担当者より:映画ライターとして活躍されている真魚八重子さんが、実録犯罪映画を中心に論じた原稿です。映画作品ガイドとしても刺激的ですので、ぜひお読みください。
更新日:2010/08/23
今年2010年に公開され話題となった映画に、三億円事件を扱った『ロストクライム-閃光-』や、製作者側からモデルとして挙げられてはいませんが、おそらく「東大阪大学集団暴行殺人事件」が着想の原点になっていると思われる『ヒーローショー』があります。こういった実際に起こった犯罪をヒントにした映画は、海外はもちろん日本でも非常に多く作られています。そのアプローチは、はなから特定の事件の再現である実録モノから、あくまで着想を得ただけで事実とはかなり異なる展開を見せるものまでさまざま。しかし、観客が実際の事件と絡めた映画に、奇妙なほど引き寄せられるのは古今東西変わらないようです。
有名な事件をなぞった作品には、たとえば阿部定をモデルにした映画だけで『実録 阿部定』『愛のコリーダ』『明治・大正・昭和 女猟奇犯罪史』(高橋お伝らの毒婦オムニバス)、『SADA 戯作・阿部定の生涯』などがあります。愛と性という人間の本能や感情へもっとも鋭敏に触れるテーマだけに、触発される作家が絶えない事件ですが、しかしセックスは閉め切った変わり映えのしない室内だけで行われるし、基となった犯罪自体があまりにドラマティックすぎるためか、なかなか映画という虚構が現実を凌駕し、飛躍するところまでは至らぬ印象があります。
また、世界に誇る単身の犯人が起こした短時間大量殺戮事件である「津山三十人殺し」は、『丑三つの村』では殺人鬼に注目し鬱屈していく心理を追う、比較的忠実な映像化作品となっています。逆に何度か映像化されている『八つ墓村』では、津山事件は史実から離れて物語内の登場人物の所業として織り込まれており、インスパイアされたというレベルにとどまるもの。でもこれらはたいてい、スプラッターの要素が強いものとなっています。
そのほかにも今パッと思いつくものを羅列してみます。
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」を基にした『一万三千人の容疑者』。カービン銃ギャング事件を再現した『恐怖のカービン銃』と、この被告が獄中の出来事をまとめた手記の映画化『さらば、わが友 実録大物死刑囚たち』。凶悪犯罪を立て続けに起こした勝田清の事件を淡々と描く作品『冷血』。三菱銀行人質事件を起こした梅川昭美の人生を追う『TATOO<刺青>あり』。三億円事件モノの『実録三億円事件 時効成立』『ピエタ』『初恋』『ロストクライム-閃光-』(ほかにも三億円事件を取り入れたコメディ映画やテレビドラマは多数有)。瀬戸内シージャック事件を描いた『凶弾』。獄中での文学活動が話題となった永山則夫の事件を基にした『裸の十九才』。小松川女子高生殺人事件を在日朝鮮人や、死刑にまつわる視点でクロースアップした『絞死刑』。連続殺人犯・西口彰の事件を映画化したものながら、監督でずいぶん雰囲気が変わる『復讐するは我にあり』と『戦後猟奇犯罪史』(後者は西口彰と大久保清と克美茂事件のオムニバス)。浅間山荘事件に着想を得たスプラッター『鬼畜大宴会』と、当時の左翼運動の象徴的監督だった若松孝二が万感の思いで描く『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』。福田和子事件にヒントを得て、犯罪者となった女の逃亡人生を描く『顔』。宅間守事件を彷彿とさせる、犯罪者の孤独に惹かれ死刑囚を熱烈に愛する女性にフォーカスを合わせた『接吻』。原作者がたまたま耳に入れたマイナーな事件がモデルとなっている『鬼畜』や『薄化粧』。社会派として知られ、実録犯罪に関する映画を多く手がけた監督、熊井啓の『帝銀事件 死刑囚』『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』といった重厚な作品。
