担当者より:ライターの真魚八重子さんについて「ゴス」に関してご執筆いただいた原稿です。ぜひ、ご一読ください。
配信日:200/03/10
「ゴス」と聞いてイメージされるのは、黒いデコラティブな服を着て、耳がピアスだらけで青白い顔をした人でしょうか。いきなりすごく短絡的な表現ですけど、まあ実際そんな感じです。筆者も小学6年生のときに「これからは黒い服を着る」と決めた人間で、いま現在は社会人であるため、仕事中はデカくて怖いピアスはしないなど、世間様になじむ程度の薄めたゴス生活を送っています。ともあれ、ゴスと呼ばれる人たちのイメージはそれなりに共有されているかと思います。
映画でゴスが描かれる場合、キャラ設定はわかりやすいものです。映画『ブレックファスト・クラブ』は80年代を代表する、ジョン・ヒューズ監督の青春映画の良作。スポーツマンやガリ勉、チヤホヤされるお嬢様に不良といった、全然タイプの違う5人がたまたま罰で土曜日に出校し、一緒に作文を書かされるはめになります。最初は互いにいらいらし、全然とっかかりがないかと思われたのに、感情をぶつけ合ううち次第に理解し友情を持ち始めていく、瑞々しい映画です。
ここにもうひとり、黒髪がもさっと額にかぶり、「精神科に通っていて、先生にセックスを強要された」とウソをついたり、気味の悪い雰囲気を放つ女の子がいます。そのアリソンは今でいうならゴスの系譜。露骨にファッション化されたゴスではないけれど、明るい赤毛の髪をウェイブさせた美少女クレアに比べて、彼女の黒髪に黒っぽい服でリストカットでもしてそうな病んだ様子は、今現在ゴスと呼ばれる人と同類です。
『ブレックファスト・クラブ』はスポーツマンや優等生が抱えたプレッシャー、不良というレッテルで本質を見てもらえない苦悩をお互い語って、それぞれの立場に苦しみがあるんだと理解し、尊重しあう映画です。でも、ゴスっぽいアリソンの結末は「リボンで前髪をあげて、白い服に着替え、クレアに明るいお化粧をしてもらい、じつは美人なことがわかってみんなから一気に好印象」という、醜いアヒルの子オチでした。
他の子はそれぞれの立場を理解してもらえるのに、アリソンだけは根底から、存在そのものを変えられてしまいます。〈ゴスであり続けることはコンプレックスを抱えた不幸であって、普通のファッションをまとうことで初めて素の自分が表現でき、幸福になれるのだ〉と、この映画は無意識のうちに語ります。
そしてスクールカーストに着目した、『ロミーとミッシェルの場合』も同様。ロミーとミッシェルは高校において浮いていたけれど、クライマックスでは等身大のままでい続けることを選び、そしてその個性が成功に結びつくハッピーエンドになっています。そんなロミーやミッシェルと同じくスクールカーストの下層にいるオタクも、卒業後は趣味がこうじて富豪となっていたり、映画が持つメッセージは「等身大を恥じることはない、強い個性があって楽しいならそれをつきつめよう」というもの。しかし、その中でやはりひとり、黒髪に黒い服で、いつも校庭の片隅で煙草をスパスパ吸っていたゴスの女の子がいます。卒業しても彼女は相変わらず黒尽くめだけれど、本作では同窓会で再会した、同じく黒い服の男の子と恋に落ちる、同族同士で落ち着くステキな顛末が描かれます。
しかし、最後にロミーとミッシェルが始めたカラフルな洋服屋さんで、ロミーたちはこのゴスッ娘に黒い服をやめてもっとオシャレをするようアドバイスし、黄色いヒマワリみたいな花柄の服を渡すのです。そしてゴスッ娘がしかめっ面をしつつも、(そうかもな)といった感じで更衣室に向かう姿をコミカルに描いて終幕を迎えます。それまで本作を好意的に観ていたわたしは、このエンディングの瞬間に凍りつきました。
スクールカーストにおける下層の、等身大での意趣返しを見事に描いたこんな映画ですら、ゴスは否定されていました。それも自分たちがゴスを差別していると認識してなさそうな、とても無意識に近い形で。ゴスはやっぱり、ゴスのままでいちゃいけないの?
