担当者より:編集者・ライターの南陀楼綾繁さんが2008年末に雑誌の置かれた現況について論じた原稿です。また、ブックイベントを通しての本との関わり方について記された南陀楼さんの『一箱古本市の歩きかた』(光文社新書)も併せてどうぞ。
配信日:2008/12/17
去る11月1日から16日まで、〈文化芸術情報館 アートリエ〉で、「フリーペーパー=小さなメディアの放つ光」という展覧会が行なわれた。北は北海道から南は沖縄までの約60タイトルが、一誌ごとにストックファイルに入れられて展示され、最新号は自由に持ち帰ることができる。
ぼくはアートリエから依頼を受け、ここに展示するフリーペーパー(以下フリペ)を選んだ。アートリエの母体が「福岡市文化芸術振興財団」であるため、先方は「アート系」フリペを中心に、と云ってきたのだが、美術館や劇場が出しているフリペには魅力的なものはホトンドない。だから、その括りは無視することにした。また、ビジネスとして成立しているフリペ(アルバイトや住宅情報誌、あるいは『R25』のような情報誌)は取り上げないことにした。
そして収集を開始したのだが、1999年の共著『ミニコミ魂』(晶文社)で紹介したフリペは、ほぼすべて発行を停止しており、イチから探すしかなかった。ひとりでは見つけられないので、フリペをよく置いている古書店やブックカフェ(新刊書店に置かれることは少ない)の店主に情報を求めた。
その結果、内容もカタチも突出したフリペが集まった。たとえば、銭湯でのイベントに合わせて発行される『乙女 湯のたしなみ』(東京)、日常の出来事をパンクな精神で綴る『HOWE』(奈良)、地方都市のカッコよさをビジュアルに表現する英文併記の『Krash Japan』(倉敷)、豆腐屋さんにアポなし取材してつくる『東京トーフ屋散歩手帳』(東京)……。毎号の特集に合わせて折り方やデザインが変わる『ぱんとたまねぎ』(京都)もあれば、80代のお爺さんが手書き出している『松風新聞』(神戸)もある
期間中、ぼくと『SCHOP』(名古屋)の上原敏さんのトークがあったが、そこにも多くのフリペ発行者やこれからフリペをつくりたいという人たちが来ていた。彼らに「なぜフリペをつくるのか(つくりたいのか)」と尋ねると、「いま、自分が読みたい雑誌がないから」という答えが多く返ってきた。
だからといって、彼ら・彼女らのつくるフリペが既存の雑誌からの影響を受けていない、というつもりはない。むしろ、最近流行っている余白たっぷりのレイアウトに書き文字、というデザインを無意識に踏襲しているフリペは多い。DTPソフトの普及で、かえってドコかで見たようなフリペが増えているような気もする。
しかし、多くのフリペの誌面からは、「いま自分が読みたいものを自分でつくる」という強い意志が感じられる。広告やスポンサーによってペイしているフリペは非常に少ないから、ほとんどの発行者は本業で稼いだ金を投入してつくっている。それだけに姿勢が明確である。また、フリペは置く場所も自分のセンスで選ぶから、より自分に近い読者に届く可能性が高い。
そこで思い出すのが、初期の『ポパイ』について、同誌のロゴを書いた堀内誠一がもらした次のような感想だ。
「〈ポパイ〉は、エロティシズムではなく、純正という意味で、ホモっぽい雰囲気があります。日本ではホモというと、すぐにホモセクシュアルなものを連想しそうですが、少年っぽさを残したスタッフが集ってつくっているといったものを感じさせる“ホモ”で、それ以上でもそれ以下でもありません…。〈ポパイ〉は共通の思考回路をもつ編集者と読者の友情雑誌のようだ…。」(椎根和『POPEYE物語 1976~1981』新潮社、2008年)
この「友情雑誌」を堀内は肯定的に使ってはいない(実際、この手紙を受け取った編集長の木滑良久は「するどく反応し、雑誌の方向性を、ほんの少し変え」たという)。しかし、明治以来、多くの読者を獲得した雑誌では、多かれ少なかれ、編集者と読者との「友情」が成立していた(あるいは、成立しているかのように演出されていた)はずだ。その「共同体」はいつの間にか、崩れてしまった。
その雑誌でしか読めないような書き手や記事がなくなり、「特集」を見てその号を買うかどうか決める読者と、広告主に向けて誌面をつくる編集者の間には、いかなる「共同体」幻想も成立しない。今年の後半、やたらと雑誌が休刊し、出版不況によるものだと新聞で取り上げられたが、休刊を嘆く人たち(記事を書いた記者自身も含めて)のいったい何割が、その雑誌を「毎号」買って読んでいたのだろうか?