またロマンポルノやピンク映画だけでも、実際の犯罪事件に着想を得て、女のエロスに結びつけていく作品が数え切れないほど多数あります。キリがないのでこの辺りにしておきますが、挙げていったらタイトルだけで原稿が埋まってしまうくらい、実録犯罪映画は多く製作されています。
ところでなぜ、創作者たちは実話をベースにしたがるのでしょう。
まずは、物語の構成において「事実は小説より奇なり」を逆手に取った、現実味の裏づけが大きな要素です。信じられないような展開を見せる話も、それが実話であるなら観客も否定のしようがないし説得力があります。たとえば「犯罪はエスカレートする」「性犯罪は犯行のスパンが短くなっていく」という事件と犯人像のセオリーは、刑事ドラマのプロファイリングシーンでもよく耳にするものですが、勝田清孝事件は連続強姦殺人の合間にも空き巣や強盗など、規模が小さい犯罪を繰り返しています。意外とこういう進退のしかたは、ドラマ的には上述のセオリーから逸脱するので作りづらいですが、本当ならしょうがないですよね。また被害が極端すぎる場合、『八甲田山』のように雪中行軍の参加者二一〇名のうち一九九名もが遭難死した凄まじい悲劇も、創作であったら「やりすぎ」と言われて企画自体が通らないレベルかもしれません。
描き方にも諸々な手法があります。基本的に犯罪ドラマはどれほど事実に忠実であっても、あくまで虚構であって、作り手たちの望む雰囲気や、どのような思い入れで作られるかによって作品の傾向は左右されます。熊井啓のように硬質なものもあれば、『顔』はもはや福田和子のイメージから離れてフィクションへ飛翔し、ひとりの女性の生き様に肉迫していく凄みを持ちます。
映画監督や脚本家は、犯罪自体は憎むべきものであっても、同じヒトである実在の人間が「なぜそんな大それた事件を起こしたか」という心理や性格、そこに行き着くまでの状況に興味を惹かれます。観客であるわたしたち自身も、頭の中で殺人や強盗など想像はできても、それを実行へ移すには、確実に取り返しのつかないある一線を越えなければいけません。そしてその犯罪心理は決して理解不能なものではなくて、説明されればうなずけることかもしれない。または逆にとうてい共鳴できない、同じヒトであることが不思議な犯罪者像を見ることになるかもしれない。その倫理観に対するレイヤーが微妙に、しかし決定的に違う「はざま」はなんなのか。まったくの想像による創作であれば荒唐無稽で片付けられてしまうような犯罪も、実話となれば、誰かがその心理を本当に辿って、本当に実行に移したというリアリズムの裏づけがあります。人間に興味のある者なら誰でも注視せずにいられない、わたしたちと社会を共有する人間が、一線を画していく奇妙な心理を追いたいのです。
それと、未解決事件にまつわる創作物は、現実と虚構がリンクしていく瞬間に不思議な快楽をともないます。もちろん基本には、三面記事を読むような好奇心を満たす下衆っぽさは当然あるでしょう。しかしそれ以上に甘美なのは、結論として実際の犯人像はわからないもどかしさは持ちつつも、犯行の瞬間だけしか情報として知らず、薄気味悪い亡霊のようだった犯罪者の姿に、血の通った人間の姿を与えることです。現実と地続きで虚構に突入していく、メタフィクショナルな魔の蠱惑。それは本当に不思議なほど、血の沸く魅力をたたえます。
たとえば我々は三億円事件も、あのモンタージュ写真と犯人が白バイ警官に扮した手口しかわからなくて、時効の闇にそのまま消えた青年に対して幽霊のような恐ろしさを覚えますが、ドラマは彼が白バイを降りて日常へ戻る様子を描いて、初めて彼に人間的な姿を与えてくれます。なおかつ、たとえば若き日の織田裕二主演の実録犯罪ドラマ『新説三億円事件』では、白バイ警官の父に憧れつつ、グレた挙句に三億円事件を起こした青年が、それを知って極限まで思いつめた父に青酸カリを突きつけられる、新たな緊迫する親子の悲劇的ドラマへと跳躍します。
