担当者より:2010年4月に、作家の海猫沢めろんさんがアイソレーションタンクとそれにまつわる思想についてご執筆くださったものです。
配信日:2010/04/07
寒い。四月のはじめだというのに寒い。私は寒いのが苦手なので、早く春になればよいと願っているのですが、しかし、春になれば花粉が舞い、夏になればクソ暑い、秋は辛気くさく、そしてまた寒い冬がやって来るというわけで、まあ四季それぞれ面倒なことが多いと嘯きつつも、考えてみればどうせ真冬は部屋のエアコンを全開にして半袖で眠り、真夏には冷房を全開にして毛布にくるまって眠っているのだから、たいして四季など気にすることもないのではないか、と今気づきました。
しかし、この寒い時期にも多少ながら楽しみはあり、それがなにかと言えば、風呂に決まっております。今日などは、朝昼夕晩と四度も風呂にはいりました。めんどうなので風呂に住みたい。海面上昇して世界が風呂になればいいと思っております。
風呂といえば日本だけではなく昔はローマでもさかんだったそうで、先日のマンガ大賞に選ばれた『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン)というマンガには、そのあたりのことが描かれており、まさに日本は今、密かな風呂ブーム! しかし私の考える究極の風呂は、おそらくこのマンガには未来永劫、絶対に登場することはない。それがどのようなものなのか? その話をする前にひとつ別の話題を。
先日、『LOST』や『スタートレック』などでおなじみ、J.J.エイブラムス監督の新作海外ドラマ『FRINGE』を見た。これ、ざっくり言うと『Xファイル』をよりアップデートしたみたいな話です(ほんとにざっくりです)。以下概略――
国土安全保障省の監督の下、マサチューセッツ州ボストンを拠点に、FBIのFringeチームの活躍を描く。世界中で「パターン」と呼ばれる不可解な事件が発生、FBIの女性捜査官ダナムは、精神病院に幽閉されていた「fringe science」(非主流科学。境界科学)の第一人者であるビショップ博士の手を借りてその事件を解決する……。
――この「fringe science」というのはいわゆる「疑似科学」、要するに科学の皮をかぶったオカルトだ(疑似科学については『疑似科学入門』[岩波新書]などを参照)。マッドサイエンティストとして描かれているこのビショップ博士。一話目で主人公が、意識不明になってしまった恋人の夢の中に入るシーンがある。ここで博士が考案した方法は、頭に電極をぶっ刺して二人をつなげ、LSDを飲んだ主人公を、鉄でできた四角い水槽のなかにぷかぷか浮かべる、というもの。確かにマッドサイエンティストたるもの、脳に電極を刺すのが基本。正しい。だが今はそちらではなく水槽に注目してください。ちょうど学校なんかにあった四角い鉄の焼却炉を長方形の棺桶にしたような形で、表面が不気味に錆び付いている……。
この水槽は正式名称をアイソレーションタンクといって、アメリカの脳科学者、ジョン・C・リリー博士が1950年代に考案したものだ。一貫して人間の意識の問題を研究していたリリー博士は、全感覚を遮断したとき――つまり身体の外部から得られる情報がほぼゼロの状態――意識に何が起きるかということを研究しており、その過程でつくられたのがこのタンクである。
その後、博士の研究はどんどんディープな方向に深化していき、LSDやケタミンを飲んでタンクに入って幻覚を見たり、タンクで浮かぶことからの連想で、イルカとのコミュニケーションの研究にものめりこみ(ディエゴ・マラーニの『通訳』[東京創元社]は、このアイデアを取り入れた作品だと思われる)、地球暗号統制局〈ECCO〉と呼ばれる存在に遭遇したと主張したりして、アカデミズムからは完全に異端視されてしまう(あまりこういうことをご存じない方のために付記しますが、リリー博士は実在の人物です)。ビショップ博士のイメージがここから来ているのはほぼ間違いない。
で、話をもどすと、白金高輪にこのタンクが設置されているリラクゼーションルームがあり、私は数年前に一度そこでアイソレーションタンクに入ったことがある。結論から言うと、これこそ冒頭で書いた究極のお風呂だ。
店にいくと、まず主人がレクチャーしてくれる。ヨガにおける究極のポーズに「屍のポーズ」というものがあり、これはただ地面に寝ているだけにみえるが、完全に全身の力が抜けている状態であり、このタンクは修行なしでそれを体験させてくれるという。あるとき、店に禅僧がやってきて瞑想状態との差異を確かめられたらしいが、短時間で深い瞑想状態に入ることができたそうな。ご主人は生前のリリーさんと親交があり、信念を持ってここを運営されているようだ。
儀式を終え、言われたとおり水に感謝を捧げ(こういうのはセッティングが重要だ)、さっそく入ってみると風呂というには水深25cmくらいなので浅いのだが、温度は体温よりちょっと高め。中は水ではなく、塩化マグネシウムが溶かし込まれたエプソムソルトという液体で満たされている。この液体は体液に比べると非常に濃度が高く、長時間入ってもふやけず、肌にも優しいそうだ。気のせいか、すこしぬるっとした感じがするのと、かすかにケミカルな臭いがするくらいで特に気にならない。あおむけになって寝そべると、底に沈むことなく、無重力空間のように身体がぷかぷかと浮かぶ。入ってから15分後――。
あれ……?
