担当者より:『自分探しが止まらない』(ソフトバンク新書)や『タイアップの歌謡史』(新書y)の著者・速水健朗さんが、マイケル・ジャクソン逝去の直後に執筆した原稿に、若干の加筆をしたものです。ご一読ください。
配信日:2009/07/01
ベストセラー街道ばく進中の村上春樹の新作『1Q84』には、マイケル・ジャクソンの「Billie Jean」がカーステレオから聞こえてくる場面がある。この小説の舞台である1984年は、マイケルの年だった。
この曲が収録されたアルバム『スリラー』は、この年、日本で最も売れたレコードとなった。アメリカでは総計2700万枚のヒットを記録し、1983、1984両年のもっとも売れたアルバムとなる。そして、全世界での売り上げは約1億500万枚。『スリラー』がこれほどまでに世界を席巻した1984年とは、アメリカ、そして世界にとってどのような年だったのか。それを考察しながら、マイケルという希代のパフォーマーの人生、そしてなぜ彼が比類なきスーパースターになり得たのかについて振り返ってみたい。
『スリラー』が世界で1億枚のヒットになった背景には、それを待ち受けていた時代状況や下部構造があったと言える。黒人音楽ジャーナリストのネルソン・ジョージは、マイケルが登場しスターの座をつかんだ70年代を、「クロスオーヴァー」の時代と名付けている。
米大手レコード会社が白人向けラジオなどを通して、黒人音楽を「クロスオーヴァー」に売り込み始めた時期という意味である。「クロスオーヴァー」は通常、ジャズとロックの垣根を越える音楽のことを指すが、ネルソン・ジョージは、黒人音楽が白人の市場に取り込まれたこの時代の状況をなぞらえてそう呼んでいる。
「クロスオーヴァー」の傾向がさらに顕著になったのが、1980年代前後のこと。黒人が創業者であるモータウン・レコードで有名になったダイアナ・ロスとマーヴィン・ゲイが、1982年にそれぞれRCA、CBSと白人系の大手レコード会社に移籍。米のメジャーレコード会社は、黒人音楽が、白人市場を巻き込む大きなビジネスになることに気がつき始め、一流どころの引き抜きを始めたのだ。マイケルもこの時期にメジャーに移籍した一人だった。
ジャクソン5、ジャクソンズと経て、ソロになった1979年のアルバム『Off The Wall』には、黒人のレコードの規模ではなく、ジャーニーやビリー・ジョエル並の広告予算がつけられ、900万枚という黒人音楽史上最大のヒットとなった。これを抜いたのが『スリラー』であり、この後にも先にも単独アーティストとしてこれだけの枚数のアルバムを売った例はない。
ネルソン・ジョージは、マイケルの登場がなければ彼の替わりに、ライオネル・リッチーが黒人のスーパースターになっていただろうと指摘する。人気グループ・コモドアーズを抜けたリッチーは、カントリー歌手だったケニー・ロジャースをアメリカで最も人気のある歌手に仕立て上げた敏腕白人マネージャーを雇った。そして、R&B歌手の自分をアメリカで最も有名な歌手に仕立てるべく、白人市場を向いた「クロスオーヴァー」戦略を採用する。
そんなリッチーがマイケルのような存在になれなかったのは、1981年に始まったMTVのせいだろう。MTV以降、ポップスの歌手はただの歌い手ではなく、総合的なパフォーマーであることを求められるようになった。精悍なマスクを持ち、手足が長く、驚異的なダンスの技術を持ったマイケルは、MTV時代に相応しいスターで、その点においてライオネル・リッチーをはるかに凌駕していたのだ。
MTVの登場で、音楽産業はメディアをクロスオーヴァーする総合エンターテインメント産業に変わった。そんな80年代、音楽の市場規模は急速に拡大していく。ロックの時代には存在した言葉の壁をMTVの映像が取っ払ったのだ。日本においても、この時代ほど洋楽が売れた時代はなかった。
さて、この時代に世界に進出したアメリカは、マイケルだけではなかった。ここからは音楽以外の1984年にも視野を広げてみたい。
1984年に開催されたロサンゼルス・オリンピックは、オリンピックの商業化の始まりの大会として知られている。大会委員長務めたP.ユベロスは、各業種一社というルールで公式スポンサーを募り、大会運営を黒字化することに成功した。
