担当者より:ブロガー・ライターの大熊信さんにフィリピーナを通して日本の国際化に関して論じていただいた原稿です。なお、漫画『愛しのアイリーン』の結末に触れておりますので、あらかじめご了承ください。

配信日:2010/05/26


2006年、日本人とフィリピン人の国際結婚件数が急激に増加し、中国人を抜いてトップに立った。90年代から日比国際結婚の数は増え続け、1992年から2007年の統計で計12万組。特に05年、06年は急激に増加し年間1万2千組にまでなった。実に日本の国際結婚の3分の1がフィリピン人になる計算だ。ただしその99%が日本人男性とフィリピン人女性、いわゆるフィリピーナとの結婚。そして2007年になると8千500組に減少し、それ以降急速に減り続けている。この極端な数字の変化はなぜ起きたのだろうか。

1973年、日本は変動相場制に移行し急激な円高が起こった。それまで贅沢だった海外旅行が一般化して旅行会社はバブル状態。そんな中、旅行会社の中には大人気商材としてアジアへの買春を目当てとするツアーを組むものも登場した。ベトナム戦争以降、在留米軍に向けの性風俗産業がアジア各国で急成長しており、それを受け皿にするかたちで流行したのだ。当時は客に買春を斡旋する旅行会社があったり、“キーセン(朝鮮における高級娼婦)観光”などと呼ばれるツアーもあった。

72年の戒厳令の布告以降、治安が安定し始めたフィリピンは特に人気が高かった。そして同時に円を稼ぎに来日するフィリピーナも増え始める。これがいわゆる“ジャパゆきさん”の始まり。この言葉は戦前九州の貧しい農村から東アジア、東南アジアへ娼婦として出稼ぎに行った女性「からゆきさん」からきている。確かにジャパゆきさんの買春が行われることも少なくなかったが、大多数はフィリピンパブで働く「タレント」だった。82年になってようやく旅行会社の買春斡旋を取り締まる法律ができたが、すでに日本人は陽気で人懐っこい性格のフィリピーナの虜。現地に行けないとなると今度は日本でフィリピンパブが増え始め、ジャパゆきさんは流行語にまでなったのだ。

72年に興行ビザで来日したフィリピン人は570人。それが87年には3万6000人と60倍に触れ上がった。女優のルビー・モレノもそんなジャパゆきさんの一人。83年に18歳で来日した彼女は、21歳でスカウトされフィリピンパブで働きながら芸能活動をしていた。92年にドラマ『愛という名のもとに』で知名度を上げ、93年の映画『月はどっちに出ている』で日本国内の主演女優賞を総なめにした。どちらの作品でもホステス役を演じた彼女は、当時のフィリピンパブの流行を象徴する存在だ。

『愛という名のもとに』で描かれたのは、「金」と「性」というかみ合わない日本人男性とフィリピーナの関係だったが、実際にはその頃からロマンスも増えていた。象徴的なのが日比の国際結婚。82年には340件だった日比結婚が92年には5825件にまで増加。90年、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した久田恵の『フィリッピーナを愛した男たち』は、そのような都市部における様々な日本人男性とフィリピーナの恋愛・結婚を描いている。

さらに88年の法改正で地価が高い都市部での営業が難しくなったフィリピンパブが東北地方に広まり、それが農村部の「嫁不足」と相まって出会いの社交場になった。95年に連載が始まった新井秀樹の漫画『愛しのアイリーン』は、そんな東北の農家の一人息子岩男とフィリピン人少女アイリーンの結婚を描いた快作だ。

『愛しのアイリーン』の後半、寝たきりの姑を介護するアイリーンの姿に象徴されるように、一般的に情に厚く働き者のフィリピーナは多く、なにより人懐っこい性格は異なる社会にもなじみやすい。近年、群馬のブラジル人街や東京西葛西のインド人街が話題になるが、これほど多くのフィリピン人が来日しているのにも関わらず、フィリピン人街を作った話は聞かない。フィリピーナたちは日本社会にある意味で “同化”していくのではないか。『愛しのアイリーン』ではラストシーンで夫とふたりの子供と公園で戯れるアイリーンの姿が描かれる。そこでのアイリーンは東北弁を話し、浅黒い肌以外は完全な日本人だ。