同様のドラマに、『特捜最前線』の「子供の消えた十字路」という、高い評価を得ている回があります。白昼のまばらとはいえ、人々がいる線路脇で車が子どもをはねる事故が起き、慌てて下りてきた運転手がひどい怪我をした子を抱えて車に戻ります。「救急車を待つ間が惜しくて、自分で病院へ運ぶんだな……」、と誰もが考えて見送ったあと、しばらくしてどこの病院にも怪我をした子どもが担ぎ込まれた形跡がないことがわかります。運転手も子どもも忽然と消えてしまい、目撃者たちも曖昧な記憶しかないまま緊急の捜査が始まる、という物語です。
じつはこの回は実話を基にしており、はねられて重傷を負い、運転手が「病院へ運ぶ」といって車に乗せられた田畑作之介ちゃん(3歳)が、そのまま失踪してしまうという事件がありました。事件発生は1978年3月。このドラマの放映は1979年7月で、まだ犯人が逮捕されていない時点での映像化となります。ドラマ内では長年の念願だったマイホームの優良物件を目の前にし、〆切の時間までに頭金を不動産屋に届けなければいけないのに、遅れそうで焦っていた男性が事故を起こしてしまいます。道で遊ぶ子どもをはね、事故対応をする間がなくて、悪意のないままとりあえず車に乗せてしまうというせっぱつまったお話で、サスペンスフルかつエモーショナルな物語となっていました。
この作品のラストは、ようやく事故に遭った子どもが発見されるところでエンディングとなり、命を取り留められるかは曖昧な段階で終わるのですが、劇的に展開する流れはハッピーエンドを匂わせるものとなっています。そういった良い結果への虚構の飛躍は、せめて作劇上だけでも子どもを救いたいという、むごい現実に寄り添う分身として創作され息を吹き込まれた化身での慰みであり、救済への「祈り」の意味を表すものでしょう。しかし結局、現実の事件では犯人はもちろん、作之介ちゃんの安否や行方も杳としてわからぬまま、事件は時効を迎えています。
とにかく現実と虚構のせめぎあいは不思議なまでに、我々の感覚に激しく揺さぶりをかけます。『特捜最前線』ではほかにも、新宿西口で「わたしの詩集買ってください」の札を下げて佇んでいる女性が、他殺による焼死事件を目撃してしまうとか、新宿バス放火事件をモデルにしつつ、被害者の遺族と容疑者の家族が親密になった場合の葛藤を描きこむなど、実在のヒトが虚構に昇華されていく脚本がたくさんあります。この、現実が虚構を侵食し、虚構がさらなる飛躍で事実を凌駕していく展開には、問答無用の面白さがあります。
『相棒-劇場版- 絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン』では、イラクで武装組織に拉致され、処刑された若い邦人の遺族が、連続殺人に深く関わるという設定でした。そこで映画が摘発したのは、過激派に拉致された一般人について、「自己責任」を連日うたって被害者家族を責めながら、むごい処刑後は急速に沈黙したマスコミと、退去の命令を耳に入れたかわからない一個人の悲劇を、自己責任に還元する政府対応でした。もちろんこれは虚構であり、複数の事件と人物像が交じり合わせてありますが、しかしまだ記憶にも新しい、特定の人物たちを指し示すことになりかねない危うさを持った設定といえます。際どい設定ながら、際どいがゆえに批判の対象が観客にも生々しく想起され、心に刺さる物語。やはりこの映画の魅力は、リアルが虚構を侵食し、虚構の登場人物だからこそできる事件への批判があり、曖昧に終結した現実とは異なる、新たな鋭いオチへと昇華されている自由さです。
実録モノは現実から虚構へ移行するダイナミズムが、好奇心を満たしつつ新たな飛翔をもたらす、不思議な快楽をともなうもの。そこには関わった個人の情報に抵触する問題性や、事実の改変をどこまで許容するかといった倫理もあり、創作者が挑むには力量や繊細さ、熱意が必要とされます。しかし実録モノは好奇心を満たす域を超え、わたしたちが日々生きる中で、曖昧で恐ろしい事件への不安を昇華させ、不可解な心を理解し、祈りに変える重要な分野なのです。ぜひ、今後も優れた現実と虚構のせめぎあいを観たいものです。
●真魚八重子(まな・やえこ)
ライター。
『映画秘宝』や『TRASH UP!!』などで映画に関する原稿を中心に執筆。
共著に『戦う女たち』(作品社)、『リビドー・ガールズ』(パルコ)、『市川崑大全』(洋泉社)などがある。