五輪公式スポンサー第一号はコカ・コーラだった。その狙いは、まだコカ・コーラが浸透していないアフリカをはじめ、第三世界にライバルより早くコーラを売り込むこと。そのためコカ・コーラは、1982年のW杯スペイン大会、1984年のロス五輪と、世界的に注目されるスポーツ大会の公式スポンサーとなる。
また、当時は「コーラ戦争」の時代でもあった。ロス五輪の公式スポンサーを巡る争い(コカ・コーラが提示した入札額は1260万ドルだった)に敗れたペプシは、その代わりにマイケル・ジャクソンとCMの契約を交わした。世界から注目を集める存在として、オリンピックと並ぶ存在がマイケルだったのだ。1984年にCMバージョンの『Billie Jean』を使ったマイケルのペプシCMが流れた。日本ではこのようなタイアップは当たり前だが、アメリカにおいては彼ほどのトップスターがCMで自分の曲の歌詞を商品名に変えて歌うということはかなりのレアケースであった。この年、ペプシはシェアを1.5%伸ばし、コカ・コーラは1%下げている。
ペプシは、マイケルの1988年の「BAD WORLD TOUR」のサポートも行った。これは、コカ・コーラが五輪スポンサーとして世界市場に進出したのと同じ意味を持った。日本においてのコーラ市場のシェアは、ペプシよりもコカ・コーラが圧倒的である。だが、この当時のマイケルを使ったペプシのキャンペーンにより、相当ペプシの名は知れ渡った。
さて、アメリカのソフトパワーを代表する企業にディズニーがあるが、彼らにとっても、1984年転機の年だった。ディズニーアニメのヒットは途絶え、ロサンゼルスにあるディズニーランドの客足も減少の一途。そんな凋落時代のディズニーを救ったのは、映画大手のパラマウントから来たマイケル・アイズナーだった。
1984年にディズニーの経営を任されたアイズナーは、ケーブルテレビ局の買収やビデオソフトの販売を通して、過去のディズニーの遺産を商品として復活させ、実写映画への積極的な参与といった多メディア展開を始める。そして『美女と野獣』や『アラジン』といった新しい時代のディズニー映画を生む下地を制作部門内に作った。また、1983年は東京ディズニーランドが誕生した年でもある。米国以外に進出したディズニーランドの第一号という、海外に築かれたディズニー帝国による最初の砦である。
ちなみにアイズナーは、ABC時代にジャクソン・ファイブをモデルにしたアニメ番組の制作に携わっていたことがあり、その縁からマイケルはディズニーランドのアトラクション「キャプテンEO」で仕事をすることになった。
マクドナルドやコカ・コーラ、そしてディズニーといった企業は、国家や領土の枠を超えて経済活動を行うグローバリゼーションを代表する企業である。彼らは19世紀の帝国主義時代の覇権になぞらえて“帝国”という名を持って呼ばれることがある。コカ・コーラ帝国にディズニー帝国といった具合だ。そして、マイケルもまた帝国付きで呼ぶべき存在になったと言えるだろう。
こうした、アメリカの文化や企業が世界を浸食しはじめた1980~90年代の流れと、マイケルの活動内容・期間は見事に重なっている。そして、その出発点は、マイケルがスーパースターになった1984年に見出すことができるのだ。
世界の市場に受け入れられる「スーパースター」というユニバーサル商品になったマイケルは、黒人と白人をクロスオーヴァーする存在から、アメリカと世界をクロスオーヴァーする存在にならざるを得なかったのだろう。黒人でも白人でもないユニバーサルな人種、そして男でも女でもないとしてマイケルは存在しなくてはならなくなった。
マイケルの最後の10年は、転落の10年だったといっていいだろう。小児性愛を巡る数々のスキャンダル、そしてみるみるうちに変化した肌の色と顔の形。そうしたすべてが、メディアの上でさらされる「スーパースター」という商品として世界中が消費したのだ。正直、これほどおもしろいエンターテインメントはなかったし、悲しい帝国もなかった。
●速水健朗(はやみず・けんろう)
評論家。ブロガーとしても著名。
著書に『タイアップの歌謡史』(新書y)、『自分探しが止まらない』(ソフトバンク新書)、『ケータイ小説的。』(原書房)がある。
ブログ:犬にかぶらせろ!