しばらく、なにも見えない暗闇のなかでクラゲのように浮かんでいると、だんだん指先から感覚がフッと消失していくのを感じた。それから、頭のなかで固定された意識の輪郭が失われ、全空間に溶け、意識がひろがり、自分が気体のように薄められてすべての空間に存在しているような不思議な感覚と、万華鏡のようなイメージが次々にうかびあがっては消えていく。意識を集中させていると、ぼんやりと自分の身体感覚が後ろにズレて、身体から意識が離脱しかかっているのがわかった。しかし、なかなかそれ以上移動させることができず、中途半端に背後にズレ、背中からスタンド(幽波紋)が出ているような感覚のまま、気づけば60分が経過しており、セッションが終わった。
浮かんでいるときの意識は、瞑想状態や、明晰夢を見ている状態(二度寝してうつらうつらしてるような)とそっくりだった。おそらく子供の時や、大人になってから、人生のどこかでみんな一度は味わったことがあるだろう不思議な感覚のひとつで、人によってはなじみ深いものかもしれない。しかし、感覚を遮断しただけでここまで変性意識状態に入るものなのか……ということには驚いた。素人意見だが、意識が拡がったように思うのはたぶん皮膚感覚が遮断されるためにボディイメージが失われるせいだろう。意識は身体感覚からのフィードバックによって身体全体をイメージしているが、これは視覚の関係と似ている。
色というのは、光が物質に反射して網膜に届いてはじめてみえるのであって、最初から物質そのものにあるわけではない。われわれは常に反射した光によって、間接的な方法で世界を見ている(だからこそ、直接それ自体が発光するブラウン管中のCGはよりエロく見えるのだ!←こういうのが疑似科学です)。もはや古典的名作と言っても良い、R・P・ファインマンのエッセイ『ご冗談でしょうファインマンさん』(岩波現代文庫)にもアイソレーションタンクが登場するので紹介しよう(下巻「変えられた精神状態」。ちなみに立花隆も『臨死体験』[文春文庫]で体験を綴っていたはずだ)。
ノーベル賞物理学者であるファインマンさんは、以前から幻覚なるものが見たいと思っていたが、思考するということが仕事なので、思考を鈍らせる薬物なんかでそれを見ることには抵抗があった。しかしリリー博士と出会ってタンクの存在を知り、これなら安全っぽいと思い「いや俺、幻覚とかスゲエみてえ、マジ超みてえんすよ!」というかんじのノリでタンクに入るようになり、そのうちなんとケタミンを飲んだりマリファナ吸ったりして(本末転倒ですファインマンさん)タンクに入る。その結果、ファインマンさん、なんと幽体離脱できるようになったのである(ご冗談でしょうファインマンさん)。もちろんファインマンさんはそれが幻覚だと自覚しているのだが(正気で良かったファインマンさん)、それにしてもすごい好奇心である。ちなみにLSDやケタミンが規制されたのは60年代後半なので(たぶん)合法。マリファナのほうは……えー……時代が時代だけにまあタバコと変わらない感覚だったのだろう。ファインマンさんはオカルトや疑似科学には懐疑的だが、このタンクについては純粋な生理学的興味を抱いたようです。
(※余談ですが、どんな怪しいことでも体験してから自分の理性で物事を分析するファインマンさんは、このあとに続く章で、カリフォルニアにある神秘主義者の集まる場所エサレン[エサレンではなくエセレン=Esselenのほうが一般的のよう]という場所へ行ったときの話をしてくれる。ファインマンさんが海岸の崖にある温泉にはいっていると、裸の美女がやってきて同じ浴槽に身を浸す……というエロ漫画みたいなエピソードだが。どこか既視感があるシーンだと思っていたら、フランスの作家、ミシェル・ウエルベックの小説『素粒子』[ちくま文庫]だった。こちらは「変革の場」[「可能性のスペース」という実在する土地でウエルベック自身も会員だった]という、エセレンの影響下にある自己啓発系のコミュニティだ。ここで、主人公は満月の夜ジャグジーのなかにはいって、初対面の女性にフェラチオをされる。思想と文学とSFの混じり合った奇妙な作風で知られるウエルベックのことだから、まちがいなくファインマンの著作を読んでいるとは思うのだが、パクったわけではなく、おそらくこういった風景は当時のそういった場ではさほど珍しいものではなかったのでしょう……エロ漫画みたいですが)
オカルトや疑似科学文脈で語られがちなタンク、およびリリー博士ですが、彼のやろうとしたことは世の中で誤解されすぎている。彼の著作『意識(サイクロン)の中心』(平河出版社)を読むと、LSDをやるまでに慎重にいろんなことを考え、決して軽い気持ちでそのような実験を試みたのではないことが窺える。個人的にいろんなトラウマを抱えていた彼は、自分を救済するために、宗教やオカルトや擬似科学を使わないで、あくまで「科学的」に、宗教によらぬ救いを探るということが主眼だったように思える。
