<br>
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1959年、徳島商業高校から中日ドラゴンズに投手として入団した板東は、まもなくして芦屋の旅館（ドラゴンズの寮という説もある）の近くで老夫婦の経営していた牛乳屋を契約金から270万円を支払って買い取っている。経営は他人にまかせていたようだが、みずから牛乳配達を行なうなど、まぎれもなく彼にとって最初の副業だった。<br>
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ここにはプロ入りしてすぐに、身の程を思い知ったということもあったようだ。自分よりはるかに体が大きく能力もある選手がたくさんいる球界で、一生野球を続けていられるわけがない──早くもそう悟った板東は引退後を見越して、ほかの商売の基礎をつくっておこうと考えたのである。<br>
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その後も彼は副業に精を出すことになる。牛乳配達も続けつつ、ジュークボックスの販売、マッサージ、株取引、ビルオーナーとして会員制サウナにはじまりクラブ、雀荘、割烹を営業するなど、とにかくあらゆるものに手を出した。ビルの落成式当日は、広島での遠征試合に参加する予定だったが、仮病を使って休んだという逸話も残っている。<br>
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プロ野球選手としては、入団当初よりすでに肘に損傷を抱え、長いイニングを投げるのは難しくなっていたが、1965年から当時のドラゴンズの投手コーチの近藤貞雄（のち監督）の指示で、試合終盤の抑えにまわるようになる。それまで投手は先発完投するのが当然だったが、このころよりようやく日本球界にも導入され始めた「投手分業制」により、板東はいわゆるリリーフピッチャーの先駆けとなったのだ。<br>
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こうして選手寿命を延ばした板東も、1969年に球団の意向から「任意引退」に追いこまれる。しかしここから、おおよそ元プロ野球選手という域を越えた活動を展開するようになるのだから、人生はわからない。<br>
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引退の翌年にCBC専属の野球解説者になったのは常道ではあったが、歯に衣着せぬ彼の物言いはなにかと物議をかもし、1980年のシーズン途中に解任されている。その理由は、当時のジャイアンツ監督・長嶋茂雄のサインを放送中にことこまかに説明して、抗議が殺到したためだとも、「巨人と中日は優勝できない」という発言が中日球団の逆鱗を買ったからだともいわれる。<br>
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それでもなお彼はフリーランスの立場で、放送のみならずスポーツ紙や『プロ野球知らなきゃ損する』（青春出版社、1984年）などの著作を通じて評論活動を継続した。<br>
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1971年にやはりCBCでラジオ番組『ばつぐんジョッキー』のパーソナリティを務めたことに始まる芸能活動についてくわしくはここでは省くが、同番組から生まれたドラゴンズの応援歌「燃えよドラゴンズ！」を歌手としてレコーディングし、約40万枚のヒットとなったり（1974年）、一時期やっていた野球漫談などが認められ「日本放送演芸大賞」の最優秀ホープ賞を獲得（1984年）、俳優としても、高倉健と共演した映画『あ・うん』で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞している（1990年）。<br>
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芸能活動以外では、1977年の参院選の際に自民党から愛知地区からの出馬要請を受けたこともあった（事前調査では40～57万票は固いとの結果が出たという）。だが、かなり話を進めた段階で妻や娘から猛反対を受け（とりわけ、「パパのポスターが町中に貼られたら恥ずかしくて学校に行けない」と娘が泣いて反対したのが、子煩悩の板東にはこたえたらしい）、公示日の前日になって立候補しないと自民党に伝えたという。<br>
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さらに板東は作家としての顔も持ち、1998年にはみずからの引き揚げ体験をもとにした自伝小説『赤い手』を、翌年にはその第２部である『赤い手　運命の岐路』を立て続けに上梓した（青山出版社刊）。<br>
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作詞家で直木賞作家のなかにし礼も、やはり少年期の引き揚げ体験から『赤い月』というよく似たタイトルの小説を2001年に発表しているが、板東のほうが早かったことになる。そもそも板東はすでに1986年頃から『赤い手』の構想を語っており、ゴーストライターを使わず自分で書いていることを証明するためにも直木賞にノミネートされたいとまでうそぶいていた。<br>
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……と、これだけ多岐にわたる活動をしながら、それでも自分の本業は野球解説だという意識が板東には常にあったようだ。だが、それで飯を喰っていく気はないとも語っている。金をもらって解説をすればどうしても妥協する部分が出てくる。だったら生活費は副業で稼ぎ、解説では誰に媚びることなく好き放題言わせてもらう、というのが彼のスタンスであった。<br>
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ともあれ、本業では金をもらわないというのはおもしろい。これは裏返していえば、純粋に金を儲けるために行なう副業ならばいくらでも媚びるし、なんでもやる、ということではないか。そう考えると、野球解説以外の芸能活動も板東にとってはすべて副業であり、だからこそ若手芸人ばりに体を張ることもいとわないのだともいえそうである。<br>
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唐突ながら、この不況下にあって、ワークシェアリングが政府や各企業などで真剣に検討されている。これが定着すれば、雇用は増えるかもしれないが、一人あたりの労働時間と賃金は減る。そうなったとき、これまでの生活レベルを維持するため副業に手を染める人もたくさん出てくるはずだ。<br>
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となれば、また板東英二の出番だろう。いかに本業のかたわらうまく副業で稼ぐか、彼ならきっとみずからの体験を交えてとうとうと語ってくれるに違いない。「投手分業制」の導入により日本プロ野球にエポックをつくった板東が、今度は「労働の分業制」によってふたたびブレイクする──近い将来、そんな日がやってくるかもしれない。<br>
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●近藤正高（こんどう・まさたか）<br>
ライター。著書に<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4797346604/">『私鉄探検』</a>がある。<br>
ブログ：<a href="http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/">Culture Vulture</a>]]>
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