担当者より:『私鉄探検』の著者で、ライターの近藤正高さんに新幹線の過去と今に関して論じていただいた原稿です。あと、先日近藤さんが聞き手を担当した、速水健朗氏と円堂都司昭氏のインタビューもご関心ある方はぜひお読みください。
配信日:2010/05/19
先頃亡くなった清水一行の小説『動脈列島』を、最近仕事で読み返す機会があった。1974年12月に光文社のカッパ・ノベルスより刊行され、翌年には日本推理作家協会賞も受賞したこの作品は、当時問題化していた新幹線の騒音公害を題材にした社会派ミステリーである。
『動脈列島』では、「実行者」を名乗る人物が国鉄(現・JR)と政府に対し、新幹線公害の解決のため列車のスピードダウンなどを要求し、それが受け入れられないばあいは、新幹線開業10周年を迎える1974年10月1日に列車を転覆すると脅迫する。さらにそれが妄言ではないことを示すため、デモンストレーションとして、さまざまな手段により新幹線を停止してみせるのだった。
その手口は、当時続発していた新幹線事故を髣髴とさせるものが多い。たとえば作中、豊橋駅で「こだま」がスリップしてオーバーランし、ポイントに乗り上げるが、これは1973年に大阪運転所(鳥飼基地)で起きた回送列車の脱線事故を思い出させる。この脱線事故は調査の結果、レールに摩擦防止用の油を塗りすぎたことが原因とされたが、『動脈列島』では、犯人が食用油をレールに塗ったため事故が引き起こされる。
『動脈列島』には実際に起きた事故がそのまま描かれていたりもする。それは、1974年9月12日(作中での日付も同じ)に東京運転所(品川基地)付近で起きた、「新幹線品川信号異常現示事故」と呼ばれる信号故障事故だ。
新幹線では地上信号機のかわりに、車内に信号機が設けられ、前方に列車が接近したばあいなど、信号電流をレールづたいに受信しブレーキが自動的にかかるようになっている。品川での事故は、この車内信号が、列車停止を意味する「0信号」を出すべきところで進行をうながす信号を表示したというものだった。地上信号機でいえば、赤信号が出るべきときに青信号が出たのと同じで、一歩まちがえば大事故につながりかねない事態である。
調査の結果、品川基地の信号機器室の階下に変電室があり、そこの変圧器と、その近くに取りつけられたコンデンサーの組み合わせが、信号電流に近い周波数の誘導電流を発生させていたことがわかった。ようするに、この誘導電流が信号機器に影響をおよぼし、「ニセ信号」を引き起こしていたのである。『動脈列島』の犯人は、実際にあったこの事故をヒントに、故意に「ニセ信号」を発生させ、新幹線をストップさせてしまう。
ここでおどろかされるのは、例の事故が起きたのが本書の刊行のわずか3カ月前ということである。徹底してリアリティを追求した清水は、期日ぎりぎりまで貪欲にこうした題材をとりこんでいたのだ。そもそも新幹線公害という題材も、すでにその前年、雑誌『宝石』に発表したルポルタージュでとりあげたものだった。
『動脈列島』は刊行からまもなくして映画化が決まり、1975年9月に東京映画製作・東宝配給により公開された(監督は増村保造、主演は近藤正臣と田宮二郎)。これと前後して、東映も佐藤純彌監督・高倉健主演で『新幹線大爆破』を同年7月に封切り、くしくも新幹線がテロリストの標的になるという映画が立て続けに公開されることになった。
1964年の東京オリンピック開催にあわせて華々しく開業した東海道新幹線は、まさに高度成長の象徴として登場した。だが、第1次石油危機(1973年)で高度成長にピリオドが打たれるとともに、開業10年目の新幹線も、深刻化する騒音公害やあいつぐ事故と、混迷と模索の時期に入ったといっていい。『動脈列島』も『新幹線大爆破』も、こうした背景から生まれた作品だった。
1975年3月には山陽新幹線の岡山~博多間が開業、東京から博多までを「ひかり」が6時間56分で結ぶようになったが(現在は「のぞみ」が最速で5時間28分で結ぶ)、当時すでに着工されていた東北・上越・成田の各新幹線は、石油危機の影響や国鉄の経営悪化により大幅に建設が遅れた(成田新幹線はその後計画自体が失効)。また、1973年、
「全国新幹線鉄道整備法」にもとづき整備計画が決定したいわゆる整備新幹線(北海道新幹線、東北新幹線の盛岡以北、北陸新幹線、九州新幹線の長崎ルートと鹿児島ルートの5路線)も着工のめどが立たないままだった。