配信日:2009/07/01
ベストセラー街道ばく進中の村上春樹の新作『1Q84』には、マイケル・ジャクソンの「Billie Jean」がカーステレオから聞こえてくる場面がある。この小説の舞台である1984年は、マイケルの年だった。
この曲が収録されたアルバム『スリラー』は、この年、日本で最も売れたレコードとなった。アメリカでは総計2700万枚のヒットを記録し、1983、1984両年のもっとも売れたアルバムとなる。そして、全世界での売り上げは約1億500万枚。『スリラー』がこれほどまでに世界を席巻した1984年とは、アメリカ、そして世界にとってどのような年だったのか。それを考察しながら、マイケルという希代のパフォーマーの人生、そしてなぜ彼が比類なきスーパースターになり得たのかについて振り返ってみたい。
『スリラー』が世界で1億枚のヒットになった背景には、それを待ち受けていた時代状況や下部構造があったと言える。黒人音楽ジャーナリストのネルソン・ジョージは、マイケルが登場しスターの座をつかんだ70年代を、「クロスオーヴァー」の時代と名付けている。
米大手レコード会社が白人向けラジオなどを通して、黒人音楽を「クロスオーヴァー」に売り込み始めた時期という意味である。「クロスオーヴァー」は通常、ジャズとロックの垣根を越える音楽のことを指すが、ネルソン・ジョージは、黒人音楽が白人の市場に取り込まれたこの時代の状況をなぞらえてそう呼んでいる。
「クロスオーヴァー」の傾向がさらに顕著になったのが、1980年代前後のこと。黒人が創業者であるモータウン・レコードで有名になったダイアナ・ロスとマーヴィン・ゲイが、1982年にそれぞれRCA、CBSと白人系の大手レコード会社に移籍。米のメジャーレコード会社は、黒人音楽が、白人市場を巻き込む大きなビジネスになることに気がつき始め、一流どころの引き抜きを始めたのだ。マイケルもこの時期にメジャーに移籍した一人だった。
ジャクソン5、ジャクソンズと経て、ソロになった1979年のアルバム『Off The Wall』には、黒人のレコードの規模ではなく、ジャーニーやビリー・ジョエル並の広告予算がつけられ、900万枚という黒人音楽史上最大のヒットとなった。これを抜いたのが『スリラー』であり、この後にも先にも単独アーティストとしてこれだけの枚数のアルバムを売った例はない。
ネルソン・ジョージは、マイケルの登場がなければ彼の替わりに、ライオネル・リッチーが黒人のスーパースターになっていただろうと指摘する。人気グループ・コモドアーズを抜けたリッチーは、カントリー歌手だったケニー・ロジャースをアメリカで最も人気のある歌手に仕立て上げた敏腕白人マネージャーを雇った。そして、R&B歌手の自分をアメリカで最も有名な歌手に仕立てるべく、白人市場を向いた「クロスオーヴァー」戦略を採用する。
そんなリッチーがマイケルのような存在になれなかったのは、1981年に始まったMTVのせいだろう。MTV以降、ポップスの歌手はただの歌い手ではなく、総合的なパフォーマーであることを求められるようになった。精悍なマスクを持ち、手足が長く、驚異的なダンスの技術を持ったマイケルは、MTV時代に相応しいスターで、その点においてライオネル・リッチーをはるかに凌駕していたのだ。
MTVの登場で、音楽産業はメディアをクロスオーヴァーする総合エンターテインメント産業に変わった。そんな80年代、音楽の市場規模は急速に拡大していく。ロックの時代には存在した言葉の壁をMTVの映像が取っ払ったのだ。日本においても、この時代ほど洋楽が売れた時代はなかった。
さて、この時代に世界に進出したアメリカは、マイケルだけではなかった。ここからは音楽以外の1984年にも視野を広げてみたい。
1984年に開催されたロサンゼルス・オリンピックは、オリンピックの商業化の始まりの大会として知られている。大会委員長務めたP.ユベロスは、各業種一社というルールで公式スポンサーを募り、大会運営を黒字化することに成功した。
