担当者より:音楽・風俗ライターの磯部涼さんに、いま音楽の現場はどこにあるのかについて書いていただいたものです。当初メールマガジンとして配信されたものに若干の加筆・修正が施されております。ご一読ください。

配信日:2010/04/21


音楽の“現場”について、ずっと考えて来た。“現場”とは、文字通りに取るならば、音楽が鳴っている場所ということになる。しかし、その言葉が“現場”にいる人たちによって“ゲンバ”とジャーゴン化される時、それは、“聖域”という意味さえ帯びるだろう。“ゲンバ”こそがアウラを感じられる唯一無二の場所、という訳だ。

04年に太田出版から刊行された拙著『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』は、00年代前半に書いたテキストの中から、日本のアンダーグラウンドな音楽をテーマにしたものを選んで纏めたものである。そこで取り上げているアーティストの中には、メジャーはおろか、インディ・レーベルさえ使わず、自分自身でCDを手売りしたり、実演を活動のメインにしている人も多いので、文章も必然的にライヴやパーティについて書く事になった。

そんな本を出したおかげで、“現場主義ライター”と呼ばれる事も多くなった。それはまんざらでもない。ただ、インタヴューやトークショーでそのような話題が振られた時は一応、注釈を加えるようにしている。何故なら、そう言ってくる人は大抵、“現場”という言葉を“=ライヴ・ハウス/クラブ”という風に狭義に捉えている場合がほとんどだからだ。

同じように、前述した“ゲンバ”というジャーゴンもまた、“狭義の現場”とイコールだと言っていいだろう。しかし、引き蘢って音楽を聴いている人にとっては、自室こそが“現場”になるわけだし、そこまで極端でなくても、ライフ・スタイルの変化でライヴ・ハウスやクラブになかなか通えなくなったものの、それでも音楽を愛し続けている人を私はたくさん知っている。彼等にとっては、移動中の車の中や、仕事が終わり、子供も寝付き、ほんの少しだけ自分に与えられた自由な時間こそが“現場”なのである。果たして、そのような音楽との付き合い方を否定出来るだろうか?

一方で、毎日のようにライヴ・ハウスやクラブに通っているにも関わらず、ろくに演奏も聴かず、バーの前で呑んだくれて、ずっとフロアに背を向けている人も私はたくさん知っている。いや、誤解のないように言っておくと、私はそんな音楽との付き合い方さえ否定しないのだが、では、“現場”とは一体、何なのだろうか?

そのようにもともとが単純ではない“現場”という概念は、拙著を出して以降、つまり、00年代後半以降、より複雑になっていったように思う。そこには、やはり、インターネットの普及と、それに応じたサービスの登場が大きく関係している。そして、その極め付けが“神聖かまってちゃん”と“DOMMUNE”の登場である。

簡単に紹介しておくと、まず、前者のかまってちゃんはロック・バンド。全曲の作詞/作曲を手掛けるヴォーカルの“の子”を中心としたメンバー4人全員が85年生まれで、08年に結成、2ちゃんねるのような掲示板での自作自演、PeerCastやニコニコ生放送といったライヴ・ストリーミング・サービスを使ったパフォーマンス、Youtubeやニコニコ動画といった動画投稿サイトに出来た側から楽曲をアップしていく等、ネットを駆使した活動で話題を集めていった。先日、初のTV出演をした際にはインディながらGoogleの検索ワード・ランキングで一位を飾る等、今、最もハイプなバンドだと言っても過言ではないだろう。

次に、後者のDOMMUNEはイベント・スペースであり、同名のインターネット・サイトでもある。デザイナーの宇川直宏によって今年3月に始まったこの企画は、連日、東京某所にある会場で、第一部にトークショー、第二部にDJ・パーティを開催、それらが全て、Ustreamを使ってライヴ・ストリーミングされるのが特徴だ。ただし、現在、雨後の竹の子のように増え続けている同様の試みに比べて、著作権対策でJASRACと提携したり、高音質で配信するためにPAを雇ったりと、クオリティの面でずば抜けており、ヴューワー数でも一人勝ちを続けている。