このほか、1975年前後には新幹線にとってエポックともいうべきできごとがあいついだ。名古屋での新幹線公害をめぐっては1974年3月に沿線住民らが国鉄を相手どって名古屋地裁に提訴し、これを機に新幹線公害反対運動は建設中の地域にまで拡大する。
また1975年5月には、国賓として来日したイギリスのエリザベス女王が新幹線に乗車した。これは、ほかならぬ女王の国より日本に伝えられた鉄道技術が、ひとつの到達点にたどり着いたことをアピールし、感謝の念を伝える絶好の機会となった。ただし、このとき東京から京都までの女王列車運転は、おりからの春闘のストライキで中止され、東京へもどるときのみの乗車となった。もっとも当の女王は、イギリス国内でもストはよくあることと、さほど気にとめなかったようだが。
なお、イギリスでの労働者によるストの頻発は、やがて国民の強い反感を買い、サッチャー政権誕生の背景となった。日本でも70年代には、国鉄の労働組合である国労(国鉄労働組合)や動労(国鉄動力車労働組合)が頻繁にストライキを打ったが、国民の支持を得るどころかかえって国鉄離れを招くことになる。
1975年の11月から12月にかけて8日間にわたり国鉄全線が運休した「スト権奪還スト」(法律で禁じられた公共企業体の労働者のストライキ権を獲得するために行なわれたスト)はその頂点であり、以後大規模なストは行なわれなくなった。このとき、与党自民党でストに対しもっとも非妥協的な主張を展開したのが、党幹事長だった中曽根康弘である。後年首相となった中曽根は国鉄民営化を実現させるが、そこには国鉄の経営再建とともに急進的な労働組合の解体というねらいもあった。
1975年にはまた、新幹線の海外輸出に向けた動きもすでにあった。この年12月、海外鉄道技術協力協会(JARTS)は、イランのテヘラン~マシャド間の高速鉄道を建設するため同国政府とコンサルティング契約を結んでいる。翌年の年明けにはJARTSから専門家によるチームがイランに派遣され、1年半あまりかけてマスタープラン(総合計画)がつくられた。だが、さらにディテール・デザイン(詳細設計)にとりかかろうかというころ、イラン・イスラム革命(1978~79年)が起こり、この計画は中止へと追いこまれてしまう。
さて、1975年前後に起こったこれら新幹線をめぐる事項は、その後どのような経緯をたどったのか。
まず、名古屋での新幹線公害訴訟は、1980年の地裁での一審判決、1985年の高裁での控訴審判決ともに、列車の減速などによる公害差し止めという住民らの請求が、新幹線の公共性を重視して棄却されるいっぽう、過去の被害に対する賠償金支払いが国鉄に命じられた。だが、住民たちの公害解決の願いは強く、交渉の結果、国鉄に公害の不拡大と改善、賠償金の支払いを約束させ、1986年3月に両者のあいだで和解が成立する。
1975年のスト権ストをひとつの原点とする国鉄民営化は、中曽根政権下の1987年4月に実施された。これと前後して、東海道新幹線の名古屋市内の区間では、和解協定書にもとづき防音壁などの設置など公害対策が進められた。さらに、国鉄時代には財政赤字や労使関係の険悪化などで実現しなかった車両のフルモデルチェンジもはかられ、1992年に東海道新幹線で運転を開始した初代「のぞみ」の300系以来、続々と新車両が登場し、スピードアップとともに騒音の軽減もかなりの水準で達成された。
民営化にさいしては、1982年より凍結されていた整備新幹線計画も再始動し、1997年に開業した北陸新幹線の一部である長野新幹線を手はじめに、徐々に建設が進められていった。今年12月4日には東北新幹線の盛岡~新青森間が全通、九州新幹線の鹿児島ルートも来年3月には博多~鹿児島中央間の全線が開業し、山陽新幹線との直通運転もはじまる予定である。現時点ではこのほか、北海道新幹線の新青森~新函館間、北陸新幹線の長野~金沢間の建設も進行中だ(北陸新幹線をめぐっては最近、福井県の西川一誠知事が鳩山首相へ高速増殖炉「もんじゅ」の運転再開を報告したさいに、未着工の金沢~敦賀間の早期建設認可を求めている)。
新幹線の海外輸出に関しては、イランでの計画の頓挫ののちも何度かチャレンジがあった。1993年には韓国高速鉄道(KTX)の車両システム選定にあたり、日本の企業連合が新幹線を売りこんだが、独・仏のプランの前に敗れ去り、結果的にフランスのTGVが選ばれた(2004年に暫定開業)。その後の台湾高速鉄道の計画でも当初、入札により日本ではなく独・仏の企業連合が選ばれている。しかし1999年の台湾中部での大地震をきっかけに地震に強い日本の新幹線が注目されたことなどもあり、車両など新幹線の技術を導入することになった(開業は2007年)。とはいえ、基本設計はあくまでもフランスが行なっており、日本のシステムが全面的に採用されたわけではない。
