担当者より:コラムニスト・小田嶋隆さんの連載をアップしました。今回は先日お亡くなりになった井上ひさしさんについてのものです。

配信日:2010/04/21


井上ひさしさんが亡くなった。で、ちょっとしんみりしている。私が、こんなふうに、他人の死をマジメに受け止めるのは、珍しいことだ。それだけ、井上ひさしという人は、私にとって、大きな存在だったのだと思う。

あるいは、若い人たちは、この感覚を、理解しないかもしれない。というのも、三十代以下の人々にとって、井上ひさしは、たいした作家ではなさそうだからだ。若い人々の目から見れば、井上ひさしは、単なる「老大家」、あるいは、新聞社に重宝されている文化人ぐらいな存在になる。どうせそんなところだ。

たしかに、井上ひさしは、この20年ほど、印象に残る作品を残していない。仕事をしていなかったわけではない。相変わらず、営々と、勤勉に作品を生み出し続けていた。でも、それらの仕事は、さして世間の注目を集めなかった。というよりも、はっきりと申し上げるなら、この20年ほど、井上ひさしの作品は、売れなかったわけだ。

しかしながら、本業がパッとしない一方で、名前の方は、むしろ、晩年に至って、大きくなっていた。各種の文学賞の審査員を歴任し、長らく日本ペンクラブの会長もつとめていた。だから、近年、文壇の人間としては、ほとんど最大級の存在だった。特に、松本清張や司馬遼太郎が居なくなった後には、その名前の大きさはいよいよ際立っていた。

政治に言及することも多かった。沖縄、核兵器、自衛隊、憲法など、何かある度に、新聞にコメントが載った。立場としては、リベラル。昨今では貴重な存在だった。型どおりのコメントが取れる、筋目の文化人として。

農業やコメ作り、日本語の乱れ、教育など、社会的ないしは文化的なあれこれにも、積極的に関与していた。もちろん、コメントはいつも同じ。農業と自然とコメの味方で、日本語の守り手だった。つまり、「大家」だったわけだ。あらゆる意味で。

だから、実際の作品に触れたことの無い若い人たちにとって、井上ひさしは、「いろんなことにやたらと口をはさんでくるえらそうな先生」ぐらいに見えていたかもしれない。進歩的文化人の化石みたいな存在。朝日や岩波の立場を代弁する言論マシン。そういうふうに見なしていたムキも多いと思う。

われわれからすると、信じられないことだ。というのも、五十代の人間である私が長年抱いてきた感覚からすると、井上ひさしは、「偉そう」な資質や態度とは最も遠いところにいる人だったからだ。なにがどう間違ったとしても、井上ひさしが権力的にふるまったり、強圧的であったりすることだけは、決して起こらないはずだ、と、私たちは、ごく若い頃にそう思いこんでいた。なぜというに、井上ひさしは、無茶苦茶に面白い人だったからだ。それほど、井上ひさしの作品は、闊達で、独特で、シュールで、はじけるように明るく、しかも自由だった。こういう作品を書くヒトが、誰かをおさえつけたり、威張ったりするはずがない、と、われわれは、まっすぐにそう信じたのである。
 
ところが、若い人たちにとって、井上ひさしは、特段に面白いヒトではなかった。それどころか、説教ばかりしている爺さんだった。たいした仕事もしていないくせに、か? なんということだろう。

訃報を伝える新聞記事を眺めてみると、「ユーモア」という文字が目立つ。若い人たちにはピンと来ないお話だと思う。

「えっ? あの人にユーモアなんかあったっけ?」と、あるいは四十代であっても、遡って作品を読んだ経験を持たない人々は、そう思ったことだろう。じっさい、名前が売れてから後、あの人はほとんどまったく他人を笑わせることがなくなっていたから。

でも、信じない人は信じないかもしれないが、井上ひさしは、ある時期まで、それはそれは面白いヒトだったのである。初期の代表作である『ひょっこりひょうたん島』が、いかに面白かったのかは、もしかしたら、あの作品を、同時代の小学生として享受した、ごく限られた世代の者にしかわからないことであるのかもしれないが、あの革命的なテレビ放送を生身で体験した子供の成れの果てとして言わせて貰うなら、私は、あれほど面白い番組には、結局、今に至るも、出会っていないのである。

