担当者より:ブロガーの真実一郎さんがサラリーマン映画と社会の関係について2009年に論じた原稿です。また、真実さんはご著書『サラリーマン漫画の戦後史』(新書y)を上梓されました。サラリーマン漫画を通して高度経済成長、バブルから起業ブームや氷河期までの世相を論じた一冊です。ぜひ、併せてお読みください。
配信日:2009/05/13
今年(2009年)の2月から3月にかけて、「にっぽんサラリーマン物語~会社生活の希望と憂鬱~」というテーマの映画上映会が東京のラピュタ阿佐ヶ谷で開催された。不況に落ち込むサラリーマンを励ましたいという意図で上映されたのは、1950~60年代に作られた20本の「サラリーマン映画」だった。
『出世コースに進路をとれ』『サラリーマン十戒』『月給13,000円』『次郎長社長よさこい道中』『社員無頼 怒号篇』『東京・丸の内』『僕は独身社員』……。日本が戦後復興を遂げ、高度経済成長を謳歌していたあの頃、銀幕の主役はサラリーマンだったのだ。
当時のサラリーマン映画ブームに火をつけたのは、サラリーマン小説の開祖である源氏鶏太の人気小説を映画化した『三等重役』(1952)だった。出世、浮気、ボーナスといった会社勤めにまつわる要素が散りばめられた、ヒューマニズム溢れるサラリーマン喜劇で、人のいい社長が真面目な部下の縁談を絶妙にサポートする場面が最大の山場となっている。
社長と社員の心理的距離が極めて近く、会社は家族同然。勤勉な社員が報われる。この〈会社家族主義〉と〈勧善懲悪〉という源治鶏太の戦後サラリーマン観が、「源氏の血」として後の多くのサラリーマン映画や漫画に受け継がれていく。石原裕次郎も小林旭も高倉健も、源氏鶏太が原作の映画で快男児のサラリーマンを演じることになる。
『三等重役』のヒットに気を良くした東宝は、『三等重役』で好演した森繁久彌を主役に据えて、『へそくり社長』(1956)から始まる「社長シリーズ」を定番化させる。アドリブでセクハラしまくる森繁社長と生真面目社員の小林桂樹を軸として描かれたのは、永遠に続くかと思われるような明るく楽観的なサラリーマン賛歌だ。
社長シリーズは1970年までに実に30本以上も作られることになり、他にも笠智衆の「サラリーマン目白三平シリーズ」、小林桂樹の「サラリーマン出世太閤記シリーズ」、高倉健の「万年太郎シリーズ」といったプログラム・ピクチャー(※)が量産されていく。
サラリーマン映画の隆盛は、植木等の『ニッポン無責任時代』(1962)のように、会社のために真面目にコツコツ働く源氏鶏太的なサラリーマンをメタ視点で嗤う映画まで登場させた。植木等は後の「日本一の男シリーズ」ではそのキャラクターを無責任からモーレツ社員へと変え、驚異的な行動力と創造性を発揮して会社に貢献することになる。
こうした1950~60年代のサラリーマン映画ブームを観客として支えた中心層は、第二次大戦で兵士として戦い、帰還後は企業戦士となって、お国のためではなく会社のために一生懸命働いた戦中派のサラリーマンたちと、戦後の荒廃を知る焼け跡世代だった。だからだろうか、戦後に生まれた団塊世代の大卒が社会人になる1970年頃には、サラリーマン喜劇は勢いを失っていく。
学生運動やフォークソングに触れた世代にとっては、サラリーマンはもはや「平凡で退屈な最大公約数」でしかなかったのだ。1970年から1973年までに3作公開されたなべおさみの「夕日くんシリーズ」あたりを最後に、サラリーマンのプログラム・ピクチャーは一度消滅してしまう。脱サラリーマンの略語である「脱サラ」が流行したのもこの頃だった。
高度経済成長が終わり、一億総中流意識が蔓延すると、サラリーマンの会社家族主義は映画のモチーフとしての鮮度を完全に失い、むしろ攻撃対象にすらなっていく。大藪春彦の小説を映画化した『蘇る金狼』(1979)では、会社の経理課で地味に働きながら夜はボクシングで肉体を鍛え、自らの会社の乗っ取りを企てる一匹狼のサラリーマンが描かれる。それはサラリーマンによる「(会社という名の)父親殺し」の物語だった。