現在、オバマ政権の「グリーン・ニューディール」政策の一環として計画されているアメリカ各地の高速鉄道をはじめ、ベトナム、ブラジルなど各国に向けて新幹線やリニアモーターカーの技術輸出が検討されている。この背景には、整備新幹線の全路線開業もそう遠い話ではなくなったため、国内市場の行きづまりを見越してということもあるようだ。
民主党の現政権は、これまで政府が積極的にバックアップしてこなかったことへの反省から発足以来、各国へのセールスに力を入れている。このゴールデンウィーク中には前原誠司国交相がアメリカとベトナムをあいついで訪問、新幹線を売りこんだ。ただ、計画の初期段階から発注者へのコンサルタントができるオールジャパン会社もない――そもそも核となるべきJR東海とJR東日本の足並みもそろっていない――状態で、はたして年々激しさの増す国際競争を勝ち抜くことができるのか、疑問視する声も出ている(『週刊東洋経済』2010年4月3日号を参照)。
いまや新幹線は、国内外に対してCO2排出量の少なさなど“エコ”をセールスポイントにしている。かつて公害の発生源として新幹線がとりざたされていたことを思えば、これは大転換だ。その原点はやはり1975年あたりにあるのだと思う。あの時期に新幹線の停滞を生んだ公害などの諸問題は、その後いかに解決されたのだろうか。
これまで新幹線の歴史というと、とかく“高度成長期の神話”として東海道新幹線の開発がとりあげられがちだった。が、今後は開業以降の新幹線についても、いかに国民生活に定着していったのかなど細かに検証される必要があると思う。「1975年の新幹線」は、それを考えるうえでさまざまな材料に満ちている。こうした作業を経てこそ、世界各国に新幹線技術を広めるヒントも見出せるのではないだろうか。
●近藤正高(こんどう・まさたか)
ライター。著書に『私鉄探検』がある。
新幹線については、ここに書いたことだけでなく、一冊本ができるほどネタを集めていて、現にいま年内刊行に向けて本を書いている最中です。なお、『動脈列島』映画版で主演を務めた近藤正臣は父、ではありません。
ブログ:Culture Vulture
配信日:2010/05/19
先頃亡くなった清水一行の小説『動脈列島』を、最近仕事で読み返す機会があった。1974年12月に光文社のカッパ・ノベルスより刊行され、翌年には日本推理作家協会賞も受賞したこの作品は、当時問題化していた新幹線の騒音公害を題材にした社会派ミステリーである。
『動脈列島』では、「実行者」を名乗る人物が国鉄(現・JR)と政府に対し、新幹線公害の解決のため列車のスピードダウンなどを要求し、それが受け入れられないばあいは、新幹線開業10周年を迎える1974年10月1日に列車を転覆すると脅迫する。さらにそれが妄言ではないことを示すため、デモンストレーションとして、さまざまな手段により新幹線を停止してみせるのだった。
その手口は、当時続発していた新幹線事故を髣髴とさせるものが多い。たとえば作中、豊橋駅で「こだま」がスリップしてオーバーランし、ポイントに乗り上げるが、これは1973年に大阪運転所(鳥飼基地)で起きた回送列車の脱線事故を思い出させる。この脱線事故は調査の結果、レールに摩擦防止用の油を塗りすぎたことが原因とされたが、『動脈列島』では、犯人が食用油をレールに塗ったため事故が引き起こされる。
『動脈列島』には実際に起きた事故がそのまま描かれていたりもする。それは、1974年9月12日(作中での日付も同じ)に東京運転所(品川基地)付近で起きた、「新幹線品川信号異常現示事故」と呼ばれる信号故障事故だ。
新幹線では地上信号機のかわりに、車内に信号機が設けられ、前方に列車が接近したばあいなど、信号電流をレールづたいに受信しブレーキが自動的にかかるようになっている。品川での事故は、この車内信号が、列車停止を意味する「0信号」を出すべきところで進行をうながす信号を表示したというものだった。地上信号機でいえば、赤信号が出るべきときに青信号が出たのと同じで、一歩まちがえば大事故につながりかねない事態である。
調査の結果、品川基地の信号機器室の階下に変電室があり、そこの変圧器と、その近くに取りつけられたコンデンサーの組み合わせが、信号電流に近い周波数の誘導電流を発生させていたことがわかった。ようするに、この誘導電流が信号機器に影響をおよぼし、「ニセ信号」を引き起こしていたのである。『動脈列島』の犯人は、実際にあったこの事故をヒントに、故意に「ニセ信号」を発生させ、新幹線をストップさせてしまう。
