担当者より:ライターであり、文芸誌『界遊』の作り手でもある武田俊さんにバンクーバー五輪の直後に書いていただいた原稿です。
配信日:2010/03/17
バンクーバー五輪開催期間中は、寝不足だったという方も多いのではないだろうか? 連日熱戦が伝えられる中、おそらく最も多くの人の注目を集めたのは、女子フィギュアだったろう。ご多分に漏れず私もリアルタイムで観戦していたのだが、キム・ヨナの228.56という歴代最高スコア更新と金メダルが決定した後、twitterを覗いてみるとタイムラインはその話題で埋まっており、様々な意見が飛び交っていた。
我らが真央ちゃんの結果を悔しがるものから、若い両者を称えるもの、キムのスコアに疑義を呈するものまで様々だったが、ふと採点方式自体への批判を行っているツイートに目がとまった。更にウェブ上で検索をかけてみると、同様の指摘がなされたブログもいくつか見受けられた。
そこでの批判をざっくりまとめると、「女子フィギュアのジャンプに代表される技術面は既に臨界点を迎えており、そこでの差別化は厳しい。故に演技構成点の比重が高まる。演技構成については採点基準が比較的曖昧且つ現行の無記名の採点では贔屓がしやすいのではないか」ということになる。
審判の不正や、裏取引の有無はともかくとして、これらのウェブ上での発言をきっかけにスポーツとルールの関係ついて考えてみたい。
全てのスポーツには、もちろんそれぞれのルールがある。バットを振った打者が三塁に向かって走ったり、サッカー選手が突如ボールを両手でつかみ相手ゴールに投げ込んだりすることがないからこそ、競技の中に興奮や面白みが生まれ、観客はそれを楽しむ事が出来る。だからこそ全てのプレイヤーは、ルールを順守せねばならない。その上で自らの演技構成を戦略的にセールスポイントとしたキムは、クレバーなプレイヤーだったと言うことが(とりあえず)出来るだろう。ただトリプルアクセルを五輪史上初めて成功させた選手が、演技の長けた選手に大差で負かされる採点というのは、スポーツの醍醐味を失墜させたと言わざるを得ない。美しさで全てが決まるならば、それは最早競技ではなくエキシビジョンでしかないとも思える。それじゃあつまらない。ではなぜ私はつまらないと思ってしまうのだろうか。ここで、スポーツとはそもそも何なのかというところまで一度立ち戻ってみよう。
日本においてスポ―ツという概念は、「スポーツ振興法」第二条によって、「運動競技及び身体運動(キャンプ活動その他の野外活動を含む。)であつて、心身の健全な発達を図るためにされるものをいう」とされている。しかしながらこの条文を読むと、欲求不満な中学生に向かって「スポーツでもしてしゃっきりしろ!」というような古めかしいお説教がイメージされ、なんだか身体がむずがゆくなってくる。スポーツって、そんなもんじゃないだろう。大体スポーツ自体が「心身の健全な発達」に一役買う、ということ自体疑わしい上に、プレイヤーだって「心身の健全な発達を図る」ために、プレイしているのでは決してない。
では彼らが苦しい思いまでしてプレーヤーとして競技場に止まるのは、なぜだろうか? 勿論プレイヤーがそれぞれの競技に対して持つモチベーションのあり方は異なるから、一概にこうだ、と示すことは出来ないだろう。ただ、観客としての立場から競技場という空間について考えることは出来るはずだ。
あらゆる競技場は、日常生活の外部として存在している。そこはプレイヤーの出自や身分などが解除されることで、それぞれがフラットに闘う事の出来る空間として存在している。競技場は、普段の社会生活では起こり得ない光景の生成を可能とするのだ。このような「外部性」は、スポーツ自身について考える上で非常に重要な部分だろう。スポーツが一般市民の娯楽として受け入れられるためには、この「外部性」から生まれる非日常の要素が必要とされるからだ。
そんな競技場で起こる出来事に対して、人々は時に神の存在について語りだすことがある。「甲子園には魔物がひそむ」や「フットボールの神々」などという定型句が示すように、この日常と隔たれた空間には、人智を越えた神の仕業としか言いようのない光景が立ち現われるのだ。