ただし当時は「心を科学する」ということが、今よりも遙に困難だったのだ。彼を神秘主義的という印象だけで超越論の人と見ることは正しくない。リリー博士は人間をコンピューターに見立てて、意識の根本を変えることをメタプログラミングすると言ったが、これは鈴木大拙の『禅』(ちくま文庫)の影響だろう。心理療法において、自動思考を自覚させる治療にも近い。最近の脳科学などでは、自我というのはウィンドウズとIEの関係みたいなもので、後付でくっつけられたアプリとする見方がある。こうした議論の元となったのは「行為」と「意識」のタイムラグにまつわるベンジャミン・リベットの実験である(詳しく知りたい方は『マインド・タイム 脳と意識の時間』[岩波書店]、『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』[紀伊國屋書店])。実験自体への懐疑がないわけではないが、現在この実験にまつわる議論は「自由意志の有無」へとひろがっているようだ。
しかし、そもそもここで問題になっている意志とはなにか? アンスコムによると意図的な行為というのは「なぜ」に答えられる行為だという、つまり論理的帰結に基づいてなされる動作が「意図」なのである。当たり前だが人間の行為はすべてを「意図」しているわけではない。ゆえに「自由意志」と「自由であること」を短絡的に結びつけるのは軽率だ。強く心に決めた「決定」のことを「意志」とするデカルトやロックの考え方は厳密ではない。
意図を意識的と言い換えることが許されるなら、リリー博士のメタプログラミングとはこの「意図」や「自由意志」を自ら変化させることだった。これはある意味で真の自由意志と考えることができないだろうか? なぜなら「自由意志」を「意志」の力で変えてしまうのだから! 認知療法の有効性からすると、これは荒唐無稽な話ではない(むろん、意志を変えようとした「意志」のもとになった「「意志」」……というふうにこの意志はリカージョンする。ゆえに、完全な「自由意志」は存在していないという反論がありそうだが、自由とはそもそも全能であることではない。制約のなかで生まれる差異を減らすことが時空にしばられた人間に許された自由なのである。たぶん)。
リリー博士がこの精神探求の過程で、少しばかり妙な妄想にとらわれたにせよ、科学的スタンス――客観的視点、実験による反復的検証――を捨てようとしなかったのは尊敬に値する。彼は教祖になることを否定していたし、なにかを盲信することや、思考停止に陥ることも嫌い、“私は独断的教義や、秘教的スクールの独断的な「唯一無二の真理」が嫌いだ。”と書いてもいる。彼が「禅」、およびその中心である「悟り」に興味をもったのもその文脈では道理が通っている。釈迦の思想や経典よりも、行動をトレースしようという「禅」は宗教というより文化とかスタイルに近いもので、教祖や教義なんかいらないはずのものなのだ。彼が一貫して人間による人間の救済と解放、というのを考えていたことは疑う余地がない……が、問題はファインマンさんも指摘する通り、彼の経験の実在性についての考え方にある。それはこういうものだ。
定義)ある主観的経験が、他の人にも再現できるならばそれは事実だとみなせる。
前提は問題ない。「私もあなたも殴られたら痛い。痛みは事実だ」ではこんな証明はどうか。
証明)宇宙人が幻覚に現れた。他の多くの人もまったく同じ宇宙人の幻覚を見た。宇宙人は実在している。
そもそも幻覚だとか、宇宙人がいるいないの問題はあるが、たとえばその同じ幻覚を同日同時刻に1億人が見ていたらどうだろう。これは論理的には主観的経験が他の人にも再現されているといえまいか。だとすれば、リリーの言っていることは何の問題もないことになりそうだが、しかし、ファインマンさんは論理性ではなく、その場にいた人々の心の持ちようを問題にする。曰く「強く合意しようという前提で見ているのだから信頼できるデータになるわけがない」。これはもう身も蓋もない話で、現実でも幽霊を見ようとして枯れ尾花を見たら、「たぶん……幽霊だと思う……いや幽霊でした!」みたいなことになりがちで、幻覚ならなおさらこういうことが起きるだろうという話である。確かに経験の実在性とは妄想の摺り合わせではない。しかし、ファインマンさんもこれはこれでちょっとぶった切りすぎだと思う。そこではなく、
定義)ある主観的経験が、他の人にも再現できるならばそれは事実だとみなせる。
これが問題ではないか。「私もあなたも殴られたら痛い」と書いたが、それは本当だろうか? 「痛みは事実だ」 なぜ? 相手は無痛症かもしれない。(こうした問題は他我問題とか、独我論とか、意識の問題として昔からいろんな人が考えているが、最近の生理学的アプローチによってかなり変化しつつある。たとえばメルロ=ポンティの間身体性の説明にはミラーニューロンが使えるだろう)。
つまりこれは「客観的に主観を証明できるかどうか」という問題だ。もちろん答えはNOである。なぜなら人間は完全に客観的であることはできないからだ。こう考えると、これは数学においてゲーデルが証明した不完全性定理の問題に近い。論理を超えてこの限界の先へ進もうとすれば、当然話は超越論的なトーンを帯びてくる。なぜならもはやその先は論理を使うことでは進めないからだ。