2007年、過疎化が進む秋田県上小阿仁村の村長選挙で当選した小林宏晨氏は、公約に「フィリピン人女性との良縁推進」を掲げていた。実際、今の上小阿仁村では公式にフィリピン人女性との国際結婚の公募や、フィリピン人対象の日本語教室も行っている。2010年3月、上小阿仁村では僻地医療のベテラン医師が村人の嫌がらせを原因に辞意表明したことがニュースになった。それ以前にも外から来る医者が村人と確執起こし辞めてしまうことが度々あったそうだ。小林氏がそんな保守的な土地柄で、どこの国でもなくフィリピン人女性を過疎対策として考えたのは、“同化”していくフィリピーナの資質を踏まえてのことではないだろうか。

これらの日比国際結婚で生まれたハーフの子供たち「ジャピーノ」は、現在日本国内に15万人以上いるといわれる。彼らのほとんどは普通の日本人名で、フィリピン語を話せず、少し濃い顔立ちくらいにしかルーツを見出すことができない。しかし最近彼らはティーン誌のモデルに多く進出し、その濃い顔立ちとスタイルの良さで人気が高い。ジャピーノたちは『愛という名のもとに』のフィリピン人像ではなく、もはや憧れの対象。彼ら90年代に生まれたジャピーノたちが10代後半を迎え社会に進出する時期を迎え、日本社会にどのような変化をもたらすのかは興味深いところ。

フィリピンパブで働く日本人のエピソードを描いた瀧波ユカリの漫画『臨死!! 江古田ちゃん』が始まったのは06年。急に閉店が決まり、国に帰るフィリピーナが別れを惜しむ主人公に冗談めかして「じゃあアコ(私)とケッコンして」と言うエピソードがある。何気ない一コマだが、ここに当時のフィリピンパブをめぐる状況が詰まっている。04年、アメリカ政府は日本を人身売買要監視国に指定し、日本政府もフィリピン人への興行ビザの発行を厳しく制限した。これはイラクのフィリピン人労働者の人質事件をめぐり、フィリピン軍がイラク撤退を行ったことに対する経済制裁といわれていれる。

90年から99 年のデータでは日本のフィリピン人労働者が計10億ドル以上の送金をしたというから、外貨頼りのフィリピン経済に対して十分すぎる制裁だ。親米国のフィリピンがイラク派兵に協力した結果と考えると何とも皮肉な話である。8万人を超えていた興行ビザで来日のフィリピン人は06年には8000人にまで落ち込み、フィリピンパブは慢性的な人手不足になった。『臨死!! 江古田ちゃん』の主人公がフィリピンパブで働けたのはこの人手不足を補うためだし、「ケッコンして」というのは、当時ビザを取得できなくなることを知ったたくさんフィリピーナが日本人との結婚を求めていた状況に重なる。そして冒頭の日比国際結婚が急増した原因もここにある。

現在日本への出稼ぎが難しくなったフィリピーナたちは、韓国に向かっている。貿易黒字が日本を上回った韓国は彼女たちにとってもっとも魅力的な国なのだ。またオイルマネーで潤う中東でメイドをするフィリピーナも増えている。日本でもフィリピンパブに代わって上小阿仁村のような過疎集落での日比結婚推進活動が増えるかもしれない。経済や国家間の関係に翻弄され、結果として世界に広がっていく彼女たちはこの先どうなっていくのか。

沖田×華の漫画『こんなアホでも幸せになりたい』では、巻末に作者の幼少期に出会ったフィリピン人少女とのエピソードが収録されている。国境のない空の雲の上、楽しそうに遊ぶふたりの姿が描かれるラストシーンに、フィリピーナたちの未来を重ねずにいられなかった。


●大熊信(だいくま・しん)
1980年、千葉県出身。
ブロガー、ライター、編集者。
ブログ:ダイナミック大熊