ここでおどろかされるのは、例の事故が起きたのが本書の刊行のわずか3カ月前ということである。徹底してリアリティを追求した清水は、期日ぎりぎりまで貪欲にこうした題材をとりこんでいたのだ。そもそも新幹線公害という題材も、すでにその前年、雑誌『宝石』に発表したルポルタージュでとりあげたものだった。
『動脈列島』は刊行からまもなくして映画化が決まり、1975年9月に東京映画製作・東宝配給により公開された(監督は増村保造、主演は近藤正臣と田宮二郎)。これと前後して、東映も佐藤純彌監督・高倉健主演で『新幹線大爆破』を同年7月に封切り、くしくも新幹線がテロリストの標的になるという映画が立て続けに公開されることになった。
1964年の東京オリンピック開催にあわせて華々しく開業した東海道新幹線は、まさに高度成長の象徴として登場した。だが、第1次石油危機(1973年)で高度成長にピリオドが打たれるとともに、開業10年目の新幹線も、深刻化する騒音公害やあいつぐ事故と、混迷と模索の時期に入ったといっていい。『動脈列島』も『新幹線大爆破』も、こうした背景から生まれた作品だった。
1975年3月には山陽新幹線の岡山~博多間が開業、東京から博多までを「ひかり」が6時間56分で結ぶようになったが(現在は「のぞみ」が最速で5時間28分で結ぶ)、当時すでに着工されていた東北・上越・成田の各新幹線は、石油危機の影響や国鉄の経営悪化により大幅に建設が遅れた(成田新幹線はその後計画自体が失効)。また、1973年、
「全国新幹線鉄道整備法」にもとづき整備計画が決定したいわゆる整備新幹線(北海道新幹線、東北新幹線の盛岡以北、北陸新幹線、九州新幹線の長崎ルートと鹿児島ルートの5路線)も着工のめどが立たないままだった。
このほか、1975年前後には新幹線にとってエポックともいうべきできごとがあいついだ。名古屋での新幹線公害をめぐっては1974年3月に沿線住民らが国鉄を相手どって名古屋地裁に提訴し、これを機に新幹線公害反対運動は建設中の地域にまで拡大する。
また1975年5月には、国賓として来日したイギリスのエリザベス女王が新幹線に乗車した。これは、ほかならぬ女王の国より日本に伝えられた鉄道技術が、ひとつの到達点にたどり着いたことをアピールし、感謝の念を伝える絶好の機会となった。ただし、このとき東京から京都までの女王列車運転は、おりからの春闘のストライキで中止され、東京へもどるときのみの乗車となった。もっとも当の女王は、イギリス国内でもストはよくあることと、さほど気にとめなかったようだが。
なお、イギリスでの労働者によるストの頻発は、やがて国民の強い反感を買い、サッチャー政権誕生の背景となった。日本でも70年代には、国鉄の労働組合である国労(国鉄労働組合)や動労(国鉄動力車労働組合)が頻繁にストライキを打ったが、国民の支持を得るどころかかえって国鉄離れを招くことになる。
1975年の11月から12月にかけて8日間にわたり国鉄全線が運休した「スト権奪還スト」(法律で禁じられた公共企業体の労働者のストライキ権を獲得するために行なわれたスト)はその頂点であり、以後大規模なストは行なわれなくなった。このとき、与党自民党でストに対しもっとも非妥協的な主張を展開したのが、党幹事長だった中曽根康弘である。後年首相となった中曽根は国鉄民営化を実現させるが、そこには国鉄の経営再建とともに急進的な労働組合の解体というねらいもあった。
1975年にはまた、新幹線の海外輸出に向けた動きもすでにあった。この年12月、海外鉄道技術協力協会(JARTS)は、イランのテヘラン~マシャド間の高速鉄道を建設するため同国政府とコンサルティング契約を結んでいる。翌年の年明けにはJARTSから専門家によるチームがイランに派遣され、1年半あまりかけてマスタープラン(総合計画)がつくられた。だが、さらにディテール・デザイン(詳細設計)にとりかかろうかというころ、イラン・イスラム革命(1978~79年)が起こり、この計画は中止へと追いこまれてしまう。
さて、1975年前後に起こったこれら新幹線をめぐる事項は、その後どのような経緯をたどったのか。