ここで非常に粗略ですが、ゴスの背景を知るために歴史を説明します。ゴスは元々、エドガー・アラン・ポーやメアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、ブラム・ストーカー『ドラキュラ』などに代表されるゴシック文学がルーツと思われます。死や吸血鬼や幽霊などの怪奇趣味、古城の暗い神秘的な雰囲気をたたえた小説の、黒く病的な傾向を受け継いだもの・類似点が見出されたものが、現代のゴシックロックやゴシックファッションとなっています。
ただもはや、18世紀末のゴシック小説を原点とするのは、いささかファンダメンタルすぎるでしょう。現代的なゴスの源流は、80年代初頭のゴシックロックにあります。バウハウス、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、バースデイ・パーティ、ザ・キュアーといったところがゴスロックの有名バンド。これらの音楽はパンクなども密接に関わっているので、ファッションも黒や誇張された病的なメイクに加え、入墨やピアスといった身体変工、ラバーやレザーのアイテムなどが特徴となっています。日本でもオート・モッド、マダム・エドワルダ、G-シュミットなどが80年代にポジティブ・パンク(ポジパン)と呼ばれていましたが、これが今でいうゴス系のバンドです。
その後アメリカでは、黒尽くめの若者が反社会的・反道徳的と認識され始めました。そのカテゴライズされた「ゴス」の代表的な存在がマリリン・マンソンです。日本ではヴィジュアル系バンドが一世を風靡し、それらの誇張されたファッションがゴスと混同されたり、意匠が優先されたゴスロリへと変化していきます。何事も見た目がより誇張され形骸化していくものですが、本来のゴスのファッションは病んだ、暗黒に惹かれる精神性などの発露であり体現です。死や血、怪奇への偏愛を抱えたパンキッシュなゴシック趣味を持ったうえでの黒い意匠が、正当派のゴスといえるでしょう。
ゴスは、もちろん思春期などに沈んだ心境を反映して、後天的に偏向していく場合もあります。でも、それで黒ずんでいくのも落ち着くところに落ち着くアイデンティファイといえますし、必ずしも物心ついてからのコンプレックスを覆い隠すものであったり、劣等感の裏返しとしてのファッションではありません。そして生まれつき、気がついたら心にコウモリを飼っていて、初恋がピーター・マーフィーや『セサミ・ストリート』のカウント伯爵や、岸田森だったようなゴスも存在していて、そういう者にとって黒い服装は自分の趣味や内面に誠実なものです。
わたし自身、幼稚園の頃からアニメの再放送を観ていても、『魔女っ子メグちゃん』で好きだったのは青ざめた顔に黒いドレスのノンだったし、『デビルマン』では青い悪魔の主人公が、闘うたびに肉が斬られて血が流れたりするのを大喜びしていました。生まれつき変態……ともいえるかもしれませんが、気がついたらすでに、死や鮮血は自分の美学であり、心に寄り添うものだったのです。
映画では吸血鬼モノをはじめ、ホラーでゴスが描かれることは当然多くあります。最近では『トワイライト~初恋~』なんて似非ゴスもありましたが、スクールカーストをはらんだゴス表現としては、ゴスッ娘が仲間はずれにされている99年『コンヴェント』があります。でも元々層が薄いのと、スクールシューティングの問題などから、最近は腫れ物的に扱われて、あまり積極的に学園モノでは登場しなくなった印象があります。
それ以前の映画において、学校にいるゴスへ早々に着眼した85年の『ブレックファスト・クラブ』も97年の『ロミーとミッシェルの場合』も、創り手がゴスはコンプレックスを覆い隠すために、おかしなファッションをしているという、見下しのまじった認識を持っているのが丸わかりでした。こちら側としては、『ブレックファスト・クラブ』のアリソンから暗い個性を剥奪することなく、黒い前髪にひそむ憂鬱さの魅惑を見出してほしかったし、ロミーたちにはゴスにとっては黒い服こそが、最高にいとおしい衣装であることを受けいれてほしかった。
黒い網タイツも血の雫のピアスもコウモリのチョーカーも、虚勢じゃないしコンプレックスの派手な裏返しじゃない。生まれついた精神への誠実さの顕れです。それに私的には境界性パーソナリティ障害などでゴスに走る人も、そこで落ち着くならしかたがないと考えています。それにもちろん、死や残虐の美学を大事にしていても、実際の行為とは隔たりがあり、空想や創作物として創造をするだけです(まあ、広い世界には実行する人もいるとは思いますが)。
