担当者より:『無頼化する女たち』(新書y)などの著書で知られる、詩人・社会学者の水無田気流さんが日本の秀才がおかれた状況について、あの有名アニメの悪役を通して書かれた原稿です。

配信日:2009/02/04


1986年の夏を、私は忘れない。高校生の私は、宮崎駿『天空の城ラピュタ』試写会場で、受付のバイトをしていた。晴天の下、某郊外地にそびえ立つショッピングセンターの一角に設置された、急ごしらえの「宮崎ワールド」。客層は、アニメファンの若者と親子連れが半々と言ったところか。そのうち、奇妙な現象に気がついた。映画を観終わった小学生たちが、異口同音にあるフレーズを言ってはしゃいでいたのである。そのセリフとは、「見ろ! 人がゴミのようだ!」。

いったい、何……? 疑問はその後、本作を見て溶解する。件のセリフは、言うまでもなく、日本アニメーション史上に燦然と輝く不動の悪役、ムスカ大佐――ダーティヒーローとして大人気のキャラ――のものである。『天空の城ラピュタ』が上映されてから20年以上の歳月を経た現在でも人気は衰えず、ムスカをパロディ化した二次創作作品は、枚挙に暇がない。彼のキャラ特性は、第一に冷酷無情、第二に頭脳明晰、第三に目的が世界征服。ついでに、境遇は不遇で権力志向旺盛と、悪役としてパーフェクトである。

それにしても、なぜ、なにゆえムスカはこんなに人気があるのか。その前に、ひとつ検証したいことがある。なぜか日本のアニメや漫画では、頭がいい(勉強ができる)キャラは、たいてい悪役か、主人公のライバル役で嫌味なヤツ。味方であれば、せいぜい主人公をサポートする役回りであり、主役を張ることは少ない。

とりわけ、ムスカのような秀才型ダーティーヒーロー(以下、タイプMとする)は、作品本編では破滅的運命を負わされるのが常である。近年のヒット作では、『DEATH NOTE』(原作:大場つぐみ、作画:小畑健、集英社)の夜神月(やがみ・らいと)が珍しくタイプMの主役であったが、やはりこの「宿命」からは逃れられなかったように見受けられる(詳細は、ぜひ本編をご覧いただきたい)。

いや、アニメや漫画のようなポップカルチャー領域に限らない。社会全体を見回しても、頭がいい人間は性格が悪いという神話も、まことしやかに流布している。同様に、秀才は社会の権力に近しいがゆえに、心が穢れているという信仰も。

他方、これと好対照をなすのが、「不良」「ヤンキー」は性格がいい、心が純粋だという神話である。うがった見方をするならば、「ヤンキー先生」がウケるのも、『だから、あなたも生きぬいて』(講談社)がヒットしたのも、少し前に村上春樹と村上龍を比較検討する企画が流行ったときには、つねに龍が少々ひいき目に評価される傾向がみられたのも、みんなこの神話に起因するように思えてならない。

現実には、秀才にだって性格がいいのもいれば、悪いのもいる。ヤンキーだって同様である。だが、なぜ「類」としてみた場合、秀才はヤンキーより人格が劣ると描かれるのか? 素朴な疑問だが、学業成績は努力の賜物であり、努力をし得る人間は、しない人間よりも真面目なはずである。一生懸命真面目に勉強をした結果非難されるというのは、割に合わない話ではないのか? 世はまさに、秀才受難時代と言わざるを得ない。児童生徒の学力低下が危惧される昨今だが、それならばまず、秀才を不当に貶める風潮から改めることはできないものか。ムスカなら、こんな世間に向かって言うだろう。「諸君らのアホ面には、心底うんざりさせられる」と。

実は、水月昭道『高学歴ワーキングプア』(光文社新書)が暴露したように、日本は、高等専門教育を受けた人間が、その労力に見合う報酬が得られにくい社会である。同書によれば、博士後期課程修了者の就職率は、全体でも六割以下。しかも、「死亡・不詳の者」も約一割となっている。さらに人文・社会科学系に限ると、就職率は四割以下、「死亡・不詳の者」は約二割。異常な割合で、高学歴の「無職人・行方不明者・自殺者」を輩出しているということになる。この数字は、何を意味するのか。彼らが博士号取得にかけた時間と労力を考えると、気が遠くなってくる。