なるほど、全国各地に広まる様々な祭りの例を出すまでもなく、日常から隔たれたハレの場はいつも神性を帯びているものだ。そして外の世界では行われないような、力と力のぶつかり合いが許された空間=競技場に鎮座するのは、獣じみたいささか野蛮な神々である。
近代スポーツの歴史は、身体的コミュニケーションが含有する野蛮さを競技ごとに体系化することで、クリーン且つ多くの人が楽しめるものすることに多くの時間と労力が費やされたと言えるだろう。元々ベアナックル(素手)で殴りあっていたボクシングにグローブが導入された背景には、相互のプレイヤーを守ることと同時に、プレイヤーが死亡するほど壮絶な試合によって興奮した観客らの暴徒化を防ぐ目的もあった。
しかしながら、徐々に社会が娯楽としてスポーツを受容するようになると、矛盾するかのように観客自体の興奮というものの重要度は増していく。大昔ではパトロンの援助によってグラディエイターさながらの生活を送っていたプレイヤーも、観客のためにプレイする必要に迫られていくようになる。その時ルールというものは、面白さを丁度よく引き出すものでなくてはならない。時代の流れとともにルールが微調整されていく過程は、野蛮さの解消=フェアプレイへの意志、と観客に与える興奮の間で舵を取ることだった、と言いかえることも出来る。
そのバランスがある程度見極められ、ルールが安定化すると、それぞれの競技のプレイスタイルの中に基本形が生まれることになる。ボクシングではガードを上げ、適宜リードパンチを打ちながらコンビネーションに繋げることが王道的なスタイルであるし、野球では打者は肩幅より少し広めに足を開き、膝をリラックスさせて構えるのが良しとされる。もちろんそこを起点としながら、それぞれのプレイヤーの気質・身体、そして場にあった形にマイナーチェンジされていくのだが、基本に忠実なスタイルは応用が利くし、優れたプレイヤーであればあるほどそれぞれのスタイルは職人技と言えるような精錬のされ方によって無駄が省かれ、美しささえ宿らせる事が出来る。初めは異端視されながらも振り子打法によって国内最高の打者の一人となったイチローが、メジャーではそれを封印しシンプルなフォームに変更し最多安打記録を塗り替えたように、ルールに身体を適合化していく過程とその身体によって生み出されたプレイに観客は美しさを感じるものなのだ。
しかしあえて意地悪な言い方をすれば、その美しさはルールに依存しているものだ。スーパー優等生としてのイチローのプレイは、あくまで既存のルール内に止まることで存在出来ている。ギリギリまで無駄の省かれた美しいプレイを愛でることは、確かに楽しい。「安心して見ていられる」プレイは、チームの勝利を願う観客にとって確かに尊い。ただスポーツの醍醐味というのは、それだけでは決してない。「安心して見ていられない」ということの、素晴らしさだってあるのだ。
ナジーム・ハメドというボクサーがいた。元総合格闘家である須藤元気が、そのトリッキーなファイトスタイルの参考としたというボクサーである彼は、近代ボクシングがそれまで精錬させてきたルールに則った由緒正しき基本形の全てをあざ笑うように、闘っていた。
ガードという概念を知らないかのように両腕をだらりと下げ、ジャンプしながらパンチを繰り出す。背骨がぐにゃりとまがった常人では到底とれないような姿勢と驚異的な動体視力でパンチをかわし、その姿勢のままなお打ちこんでくる彼は正にトリックスターの名に相応しいボクサーだったのだ。
もちろん亜流のスタイルをとるプレイヤーは競技の種類を問わず数多く存在する。だが彼らの多くは自分の身体的不利条件を埋めるような形で、基本形から外れたスタイルをとることが多い。そこにはルールに適合できない身体を、スタイルによって再適合化させようという意図をくみ取ることが出来る。しかしハメドは、そもそもが違うのだ。ルールなどまるでそこに存在しないかのように、ただ自分のやりやすいように身体を使っている。そんな彼がプロ通算で37戦 36勝 32KO 1敗(彼の所属したフェザー級という階級では、素晴らしいKO率である。それだけハードパンチャーでもあったのだ)、4つの団体でタイトルを獲得したという事実は、ボクシングという競技が時間をかけてルールを整えてきたその歴史を踏みにじるようなことだったとも言える。故に、「安心」を奪われ激怒したアンチの数も多かった。