最近のアメリカでのゴスの扱いは、相変わらず保守派の反発に考慮したものや、いまだ無意識的な偏見に基づく表現もありますが、映像ではコンプレックスの象徴として扱われてきたファッションが、ありのままの自己主張として登場するようになりました。アメリカのテレビドラマ『NCIS ~ネイビー犯罪捜査班』には、レギュラーで科学捜査官のゴスッ娘キャラがいます。ただし、ゴスのおぞましさを打ち消すように、性格はお茶目で明るく設定されています。
ゴスが「自分は吸血鬼だ」「この世にヴァンパイアは実在する」といった、吸血鬼妄想によって殺人事件の容疑者になるという、冷やかし気味に扱われる犯罪ドラマも何度か観ましたが、奔放で自虐的な生き方ゆえに殺害されるゴスッ娘という、重々しいテーマを扱ったものもありました。
2006年に放映された海外ドラマ『CSI:NY』の第5話「オイディプスの悲劇」。ここでは殺害される少女を含め、実在するSuicide Girls(スーサイド・ガールズ)が取り上げられています。彼女たちの中のゴス性は、特にこのドラマでは後天的な人格障害などによる自虐性が強調されていました。ラストでその名の通り痛々しく、レザーの露出狂的な服をつけ、ピアスや入墨に溢れたスーサイド・ガールズたちが徒党を組んで歩く姿に向けられた視線は、病んだ心も表現し闊歩する少女たちを認め尊重しつつ、その偏向した自傷的な姿に、あえて距離を置くというスタンスでした。それは、とても正しい立ち位置だったと思います。
「同意はせずとも存在は認める」
ものすごく当たり前のことですが、その当たり前で繊細なことを、テレビという大きな声で宣言するのは創り手たちに明確な意思がなければできないことです。不穏なものを自分たちの考える健全な色に染め替えるのではなく、また魔女狩りのごとく存在を否定し叩きのめして回るのでもなく、不穏なままで保留すること。90年代からゼロ年代にかけてのゴスをめぐる状況は揺らぎましたが、このドラマで描かれた微妙なバランスを保っていけることを願います。
●真魚八重子(まな・やえこ)
ライター。
『映画秘宝』や『TRASH UP!!』などで映画に関する原稿を中心に執筆。
共著に『戦う女たち』(作品社)、『リビドー・ガールズ』(パルコ)、『市川崑大全』(洋泉社)などがある。
ブログ:アヌトパンナ・アニルッダ
配信日:200/03/10
「ゴス」と聞いてイメージされるのは、黒いデコラティブな服を着て、耳がピアスだらけで青白い顔をした人でしょうか。いきなりすごく短絡的な表現ですけど、まあ実際そんな感じです。筆者も小学6年生のときに「これからは黒い服を着る」と決めた人間で、いま現在は社会人であるため、仕事中はデカくて怖いピアスはしないなど、世間様になじむ程度の薄めたゴス生活を送っています。ともあれ、ゴスと呼ばれる人たちのイメージはそれなりに共有されているかと思います。
映画でゴスが描かれる場合、キャラ設定はわかりやすいものです。映画『ブレックファスト・クラブ』は80年代を代表する、ジョン・ヒューズ監督の青春映画の良作。スポーツマンやガリ勉、チヤホヤされるお嬢様に不良といった、全然タイプの違う5人がたまたま罰で土曜日に出校し、一緒に作文を書かされるはめになります。最初は互いにいらいらし、全然とっかかりがないかと思われたのに、感情をぶつけ合ううち次第に理解し友情を持ち始めていく、瑞々しい映画です。
ここにもうひとり、黒髪がもさっと額にかぶり、「精神科に通っていて、先生にセックスを強要された」とウソをついたり、気味の悪い雰囲気を放つ女の子がいます。そのアリソンは今でいうならゴスの系譜。露骨にファッション化されたゴスではないけれど、明るい赤毛の髪をウェイブさせた美少女クレアに比べて、彼女の黒髪に黒っぽい服でリストカットでもしてそうな病んだ様子は、今現在ゴスと呼ばれる人と同類です。
『ブレックファスト・クラブ』はスポーツマンや優等生が抱えたプレッシャー、不良というレッテルで本質を見てもらえない苦悩をお互い語って、それぞれの立場に苦しみがあるんだと理解し、尊重しあう映画です。でも、ゴスっぽいアリソンの結末は「リボンで前髪をあげて、白い服に着替え、クレアに明るいお化粧をしてもらい、じつは美人なことがわかってみんなから一気に好印象」という、醜いアヒルの子オチでした。