おそらくリリーはこの問題をつきつめて考えた結果、我々が体験したこともないような深くて神秘的な意識状態にまで達したのだろう。それが単なる妄想だったのか、そうでないのか、結果的にそれで救われたのかどうかはわからない。そもそも救いは個人的な問題なのだから他者が口だしするようなものではない。わかるのは、意識には論理で割り切れる部分とそうでない部分が両方存在しているということだ。
しかしだからといって神秘主義を信奉するのも違う。当たり前だが神秘と科学というのは対立するものではなく、共存が可能だ。中世のすぐれた科学者や哲学者の多くは神学者でもあった。彼らには神秘に対する畏敬と同時に、それに囚われない自由で理性的発想も持ち合わせていた(むろん弊害も多かったのだが……)。
科学と神秘の対立に悩む人間の姿は、ジョン・ホーガンの『科学を捨て神秘へと向かう理性』(徳間書店)のなかに色濃く描かれている。ここでのホーガンは典型的な西洋的な合理主義と原罪意識を持った人として読める(対象と自分とをふくむ全体を客観視して描くという意味では森達也の本にも近いものを感じる)。この本で描かれているのは神秘ではなく、人間自体の救われなさとそのことの肯定である。九鬼周造の言葉で云えば、人は神のような獣なのだ。だからこそ私は神ではなく獣ではなく、そのすべてを可能にする人間にこそ用がある。
私はタンクに入り終わったあと、お店の主人に、個人的になにか不思議な体験をしたことがあるかどうかたずねてみた。そうすると主人は、このような話をしてくれた。ある日の午後、いつものようにタンクにはいって浮かび、目を開けるととつぜん天井が透けた。おどろいて見ていると、なにか丸いものが見え、どうやらそれは上においてある花瓶の底面らしい。主人は、透視能力開花した! と思い、すぐに外に出て、タンクの上を確認してみると、花瓶など存在していなかった……という(脳内でレンダリングされたデータを見ていたのだろうか……)。
あとは、幽体離脱はわりと頻繁に起きるのだという。他にもこのタンクにはいろんな効果があり、とにかく「すべてゆだねる」ということが重要で、そうすれば自分の重要なことや行動すべきことが、勝手にあちらからやってくる、いわゆる「引き寄せの法則」のような出来事や、さまざまな偶然に気づきやすくなるのだとか。人によると、このような態度を思考停止だとか思われるかもしれないが、目の前のご主人は単に思考停止したオプティミストには見えなかった。ゆだねるというのは思考停止することではなく、いい意味でさまざまな思い込みから自由になるということなのだろう。
……ただし、あたりまえだがそこにつけ込む人間もいれば、それを逃げ場にする人間もいる。人は生きている限り「すべてをゆだねる」などということは不可能である。肉体があり、精神があり、環境がある、そのすべてを含んだ関係性も人というものの総体なのである。苦しみ続け、それに耐え続ける。そのなかにこそ生というものは存在している。それを受け入れることもまた「ゆだねる」ということなのかもしれない。私は、そういうこともあるかもしれぬというような心持ちで帰宅した。
困ったことに、家に帰ってもしばらくスタンドが出っぱなしだったが、それも一週間ほどで消えた。その後はとくに変わったこともなかった。
先日、また久しぶりタンクに浮かんだのだが、初回に感じた意識の拡張はなぜかまったく起こらない。耳栓を使っているのがいかんのだろうかと思い、一度出てから耳栓をはずして入ると、10分ほどで以前のような瞑想状態にはいることができた。ただ、あまりイメージはひろがらず、困ったことに、先日映画館でみた『涼宮ハルヒの消失』の、長門有希の悲しげな顔が……。
その後、駅前でカレーを食べて家に帰り、ラジオを聞きながらぼーっとしていると、いきなりラジオのボリュームがあがり「18になったら免許がとれるね!」という声が聞こえた。はっ! と、思い出し机の中を見ると、車の運転免許所の更新期限が数日後に迫っていた――危なかった――。そうか、これが店の主人が言っていた「気づき」か……と、ラジオで喋り続ける平井堅に感謝した(これはマジで助かった)。
興味と機会があれば皆さんもこれをぜひ体験してみてはいかがだろう。そこで得られるあなたの体験と、私の体験とはちがうかもしれない、しかしそれを経験したということで、そこであなたと私は実在性の問題を共有するのである。それについて自分の考えが誰かと衝突し、揺らぎ、混乱してもかまわないのだ。なにが現実でなにが非現実かを議論するよりも、その運動、ゆらぎ、あまり、矛盾をもっと、のぼせるまで。それは人間という宇宙のための、究極の風呂なのかも知れない。
違うかも知れないけど……。
●海猫沢めろん(うみねこざわ・めろん)
作家。
著書に『全滅脳フューチャー!!!』(太田出版)、『零式』(ハヤカワ文庫JA)などがある。
サイト:海猫沢めろん公式サイト
配信日:2010/04/07