まず、名古屋での新幹線公害訴訟は、1980年の地裁での一審判決、1985年の高裁での控訴審判決ともに、列車の減速などによる公害差し止めという住民らの請求が、新幹線の公共性を重視して棄却されるいっぽう、過去の被害に対する賠償金支払いが国鉄に命じられた。だが、住民たちの公害解決の願いは強く、交渉の結果、国鉄に公害の不拡大と改善、賠償金の支払いを約束させ、1986年3月に両者のあいだで和解が成立する。
1975年のスト権ストをひとつの原点とする国鉄民営化は、中曽根政権下の1987年4月に実施された。これと前後して、東海道新幹線の名古屋市内の区間では、和解協定書にもとづき防音壁などの設置など公害対策が進められた。さらに、国鉄時代には財政赤字や労使関係の険悪化などで実現しなかった車両のフルモデルチェンジもはかられ、1992年に東海道新幹線で運転を開始した初代「のぞみ」の300系以来、続々と新車両が登場し、スピードアップとともに騒音の軽減もかなりの水準で達成された。
民営化にさいしては、1982年より凍結されていた整備新幹線計画も再始動し、1997年に開業した北陸新幹線の一部である長野新幹線を手はじめに、徐々に建設が進められていった。今年12月4日には東北新幹線の盛岡~新青森間が全通、九州新幹線の鹿児島ルートも来年3月には博多~鹿児島中央間の全線が開業し、山陽新幹線との直通運転もはじまる予定である。現時点ではこのほか、北海道新幹線の新青森~新函館間、北陸新幹線の長野~金沢間の建設も進行中だ(北陸新幹線をめぐっては最近、福井県の西川一誠知事が鳩山首相へ高速増殖炉「もんじゅ」の運転再開を報告したさいに、未着工の金沢~敦賀間の早期建設認可を求めている)。
新幹線の海外輸出に関しては、イランでの計画の頓挫ののちも何度かチャレンジがあった。1993年には韓国高速鉄道(KTX)の車両システム選定にあたり、日本の企業連合が新幹線を売りこんだが、独・仏のプランの前に敗れ去り、結果的にフランスのTGVが選ばれた(2004年に暫定開業)。その後の台湾高速鉄道の計画でも当初、入札により日本ではなく独・仏の企業連合が選ばれている。しかし1999年の台湾中部での大地震をきっかけに地震に強い日本の新幹線が注目されたことなどもあり、車両など新幹線の技術を導入することになった(開業は2007年)。とはいえ、基本設計はあくまでもフランスが行なっており、日本のシステムが全面的に採用されたわけではない。
現在、オバマ政権の「グリーン・ニューディール」政策の一環として計画されているアメリカ各地の高速鉄道をはじめ、ベトナム、ブラジルなど各国に向けて新幹線やリニアモーターカーの技術輸出が検討されている。この背景には、整備新幹線の全路線開業もそう遠い話ではなくなったため、国内市場の行きづまりを見越してということもあるようだ。
民主党の現政権は、これまで政府が積極的にバックアップしてこなかったことへの反省から発足以来、各国へのセールスに力を入れている。このゴールデンウィーク中には前原誠司国交相がアメリカとベトナムをあいついで訪問、新幹線を売りこんだ。ただ、計画の初期段階から発注者へのコンサルタントができるオールジャパン会社もない――そもそも核となるべきJR東海とJR東日本の足並みもそろっていない――状態で、はたして年々激しさの増す国際競争を勝ち抜くことができるのか、疑問視する声も出ている(『週刊東洋経済』2010年4月3日号を参照)。
いまや新幹線は、国内外に対してCO2排出量の少なさなど“エコ”をセールスポイントにしている。かつて公害の発生源として新幹線がとりざたされていたことを思えば、これは大転換だ。その原点はやはり1975年あたりにあるのだと思う。あの時期に新幹線の停滞を生んだ公害などの諸問題は、その後いかに解決されたのだろうか。
これまで新幹線の歴史というと、とかく“高度成長期の神話”として東海道新幹線の開発がとりあげられがちだった。が、今後は開業以降の新幹線についても、いかに国民生活に定着していったのかなど細かに検証される必要があると思う。「1975年の新幹線」は、それを考えるうえでさまざまな材料に満ちている。こうした作業を経てこそ、世界各国に新幹線技術を広めるヒントも見出せるのではないだろうか。
●近藤正高(こんどう・まさたか)
ライター。著書に『私鉄探検』がある。
新幹線については、ここに書いたことだけでなく、一冊本ができるほどネタを集めていて、現にいま年内刊行に向けて本を書いている最中です。なお、『動脈列島』映画版で主演を務めた近藤正臣は父、ではありません。
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