他の子はそれぞれの立場を理解してもらえるのに、アリソンだけは根底から、存在そのものを変えられてしまいます。〈ゴスであり続けることはコンプレックスを抱えた不幸であって、普通のファッションをまとうことで初めて素の自分が表現でき、幸福になれるのだ〉と、この映画は無意識のうちに語ります。
そしてスクールカーストに着目した、『ロミーとミッシェルの場合』も同様。ロミーとミッシェルは高校において浮いていたけれど、クライマックスでは等身大のままでい続けることを選び、そしてその個性が成功に結びつくハッピーエンドになっています。そんなロミーやミッシェルと同じくスクールカーストの下層にいるオタクも、卒業後は趣味がこうじて富豪となっていたり、映画が持つメッセージは「等身大を恥じることはない、強い個性があって楽しいならそれをつきつめよう」というもの。しかし、その中でやはりひとり、黒髪に黒い服で、いつも校庭の片隅で煙草をスパスパ吸っていたゴスの女の子がいます。卒業しても彼女は相変わらず黒尽くめだけれど、本作では同窓会で再会した、同じく黒い服の男の子と恋に落ちる、同族同士で落ち着くステキな顛末が描かれます。
しかし、最後にロミーとミッシェルが始めたカラフルな洋服屋さんで、ロミーたちはこのゴスッ娘に黒い服をやめてもっとオシャレをするようアドバイスし、黄色いヒマワリみたいな花柄の服を渡すのです。そしてゴスッ娘がしかめっ面をしつつも、(そうかもな)といった感じで更衣室に向かう姿をコミカルに描いて終幕を迎えます。それまで本作を好意的に観ていたわたしは、このエンディングの瞬間に凍りつきました。
スクールカーストにおける下層の、等身大での意趣返しを見事に描いたこんな映画ですら、ゴスは否定されていました。それも自分たちがゴスを差別していると認識してなさそうな、とても無意識に近い形で。ゴスはやっぱり、ゴスのままでいちゃいけないの?
ここで非常に粗略ですが、ゴスの背景を知るために歴史を説明します。ゴスは元々、エドガー・アラン・ポーやメアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、ブラム・ストーカー『ドラキュラ』などに代表されるゴシック文学がルーツと思われます。死や吸血鬼や幽霊などの怪奇趣味、古城の暗い神秘的な雰囲気をたたえた小説の、黒く病的な傾向を受け継いだもの・類似点が見出されたものが、現代のゴシックロックやゴシックファッションとなっています。
ただもはや、18世紀末のゴシック小説を原点とするのは、いささかファンダメンタルすぎるでしょう。現代的なゴスの源流は、80年代初頭のゴシックロックにあります。バウハウス、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、バースデイ・パーティ、ザ・キュアーといったところがゴスロックの有名バンド。これらの音楽はパンクなども密接に関わっているので、ファッションも黒や誇張された病的なメイクに加え、入墨やピアスといった身体変工、ラバーやレザーのアイテムなどが特徴となっています。日本でもオート・モッド、マダム・エドワルダ、G-シュミットなどが80年代にポジティブ・パンク(ポジパン)と呼ばれていましたが、これが今でいうゴス系のバンドです。
その後アメリカでは、黒尽くめの若者が反社会的・反道徳的と認識され始めました。そのカテゴライズされた「ゴス」の代表的な存在がマリリン・マンソンです。日本ではヴィジュアル系バンドが一世を風靡し、それらの誇張されたファッションがゴスと混同されたり、意匠が優先されたゴスロリへと変化していきます。何事も見た目がより誇張され形骸化していくものですが、本来のゴスのファッションは病んだ、暗黒に惹かれる精神性などの発露であり体現です。死や血、怪奇への偏愛を抱えたパンキッシュなゴシック趣味を持ったうえでの黒い意匠が、正当派のゴスといえるでしょう。
ゴスは、もちろん思春期などに沈んだ心境を反映して、後天的に偏向していく場合もあります。でも、それで黒ずんでいくのも落ち着くところに落ち着くアイデンティファイといえますし、必ずしも物心ついてからのコンプレックスを覆い隠すものであったり、劣等感の裏返しとしてのファッションではありません。そして生まれつき、気がついたら心にコウモリを飼っていて、初恋がピーター・マーフィーや『セサミ・ストリート』のカウント伯爵や、岸田森だったようなゴスも存在していて、そういう者にとって黒い服装は自分の趣味や内面に誠実なものです。