そう言えば、オウム真理教の地下鉄サリン事件の際、多くの人がエリートたちの「狂信」に身震いし、「なぜ、あんな高学歴のひとたちが……」と口をそろえた。だが、現実には、むしろ「高学歴エリートだからこそ」の狂信ではなかったのか。この事件を生み出した根は大変に深い。彼らの凶行は決して擁護できたものではないが、その要因についてはもっと多角的に検討されてしかるべきである。

人間の不満は、期待と現実の落差から生じるものである。同一の状況であっても、かけたコストが多いほど不満は高まる(これを、「相対的剥奪」という)。たとえ同じ無業者でも、高学歴・高度専門知識取得者ほど不平不満が大きいことは、容易に想像できるだろう。してみれば、昨今批判される若者の「やる気のなさ」は、無駄な努力をして過度な不満を抱かないための防衛反応とも考えられる。

日本では、大学の学部新卒者でなければ、一流企業に正規雇用される可能性は低い。このため、大学院修了者の就職事情はお寒い限りである。公務員試験は、近年年齢制限を緩和する傾向があるが、それでもいまだに中央省庁などでは、実質的に二五歳を過ぎると採用は厳しい。いわゆる「ポスドク問題」も取りざたされているが、一向に改善は見られない。このような中、海外へのいわゆる「頭脳流出」も止まらない。

ムスカらタイプMは、こんな日本社会の矛盾――不当な待遇に怒れる秀才たち――の象徴なのではないか。ムスカ人気は、日本社会の被抑圧者の心性を代弁しているからとも言える。彼のセリフの数々は、日本社会の欺瞞性を暴露するものにも聞こえないだろうか。とりわけ日本の学校文化・生徒文化では、露骨な競争意識の表明や、能力の誇示はタブー視されるが、ムスカのセリフは、この傾向への痛烈な皮肉にも聞こえる。そう。タイプMの特徴には、「悪にもかかわらず爽快」という点もあげられる。

また実際の就職の場では、多くの企業は学生を大学の偏差値別ランクによって選別しているのだが、その点も公教育現場では直接的には触れられない。旧来の階級制が戦後解体された日本では、実質的に人間に優劣の差異をつける指標は、学歴くらいしかない。日本はヨーロッパのような階級制の残滓が強固な社会に比べれば、相対的に地位の非一貫性は高く、社会の平等性も高い(所得・財産・威信など各指標の分布が比較的分散している)。

このような社会では、学歴が社会的地位の決定要因として大きく作用するため、相対的に学歴の価値が高いのである。だから、本当は誰もが学歴に過敏な社会と言える。余談になるが、この「社会の平等性」という前提も、近年再考を迫られている。いわゆる格差拡大の内実については、ここでは立ち入らない。ただ、「格差」の二文字がこれだけ人々を引きつけるのは、やはりタテマエ上の「平等」でさえもゆらいできているという、切迫した状況を示すと言える。

さて日本では、学歴が社会的地位決定に大きく影響する一方で、高度な専門知識を身につけるべく大学院に進学したり、留学して年数を経るようなことをしていると、あっという間に一般的な就職の道は遠のく。企業が必要としているのは、結局のところ知識ではなく、一流大学を最短年限で卒業としたという肩書きだけであり、学問の実質ではない。

このように、学歴についての矛盾と歪みが、いまだこの国には通底している。この点を覆い隠し、タテマエとしての平等性で糊塗すべく、「すっぱい葡萄」のように、秀才は性格が悪いなどと揶揄される。その欺瞞性に、子どもたちは辟易してはいないだろうか。

私見では、この社会・文化状況は非常に深刻である。日本は資源に乏しく、グローバル化の最中、労働集約型の産業は、人件費の安いアジア諸国には競争力の面で到底太刀打ちできない。企業は安い人件費を求めて生産現場を海外移転すればよいかもしれないが、国内の産業は空洞化し、雇用環境は悪化し、技術は海外に流出する。

今後日本が世界の中で存在感を発揮しつづけるためには、高付加価値商品を持続的に生み出し得るような、成熟した知識経済社会への移行が望ましいと考えるが、現状ではこの方向性は厳しい。今のままでは、やがて日本社会全体の技術力の低下や、文化資本の衰耗、なにより若年層を中心とした希望の減退と不満の噴出を招くことは必至である。

