担当者より:紙屋高雪さんにマンガを通してナショナリズムを論じていただいた原稿です。ご一読ください。
配信日:2008/04/23
ぼくの住む福岡県の公立小学校の一部で実際に使われている道徳のテストを紹介しよう。
【問】正代さんの住む町は、歴史と伝統のある町で、文化財もたくさんあり、国内、国外からの観光客も少なくありません。また、「ふるさとの町をよくする案」の募集も始まりました。正代さんは、自分も案を出そうと思いました。正代さんは、いつも自分の町に対して、どのような気持ちでいるでしょうか。
ア この町が大好きで、ほこりにしている。
イ この町を特に好きでもないし、あまり守ろうとも思わない。
ウ この町の文化や伝統を、進んで守っていきたい。
エ 特にこの町を好きだとは思わないが、大切にしなくてはならない。
ちなみに各選択肢の配点は、ア=3点、イ=1点、ウ=4点、エ=2点。
昨年度は全国で38万の小中学生がこの業者のテストを受けている。テスト結果の評価コメントには、重点的な指導が必要な項目として、「愛国心」「郷土愛」などが挙げられていた(朝日新聞2008年4月10日付。テストは図書文化社のものより抜粋)。右派からみても、こんな陳腐なテストを通してナショナリズムを子どもに教えられてはたまったものではないだろう。
ナショナリズムは本来、身分の差や部族の違いをこえて、みんな「平等」な国民となり、お互いを「友愛(同胞愛)」で結び、「自由」な政治主体(公民)としてその国をよくする義務を果たそうという運動、エートスである。「国=同胞のために死ぬ」という義務が問われる「戦争」では、それが最も極端に現れる。
学校で使うかどうか別として、若い人にナショナリズムを考えてもらうなら、漫画がいい。中でもアニメ化もされた人気作である、鬼頭莫宏『ぼくらの』(小学館)は最適だ。
そんなことをいうと怒る人もいるだろう。『ぼくらの』は日常の中ではぼんやりとしている倫理観や人間観をクリアにするために、戦争という極限状況の設定を借りているだけなのだから、それを「ナショナリズムの書」として読むのはあまりに表層的だ、と。そういう批判を承知で以下続けてみる。
『ぼくらの』は、臨海学校で出会った15人の少年少女が「ジアース」と呼ぶ戦闘ロボットに乗り込むことになり、敵のロボットと順番に戦う物語である。1勝ごとにパイロットは必ず死ぬ。もし負ければ地球ごと破滅する――これがルールだ。
15人の少年少女は、ぼくらと同じような日常生活を過ごしている。『ダ・ヴィンチ』誌編集長の横里隆は「まるで中学生日記のような」とそこに描かれた日常を評した。サッカーで人気者の少年。いじめにあっている少女。幼い弟妹を養っている少年……。そのあまりの日常性ゆえに、物語がするりとぼくらの心に入ってくる。
少年の一人・切江洋介は、アクション映画でヒーローの生死と同等に、戦闘で犠牲になる名もない無数の住民のことが気になる。「すべての命は等価だ」というわけである。自分が相手を倒せば、「相手側の地球」が消滅し、100億もの命が消えるのだ。
これは戦争で必ず出会う現実である。
命が等価であれば、自分が負けて相手側の100億の命を救っても悪くはない。だが、そのとき切江は“世界中の命は自分にとって等価ではありえず、自分につながる愛しい者を優先させるエゴが必ず働く”と一人の軍人に諭される。例えばぼくらが食べる肉は何かの命の犠牲だ。今すでに自分の生は誰かの犠牲の上にある。命を差別している。それに気づかずに安易な生命賛美をするな、と。他人の命と愛する者の命なら後者を選べ、「愛する者のために戦う」がベターなのだと説得される。
そういえば、とぼくは思い出す。宮沢賢治は菜食主義だった。自分の命が何かを犠牲にして成り立っていることを拒否しようとしたためだ。だが、それでも賢治は懊悩した。「命は等価だ」という主張を本気で徹底させるとはそういうことなのだ。
自分をこえたもののために命を投げ出す。そのとき「国のため」と言うよりも、「愛するたった一人のため」と言ったほうが現代でははるかに説得力がある。現代の戦争映画の多くがこのロジックをとるのもそのためだ。
ゆえに、本作を批判するにせよ受け入れるにせよ、「中学生日記」的日常に暮らす少年少女が、愛する人たちを守るという気持ちを媒介にして命を投げ出す『ぼくらの』ほど、ナショナリズムを考えるうえでリアリティに満ちた漫画はないだろう。
切江は敵のパイロットにも会う。切江は敵も自分たちと同じような人間なのだ、と感じた。だが、同じだと感じたからこそ、切江は互いが自分の世界に責任を負って戦うのが義務じゃないかと思い、戦闘を始めるのである。
