担当者より:2007年にアルテスパブリッシングの鈴木茂さんに音楽を論じることに関して書いていただいた原稿です。2007年はアルテスパブリッシング創業の年でもありました。また、鈴木さんが最近担当したアルテスパブリッシングの書籍には、高橋健太郎『ポップミュージックのゆくえ』や宮脇俊文/細川周平/マイク・モラスキー編著『ニュージャズスタディーズ』などがあります。こちらも併せてぜひお読みください。

配信日:2007/09/12


20年ほど音楽だけを対象にした書物を作り続けてきて、音楽を言葉で表現するってどういうことなのか? どうすればそれは可能なのか、そもそも可能なのか? を、あくまで聴き手の側からずっと考え続けているのだけど、結論めいたものは当然あるわけもなく、なにかヒントでも得られることを願ってとにかく書きはじめてみよう。

この7月、音楽評論家・吉田秀和との対談の中で、作家の堀江敏幸がこんなふうに吉田の評論を讃えていたのがちょっと気になった(『考える人』No.21)。

「吉田さんの文章には、相撲から借りた比喩ですとか、いろいろなジャンルの言葉がうまく交わりあった新しい比喩表現がある。それが読者を魅了する秘密のひとつだと思うんです」

それを受けて吉田が「批評というのは、考えたことを一言で言う、そういう努力をしなければいけないと思いますね」と返す。90歳を越えてなおバリバリの現役として書き続けている吉田秀和の耳の鋭さと筆の確かさには恐れ入るばかりだけど、吉田秀和のすごさは、「比喩がうまい」ってところに落ちついちゃうんだろうか?

そういえばなるほど、この対談が流されたNHKの吉田秀和特集番組でも、カラヤンの《田園》を評しての「いわばアウトバーンを快速で走る自動車の中で走った花」「すぐれたカメラのような目」、ルービンシュタインのサン・サーンス演奏への「この曲を金魚みたいなはなやかなのびやかさとゆとりを持って料理する」といった吉田の文章の一節を紹介していたな。

このふたつの評が書かれたのは数十年前のことだろうから、今となってはかなり古びてはいるけど、でも音楽を語るときって比喩がうまいとけっこう読ませることができちゃうのも確かではある。

比喩のうまさといったら、たとえば村上春樹が音楽を語った文章も思い浮かぶ。シューベルトからスガシカオまでを扱った音楽論集『意味がなければスイングはない』(文藝春秋)をパッと開いてみるとこんな具合。

「レストランにたとえていえば、ひとつひとつの料理の質は決して悪くないのだが、料理と料理の組み合わせに問題があって、それぞれの味をうち消しあってしまっている」「自然で強靱な文体を持った誠実なマイナー・ポエト」……

これはジャズ・ピアニストのシダー・ウォルトンを書いたもので、他にも「クリスプ」「オムニアス」といった、さりげなく挟み込まれる英語の形容詞も効いている。通して読むと、要所要所でのちょっとした表現のうまさが強く印象に残るんだなあ。これほど滑らかな文章で説得力を持って音楽や音楽体験を描ける人はそうそういませんよね。

と言いつつじつは、村上春樹が使っている言葉の大半はごく一般的なものばかりで、普通の言葉でもちゃんと使いこなせばこれだけのものが書ける、という良いお手本でもあるように思う。真似しようと思って簡単にできるくらいなら、第二第三の村上春樹はとっくに現れてるわけだけど。

もうひとつ、つい先日感心させられたばかりなのが分子生物学者・福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)。とりわけすばらしいのが、動的な平衡としての生物を「波打ち際に立てられた砂の城」に例えた下りだ。砂の城が立体的な像としてあらかじめ頭にくっきり刻み込まれ、専門用語が込み入ってくるそのあとの解説がじつにすんなり飲み込める。この比喩がなぜかくも効果的なのかと考えてみると、比喩としての砂の城のシステム(構造)が、生物のそれと本質的に同じものだからだろう。

なるほど、構造ね。ということは音楽でも同じように、楽曲や演奏の構造を、聞いたことのない人や音楽理論の素人にも分かるような巧みな比喩を用いて説明できれば、これはかなり質の高い言語化として機能するんじゃないだろうか? じっさい吉田秀和は小澤征爾を教育したほどの専門家だから音楽の構造には精通している人だし、村上春樹だって簡潔ではあるけど専門用語を駆使した音楽的な分析も随所で披露している。

ところが、映画や演劇や文学などと比べても、音楽ほどいま何が起きてるのかを言葉で説明しづらい表現はない。目の前で鳴っている音を描写しようと試みて、たとえば楽器の種類や奏法、音色、あるいはコード進行やメロディ、転調、リズムなどなどを説明しようとするほど専門用語が増えていき、素人は置いてきぼりを食らうことになる。といって自分のからだや心に生じた変化の側から描こうとすれば、音そのものからは離れて言葉は抽象的にならざるをえない。

そもそも音楽を構成する要素は瞬間瞬間を細かく切り取っていけば無限に存在するわけだから、そこからその音楽のもっとも本質的な要素を選び出して取り出すことのできるすぐれた〈耳〉が必要になってくる。つまりは、筆力以前に音楽を聴く力そのものの質が問われるということか。なんだか当たり前の話に戻ってきちゃったけど、吉田秀和にしても村上春樹にしても、「この人は音楽を良くわかってるなあ!」としばしば思わせてくれるからこそ、信頼もするわけだし。

じゃあじゃあ、その耳の良し悪しをお前はどうやって判断してるんだ? ていうかお前に判断できるわけ? と突っ込まれちゃうと、まったくのアマチュアとしてはちょっと微妙なところなんだけど、彼らが音楽を分析していくその手つきや、ある重要なポイントを選びだす判断とか、もっと素朴にいえば、音楽から得られる身体が震えるような感動や歓喜や官能を書き手が知っているかどうか、そこを感じ取っているんだと思う。

そう、音楽はそんなふうに聴き手の意識を飛び越して身体の奥深くに直接訴えかけてくるものなのだ。聞いているうちになぜだか知らず滂沱の涙が止まらなくなったり、全身に鳥肌が立ちまくったり、興奮のあまり我を忘れて大声を上げたり。そんな神秘的ともいえる体験を、煎じ詰めれば空気の振動でしかない音楽が、音楽だけが、もたらしてくれるのはいったいなぜなのか? ぼくがすでに30年近くも音楽を語った文章を読み続けているのは、その答えを知りたいからだ。いつかだれかが音楽の秘密を解き明かしてくれるんじゃないか、と期待しているからだ。

その望みが叶うことはまずありえないとは思う。だが、それも分かっているからこそ、なおさらいっそう聴いては読み、聴いては語り、そしてまた聴き、をぼくらは永遠に繰り返していくにちがいない。


●鈴木茂(すずき・しげる)
アルテスパブリッシング代表取締役。
音楽之友社勤務、フリー編集者を経て、〈音楽を愛する人のための出版社〉アルテスパブリッシングを立ち上げ、現在に至る。
サイト:アルテスパブリッシング