担当者より:文芸誌『界遊』の作り手で、ライターとしてもご活躍中の武田俊さんに高校野球について論じていただきました。ちょうど高校野球が盛り上がるシーズンでもありますので、ぜひご一読ください。

更新日:2010/08/09


今年、2010年の上半期はスポーツの話題が多い時期となった。バンクーバー五輪、南アフリカでのワールドカップという、国際規模のスポーツ大会が続いたのがその最たる理由となっているのは明白だろう。筆者も一スポーツファンとしてどちらの大会も楽しく観戦していたのだが、プレイや勝敗とは関係のない所で1つ気になることがあった。それは「にわか」と呼ばれるような、その競技自体に普段は関心がないのだが、その時々の大会の盛り上がりのみに乗っかるような観客についての発言が飛び交っていたことだ。特にこれは日本代表が下馬評以上に善戦し、世界でも戦うことが可能になり始めたのではないか、といった空気の生まれたワールドカップに顕著な現象だった。
 
そういった観客を「にわか」と呼ぶことからは、「ルールをろくに知らない連中が、お祭り騒ぎしやがって」といったネガティブなニュアンスが感じられる。youtubeで「ワールドカップ 渋谷」といったキーワードで検索をかけてみれば、なるほどスクランブル交差点を占拠し電柱に登って騒ぐサポーター(もはやサポートなどしていないが)を見ることができ、確かに眉をひそめてしまうような光景がそこにはある。が、それと同時にスポーツの国際大会でなければ、現実にこのような盛り上がりを作り出すことは不可能なのではないかとも感じるのだ。そのような感慨を持つ時、「にわか」は大衆と≒で結ばれる。

まだまだスポーツが大衆娯楽として一般的だった時代、例えば「みんな」の好物が「巨人、大鵬、卵焼き」と牧歌的に括られていた時代には、「にわか」と呼ばれる層は恐らくほとんど存在しなかったのではないだろうか。通だけではなく、相撲や野球など個別のコンテンツ自体に興味がなくとも自然と話題を見聞きできるような状況だからこそ、大衆は存在することができ、ゆるやかに「みんな」に接続される。その結果として、スポーツは「みんな」のモノとして流通することができたはずだ。

一方、価値観やモノが多種多様化した現代では、それぞれの消費者コミュニティーが乱立し、その内部で閉鎖的にコンテンツやコミュニケーションを消費するということが当たり前となっている。同時代の「みんな」が共有する事のできる価値観や光景、いわゆる大きな物語が喪失されたこのような状況下では、より多くの層を相手にした表現やコンテンツが想像しにくい。「みんな」が喪失され、「にわか」が生まれているのが、現代のリアリティーなのだとも言える。

そのような理解の上で改めて「にわか」を含めたワールドカップの盛り上がりを考えると、非常に納得がいく。現状どこにも存在しない「みんな」を一同に括る事のできるタグは、もはや口々に街頭やパブリックビューイングで叫ばれる「ニッポン」しか存在しないのだ。また、扇情的に選手個々の物語を伝え、またスーパースターを創造し彼らを過剰に礼賛するような報道は、「みんな」に最低限の共通理解を与え、同期させる。その結果、スポーツを楽しむというよりは、「みんな」で盛り上がることのできるこの貴重な機会を楽しむ、という方向に観客の欲望はシフトしていく。それは数字にも如実に表れており、6月29日に行われた決勝トーナメント一回戦、日本VSパラグアイ戦では23時からの生放送にもかかわらず、57.3%の視聴率を計測している(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。

そんな祭りを巡る光景には、2002年の日韓共催ワールドカップ時に話題となった、若年層がイデオロギーなきままに排外主義的・日本至上主義的な振る舞いをしがちであるという、「ぷちナショナリズム」的な要素は一切存在しない。想定不可能な「みんな」での盛り上がりのためにネタ的に「ニッポン」が消費され、光景が共有化されていく。そして連日連夜の盛り上がりは、会期終了とともにあっけなく忘れられる。

その結果、大会関係者の意図や、個々の選手のプレイの良し悪しなどとは関係なく、再帰的に創造された擬似大きな物語として消費されるのがワールドカップをはじめとする現在のスポーツ大会なのだろう。スポーツファンとしてその光景はどこか、スポーツが自律的に、かつて存在していた「みんな」の盛り上がる光景をなんとか獲得しようともがいていている内に辿りついた、1つの妥協点のように思えてしまう。

それがいい事なのか悪いことなのかは、一概には決めにくいところだが、ここでは敢えて一定の評価をしたい。なぜなら、スポーツが持つ言語や国境を越えたコミュニケーションを生み出せるというポテンシャルは、それぞれの競技のファンと「にわか」が一体となった大きな盛り上がりによって機能し、より広く感動を届けることができると言えるからだ。前述の大きな物語なき現在において、そのような閉塞状況を打ち破る広がり方を期待できるのは、あらゆるコンテンツ・表現の中でスポーツくらいなのではないだろうか。