寒い。四月のはじめだというのに寒い。私は寒いのが苦手なので、早く春になればよいと願っているのですが、しかし、春になれば花粉が舞い、夏になればクソ暑い、秋は辛気くさく、そしてまた寒い冬がやって来るというわけで、まあ四季それぞれ面倒なことが多いと嘯きつつも、考えてみればどうせ真冬は部屋のエアコンを全開にして半袖で眠り、真夏には冷房を全開にして毛布にくるまって眠っているのだから、たいして四季など気にすることもないのではないか、と今気づきました。
しかし、この寒い時期にも多少ながら楽しみはあり、それがなにかと言えば、風呂に決まっております。今日などは、朝昼夕晩と四度も風呂にはいりました。めんどうなので風呂に住みたい。海面上昇して世界が風呂になればいいと思っております。
風呂といえば日本だけではなく昔はローマでもさかんだったそうで、先日のマンガ大賞に選ばれた『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン)というマンガには、そのあたりのことが描かれており、まさに日本は今、密かな風呂ブーム! しかし私の考える究極の風呂は、おそらくこのマンガには未来永劫、絶対に登場することはない。それがどのようなものなのか? その話をする前にひとつ別の話題を。
先日、『LOST』や『スタートレック』などでおなじみ、J.J.エイブラムス監督の新作海外ドラマ『FRINGE』を見た。これ、ざっくり言うと『Xファイル』をよりアップデートしたみたいな話です(ほんとにざっくりです)。以下概略――
国土安全保障省の監督の下、マサチューセッツ州ボストンを拠点に、FBIのFringeチームの活躍を描く。世界中で「パターン」と呼ばれる不可解な事件が発生、FBIの女性捜査官ダナムは、精神病院に幽閉されていた「fringe science」(非主流科学。境界科学)の第一人者であるビショップ博士の手を借りてその事件を解決する……。
――この「fringe science」というのはいわゆる「疑似科学」、要するに科学の皮をかぶったオカルトだ(疑似科学については『疑似科学入門』[岩波新書]などを参照)。マッドサイエンティストとして描かれているこのビショップ博士。一話目で主人公が、意識不明になってしまった恋人の夢の中に入るシーンがある。ここで博士が考案した方法は、頭に電極をぶっ刺して二人をつなげ、LSDを飲んだ主人公を、鉄でできた四角い水槽のなかにぷかぷか浮かべる、というもの。確かにマッドサイエンティストたるもの、脳に電極を刺すのが基本。正しい。だが今はそちらではなく水槽に注目してください。ちょうど学校なんかにあった四角い鉄の焼却炉を長方形の棺桶にしたような形で、表面が不気味に錆び付いている……。
この水槽は正式名称をアイソレーションタンクといって、アメリカの脳科学者、ジョン・C・リリー博士が1950年代に考案したものだ。一貫して人間の意識の問題を研究していたリリー博士は、全感覚を遮断したとき――つまり身体の外部から得られる情報がほぼゼロの状態――意識に何が起きるかということを研究しており、その過程でつくられたのがこのタンクである。
その後、博士の研究はどんどんディープな方向に深化していき、LSDやケタミンを飲んでタンクに入って幻覚を見たり、タンクで浮かぶことからの連想で、イルカとのコミュニケーションの研究にものめりこみ(ディエゴ・マラーニの『通訳』[東京創元社]は、このアイデアを取り入れた作品だと思われる)、地球暗号統制局〈ECCO〉と呼ばれる存在に遭遇したと主張したりして、アカデミズムからは完全に異端視されてしまう(あまりこういうことをご存じない方のために付記しますが、リリー博士は実在の人物です)。ビショップ博士のイメージがここから来ているのはほぼ間違いない。
で、話をもどすと、白金高輪にこのタンクが設置されているリラクゼーションルームがあり、私は数年前に一度そこでアイソレーションタンクに入ったことがある。結論から言うと、これこそ冒頭で書いた究極のお風呂だ。
店にいくと、まず主人がレクチャーしてくれる。ヨガにおける究極のポーズに「屍のポーズ」というものがあり、これはただ地面に寝ているだけにみえるが、完全に全身の力が抜けている状態であり、このタンクは修行なしでそれを体験させてくれるという。あるとき、店に禅僧がやってきて瞑想状態との差異を確かめられたらしいが、短時間で深い瞑想状態に入ることができたそうな。ご主人は生前のリリーさんと親交があり、信念を持ってここを運営されているようだ。
儀式を終え、言われたとおり水に感謝を捧げ(こういうのはセッティングが重要だ)、さっそく入ってみると風呂というには水深25cmくらいなので浅いのだが、温度は体温よりちょっと高め。中は水ではなく、塩化マグネシウムが溶かし込まれたエプソムソルトという液体で満たされている。この液体は体液に比べると非常に濃度が高く、長時間入ってもふやけず、肌にも優しいそうだ。気のせいか、すこしぬるっとした感じがするのと、かすかにケミカルな臭いがするくらいで特に気にならない。あおむけになって寝そべると、底に沈むことなく、無重力空間のように身体がぷかぷかと浮かぶ。入ってから15分後――。
あれ……?