戦争の正邪についての判断を止め、抽象的な「任務の遂行」という美学の中に自分の死を意味づけた切江の決意は、太平洋戦争の特攻で死んだ学徒兵が日記に次のように記した苦悩と瓜二つである。「戦の性格が反動であるか否かは知らぬ。ただ義務や責任は課せられるものであり、それを果たすことのみが、我々の目標なのである。全力を尽くしたいと思う。反動であろうとなかろうと、人として最も美しく崇高な努力の中に死にたいと思う」(『きけ わだつみのこえ』)。
「ナショナリズムなんてばっさり否定してしまえば話は早いだろ? それはサヨクのお家芸じゃねーの?」という人がいるかもしれない。よく「プロレタリアは祖国をもたない」という『共産党宣言』の一節をひいてマルキストは反ナショナリズムだ、と言われる。しかし、この一文の後に『宣言』が次のように続いていることは意外と知られていない。
「プロレタリアートは、まず政治的支配をかちとり、国民的階級にみずからを高め、国民としてみずからを組織しなければならないから、ブルジョアジーの意味で言うのでは決してないが、それみずからやはり国民的なのである」
つまり「プロレタリアは祖国をもたない」というのは、労働者に選挙権すら与えずに「国民の義務」だけ背負わせても、自由な政治主体、すなわち「国民」になりようがねーよ、というマルクス一流の皮肉なのである。マルクス自身が選挙権運動を熱心に支持したように、ブルジョアジーとは異なるナショナリズムを考えていた。
この世が主権国家の集合体である以上、世の中をよくしようと思えば、その主権国家をよくしていく以外にない。ましてやこの国が対米従属の下にあるという認識をもつぼくは、否応無しにナショナリストであらざるをえないのだ。であるからこそ、ナショナリズムの否定ではなく、「健全なナショナリズム」をつくりだすために、『ぼくらの』を読んで考えてみるのである。
●紙屋高雪(かみや・こうせつ)
紙屋研究所所長。
著書に『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』(築地書館)がある。
また、『理論劇画 マルクス資本論』(かもがわ出版)では、構成・解説を担当した。
サイト:紙屋研究所
配信日:2008/04/23
ぼくの住む福岡県の公立小学校の一部で実際に使われている道徳のテストを紹介しよう。
【問】正代さんの住む町は、歴史と伝統のある町で、文化財もたくさんあり、国内、国外からの観光客も少なくありません。また、「ふるさとの町をよくする案」の募集も始まりました。正代さんは、自分も案を出そうと思いました。正代さんは、いつも自分の町に対して、どのような気持ちでいるでしょうか。
ア この町が大好きで、ほこりにしている。
イ この町を特に好きでもないし、あまり守ろうとも思わない。
ウ この町の文化や伝統を、進んで守っていきたい。
エ 特にこの町を好きだとは思わないが、大切にしなくてはならない。
ちなみに各選択肢の配点は、ア=3点、イ=1点、ウ=4点、エ=2点。
昨年度は全国で38万の小中学生がこの業者のテストを受けている。テスト結果の評価コメントには、重点的な指導が必要な項目として、「愛国心」「郷土愛」などが挙げられていた(朝日新聞2008年4月10日付。テストは図書文化社のものより抜粋)。右派からみても、こんな陳腐なテストを通してナショナリズムを子どもに教えられてはたまったものではないだろう。
ナショナリズムは本来、身分の差や部族の違いをこえて、みんな「平等」な国民となり、お互いを「友愛(同胞愛)」で結び、「自由」な政治主体(公民)としてその国をよくする義務を果たそうという運動、エートスである。「国=同胞のために死ぬ」という義務が問われる「戦争」では、それが最も極端に現れる。
学校で使うかどうか別として、若い人にナショナリズムを考えてもらうなら、漫画がいい。中でもアニメ化もされた人気作である、鬼頭莫宏『ぼくらの』(小学館)は最適だ。
そんなことをいうと怒る人もいるだろう。『ぼくらの』は日常の中ではぼんやりとしている倫理観や人間観をクリアにするために、戦争という極限状況の設定を借りているだけなのだから、それを「ナショナリズムの書」として読むのはあまりに表層的だ、と。そういう批判を承知で以下続けてみる。
『ぼくらの』は、臨海学校で出会った15人の少年少女が「ジアース」と呼ぶ戦闘ロボットに乗り込むことになり、敵のロボットと順番に戦う物語である。1勝ごとにパイロットは必ず死ぬ。もし負ければ地球ごと破滅する――これがルールだ。