スポーツにおいてトリックスターは大成しないケースが多い。それだけ既にルールが完成されているのかもしれない。だが、ハメドのような型破り且つ優れたプレイヤーが一人存在するだけで、その競技も行われる場もガラッと変わってしまうことがある。ルール内でプレイしているにも関わらず、そのルール自体を拡張してしまうようなプレイと空間の存在は、観客から安心感を奪いながらも、それと同時に新しい視座だって与えうるのだ。
競技場は「みんな」のために最適化されクリーンになり、ルールは楽しみのために修正されていった。しかしそれは同時に、こうやって観るべきだ、というような観戦スタイルの基本形を生むことでもあったろう。その時、ハメドの様なルールから外れた自由な身体は、ただのプレイヤーを越えた圧倒的な存在として映るのだ。ルールの上で闘いながら、ルールの自明性を解除させた彼は、リングで踊る。そこから浮かび上がるのは、どれだけ精錬しようにもコントロール出来ない身体が存在するという現実だ。ルールを形作る立場にいる人間は言いようのない怒りと無能感を抱くのかもしれない。ただその無能感は、限りなく全能感に近いものではないだろうか。潜在能力がルールを拡張する時、それは新しい身体の可能性が開かれた時でもあるのだから。そしてそんな身体は、我々が心待ちにしている非日常を華麗に作りだしてくれるのだ。
多くのスポーツがしっかりと体系化された今、あらゆるフィールドに存在する野蛮な神々はきっとトリックスターを待っている。ちっぽけな我々の、悲鳴と礼賛の声を想像して、ほくそ笑みながら。
●武田俊(たけだ・しゅん)
1986年生まれ。KAI-YOU代表、ライター、歌人。
世界と遊ぶ文芸誌『界遊』の編集、イベントの企画・運営を手掛ける一方、書き手としても活動。
サイト:KAI-YOU
配信日:2010/03/17
バンクーバー五輪開催期間中は、寝不足だったという方も多いのではないだろうか? 連日熱戦が伝えられる中、おそらく最も多くの人の注目を集めたのは、女子フィギュアだったろう。ご多分に漏れず私もリアルタイムで観戦していたのだが、キム・ヨナの228.56という歴代最高スコア更新と金メダルが決定した後、twitterを覗いてみるとタイムラインはその話題で埋まっており、様々な意見が飛び交っていた。
我らが真央ちゃんの結果を悔しがるものから、若い両者を称えるもの、キムのスコアに疑義を呈するものまで様々だったが、ふと採点方式自体への批判を行っているツイートに目がとまった。更にウェブ上で検索をかけてみると、同様の指摘がなされたブログもいくつか見受けられた。
そこでの批判をざっくりまとめると、「女子フィギュアのジャンプに代表される技術面は既に臨界点を迎えており、そこでの差別化は厳しい。故に演技構成点の比重が高まる。演技構成については採点基準が比較的曖昧且つ現行の無記名の採点では贔屓がしやすいのではないか」ということになる。
審判の不正や、裏取引の有無はともかくとして、これらのウェブ上での発言をきっかけにスポーツとルールの関係ついて考えてみたい。
全てのスポーツには、もちろんそれぞれのルールがある。バットを振った打者が三塁に向かって走ったり、サッカー選手が突如ボールを両手でつかみ相手ゴールに投げ込んだりすることがないからこそ、競技の中に興奮や面白みが生まれ、観客はそれを楽しむ事が出来る。だからこそ全てのプレイヤーは、ルールを順守せねばならない。その上で自らの演技構成を戦略的にセールスポイントとしたキムは、クレバーなプレイヤーだったと言うことが(とりあえず)出来るだろう。ただトリプルアクセルを五輪史上初めて成功させた選手が、演技の長けた選手に大差で負かされる採点というのは、スポーツの醍醐味を失墜させたと言わざるを得ない。美しさで全てが決まるならば、それは最早競技ではなくエキシビジョンでしかないとも思える。それじゃあつまらない。ではなぜ私はつまらないと思ってしまうのだろうか。ここで、スポーツとはそもそも何なのかというところまで一度立ち戻ってみよう。