わたし自身、幼稚園の頃からアニメの再放送を観ていても、『魔女っ子メグちゃん』で好きだったのは青ざめた顔に黒いドレスのノンだったし、『デビルマン』では青い悪魔の主人公が、闘うたびに肉が斬られて血が流れたりするのを大喜びしていました。生まれつき変態……ともいえるかもしれませんが、気がついたらすでに、死や鮮血は自分の美学であり、心に寄り添うものだったのです。
映画では吸血鬼モノをはじめ、ホラーでゴスが描かれることは当然多くあります。最近では『トワイライト~初恋~』なんて似非ゴスもありましたが、スクールカーストをはらんだゴス表現としては、ゴスッ娘が仲間はずれにされている99年『コンヴェント』があります。でも元々層が薄いのと、スクールシューティングの問題などから、最近は腫れ物的に扱われて、あまり積極的に学園モノでは登場しなくなった印象があります。
それ以前の映画において、学校にいるゴスへ早々に着眼した85年の『ブレックファスト・クラブ』も97年の『ロミーとミッシェルの場合』も、創り手がゴスはコンプレックスを覆い隠すために、おかしなファッションをしているという、見下しのまじった認識を持っているのが丸わかりでした。こちら側としては、『ブレックファスト・クラブ』のアリソンから暗い個性を剥奪することなく、黒い前髪にひそむ憂鬱さの魅惑を見出してほしかったし、ロミーたちにはゴスにとっては黒い服こそが、最高にいとおしい衣装であることを受けいれてほしかった。
黒い網タイツも血の雫のピアスもコウモリのチョーカーも、虚勢じゃないしコンプレックスの派手な裏返しじゃない。生まれついた精神への誠実さの顕れです。それに私的には境界性パーソナリティ障害などでゴスに走る人も、そこで落ち着くならしかたがないと考えています。それにもちろん、死や残虐の美学を大事にしていても、実際の行為とは隔たりがあり、空想や創作物として創造をするだけです(まあ、広い世界には実行する人もいるとは思いますが)。
最近のアメリカでのゴスの扱いは、相変わらず保守派の反発に考慮したものや、いまだ無意識的な偏見に基づく表現もありますが、映像ではコンプレックスの象徴として扱われてきたファッションが、ありのままの自己主張として登場するようになりました。アメリカのテレビドラマ『NCIS ~ネイビー犯罪捜査班』には、レギュラーで科学捜査官のゴスッ娘キャラがいます。ただし、ゴスのおぞましさを打ち消すように、性格はお茶目で明るく設定されています。
ゴスが「自分は吸血鬼だ」「この世にヴァンパイアは実在する」といった、吸血鬼妄想によって殺人事件の容疑者になるという、冷やかし気味に扱われる犯罪ドラマも何度か観ましたが、奔放で自虐的な生き方ゆえに殺害されるゴスッ娘という、重々しいテーマを扱ったものもありました。
2006年に放映された海外ドラマ『CSI:NY』の第5話「オイディプスの悲劇」。ここでは殺害される少女を含め、実在するSuicide Girls(スーサイド・ガールズ)が取り上げられています。彼女たちの中のゴス性は、特にこのドラマでは後天的な人格障害などによる自虐性が強調されていました。ラストでその名の通り痛々しく、レザーの露出狂的な服をつけ、ピアスや入墨に溢れたスーサイド・ガールズたちが徒党を組んで歩く姿に向けられた視線は、病んだ心も表現し闊歩する少女たちを認め尊重しつつ、その偏向した自傷的な姿に、あえて距離を置くというスタンスでした。それは、とても正しい立ち位置だったと思います。
「同意はせずとも存在は認める」
ものすごく当たり前のことですが、その当たり前で繊細なことを、テレビという大きな声で宣言するのは創り手たちに明確な意思がなければできないことです。不穏なものを自分たちの考える健全な色に染め替えるのではなく、また魔女狩りのごとく存在を否定し叩きのめして回るのでもなく、不穏なままで保留すること。90年代からゼロ年代にかけてのゴスをめぐる状況は揺らぎましたが、このドラマで描かれた微妙なバランスを保っていけることを願います。
●真魚八重子(まな・やえこ)
ライター。
『映画秘宝』や『TRASH UP!!』などで映画に関する原稿を中心に執筆。
共著に『戦う女たち』(作品社)、『リビドー・ガールズ』(パルコ)、『市川崑大全』(洋泉社)などがある。
ブログ:アヌトパンナ・アニルッダ