ブログ:アヌトパンナ・アニルッダ
更新日:2010/08/23
今年2010年に公開され話題となった映画に、三億円事件を扱った『ロストクライム-閃光-』や、製作者側からモデルとして挙げられてはいませんが、おそらく「東大阪大学集団暴行殺人事件」が着想の原点になっていると思われる『ヒーローショー』があります。こういった実際に起こった犯罪をヒントにした映画は、海外はもちろん日本でも非常に多く作られています。そのアプローチは、はなから特定の事件の再現である実録モノから、あくまで着想を得ただけで事実とはかなり異なる展開を見せるものまでさまざま。しかし、観客が実際の事件と絡めた映画に、奇妙なほど引き寄せられるのは古今東西変わらないようです。
有名な事件をなぞった作品には、たとえば阿部定をモデルにした映画だけで『実録 阿部定』『愛のコリーダ』『明治・大正・昭和 女猟奇犯罪史』(高橋お伝らの毒婦オムニバス)、『SADA 戯作・阿部定の生涯』などがあります。愛と性という人間の本能や感情へもっとも鋭敏に触れるテーマだけに、触発される作家が絶えない事件ですが、しかしセックスは閉め切った変わり映えのしない室内だけで行われるし、基となった犯罪自体があまりにドラマティックすぎるためか、なかなか映画という虚構が現実を凌駕し、飛躍するところまでは至らぬ印象があります。
また、世界に誇る単身の犯人が起こした短時間大量殺戮事件である「津山三十人殺し」は、『丑三つの村』では殺人鬼に注目し鬱屈していく心理を追う、比較的忠実な映像化作品となっています。逆に何度か映像化されている『八つ墓村』では、津山事件は史実から離れて物語内の登場人物の所業として織り込まれており、インスパイアされたというレベルにとどまるもの。でもこれらはたいてい、スプラッターの要素が強いものとなっています。
そのほかにも今パッと思いつくものを羅列してみます。
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」を基にした『一万三千人の容疑者』。カービン銃ギャング事件を再現した『恐怖のカービン銃』と、この被告が獄中の出来事をまとめた手記の映画化『さらば、わが友 実録大物死刑囚たち』。凶悪犯罪を立て続けに起こした勝田清の事件を淡々と描く作品『冷血』。三菱銀行人質事件を起こした梅川昭美の人生を追う『TATOO<刺青>あり』。三億円事件モノの『実録三億円事件 時効成立』『ピエタ』『初恋』『ロストクライム-閃光-』(ほかにも三億円事件を取り入れたコメディ映画やテレビドラマは多数有)。瀬戸内シージャック事件を描いた『凶弾』。獄中での文学活動が話題となった永山則夫の事件を基にした『裸の十九才』。小松川女子高生殺人事件を在日朝鮮人や、死刑にまつわる視点でクロースアップした『絞死刑』。連続殺人犯・西口彰の事件を映画化したものながら、監督でずいぶん雰囲気が変わる『復讐するは我にあり』と『戦後猟奇犯罪史』(後者は西口彰と大久保清と克美茂事件のオムニバス)。浅間山荘事件に着想を得たスプラッター『鬼畜大宴会』と、当時の左翼運動の象徴的監督だった若松孝二が万感の思いで描く『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』。福田和子事件にヒントを得て、犯罪者となった女の逃亡人生を描く『顔』。宅間守事件を彷彿とさせる、犯罪者の孤独に惹かれ死刑囚を熱烈に愛する女性にフォーカスを合わせた『接吻』。原作者がたまたま耳に入れたマイナーな事件がモデルとなっている『鬼畜』や『薄化粧』。社会派として知られ、実録犯罪に関する映画を多く手がけた監督、熊井啓の『帝銀事件 死刑囚』『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』といった重厚な作品。
またロマンポルノやピンク映画だけでも、実際の犯罪事件に着想を得て、女のエロスに結びつけていく作品が数え切れないほど多数あります。キリがないのでこの辺りにしておきますが、挙げていったらタイトルだけで原稿が埋まってしまうくらい、実録犯罪映画は多く製作されています。
