担当者より:『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)の著者であるライター・ドラマ評論家の成馬零一さんが、小説やドラマなどに描かれる教室空間について論じた原稿です。
配信日:2008/03/05
僕は今31歳なのだが、10代の頃からドラマやアニメを見続けていることだけが趣味の、フィクションにしか興味がない人間だ。なぜ、いい歳をして、嘘のお話を見続けるのだろうか? と自分でも呆れるが、それは作りモノの世界が、時にホンモノ以上に迫ってくる瞬間があるからだ。
特に学校が舞台の物語には、若い子の無意識が反映される。例えば99年に刊行され00年に故・深作欣二によって映画化された高見広春の小説『バトル・ロワイアル』(以下『BR』)。この大東亜共和国という日本を思わせる架空の国を舞台とした、法律によりクラスメイト42人が殺し合う物語は、中高生を中心に大ヒットした。僕たちは得体の知れないルールに取り囲まれ、友達同士で戦わされているのではないか? そんな若者の実感を捉えたことが、本作が支持を受けた理由の一端だろう。そして「バトル・ロワイアル」というタイトルに象徴される人間観は、今も様々な作品に引き継がれ発展している。
例えば、04年に出版され05年にドラマ化された白岩玄の小説『野ブタ。をプロデュース』(以下『野ブタ。』)。主人公は、明るいキャラを演じることでクラスの人気者となっている醒めた高校生、桐谷修二。彼はいじめられっ子の野ブタを人気者に変えるため、密かにプロデュースをはじめる。
修二の目を通して描かれるのは、皆が無自覚に演技している薄ら寒い空間としての教室だ。ささいなことでクラス内の立場が決定され、器用にふるまえない奴はいじめられる。『野ブタ。』もまた、『BR』的な教室の中の闘争が描かれるのだが、『BR』にあった子供たちを戦わせる大東亜共和国のような上位概念は存在しない。
では、何が教室のルール(=価値感)を作っているのか? 修二は野ブタを人気者にすることで、そのルールが自分に書き換え可能だと気付く。最終的に物語は自身の演技を怠った修二の失墜で終わるという苦い結末を迎えるのだが、05年に放送されたドラマ版『野ブタ。』は、この原作の世界観を踏まえた上で、別の結末を提示した。
ドラマ版『野ブタ。』では、修二の友人として彰という天然の少年を配置し、原作では男だった野ブタを堀北真希演じる暗い少女に変更し、三人の友情に焦点を当てた。修二は二人と関わることで、多くを学び、信頼できる人間関係を築き上げていく。その成長物語を描くことで、原作とは違う答えにドラマ版『野ブタ。』はたどり着いた。
だが、一方でドラマ版『野ブタ。』は、ある限界も見せた。物語の終盤、野ブタのイジメを扇動し、教室の中の悪意を影で操っていた蒼井かすみという少女が登場する。修二たちの友情に嫉妬した蒼井は三人の関係を破綻させようと目論むが失敗し、三人の前で屋上から飛び降りる。
蒼井の持つ憎悪は言うなれば、野ブタのようないじめられっ子のものでなく、多くのクラスメイトたちが抱える匿名性の中で、演技し続けざる負えない状況への屈折した憎悪と、修二たち三人への強い嫉妬だった。詳細は省くが、蒼井の自殺は失敗し、彼女の問題は宙吊りのまま物語は終わる。そして彼女の背後には自身の疎外感にすら気づかず、教室のルールと一体化して無自覚にイジメに加担したクラスメイトたちが存在する。信頼できる繋がりに恵まれなかったものは、匿名の集団の中に個を融解させ、自我を放棄するか、共有されない疎外感を募らせ牙をむくしかないのか?
このドラマ版『野ブタ。』が、最終的に曖昧にした教室の集団心理としての「イジメ」を徹底的に描いたのが07年に放送された、すえのぶけいこのマンガを原作としたドラマ『ライフ』だ。主人公、椎葉歩は過酷なイジメに合いながらも、やがて自分を支えてくれる仲間を獲得していく。ここまでは『野ブタ。』でも描かれたプロセスだ。だが、『ライフ』の見所は、友情による結束ではない。
物語は後半、イジメの首謀者である安西愛海と、そのグループの崩壊がジワジワと描かれる。そして最終話では仲間に裏切られ、逆にイジメられる側に堕ちた愛海の無残な姿が曝される。このドラマで印象的なのは脇役であるクラスメイトたちの動向だ。彼、彼女らは当初、イジメに一部加担し、一部は見て見ぬふりをしているが、歩が積極的に戦う意志を示し、愛実の方が不利だと判断すると、歩の側につき、愛海を貶める。生贄を決めるのはいじめっ子でも、いじめられっ子でもない。クラスメイト全員の無自覚な鬱屈と悪意なのだ。
そして最終話。歩は愛海を許さない。だがイジメに立ち向かうため愛海と共に教室の中へと入っていく。このラストは出口が無いという意味において『BR』以上に過酷だ。だが僕は妙に清々しいものを感じた。事態はより混迷を極めていて、救いは一切ない。でも歩たちは、あの殺伐とした教室に戻っていく。
教室はパンドラの箱だ。そこには、若者のあらゆる絶望と希望が詰まっている。それはある意味フィクションと同義語かもしれない。作り物の世界を見続けることで、現実の風を感じとる。そのために僕はドラマを見続けている。
●成馬零一(なりま・れいいち)
ライター、ドラマ評論家。
著書に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、共著に『クリティカル・ゼロ コードギアス反逆のルルーシュ』(樹想社)、『発掘 幕末の陰謀』(徳間書店)、『音楽誌が書かないJポップ批評』シリーズ(宝島社)などに執筆。