しばらく、なにも見えない暗闇のなかでクラゲのように浮かんでいると、だんだん指先から感覚がフッと消失していくのを感じた。それから、頭のなかで固定された意識の輪郭が失われ、全空間に溶け、意識がひろがり、自分が気体のように薄められてすべての空間に存在しているような不思議な感覚と、万華鏡のようなイメージが次々にうかびあがっては消えていく。意識を集中させていると、ぼんやりと自分の身体感覚が後ろにズレて、身体から意識が離脱しかかっているのがわかった。しかし、なかなかそれ以上移動させることができず、中途半端に背後にズレ、背中からスタンド(幽波紋)が出ているような感覚のまま、気づけば60分が経過しており、セッションが終わった。
浮かんでいるときの意識は、瞑想状態や、明晰夢を見ている状態(二度寝してうつらうつらしてるような)とそっくりだった。おそらく子供の時や、大人になってから、人生のどこかでみんな一度は味わったことがあるだろう不思議な感覚のひとつで、人によってはなじみ深いものかもしれない。しかし、感覚を遮断しただけでここまで変性意識状態に入るものなのか……ということには驚いた。素人意見だが、意識が拡がったように思うのはたぶん皮膚感覚が遮断されるためにボディイメージが失われるせいだろう。意識は身体感覚からのフィードバックによって身体全体をイメージしているが、これは視覚の関係と似ている。
色というのは、光が物質に反射して網膜に届いてはじめてみえるのであって、最初から物質そのものにあるわけではない。われわれは常に反射した光によって、間接的な方法で世界を見ている(だからこそ、直接それ自体が発光するブラウン管中のCGはよりエロく見えるのだ!←こういうのが疑似科学です)。もはや古典的名作と言っても良い、R・P・ファインマンのエッセイ『ご冗談でしょうファインマンさん』(岩波現代文庫)にもアイソレーションタンクが登場するので紹介しよう(下巻「変えられた精神状態」。ちなみに立花隆も『臨死体験』[文春文庫]で体験を綴っていたはずだ)。
ノーベル賞物理学者であるファインマンさんは、以前から幻覚なるものが見たいと思っていたが、思考するということが仕事なので、思考を鈍らせる薬物なんかでそれを見ることには抵抗があった。しかしリリー博士と出会ってタンクの存在を知り、これなら安全っぽいと思い「いや俺、幻覚とかスゲエみてえ、マジ超みてえんすよ!」というかんじのノリでタンクに入るようになり、そのうちなんとケタミンを飲んだりマリファナ吸ったりして(本末転倒ですファインマンさん)タンクに入る。その結果、ファインマンさん、なんと幽体離脱できるようになったのである(ご冗談でしょうファインマンさん)。もちろんファインマンさんはそれが幻覚だと自覚しているのだが(正気で良かったファインマンさん)、それにしてもすごい好奇心である。ちなみにLSDやケタミンが規制されたのは60年代後半なので(たぶん)合法。マリファナのほうは……えー……時代が時代だけにまあタバコと変わらない感覚だったのだろう。ファインマンさんはオカルトや疑似科学には懐疑的だが、このタンクについては純粋な生理学的興味を抱いたようです。
(※余談ですが、どんな怪しいことでも体験してから自分の理性で物事を分析するファインマンさんは、このあとに続く章で、カリフォルニアにある神秘主義者の集まる場所エサレン[エサレンではなくエセレン=Esselenのほうが一般的のよう]という場所へ行ったときの話をしてくれる。ファインマンさんが海岸の崖にある温泉にはいっていると、裸の美女がやってきて同じ浴槽に身を浸す……というエロ漫画みたいなエピソードだが。どこか既視感があるシーンだと思っていたら、フランスの作家、ミシェル・ウエルベックの小説『素粒子』[ちくま文庫]だった。こちらは「変革の場」[「可能性のスペース」という実在する土地でウエルベック自身も会員だった]という、エセレンの影響下にある自己啓発系のコミュニティだ。ここで、主人公は満月の夜ジャグジーのなかにはいって、初対面の女性にフェラチオをされる。思想と文学とSFの混じり合った奇妙な作風で知られるウエルベックのことだから、まちがいなくファインマンの著作を読んでいるとは思うのだが、パクったわけではなく、おそらくこういった風景は当時のそういった場ではさほど珍しいものではなかったのでしょう……エロ漫画みたいですが)
オカルトや疑似科学文脈で語られがちなタンク、およびリリー博士ですが、彼のやろうとしたことは世の中で誤解されすぎている。彼の著作『意識(サイクロン)の中心』(平河出版社)を読むと、LSDをやるまでに慎重にいろんなことを考え、決して軽い気持ちでそのような実験を試みたのではないことが窺える。個人的にいろんなトラウマを抱えていた彼は、自分を救済するために、宗教やオカルトや擬似科学を使わないで、あくまで「科学的」に、宗教によらぬ救いを探るということが主眼だったように思える。