ところでなぜ、創作者たちは実話をベースにしたがるのでしょう。
まずは、物語の構成において「事実は小説より奇なり」を逆手に取った、現実味の裏づけが大きな要素です。信じられないような展開を見せる話も、それが実話であるなら観客も否定のしようがないし説得力があります。たとえば「犯罪はエスカレートする」「性犯罪は犯行のスパンが短くなっていく」という事件と犯人像のセオリーは、刑事ドラマのプロファイリングシーンでもよく耳にするものですが、勝田清孝事件は連続強姦殺人の合間にも空き巣や強盗など、規模が小さい犯罪を繰り返しています。意外とこういう進退のしかたは、ドラマ的には上述のセオリーから逸脱するので作りづらいですが、本当ならしょうがないですよね。また被害が極端すぎる場合、『八甲田山』のように雪中行軍の参加者二一〇名のうち一九九名もが遭難死した凄まじい悲劇も、創作であったら「やりすぎ」と言われて企画自体が通らないレベルかもしれません。
描き方にも諸々な手法があります。基本的に犯罪ドラマはどれほど事実に忠実であっても、あくまで虚構であって、作り手たちの望む雰囲気や、どのような思い入れで作られるかによって作品の傾向は左右されます。熊井啓のように硬質なものもあれば、『顔』はもはや福田和子のイメージから離れてフィクションへ飛翔し、ひとりの女性の生き様に肉迫していく凄みを持ちます。
映画監督や脚本家は、犯罪自体は憎むべきものであっても、同じヒトである実在の人間が「なぜそんな大それた事件を起こしたか」という心理や性格、そこに行き着くまでの状況に興味を惹かれます。観客であるわたしたち自身も、頭の中で殺人や強盗など想像はできても、それを実行へ移すには、確実に取り返しのつかないある一線を越えなければいけません。そしてその犯罪心理は決して理解不能なものではなくて、説明されればうなずけることかもしれない。または逆にとうてい共鳴できない、同じヒトであることが不思議な犯罪者像を見ることになるかもしれない。その倫理観に対するレイヤーが微妙に、しかし決定的に違う「はざま」はなんなのか。まったくの想像による創作であれば荒唐無稽で片付けられてしまうような犯罪も、実話となれば、誰かがその心理を本当に辿って、本当に実行に移したというリアリズムの裏づけがあります。人間に興味のある者なら誰でも注視せずにいられない、わたしたちと社会を共有する人間が、一線を画していく奇妙な心理を追いたいのです。
それと、未解決事件にまつわる創作物は、現実と虚構がリンクしていく瞬間に不思議な快楽をともないます。もちろん基本には、三面記事を読むような好奇心を満たす下衆っぽさは当然あるでしょう。しかしそれ以上に甘美なのは、結論として実際の犯人像はわからないもどかしさは持ちつつも、犯行の瞬間だけしか情報として知らず、薄気味悪い亡霊のようだった犯罪者の姿に、血の通った人間の姿を与えることです。現実と地続きで虚構に突入していく、メタフィクショナルな魔の蠱惑。それは本当に不思議なほど、血の沸く魅力をたたえます。
たとえば我々は三億円事件も、あのモンタージュ写真と犯人が白バイ警官に扮した手口しかわからなくて、時効の闇にそのまま消えた青年に対して幽霊のような恐ろしさを覚えますが、ドラマは彼が白バイを降りて日常へ戻る様子を描いて、初めて彼に人間的な姿を与えてくれます。なおかつ、たとえば若き日の織田裕二主演の実録犯罪ドラマ『新説三億円事件』では、白バイ警官の父に憧れつつ、グレた挙句に三億円事件を起こした青年が、それを知って極限まで思いつめた父に青酸カリを突きつけられる、新たな緊迫する親子の悲劇的ドラマへと跳躍します。
同様のドラマに、『特捜最前線』の「子供の消えた十字路」という、高い評価を得ている回があります。白昼のまばらとはいえ、人々がいる線路脇で車が子どもをはねる事故が起き、慌てて下りてきた運転手がひどい怪我をした子を抱えて車に戻ります。「救急車を待つ間が惜しくて、自分で病院へ運ぶんだな……」、と誰もが考えて見送ったあと、しばらくしてどこの病院にも怪我をした子どもが担ぎ込まれた形跡がないことがわかります。運転手も子どもも忽然と消えてしまい、目撃者たちも曖昧な記憶しかないまま緊急の捜査が始まる、という物語です。