日本においてスポ―ツという概念は、「スポーツ振興法」第二条によって、「運動競技及び身体運動(キャンプ活動その他の野外活動を含む。)であつて、心身の健全な発達を図るためにされるものをいう」とされている。しかしながらこの条文を読むと、欲求不満な中学生に向かって「スポーツでもしてしゃっきりしろ!」というような古めかしいお説教がイメージされ、なんだか身体がむずがゆくなってくる。スポーツって、そんなもんじゃないだろう。大体スポーツ自体が「心身の健全な発達」に一役買う、ということ自体疑わしい上に、プレイヤーだって「心身の健全な発達を図る」ために、プレイしているのでは決してない。
では彼らが苦しい思いまでしてプレーヤーとして競技場に止まるのは、なぜだろうか? 勿論プレイヤーがそれぞれの競技に対して持つモチベーションのあり方は異なるから、一概にこうだ、と示すことは出来ないだろう。ただ、観客としての立場から競技場という空間について考えることは出来るはずだ。
あらゆる競技場は、日常生活の外部として存在している。そこはプレイヤーの出自や身分などが解除されることで、それぞれがフラットに闘う事の出来る空間として存在している。競技場は、普段の社会生活では起こり得ない光景の生成を可能とするのだ。このような「外部性」は、スポーツ自身について考える上で非常に重要な部分だろう。スポーツが一般市民の娯楽として受け入れられるためには、この「外部性」から生まれる非日常の要素が必要とされるからだ。
そんな競技場で起こる出来事に対して、人々は時に神の存在について語りだすことがある。「甲子園には魔物がひそむ」や「フットボールの神々」などという定型句が示すように、この日常と隔たれた空間には、人智を越えた神の仕業としか言いようのない光景が立ち現われるのだ。
なるほど、全国各地に広まる様々な祭りの例を出すまでもなく、日常から隔たれたハレの場はいつも神性を帯びているものだ。そして外の世界では行われないような、力と力のぶつかり合いが許された空間=競技場に鎮座するのは、獣じみたいささか野蛮な神々である。
近代スポーツの歴史は、身体的コミュニケーションが含有する野蛮さを競技ごとに体系化することで、クリーン且つ多くの人が楽しめるものすることに多くの時間と労力が費やされたと言えるだろう。元々ベアナックル(素手)で殴りあっていたボクシングにグローブが導入された背景には、相互のプレイヤーを守ることと同時に、プレイヤーが死亡するほど壮絶な試合によって興奮した観客らの暴徒化を防ぐ目的もあった。
しかしながら、徐々に社会が娯楽としてスポーツを受容するようになると、矛盾するかのように観客自体の興奮というものの重要度は増していく。大昔ではパトロンの援助によってグラディエイターさながらの生活を送っていたプレイヤーも、観客のためにプレイする必要に迫られていくようになる。その時ルールというものは、面白さを丁度よく引き出すものでなくてはならない。時代の流れとともにルールが微調整されていく過程は、野蛮さの解消=フェアプレイへの意志、と観客に与える興奮の間で舵を取ることだった、と言いかえることも出来る。
そのバランスがある程度見極められ、ルールが安定化すると、それぞれの競技のプレイスタイルの中に基本形が生まれることになる。ボクシングではガードを上げ、適宜リードパンチを打ちながらコンビネーションに繋げることが王道的なスタイルであるし、野球では打者は肩幅より少し広めに足を開き、膝をリラックスさせて構えるのが良しとされる。もちろんそこを起点としながら、それぞれのプレイヤーの気質・身体、そして場にあった形にマイナーチェンジされていくのだが、基本に忠実なスタイルは応用が利くし、優れたプレイヤーであればあるほどそれぞれのスタイルは職人技と言えるような精錬のされ方によって無駄が省かれ、美しささえ宿らせる事が出来る。初めは異端視されながらも振り子打法によって国内最高の打者の一人となったイチローが、メジャーではそれを封印しシンプルなフォームに変更し最多安打記録を塗り替えたように、ルールに身体を適合化していく過程とその身体によって生み出されたプレイに観客は美しさを感じるものなのだ。