ブログ:はて☆なりま
配信日:2008/03/05
僕は今31歳なのだが、10代の頃からドラマやアニメを見続けていることだけが趣味の、フィクションにしか興味がない人間だ。なぜ、いい歳をして、嘘のお話を見続けるのだろうか? と自分でも呆れるが、それは作りモノの世界が、時にホンモノ以上に迫ってくる瞬間があるからだ。
特に学校が舞台の物語には、若い子の無意識が反映される。例えば99年に刊行され00年に故・深作欣二によって映画化された高見広春の小説『バトル・ロワイアル』(以下『BR』)。この大東亜共和国という日本を思わせる架空の国を舞台とした、法律によりクラスメイト42人が殺し合う物語は、中高生を中心に大ヒットした。僕たちは得体の知れないルールに取り囲まれ、友達同士で戦わされているのではないか? そんな若者の実感を捉えたことが、本作が支持を受けた理由の一端だろう。そして「バトル・ロワイアル」というタイトルに象徴される人間観は、今も様々な作品に引き継がれ発展している。
例えば、04年に出版され05年にドラマ化された白岩玄の小説『野ブタ。をプロデュース』(以下『野ブタ。』)。主人公は、明るいキャラを演じることでクラスの人気者となっている醒めた高校生、桐谷修二。彼はいじめられっ子の野ブタを人気者に変えるため、密かにプロデュースをはじめる。
修二の目を通して描かれるのは、皆が無自覚に演技している薄ら寒い空間としての教室だ。ささいなことでクラス内の立場が決定され、器用にふるまえない奴はいじめられる。『野ブタ。』もまた、『BR』的な教室の中の闘争が描かれるのだが、『BR』にあった子供たちを戦わせる大東亜共和国のような上位概念は存在しない。
では、何が教室のルール(=価値感)を作っているのか? 修二は野ブタを人気者にすることで、そのルールが自分に書き換え可能だと気付く。最終的に物語は自身の演技を怠った修二の失墜で終わるという苦い結末を迎えるのだが、05年に放送されたドラマ版『野ブタ。』は、この原作の世界観を踏まえた上で、別の結末を提示した。
ドラマ版『野ブタ。』では、修二の友人として彰という天然の少年を配置し、原作では男だった野ブタを堀北真希演じる暗い少女に変更し、三人の友情に焦点を当てた。修二は二人と関わることで、多くを学び、信頼できる人間関係を築き上げていく。その成長物語を描くことで、原作とは違う答えにドラマ版『野ブタ。』はたどり着いた。
だが、一方でドラマ版『野ブタ。』は、ある限界も見せた。物語の終盤、野ブタのイジメを扇動し、教室の中の悪意を影で操っていた蒼井かすみという少女が登場する。修二たちの友情に嫉妬した蒼井は三人の関係を破綻させようと目論むが失敗し、三人の前で屋上から飛び降りる。
蒼井の持つ憎悪は言うなれば、野ブタのようないじめられっ子のものでなく、多くのクラスメイトたちが抱える匿名性の中で、演技し続けざる負えない状況への屈折した憎悪と、修二たち三人への強い嫉妬だった。詳細は省くが、蒼井の自殺は失敗し、彼女の問題は宙吊りのまま物語は終わる。そして彼女の背後には自身の疎外感にすら気づかず、教室のルールと一体化して無自覚にイジメに加担したクラスメイトたちが存在する。信頼できる繋がりに恵まれなかったものは、匿名の集団の中に個を融解させ、自我を放棄するか、共有されない疎外感を募らせ牙をむくしかないのか?
このドラマ版『野ブタ。』が、最終的に曖昧にした教室の集団心理としての「イジメ」を徹底的に描いたのが07年に放送された、すえのぶけいこのマンガを原作としたドラマ『ライフ』だ。主人公、椎葉歩は過酷なイジメに合いながらも、やがて自分を支えてくれる仲間を獲得していく。ここまでは『野ブタ。』でも描かれたプロセスだ。だが、『ライフ』の見所は、友情による結束ではない。
物語は後半、イジメの首謀者である安西愛海と、そのグループの崩壊がジワジワと描かれる。そして最終話では仲間に裏切られ、逆にイジメられる側に堕ちた愛海の無残な姿が曝される。このドラマで印象的なのは脇役であるクラスメイトたちの動向だ。彼、彼女らは当初、イジメに一部加担し、一部は見て見ぬふりをしているが、歩が積極的に戦う意志を示し、愛実の方が不利だと判断すると、歩の側につき、愛海を貶める。生贄を決めるのはいじめっ子でも、いじめられっ子でもない。クラスメイト全員の無自覚な鬱屈と悪意なのだ。
そして最終話。歩は愛海を許さない。だがイジメに立ち向かうため愛海と共に教室の中へと入っていく。このラストは出口が無いという意味において『BR』以上に過酷だ。だが僕は妙に清々しいものを感じた。事態はより混迷を極めていて、救いは一切ない。でも歩たちは、あの殺伐とした教室に戻っていく。
教室はパンドラの箱だ。そこには、若者のあらゆる絶望と希望が詰まっている。それはある意味フィクションと同義語かもしれない。作り物の世界を見続けることで、現実の風を感じとる。そのために僕はドラマを見続けている。
●成馬零一(なりま・れいいち)
ライター、ドラマ評論家。
著書に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、共著に『クリティカル・ゼロ コードギアス反逆のルルーシュ』(樹想社)、『発掘 幕末の陰謀』(徳間書店)、『音楽誌が書かないJポップ批評』シリーズ(宝島社)などに執筆。
ブログ:はて☆なりま