だが、ここで同時に新しい問題が浮上する。先のワールドカップのような盛り上がり方だけでは、スポーツ本来の魅力がどうしても薄まってしまうのだ。その点で注目したいのが、8月7日から開催されている第92回全国高校野球選手権大会だ。

開催場所である甲子園球場の名前から、高校野球=甲子園として古くから夏の風物詩として親しまれているこの大会。前述のワールドカップなどと大きく異なるのは、国際大会ではないというところだ。つまり強力な「ニッポン」というタグを使用することが出来ないわけだ。そしてその選手は、多くの人に知られるような輝かしい実績を持っているわけでもない、まだ名もない高校生たち。となるとメディアは、まず観客らに共通理解を与え同期させるための動線を提案することとなる。その主な方法が、物語化だ。

物語化にもいくつかのパターンが存在するが、その内でも最も強力なのが「怪物」の発掘と創造だ。これについては細かい説明は不要だろう。毎年過酷な地方大会を勝ち抜いてきたチームに存在する、高校生離れした選手を「怪物」として紹介し、彼らの登場するカードを一大注目イベントとして伝えるのだ。彼らの他を圧倒するような体格や記録は、野球にそこまで詳しくない観客にも分かりやすく英雄譚を届けることができる。「怪物」と呼ばれ広く知られたのは作新学院のエース・江川卓がおそらく初めであり、その後も現在メジャーリーグで活躍する松坂大輔、記憶に新しいところでは、「マーくん」こと田中将大と、「ハンカチ王子」として名を馳せた斎藤佑樹、高校通算87本塁打を記録した現ファイターズの中田翔、高校生投手の最速記録(時速154キロ)を持つ現スワローズの佐藤由規などがこれに当たる。

そうした「怪物」のイメージは強力で、チームプレイの魅力といったものを離れ一人歩きしていく。となると、今度は「怪物」はいなくても総合力で勝ち抜いて来たチームを紹介する手立てがなくなってくる。そんなケースでは、チームとその歴史自体が物語化されるようになるのだ。具体的に物語化されるのは個々の選手の活動背景(絶望的な怪我からの復活から、身内の不幸まで)は勿論のこと、監督自身のキャリア(選手としての輝かしい実績、あるいは異色の経歴など)や、チームの事情(部員が少ない、練習環境が劣悪など)など広範に渡る。これらを参照することで、実際の試合にまつわるドラマはより感動を高めるだろう。

このような物語化の手法を実にうまく使いながら毎年甲子園の魅力を伝えているのが、テレビ朝日系列の『熱闘甲子園』だ。格闘技の煽りVTRのように各校の出場背景が編集された映像使い、過剰とも思えるテロップとアナウンスとともに試合結果と次の試合の見所を伝えるこの番組。高校野球にまつわる爽やかさとアツさ、といった一般的なイメージはこの番組によるところが大きいだろう。そのせいか近年、プロ野球には興味がないけれど高校野球は好き、といったファンも多く生まれている。

このような試みと方法によって、アマチュアの大会ながら多くの観客と固定ファンを獲得している甲子園だが、どうせ観るのならプレイ一つひとつの面白みと、現場の空気を感じて欲しいと思う。何もそれは実際に球場に足を運べということではない。メディアから届けられる情報と物語はあくまで楽しみかたの一つとして受け入れ、その上でテレビでも球場でもいい、自らの目と耳と脳を使って、光景とドラマを受け取って欲しい。

本当の本当は、誰かの語る物語の中には選手たちはおらず、他人の語るドラマに感動など存在しない。彼らは他でもないボールパークの中でこそ躍動し、そして感動は、そんな光景から受け取った観客それぞれの胸の中にしか存在しないのだ。数かぎりなく毎年訪れるよう思われる球児たちの夏には、でもそれぞれたった一つの表情がある。そこから何かを受け取るのは、他でもない観客自身の身体なのだ。与えられたタグや、物語からしか感動を生み出せないほど、既に僕らの想像力が落ちぶれているのならそれこそ話は別だけれど。


●武田俊(たけだ・しゅん)
1986年生まれ。KAI-YOU代表、ライター、歌人。
元高校球児。ポジションは投手・外野手。
世界と遊ぶ文芸誌『界遊』の編集、イベントの企画・運営を手掛ける一方、書き手としても活動。
現在、フリー編集者・仲俣暁生らとともに、ことばと野球を接続するメディア『野球場』を準備中。
サイト:KAI-YOU
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