その後バブルが崩壊し、終身雇用や年功序列といった会社家族主義を支えた仕組みが崩れ始めると、『集団左遷』(1994)や『失楽園』(1997)といったリストラ・サラリーマンを描く映画ばかりが目立ち始める。シリーズ化が予想された映画版の『課長島耕作』(1992)や『サラリーマン金太郎』(1999)は、その存在感を示すことが出来ずに単発で使命を終えた。
いい会社に入り、30年以上の人生を捧げて真面目に働き、出世を目指す、という分かりやすい物語はこうして喪失していった。
こうした中で、源氏の血はサラリーマン映画よりもむしろ刑事ドラマである『踊る大捜査線』(1998)に濃く受け継がれることになる。実際にこのドラマの企画段階での名前は『サラリーマン刑事』だったという。大手民間企業から失われつつある温かい疑似家族空間は、公務員という安定した場ではまだ説得力を保証されていたのかもしれない。
そして今年、1988年から続いている「釣りバカ日誌シリーズ」の打ち切りが発表された。ゼネコンという高度成長時代の象徴的な産業を舞台に、社長とぐうたら社員が延々と戯れる釣りバカシリーズは、昭和サラリーマンのノスタルジー的慰撫メディアであり、源氏の血の冷凍保存装置だった。このシリーズが終わることで、1950年代から続いたプログラム・ピクチャー的なサラリーマン映画は日本の銀幕から完全に消えることになる。
百年に一度の不況。正社員切り。大失業時代。戦後、いまほどサラリーマンが岐路に立たされた時はない。2009年という年は、昭和のサラリーマン映画が描いたような意味での「サラリーマン」という存在が死滅した年として記憶されることだろう。いちサラリーマンとしては、源氏の血に代わる新しい生き生きとした血が流れている、そんな新しいサラリーマン映画の登場を今こそ待ちたい。
※プログラム・ピクチャー:毎週新作を上映するために映画会社主導で大量に作られた、低予算、短期間撮影の商業的なジャンル・ムービー。
●真実一郎(しんじつ・いちろう)
心に茨を持つサラリーマン。世相観察を行うブログ記事が人気を集め、『Invitation』『SPA!』『マイコミジャーナル』『モバイルブロス』などでライターとしても活躍。また、グラビアアイドルに関しても造詣が深く、リア・ディゾンに「グラビア界の黒船」というキャッチコピーを与えたことでも知られる。
著書に『サラリーマン漫画の戦後史』(新書y)がある。
ブログ:インサイター
配信日:2009/05/13
今年(2009年)の2月から3月にかけて、「にっぽんサラリーマン物語~会社生活の希望と憂鬱~」というテーマの映画上映会が東京のラピュタ阿佐ヶ谷で開催された。不況に落ち込むサラリーマンを励ましたいという意図で上映されたのは、1950~60年代に作られた20本の「サラリーマン映画」だった。
『出世コースに進路をとれ』『サラリーマン十戒』『月給13,000円』『次郎長社長よさこい道中』『社員無頼 怒号篇』『東京・丸の内』『僕は独身社員』……。日本が戦後復興を遂げ、高度経済成長を謳歌していたあの頃、銀幕の主役はサラリーマンだったのだ。
当時のサラリーマン映画ブームに火をつけたのは、サラリーマン小説の開祖である源氏鶏太の人気小説を映画化した『三等重役』(1952)だった。出世、浮気、ボーナスといった会社勤めにまつわる要素が散りばめられた、ヒューマニズム溢れるサラリーマン喜劇で、人のいい社長が真面目な部下の縁談を絶妙にサポートする場面が最大の山場となっている。
社長と社員の心理的距離が極めて近く、会社は家族同然。勤勉な社員が報われる。この〈会社家族主義〉と〈勧善懲悪〉という源治鶏太の戦後サラリーマン観が、「源氏の血」として後の多くのサラリーマン映画や漫画に受け継がれていく。石原裕次郎も小林旭も高倉健も、源氏鶏太が原作の映画で快男児のサラリーマンを演じることになる。
『三等重役』のヒットに気を良くした東宝は、『三等重役』で好演した森繁久彌を主役に据えて、『へそくり社長』(1956)から始まる「社長シリーズ」を定番化させる。アドリブでセクハラしまくる森繁社長と生真面目社員の小林桂樹を軸として描かれたのは、永遠に続くかと思われるような明るく楽観的なサラリーマン賛歌だ。
社長シリーズは1970年までに実に30本以上も作られることになり、他にも笠智衆の「サラリーマン目白三平シリーズ」、小林桂樹の「サラリーマン出世太閤記シリーズ」、高倉健の「万年太郎シリーズ」といったプログラム・ピクチャー(※)が量産されていく。