万単位で発行される商業雑誌と、片々たるフリペを同列に論じることが無茶な話だとは判っている。しかし、部数や発行形態にかかわらず、自分の中にいる「読者」をつかんでない編集者がつくる雑誌なんて、買いたくないし、読みたくない。出版業界の「埒外」でフリペを出しつづける人たちと会って、そう、強く思った。
●南陀楼綾繁(なんだろう・あやしげ)
編集者・ライター。
著書に『ナンダロウアヤシゲな日々 本の海で溺れて』 (無明舎出版)、『路上派遊書日記』(右文書院)、『一箱古本市の歩きかた』(光文社新書)などがある。
執筆・編集活動以外にも、古本や雑誌に関するイベントを積極的に行っている。
ブログ:ナンダロウアヤシゲな日々
配信日:2008/12/17
去る11月1日から16日まで、〈文化芸術情報館 アートリエ〉で、「フリーペーパー=小さなメディアの放つ光」という展覧会が行なわれた。北は北海道から南は沖縄までの約60タイトルが、一誌ごとにストックファイルに入れられて展示され、最新号は自由に持ち帰ることができる。
ぼくはアートリエから依頼を受け、ここに展示するフリーペーパー(以下フリペ)を選んだ。アートリエの母体が「福岡市文化芸術振興財団」であるため、先方は「アート系」フリペを中心に、と云ってきたのだが、美術館や劇場が出しているフリペには魅力的なものはホトンドない。だから、その括りは無視することにした。また、ビジネスとして成立しているフリペ(アルバイトや住宅情報誌、あるいは『R25』のような情報誌)は取り上げないことにした。
そして収集を開始したのだが、1999年の共著『ミニコミ魂』(晶文社)で紹介したフリペは、ほぼすべて発行を停止しており、イチから探すしかなかった。ひとりでは見つけられないので、フリペをよく置いている古書店やブックカフェ(新刊書店に置かれることは少ない)の店主に情報を求めた。
その結果、内容もカタチも突出したフリペが集まった。たとえば、銭湯でのイベントに合わせて発行される『乙女 湯のたしなみ』(東京)、日常の出来事をパンクな精神で綴る『HOWE』(奈良)、地方都市のカッコよさをビジュアルに表現する英文併記の『Krash Japan』(倉敷)、豆腐屋さんにアポなし取材してつくる『東京トーフ屋散歩手帳』(東京)……。毎号の特集に合わせて折り方やデザインが変わる『ぱんとたまねぎ』(京都)もあれば、80代のお爺さんが手書き出している『松風新聞』(神戸)もある
期間中、ぼくと『SCHOP』(名古屋)の上原敏さんのトークがあったが、そこにも多くのフリペ発行者やこれからフリペをつくりたいという人たちが来ていた。彼らに「なぜフリペをつくるのか(つくりたいのか)」と尋ねると、「いま、自分が読みたい雑誌がないから」という答えが多く返ってきた。
だからといって、彼ら・彼女らのつくるフリペが既存の雑誌からの影響を受けていない、というつもりはない。むしろ、最近流行っている余白たっぷりのレイアウトに書き文字、というデザインを無意識に踏襲しているフリペは多い。DTPソフトの普及で、かえってドコかで見たようなフリペが増えているような気もする。
しかし、多くのフリペの誌面からは、「いま自分が読みたいものを自分でつくる」という強い意志が感じられる。広告やスポンサーによってペイしているフリペは非常に少ないから、ほとんどの発行者は本業で稼いだ金を投入してつくっている。それだけに姿勢が明確である。また、フリペは置く場所も自分のセンスで選ぶから、より自分に近い読者に届く可能性が高い。
そこで思い出すのが、初期の『ポパイ』について、同誌のロゴを書いた堀内誠一がもらした次のような感想だ。
「〈ポパイ〉は、エロティシズムではなく、純正という意味で、ホモっぽい雰囲気があります。日本ではホモというと、すぐにホモセクシュアルなものを連想しそうですが、少年っぽさを残したスタッフが集ってつくっているといったものを感じさせる“ホモ”で、それ以上でもそれ以下でもありません…。〈ポパイ〉は共通の思考回路をもつ編集者と読者の友情雑誌のようだ…。」(椎根和『POPEYE物語 1976~1981』新潮社、2008年)
この「友情雑誌」を堀内は肯定的に使ってはいない(実際、この手紙を受け取った編集長の木滑良久は「するどく反応し、雑誌の方向性を、ほんの少し変え」たという)。しかし、明治以来、多くの読者を獲得した雑誌では、多かれ少なかれ、編集者と読者との「友情」が成立していた(あるいは、成立しているかのように演出されていた)はずだ。その「共同体」はいつの間にか、崩れてしまった。
その雑誌でしか読めないような書き手や記事がなくなり、「特集」を見てその号を買うかどうか決める読者と、広告主に向けて誌面をつくる編集者の間には、いかなる「共同体」幻想も成立しない。今年の後半、やたらと雑誌が休刊し、出版不況によるものだと新聞で取り上げられたが、休刊を嘆く人たち(記事を書いた記者自身も含めて)のいったい何割が、その雑誌を「毎号」買って読んでいたのだろうか?
万単位で発行される商業雑誌と、片々たるフリペを同列に論じることが無茶な話だとは判っている。しかし、部数や発行形態にかかわらず、自分の中にいる「読者」をつかんでない編集者がつくる雑誌なんて、買いたくないし、読みたくない。出版業界の「埒外」でフリペを出しつづける人たちと会って、そう、強く思った。
●南陀楼綾繁(なんだろう・あやしげ)
編集者・ライター。
著書に『ナンダロウアヤシゲな日々 本の海で溺れて』 (無明舎出版)、『路上派遊書日記』(右文書院)、『一箱古本市の歩きかた』(光文社新書)などがある。
執筆・編集活動以外にも、古本や雑誌に関するイベントを積極的に行っている。
ブログ:ナンダロウアヤシゲな日々