それほど、あのモノクロ放送の人形劇は、キャラ設定から、ストーリーから、言葉の使い方からエピソードのブッ飛びっぷりまで、あまねく、奇跡みたいに面白かった。振り返ってみれば、私の人生の中で、あれほど心から楽しみに待った作品はほかにないかもしれない。

『婦人公論』に連載していたエッセーも面白かった。母親の雑誌を盗み見ていた私は、たぶん、中学生だった。たしか「家庭口論」というタイトルだったと思う。エッセーの内容は、他愛のない夫婦間のやりとりを大げさに紹介した身辺雑記だった。中学生の目から見ても、半分は駄法螺だと思った。が、それでも面白かった。自分の身の回りに起きた事件を、ちょっぴり大げさに脚色して、それを面白おかしいコントみたいに書く手腕は、他の書き手とはまるで違っていて、私は毎月、大いに感心していた。「この人は名人だぞ」と。さよう。井上ひさしは、少なくとも1970年代までは、面白いことを発明する名人だったのである。

大人になってからは、あまり井上ひさしの書くものを読まなくなった。遠ざかったのは、私の側の事情で、つまり、人は誰も、大人になる過程で、子供の頃に傾倒したものには、多かれ少なかれ、距離を置くようになる。それだけの話だと思う。

で、大人になってみて、あらためて井上ひさしに向かってみると、これが、何か違うのである。しばらくぶりに、読んでみると、なんだか、感触が違っている。いや、つまらなかったわけではない。『吉里吉里人』は面白く読んだし、『頭痛 肩こり 樋口一葉』にも感銘を受けた。

でも、私が子供の頃に傾倒した井上ひさしではなくなっていた。なにより、ユーモアが激減していた。後年、その傾向は、さらに顕著になる。つまり、有名な先生になった後の井上ひさしは、日本語の達人であり、手練れの劇作家であり、農業問題の論客ではあったものの、小中学生を笑わせる無邪気なネタを書き散らすヒトではなくなっていたわけだ。

にもかかわらず、世間の評価は、「ユーモアの達人」で一貫していた。おそらく、若い人にとっては、この評価のギャップが、この人のインチキ臭さとして受け止められてしまったのだた思う。

ユーモアは、評価のむずかしい分野だ。なんとなれば、誰かを笑わせるためには、何かを破壊せねばならないからだ。そういう意味で、大家であってなおユーモリストであり続けることは、非常に困難なミッションになる。

大家になると、周囲の人々は、お愛想で笑うようになる。「ははははは」「あはははは、先生、勘弁してくださいよ、はははは」と、井上ひさしの周辺には、笑いが絶えなかったはずだ。井上先生が面白いことを言ったからではない。周囲にいる人々が気をつかったからだ。

こういう例はよくある。現在でも、ビートたけしが会見で何か言うと、爆笑が起こることになっている。ほとんどまったくどこも面白いところのない話をしても、だ。

「冗談じゃないよ」と。たけしがそう言っただけで、周囲は大爆笑する。何が面白いのか、私にはわからない。が、記者も、リポーターも、後輩芸人も、文化人も、アナウンサーも、スタジオにいるすべての人間が大笑いをするのである。

ダウンタウンの松本の周辺にも、似た感じの笑いが渦巻いている。「なんちゅうこっちゃ」と、松本が言うと、吉本の後輩が猿のシンバルのおもちゃみたいに両手で拍手をしながら、笑い転げる。

「困るでぇ」。ははははははは。何がおかしいのやら。はははははは。つまり、中小企業の社長の身辺を壁のように包んでいるおべっか笑いと同じなのだな。笑いの壁。

そういえば、大江健三郎先生のような、最初から最後まで、ひとっかけらのユーモアもなかった作家のまわりにも、笑いは起こっていた。私がおぼえているのは、『ピンチランナー調書』という小説が発売された時のことだ。

この小説は、若手の小説家として同時代のチャンピオンだった大江健三郎が満を持して世に問うた作品だった。当時は、これが、「ユーモア小説」とされていたのである。帯にも「哄笑とブラックユーモア」ぐらいなことが書かれていたと思う。書評も、軒並み絶賛。私が読んだ書評では、すべての批評家が、大笑いした、と書いていた。