ただし当時は「心を科学する」ということが、今よりも遙に困難だったのだ。彼を神秘主義的という印象だけで超越論の人と見ることは正しくない。リリー博士は人間をコンピューターに見立てて、意識の根本を変えることをメタプログラミングすると言ったが、これは鈴木大拙の『禅』(ちくま文庫)の影響だろう。心理療法において、自動思考を自覚させる治療にも近い。最近の脳科学などでは、自我というのはウィンドウズとIEの関係みたいなもので、後付でくっつけられたアプリとする見方がある。こうした議論の元となったのは「行為」と「意識」のタイムラグにまつわるベンジャミン・リベットの実験である(詳しく知りたい方は『マインド・タイム 脳と意識の時間』[岩波書店]、『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』[紀伊國屋書店])。実験自体への懐疑がないわけではないが、現在この実験にまつわる議論は「自由意志の有無」へとひろがっているようだ。
しかし、そもそもここで問題になっている意志とはなにか? アンスコムによると意図的な行為というのは「なぜ」に答えられる行為だという、つまり論理的帰結に基づいてなされる動作が「意図」なのである。当たり前だが人間の行為はすべてを「意図」しているわけではない。ゆえに「自由意志」と「自由であること」を短絡的に結びつけるのは軽率だ。強く心に決めた「決定」のことを「意志」とするデカルトやロックの考え方は厳密ではない。
意図を意識的と言い換えることが許されるなら、リリー博士のメタプログラミングとはこの「意図」や「自由意志」を自ら変化させることだった。これはある意味で真の自由意志と考えることができないだろうか? なぜなら「自由意志」を「意志」の力で変えてしまうのだから! 認知療法の有効性からすると、これは荒唐無稽な話ではない(むろん、意志を変えようとした「意志」のもとになった「「意志」」……というふうにこの意志はリカージョンする。ゆえに、完全な「自由意志」は存在していないという反論がありそうだが、自由とはそもそも全能であることではない。制約のなかで生まれる差異を減らすことが時空にしばられた人間に許された自由なのである。たぶん)。
リリー博士がこの精神探求の過程で、少しばかり妙な妄想にとらわれたにせよ、科学的スタンス――客観的視点、実験による反復的検証――を捨てようとしなかったのは尊敬に値する。彼は教祖になることを否定していたし、なにかを盲信することや、思考停止に陥ることも嫌い、“私は独断的教義や、秘教的スクールの独断的な「唯一無二の真理」が嫌いだ。”と書いてもいる。彼が「禅」、およびその中心である「悟り」に興味をもったのもその文脈では道理が通っている。釈迦の思想や経典よりも、行動をトレースしようという「禅」は宗教というより文化とかスタイルに近いもので、教祖や教義なんかいらないはずのものなのだ。彼が一貫して人間による人間の救済と解放、というのを考えていたことは疑う余地がない……が、問題はファインマンさんも指摘する通り、彼の経験の実在性についての考え方にある。それはこういうものだ。
定義)ある主観的経験が、他の人にも再現できるならばそれは事実だとみなせる。
前提は問題ない。「私もあなたも殴られたら痛い。痛みは事実だ」ではこんな証明はどうか。
証明)宇宙人が幻覚に現れた。他の多くの人もまったく同じ宇宙人の幻覚を見た。宇宙人は実在している。
そもそも幻覚だとか、宇宙人がいるいないの問題はあるが、たとえばその同じ幻覚を同日同時刻に1億人が見ていたらどうだろう。これは論理的には主観的経験が他の人にも再現されているといえまいか。だとすれば、リリーの言っていることは何の問題もないことになりそうだが、しかし、ファインマンさんは論理性ではなく、その場にいた人々の心の持ちようを問題にする。曰く「強く合意しようという前提で見ているのだから信頼できるデータになるわけがない」。これはもう身も蓋もない話で、現実でも幽霊を見ようとして枯れ尾花を見たら、「たぶん……幽霊だと思う……いや幽霊でした!」みたいなことになりがちで、幻覚ならなおさらこういうことが起きるだろうという話である。確かに経験の実在性とは妄想の摺り合わせではない。しかし、ファインマンさんもこれはこれでちょっとぶった切りすぎだと思う。そこではなく、
定義)ある主観的経験が、他の人にも再現できるならばそれは事実だとみなせる。
これが問題ではないか。「私もあなたも殴られたら痛い」と書いたが、それは本当だろうか? 「痛みは事実だ」 なぜ? 相手は無痛症かもしれない。(こうした問題は他我問題とか、独我論とか、意識の問題として昔からいろんな人が考えているが、最近の生理学的アプローチによってかなり変化しつつある。たとえばメルロ=ポンティの間身体性の説明にはミラーニューロンが使えるだろう)。
つまりこれは「客観的に主観を証明できるかどうか」という問題だ。もちろん答えはNOである。なぜなら人間は完全に客観的であることはできないからだ。こう考えると、これは数学においてゲーデルが証明した不完全性定理の問題に近い。論理を超えてこの限界の先へ進もうとすれば、当然話は超越論的なトーンを帯びてくる。なぜならもはやその先は論理を使うことでは進めないからだ。