しかしあえて意地悪な言い方をすれば、その美しさはルールに依存しているものだ。スーパー優等生としてのイチローのプレイは、あくまで既存のルール内に止まることで存在出来ている。ギリギリまで無駄の省かれた美しいプレイを愛でることは、確かに楽しい。「安心して見ていられる」プレイは、チームの勝利を願う観客にとって確かに尊い。ただスポーツの醍醐味というのは、それだけでは決してない。「安心して見ていられない」ということの、素晴らしさだってあるのだ。
ナジーム・ハメドというボクサーがいた。元総合格闘家である須藤元気が、そのトリッキーなファイトスタイルの参考としたというボクサーである彼は、近代ボクシングがそれまで精錬させてきたルールに則った由緒正しき基本形の全てをあざ笑うように、闘っていた。
ガードという概念を知らないかのように両腕をだらりと下げ、ジャンプしながらパンチを繰り出す。背骨がぐにゃりとまがった常人では到底とれないような姿勢と驚異的な動体視力でパンチをかわし、その姿勢のままなお打ちこんでくる彼は正にトリックスターの名に相応しいボクサーだったのだ。
もちろん亜流のスタイルをとるプレイヤーは競技の種類を問わず数多く存在する。だが彼らの多くは自分の身体的不利条件を埋めるような形で、基本形から外れたスタイルをとることが多い。そこにはルールに適合できない身体を、スタイルによって再適合化させようという意図をくみ取ることが出来る。しかしハメドは、そもそもが違うのだ。ルールなどまるでそこに存在しないかのように、ただ自分のやりやすいように身体を使っている。そんな彼がプロ通算で37戦 36勝 32KO 1敗(彼の所属したフェザー級という階級では、素晴らしいKO率である。それだけハードパンチャーでもあったのだ)、4つの団体でタイトルを獲得したという事実は、ボクシングという競技が時間をかけてルールを整えてきたその歴史を踏みにじるようなことだったとも言える。故に、「安心」を奪われ激怒したアンチの数も多かった。
スポーツにおいてトリックスターは大成しないケースが多い。それだけ既にルールが完成されているのかもしれない。だが、ハメドのような型破り且つ優れたプレイヤーが一人存在するだけで、その競技も行われる場もガラッと変わってしまうことがある。ルール内でプレイしているにも関わらず、そのルール自体を拡張してしまうようなプレイと空間の存在は、観客から安心感を奪いながらも、それと同時に新しい視座だって与えうるのだ。
競技場は「みんな」のために最適化されクリーンになり、ルールは楽しみのために修正されていった。しかしそれは同時に、こうやって観るべきだ、というような観戦スタイルの基本形を生むことでもあったろう。その時、ハメドの様なルールから外れた自由な身体は、ただのプレイヤーを越えた圧倒的な存在として映るのだ。ルールの上で闘いながら、ルールの自明性を解除させた彼は、リングで踊る。そこから浮かび上がるのは、どれだけ精錬しようにもコントロール出来ない身体が存在するという現実だ。ルールを形作る立場にいる人間は言いようのない怒りと無能感を抱くのかもしれない。ただその無能感は、限りなく全能感に近いものではないだろうか。潜在能力がルールを拡張する時、それは新しい身体の可能性が開かれた時でもあるのだから。そしてそんな身体は、我々が心待ちにしている非日常を華麗に作りだしてくれるのだ。
多くのスポーツがしっかりと体系化された今、あらゆるフィールドに存在する野蛮な神々はきっとトリックスターを待っている。ちっぽけな我々の、悲鳴と礼賛の声を想像して、ほくそ笑みながら。
●武田俊(たけだ・しゅん)
1986年生まれ。KAI-YOU代表、ライター、歌人。
世界と遊ぶ文芸誌『界遊』の編集、イベントの企画・運営を手掛ける一方、書き手としても活動。
サイト:KAI-YOU