私はまるで笑えなかった。しかし、これは、「ユーモア」だと、そういうふうに文壇では認定されていたのである。私は、二十歳になるかならないかの純真な若者だったので、『ピンチランナー調書』を読んで少しも笑うことのできない自分の感受性の鈍さを反省していたりした。

が、しばらくして、気づいた。あれはやっぱり、どこからどう読んでも、笑える小説ではなかった。そもそも、大江健三郎は、笑わせる作家ではなかった。というよりも、笑わせなくても、十分に読ませる小説家だった。初期の短編や、『個人的な体験』までの長編は、詩的で、イマジネーション豊かな、他に比べるモノのない、非常に硬質な抒情を備えた作品で、だから、対インテリ向けの影響力という意味では、大江健三郎は、現在の村上春樹よりもさらにスーパーな存在だったのである。

で、『ピンチランナー調書』は、その大江健三郎が、はじめて挑んだ喜劇だった。と、文壇は、笑ったのである。担当編集者も、批評家も、新聞記者も、すべての関係者が、大いに笑ったのである。あのクソ面白くもないスベった小説で。

笑いほどあてにならないものはない。笑いは、「空気」みたいなものだ。われわれは、隣の人間が笑っているのを見たら、とりあえず笑う。だから、わたくしどもの社会では、笑いは、「場」からの一種の強制としてもたらされる。クラシックの演奏会の後に起こる拍手と同じだ。周囲に合わせないと自分だけが田舎モノになってしまう。だから、拍手をする。評価や賞賛とは別。拍手も笑いも、結局は、踏み絵なのだ。

井上ひさしが笑いの専門家だという世評にウソがあったわけではない。彼がその世評を勝ち得た当初、その世評は、間違いなく本物だった。が、世評は、やがて、実態を反映しなくなる。それは、時間がたつにつれて、実態からかけはなれ、最終的には、むしろ実態を裏切る隠れ蓑になる。とすれば、井上先生が笑いとはまったく別の方向に歩いていても、最後まで「笑いの王様」の看板がついてまわったことは、これは、仕方のないことだったのかもしれない。

でも、面白くない人が、面白い人として扱われていることの不自然さが、晩年、彼の評価をおとしめていたのだとすると、それはとても残念なことだ。文壇や新聞の人たちが、きちんと、正当に、「この人は、昔はとっても面白いモノを書いた人で、今は、そんなに面白くはないけれども、それでもとても見識の高い人なんだよ」ぐらいな評価をしていれば、若い人たちに、インチキ臭い年寄りと思われずに済んだと思う。ま、いまとなっては手遅れだし、そうでなくても余計なお世話だが。

井上ひさしさんが、威張り散らしていたのかどうかについて、私は、具体的な事実を知らない。おそらく、ご本人が威張ったのではないのだろう、と、想像している。

ただ、本人が特に権力的にふるまっていなくても、彼のようなビッグネームを前にすると、周囲の人々は、勝手に土下座をはじめる。あるいは、「三尺下がって師の影を踏まず」みたいな態度で、恭しく先生を持ち上げにかかる。

と、その、周囲の恐縮ぶりを、遠巻きに眺めているそのまた周辺の人々は、恐縮の中心にいる人間に対して、権力臭を感じる。で、かくして、「威張った先生」という世評ができあがる。

遺憾な展開だ。私が、いくつか耳にしたお話(「コワい先生」という評判)は、たぶん、そうやってできあがっていたのであろう。

それはそれとして、最初の妻(←「家庭口論」の一方の当事者)が書いた本(『修羅の棲む家』:夫による家庭内暴力の実態を赤裸々に描いた問題の書)は、早々と絶版になったと思うが、あれは偶然なのだろうか。アマゾンのページを検索すると、古書の実勢価格は、五千円を超えている。ということは、私の実家のどこかに積んであるはずのあの本は、この先、さらに値上がりするのかもしれない。

ううむ。私は、感謝すべきなのだろうか。


●小田嶋隆(おだじま・たかし)
コラムニスト。
著書に『テレビ標本箱』『テレビ救急箱』(ともに中公新書ラクレ)、『サッカーの上の雲』『1984年のビーンボール』(ともに駒草出版)など多数。
共著に『人生2割がちょうどいい』(講談社)ほかがある。
ブログ:偉愚庵亭憮録