おそらくリリーはこの問題をつきつめて考えた結果、我々が体験したこともないような深くて神秘的な意識状態にまで達したのだろう。それが単なる妄想だったのか、そうでないのか、結果的にそれで救われたのかどうかはわからない。そもそも救いは個人的な問題なのだから他者が口だしするようなものではない。わかるのは、意識には論理で割り切れる部分とそうでない部分が両方存在しているということだ。
しかしだからといって神秘主義を信奉するのも違う。当たり前だが神秘と科学というのは対立するものではなく、共存が可能だ。中世のすぐれた科学者や哲学者の多くは神学者でもあった。彼らには神秘に対する畏敬と同時に、それに囚われない自由で理性的発想も持ち合わせていた(むろん弊害も多かったのだが……)。
科学と神秘の対立に悩む人間の姿は、ジョン・ホーガンの『科学を捨て神秘へと向かう理性』(徳間書店)のなかに色濃く描かれている。ここでのホーガンは典型的な西洋的な合理主義と原罪意識を持った人として読める(対象と自分とをふくむ全体を客観視して描くという意味では森達也の本にも近いものを感じる)。この本で描かれているのは神秘ではなく、人間自体の救われなさとそのことの肯定である。九鬼周造の言葉で云えば、人は神のような獣なのだ。だからこそ私は神ではなく獣ではなく、そのすべてを可能にする人間にこそ用がある。
私はタンクに入り終わったあと、お店の主人に、個人的になにか不思議な体験をしたことがあるかどうかたずねてみた。そうすると主人は、このような話をしてくれた。ある日の午後、いつものようにタンクにはいって浮かび、目を開けるととつぜん天井が透けた。おどろいて見ていると、なにか丸いものが見え、どうやらそれは上においてある花瓶の底面らしい。主人は、透視能力開花した! と思い、すぐに外に出て、タンクの上を確認してみると、花瓶など存在していなかった……という(脳内でレンダリングされたデータを見ていたのだろうか……)。
あとは、幽体離脱はわりと頻繁に起きるのだという。他にもこのタンクにはいろんな効果があり、とにかく「すべてゆだねる」ということが重要で、そうすれば自分の重要なことや行動すべきことが、勝手にあちらからやってくる、いわゆる「引き寄せの法則」のような出来事や、さまざまな偶然に気づきやすくなるのだとか。人によると、このような態度を思考停止だとか思われるかもしれないが、目の前のご主人は単に思考停止したオプティミストには見えなかった。ゆだねるというのは思考停止することではなく、いい意味でさまざまな思い込みから自由になるということなのだろう。
……ただし、あたりまえだがそこにつけ込む人間もいれば、それを逃げ場にする人間もいる。人は生きている限り「すべてをゆだねる」などということは不可能である。肉体があり、精神があり、環境がある、そのすべてを含んだ関係性も人というものの総体なのである。苦しみ続け、それに耐え続ける。そのなかにこそ生というものは存在している。それを受け入れることもまた「ゆだねる」ということなのかもしれない。私は、そういうこともあるかもしれぬというような心持ちで帰宅した。
困ったことに、家に帰ってもしばらくスタンドが出っぱなしだったが、それも一週間ほどで消えた。その後はとくに変わったこともなかった。
先日、また久しぶりタンクに浮かんだのだが、初回に感じた意識の拡張はなぜかまったく起こらない。耳栓を使っているのがいかんのだろうかと思い、一度出てから耳栓をはずして入ると、10分ほどで以前のような瞑想状態にはいることができた。ただ、あまりイメージはひろがらず、困ったことに、先日映画館でみた『涼宮ハルヒの消失』の、長門有希の悲しげな顔が……。
その後、駅前でカレーを食べて家に帰り、ラジオを聞きながらぼーっとしていると、いきなりラジオのボリュームがあがり「18になったら免許がとれるね!」という声が聞こえた。はっ! と、思い出し机の中を見ると、車の運転免許所の更新期限が数日後に迫っていた――危なかった――。そうか、これが店の主人が言っていた「気づき」か……と、ラジオで喋り続ける平井堅に感謝した(これはマジで助かった)。
興味と機会があれば皆さんもこれをぜひ体験してみてはいかがだろう。そこで得られるあなたの体験と、私の体験とはちがうかもしれない、しかしそれを経験したということで、そこであなたと私は実在性の問題を共有するのである。それについて自分の考えが誰かと衝突し、揺らぎ、混乱してもかまわないのだ。なにが現実でなにが非現実かを議論するよりも、その運動、ゆらぎ、あまり、矛盾をもっと、のぼせるまで。それは人間という宇宙のための、究極の風呂なのかも知れない。
違うかも知れないけど……。
●海猫沢めろん(うみねこざわ・めろん)
作家。
著書に『全滅脳フューチャー!!!』(太田出版)、『零式』(ハヤカワ文庫JA)などがある。
サイト:海猫沢めろん公式サイト