このような社会では、人々の間で、創造性や技術・知識の向上のような「互いを高めあう」ことを尊重する代わりに、足の引っ張り合いが大勢を占めることとなる。社会学者のジョック・ヤングは、下流のアイデンティティ構築ゲームとは、「他者を排除することによって自らのアイデンティティを形成し、同時に社会の主流文化(メインストリーム・カルチャー)から排除される」ことと論じたが、日本の社会・文化状況は、ますますこの傾向を強めているように見える。

知識経済社会への移行には、高付加価値商品を生み出すことの出来る高度な専門知識を有する人材の育成が不可欠である。だが、現状の博士後期課程修了者の置かれた惨憺たる状況が物語るように、日本は人間を、そして人間が身につけた技術や知識を尊重しない国である。日本は歴史も長く、所与の文化資本蓄積も豊富な国である。上手く誘導し、少なくとも現行の教育―就業システムを再編すれば、活路を見いだすことも不可能ではないはずなのに、「見ろ! 博士がゴミのようだ!」では浮かばれない。

現実問題として、近年若手研究者たちの職は、どんどん任期つきの短期契約に置き換えられていっている。たしかに大学院重点構想のもと、博士号取得者が増え、競争が熾烈化したことは否めない。だが、専門知識層を増やすことそれ自体は、繰り返し述べるが、今後の日本社会にとって決してマイナスではない。

問題は、これら知識層を有効活用する方途がいまだ開かれていない点である。研究職のみならず、企業も官公庁も率先して活用することはできないのか。よく引き合いに出されるフィンランド型教育のように、高度な学位取得者を初等教育にも充填するという方法もある。だが、日本社会は相変わらず、どころかますます若年層に苛烈な様相を呈していっている。こうした中、高度な知識をもった人材が、短期間で使い捨てられている。まるで『ブレードランナー』のレプリカントたちのように。

老婆心ながら、もう一点。タイプMの特徴には、「現実よりも抽象的な理念や理想(歪んだ独善的なものだが)を重視する」という点もあげられる。これが、ドラスティックな革新を求める彼らの悪行の原動力となる場合が多い。だが、「現実から遊離した抽象化された視点を要する」というのは、学究的姿勢の特徴でもある。よく世間では、「地に足がつかない」ことを一様に非難するが、この点と秀才が疎まれる傾向は同根のようにも見える。

そもそも人間は、目に見え手に触れられる現実とは別に、抽象化された理念をもち得るからこそ、技術を発展させてきた。いや、言うまでもなく、通貨も国民国家も、すべては抽象的理念の賜物である。私たちは、すでにそれらのただ中で生きているし、(所与の問題はありつつも)恩恵も受けている。だが、現代日本の文化的基調としては、「技術=悪」「自然=善」であり、前者の責めを負うのは、決まってタイプMなのである。

象徴的なことに、『天空の城ラピュタ』の結末で、ムスカは技術による現実の超克(=ラピュタの復活)を望み、こう叫ぶ。「ラピュタは滅びぬ。何度でも甦るさ、ラピュタの力こそ人類の夢だからだ!」と。ヒロインのシータが、「人は大地から離れては生きられない」と、ラピュタの滅亡を望むのとは対照的である。ムスカの言葉を、単なる悪役の捨てゼリフと切り捨てることはできない。

日本社会は、相変わらずタイプMたちの破滅の物語を、彼らの身から出た錆びのように描き続けるのだろうか? 社会は、実は恐れてはいないだろうか。何を? 全国のムスカたちが、自分たちが置かれた境遇を不当だと確信し、立ち上がる日がくることを。少なくとも、レプリカントは壮絶な父殺しをやってのけた。だが、この私のささやかな杞憂など意にも介さず、今日も世界は回り、こんな文章もまた大量の情報の海の中、藻屑となって消えていくのだろう。

そう。あらゆるものは、すべて消え去る。嵐の中の、ムスカの涙のように。


●水無田気流(みなした・きりう)
1970年、神奈川県出身。詩人、社会学者。
早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程単位取得満期退学。現在、東京工業大学世界文明センター・フェロー。
2003年、第41回現代詩手帖賞受賞。2006年、第1詩集『音速平和』で第11回中原中也賞受賞。2008年、第2詩集『Z境(ぜっきょう)』で第49回晩翠賞受賞。評論に『黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望』(光文社新書)、『無頼化する女たち』(新書y)がある。
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