15人の少年少女は、ぼくらと同じような日常生活を過ごしている。『ダ・ヴィンチ』誌編集長の横里隆は「まるで中学生日記のような」とそこに描かれた日常を評した。サッカーで人気者の少年。いじめにあっている少女。幼い弟妹を養っている少年……。そのあまりの日常性ゆえに、物語がするりとぼくらの心に入ってくる。
少年の一人・切江洋介は、アクション映画でヒーローの生死と同等に、戦闘で犠牲になる名もない無数の住民のことが気になる。「すべての命は等価だ」というわけである。自分が相手を倒せば、「相手側の地球」が消滅し、100億もの命が消えるのだ。
これは戦争で必ず出会う現実である。
命が等価であれば、自分が負けて相手側の100億の命を救っても悪くはない。だが、そのとき切江は“世界中の命は自分にとって等価ではありえず、自分につながる愛しい者を優先させるエゴが必ず働く”と一人の軍人に諭される。例えばぼくらが食べる肉は何かの命の犠牲だ。今すでに自分の生は誰かの犠牲の上にある。命を差別している。それに気づかずに安易な生命賛美をするな、と。他人の命と愛する者の命なら後者を選べ、「愛する者のために戦う」がベターなのだと説得される。
そういえば、とぼくは思い出す。宮沢賢治は菜食主義だった。自分の命が何かを犠牲にして成り立っていることを拒否しようとしたためだ。だが、それでも賢治は懊悩した。「命は等価だ」という主張を本気で徹底させるとはそういうことなのだ。
自分をこえたもののために命を投げ出す。そのとき「国のため」と言うよりも、「愛するたった一人のため」と言ったほうが現代でははるかに説得力がある。現代の戦争映画の多くがこのロジックをとるのもそのためだ。
ゆえに、本作を批判するにせよ受け入れるにせよ、「中学生日記」的日常に暮らす少年少女が、愛する人たちを守るという気持ちを媒介にして命を投げ出す『ぼくらの』ほど、ナショナリズムを考えるうえでリアリティに満ちた漫画はないだろう。
切江は敵のパイロットにも会う。切江は敵も自分たちと同じような人間なのだ、と感じた。だが、同じだと感じたからこそ、切江は互いが自分の世界に責任を負って戦うのが義務じゃないかと思い、戦闘を始めるのである。
戦争の正邪についての判断を止め、抽象的な「任務の遂行」という美学の中に自分の死を意味づけた切江の決意は、太平洋戦争の特攻で死んだ学徒兵が日記に次のように記した苦悩と瓜二つである。「戦の性格が反動であるか否かは知らぬ。ただ義務や責任は課せられるものであり、それを果たすことのみが、我々の目標なのである。全力を尽くしたいと思う。反動であろうとなかろうと、人として最も美しく崇高な努力の中に死にたいと思う」(『きけ わだつみのこえ』)。
「ナショナリズムなんてばっさり否定してしまえば話は早いだろ? それはサヨクのお家芸じゃねーの?」という人がいるかもしれない。よく「プロレタリアは祖国をもたない」という『共産党宣言』の一節をひいてマルキストは反ナショナリズムだ、と言われる。しかし、この一文の後に『宣言』が次のように続いていることは意外と知られていない。
「プロレタリアートは、まず政治的支配をかちとり、国民的階級にみずからを高め、国民としてみずからを組織しなければならないから、ブルジョアジーの意味で言うのでは決してないが、それみずからやはり国民的なのである」
つまり「プロレタリアは祖国をもたない」というのは、労働者に選挙権すら与えずに「国民の義務」だけ背負わせても、自由な政治主体、すなわち「国民」になりようがねーよ、というマルクス一流の皮肉なのである。マルクス自身が選挙権運動を熱心に支持したように、ブルジョアジーとは異なるナショナリズムを考えていた。
この世が主権国家の集合体である以上、世の中をよくしようと思えば、その主権国家をよくしていく以外にない。ましてやこの国が対米従属の下にあるという認識をもつぼくは、否応無しにナショナリストであらざるをえないのだ。であるからこそ、ナショナリズムの否定ではなく、「健全なナショナリズム」をつくりだすために、『ぼくらの』を読んで考えてみるのである。
●紙屋高雪(かみや・こうせつ)
紙屋研究所所長。
著書に『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』(築地書館)がある。
また、『理論劇画 マルクス資本論』(かもがわ出版)では、構成・解説を担当した。
サイト:紙屋研究所