五輪公式スポンサー第一号はコカ・コーラだった。その狙いは、まだコカ・コーラが浸透していないアフリカをはじめ、第三世界にライバルより早くコーラを売り込むこと。そのためコカ・コーラは、1982年のW杯スペイン大会、1984年のロス五輪と、世界的に注目されるスポーツ大会の公式スポンサーとなる。
また、当時は「コーラ戦争」の時代でもあった。ロス五輪の公式スポンサーを巡る争い(コカ・コーラが提示した入札額は1260万ドルだった)に敗れたペプシは、その代わりにマイケル・ジャクソンとCMの契約を交わした。世界から注目を集める存在として、オリンピックと並ぶ存在がマイケルだったのだ。1984年にCMバージョンの『Billie Jean』を使ったマイケルのペプシCMが流れた。日本ではこのようなタイアップは当たり前だが、アメリカにおいては彼ほどのトップスターがCMで自分の曲の歌詞を商品名に変えて歌うということはかなりのレアケースであった。この年、ペプシはシェアを1.5%伸ばし、コカ・コーラは1%下げている。
ペプシは、マイケルの1988年の「BAD WORLD TOUR」のサポートも行った。これは、コカ・コーラが五輪スポンサーとして世界市場に進出したのと同じ意味を持った。日本においてのコーラ市場のシェアは、ペプシよりもコカ・コーラが圧倒的である。だが、この当時のマイケルを使ったペプシのキャンペーンにより、相当ペプシの名は知れ渡った。
さて、アメリカのソフトパワーを代表する企業にディズニーがあるが、彼らにとっても、1984年転機の年だった。ディズニーアニメのヒットは途絶え、ロサンゼルスにあるディズニーランドの客足も減少の一途。そんな凋落時代のディズニーを救ったのは、映画大手のパラマウントから来たマイケル・アイズナーだった。
1984年にディズニーの経営を任されたアイズナーは、ケーブルテレビ局の買収やビデオソフトの販売を通して、過去のディズニーの遺産を商品として復活させ、実写映画への積極的な参与といった多メディア展開を始める。そして『美女と野獣』や『アラジン』といった新しい時代のディズニー映画を生む下地を制作部門内に作った。また、1983年は東京ディズニーランドが誕生した年でもある。米国以外に進出したディズニーランドの第一号という、海外に築かれたディズニー帝国による最初の砦である。
ちなみにアイズナーは、ABC時代にジャクソン・ファイブをモデルにしたアニメ番組の制作に携わっていたことがあり、その縁からマイケルはディズニーランドのアトラクション「キャプテンEO」で仕事をすることになった。
マクドナルドやコカ・コーラ、そしてディズニーといった企業は、国家や領土の枠を超えて経済活動を行うグローバリゼーションを代表する企業である。彼らは19世紀の帝国主義時代の覇権になぞらえて“帝国”という名を持って呼ばれることがある。コカ・コーラ帝国にディズニー帝国といった具合だ。そして、マイケルもまた帝国付きで呼ぶべき存在になったと言えるだろう。
こうした、アメリカの文化や企業が世界を浸食しはじめた1980~90年代の流れと、マイケルの活動内容・期間は見事に重なっている。そして、その出発点は、マイケルがスーパースターになった1984年に見出すことができるのだ。
世界の市場に受け入れられる「スーパースター」というユニバーサル商品になったマイケルは、黒人と白人をクロスオーヴァーする存在から、アメリカと世界をクロスオーヴァーする存在にならざるを得なかったのだろう。黒人でも白人でもないユニバーサルな人種、そして男でも女でもないとしてマイケルは存在しなくてはならなくなった。
マイケルの最後の10年は、転落の10年だったといっていいだろう。小児性愛を巡る数々のスキャンダル、そしてみるみるうちに変化した肌の色と顔の形。そうしたすべてが、メディアの上でさらされる「スーパースター」という商品として世界中が消費したのだ。正直、これほどおもしろいエンターテインメントはなかったし、悲しい帝国もなかった。
●速水健朗(はやみず・けんろう)
評論家。ブロガーとしても著名。
著書に『タイアップの歌謡史』(新書y)、『自分探しが止まらない』(ソフトバンク新書)、『ケータイ小説的。』(原書房)がある。
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