じつはこの回は実話を基にしており、はねられて重傷を負い、運転手が「病院へ運ぶ」といって車に乗せられた田畑作之介ちゃん(3歳)が、そのまま失踪してしまうという事件がありました。事件発生は1978年3月。このドラマの放映は1979年7月で、まだ犯人が逮捕されていない時点での映像化となります。ドラマ内では長年の念願だったマイホームの優良物件を目の前にし、〆切の時間までに頭金を不動産屋に届けなければいけないのに、遅れそうで焦っていた男性が事故を起こしてしまいます。道で遊ぶ子どもをはね、事故対応をする間がなくて、悪意のないままとりあえず車に乗せてしまうというせっぱつまったお話で、サスペンスフルかつエモーショナルな物語となっていました。
この作品のラストは、ようやく事故に遭った子どもが発見されるところでエンディングとなり、命を取り留められるかは曖昧な段階で終わるのですが、劇的に展開する流れはハッピーエンドを匂わせるものとなっています。そういった良い結果への虚構の飛躍は、せめて作劇上だけでも子どもを救いたいという、むごい現実に寄り添う分身として創作され息を吹き込まれた化身での慰みであり、救済への「祈り」の意味を表すものでしょう。しかし結局、現実の事件では犯人はもちろん、作之介ちゃんの安否や行方も杳としてわからぬまま、事件は時効を迎えています。
とにかく現実と虚構のせめぎあいは不思議なまでに、我々の感覚に激しく揺さぶりをかけます。『特捜最前線』ではほかにも、新宿西口で「わたしの詩集買ってください」の札を下げて佇んでいる女性が、他殺による焼死事件を目撃してしまうとか、新宿バス放火事件をモデルにしつつ、被害者の遺族と容疑者の家族が親密になった場合の葛藤を描きこむなど、実在のヒトが虚構に昇華されていく脚本がたくさんあります。この、現実が虚構を侵食し、虚構がさらなる飛躍で事実を凌駕していく展開には、問答無用の面白さがあります。
『相棒-劇場版- 絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン』では、イラクで武装組織に拉致され、処刑された若い邦人の遺族が、連続殺人に深く関わるという設定でした。そこで映画が摘発したのは、過激派に拉致された一般人について、「自己責任」を連日うたって被害者家族を責めながら、むごい処刑後は急速に沈黙したマスコミと、退去の命令を耳に入れたかわからない一個人の悲劇を、自己責任に還元する政府対応でした。もちろんこれは虚構であり、複数の事件と人物像が交じり合わせてありますが、しかしまだ記憶にも新しい、特定の人物たちを指し示すことになりかねない危うさを持った設定といえます。際どい設定ながら、際どいがゆえに批判の対象が観客にも生々しく想起され、心に刺さる物語。やはりこの映画の魅力は、リアルが虚構を侵食し、虚構の登場人物だからこそできる事件への批判があり、曖昧に終結した現実とは異なる、新たな鋭いオチへと昇華されている自由さです。
実録モノは現実から虚構へ移行するダイナミズムが、好奇心を満たしつつ新たな飛翔をもたらす、不思議な快楽をともなうもの。そこには関わった個人の情報に抵触する問題性や、事実の改変をどこまで許容するかといった倫理もあり、創作者が挑むには力量や繊細さ、熱意が必要とされます。しかし実録モノは好奇心を満たす域を超え、わたしたちが日々生きる中で、曖昧で恐ろしい事件への不安を昇華させ、不可解な心を理解し、祈りに変える重要な分野なのです。ぜひ、今後も優れた現実と虚構のせめぎあいを観たいものです。
●真魚八重子(まな・やえこ)
ライター。
『映画秘宝』や『TRASH UP!!』などで映画に関する原稿を中心に執筆。
共著に『戦う女たち』(作品社)、『リビドー・ガールズ』(パルコ)、『市川崑大全』(洋泉社)などがある。
ブログ:アヌトパンナ・アニルッダ