サラリーマン映画の隆盛は、植木等の『ニッポン無責任時代』(1962)のように、会社のために真面目にコツコツ働く源氏鶏太的なサラリーマンをメタ視点で嗤う映画まで登場させた。植木等は後の「日本一の男シリーズ」ではそのキャラクターを無責任からモーレツ社員へと変え、驚異的な行動力と創造性を発揮して会社に貢献することになる。
こうした1950~60年代のサラリーマン映画ブームを観客として支えた中心層は、第二次大戦で兵士として戦い、帰還後は企業戦士となって、お国のためではなく会社のために一生懸命働いた戦中派のサラリーマンたちと、戦後の荒廃を知る焼け跡世代だった。だからだろうか、戦後に生まれた団塊世代の大卒が社会人になる1970年頃には、サラリーマン喜劇は勢いを失っていく。
学生運動やフォークソングに触れた世代にとっては、サラリーマンはもはや「平凡で退屈な最大公約数」でしかなかったのだ。1970年から1973年までに3作公開されたなべおさみの「夕日くんシリーズ」あたりを最後に、サラリーマンのプログラム・ピクチャーは一度消滅してしまう。脱サラリーマンの略語である「脱サラ」が流行したのもこの頃だった。
高度経済成長が終わり、一億総中流意識が蔓延すると、サラリーマンの会社家族主義は映画のモチーフとしての鮮度を完全に失い、むしろ攻撃対象にすらなっていく。大藪春彦の小説を映画化した『蘇る金狼』(1979)では、会社の経理課で地味に働きながら夜はボクシングで肉体を鍛え、自らの会社の乗っ取りを企てる一匹狼のサラリーマンが描かれる。それはサラリーマンによる「(会社という名の)父親殺し」の物語だった。
その後バブルが崩壊し、終身雇用や年功序列といった会社家族主義を支えた仕組みが崩れ始めると、『集団左遷』(1994)や『失楽園』(1997)といったリストラ・サラリーマンを描く映画ばかりが目立ち始める。シリーズ化が予想された映画版の『課長島耕作』(1992)や『サラリーマン金太郎』(1999)は、その存在感を示すことが出来ずに単発で使命を終えた。
いい会社に入り、30年以上の人生を捧げて真面目に働き、出世を目指す、という分かりやすい物語はこうして喪失していった。
こうした中で、源氏の血はサラリーマン映画よりもむしろ刑事ドラマである『踊る大捜査線』(1998)に濃く受け継がれることになる。実際にこのドラマの企画段階での名前は『サラリーマン刑事』だったという。大手民間企業から失われつつある温かい疑似家族空間は、公務員という安定した場ではまだ説得力を保証されていたのかもしれない。
そして今年、1988年から続いている「釣りバカ日誌シリーズ」の打ち切りが発表された。ゼネコンという高度成長時代の象徴的な産業を舞台に、社長とぐうたら社員が延々と戯れる釣りバカシリーズは、昭和サラリーマンのノスタルジー的慰撫メディアであり、源氏の血の冷凍保存装置だった。このシリーズが終わることで、1950年代から続いたプログラム・ピクチャー的なサラリーマン映画は日本の銀幕から完全に消えることになる。
百年に一度の不況。正社員切り。大失業時代。戦後、いまほどサラリーマンが岐路に立たされた時はない。2009年という年は、昭和のサラリーマン映画が描いたような意味での「サラリーマン」という存在が死滅した年として記憶されることだろう。いちサラリーマンとしては、源氏の血に代わる新しい生き生きとした血が流れている、そんな新しいサラリーマン映画の登場を今こそ待ちたい。
※プログラム・ピクチャー:毎週新作を上映するために映画会社主導で大量に作られた、低予算、短期間撮影の商業的なジャンル・ムービー。
●真実一郎(しんじつ・いちろう)
心に茨を持つサラリーマン。世相観察を行うブログ記事が人気を集め、『Invitation』『SPA!』『マイコミジャーナル』『モバイルブロス』などでライターとしても活躍。また、グラビアアイドルに関しても造詣が深く、リア・ディゾンに「グラビア界の黒船」というキャッチコピーを与えたことでも知られる。
著書に『サラリーマン漫画の戦後史』(新書y)がある。
ブログ:インサイター