勿論、ネットの普及に伴う“現場”の変化には、その前から予兆があって、MySpace(03年~/日本版は06年~)とYoutube(05年~/日本語対応は07年~)の登場以降、00年代の音楽業界において、同サービスはプロモーション・ツールとして欠かせないものとなっていった。しかし、MySpaceやYoutubeを足掛かりに人気を得て、ライヴの動員やCDの売り上げを増やした数多のアーティストとかまってちゃんが決定的に違うのは、前者はネットを、リアルな場を盛り上げるための手段としてしか考えていないのに対して、後者は、ともすれば、ネットをリアルな空間よりもよっぽど“リアル”だと捉えているような節があるところだ。

昨年12月、私はかまってちゃんに、の子の自宅でインタヴューを行った。その模様も彼等の申し出により、ニコニコ生放送を使ってライヴ・ストリーミングされていたのだけれど、の子が「ライヴより配信の方が面白い」ときっぱり言ってのけ、こちらからの質問そっちのけで、視聴者から書き込まれるコメント(そのほとんどが罵詈雑言)に喜々として応える姿は新世代の台頭を間近で見るようで、ちょっとした衝撃だった。

実際、かまってちゃんのライヴは、演奏技術の面でも、構成力の面でも、はっきり言って酷いものである。ただ、ユニークなのは、会場の雰囲気が妙にネットのオフ会めいているところで、その内輪ノリは、連日のようにネットで行われるライヴ・ストリーミングやアップされる動画を前提としている。あるいは、その雰囲気は何処か“上の空”であるとも言い換えられる。何故なら、ライヴの一部始終はカメラによって押さえられ、ライヴ・ストリーミング、もしくは終了直後にアップされ、そこに、会場に居た人、居ない人も含めて膨大なコメントが書き込まれることで初めて完成するのだが、リアルな空間ではその完成形には立ち会えず、終始携帯やノート・パソコンを覗き込んだり、完成形を夢想するしかないのだから。

また、かまってちゃんは3月に初めてCDのフォーマットでミニ・アルバム『友達を殺してまで。』をリリースしたものの、同作が活動自体に比べ、いまいち評判が悪いのは、(1)そこに収録されている楽曲のほとんどがかつてネットにアップされた初期作であるため既聴感が強い、(2)それらよりも遥かに成長した楽曲も既にネットにアップされている、(3)CDの奇麗な音よりも、Youtubeやニコニコ動画の圧縮された劣悪な音の方が彼等の楽曲にはずっと似合う、といった事が理由として挙げられるだろう。

つまり、何が言いたいかというと、かまってちゃんにとっての“現場”とは他でもない、ネットであり、ライヴ・ハウスやCDを聴くというリアルな行為は二次的な“現場”に成り下がっているのだ。そしてその事実は、例えばいとうせいこうが加入して以降の口口口(クチロロ)の、戦略的なネットとの結び付き方と似ているようで、異なった性格を持っている。口口口のtwitterやUstの使い方は、むしろ、前述した「MySpaceやYoutubeを足掛かりに人気を得」たアーティストの延長である。

しかし、かまってちゃんのそれはもっと無意識で、自然態で、逆に言えば異様である。彼等の場合はその肉体ーーつまりはリアルが、完全にネットに取り込まれているのだから。前述したインタヴューで、の子は独特の言い回しを使って、こうも叫んでいた。「音楽なんて、もう終わってる。オレは新しい文化をやっているんだ。アイ、アイ、アイ・アム・サブカルチャリング」。

一方、宇川直宏は、DOMMUNEにおいて、ライヴ・ストリーミングはあくまで二次的なものであり、会場こそが“現場”なのだと言う。同企画が真価を発揮するのは、やはり、第二部のパーティだが、幾ら配信が高音質だと言っても、ファンクション・ワンとマスター・ブラスターという最高のスピーカーを最高の状態にセッティングしたサウンド・システムが鳴らす音圧には適いようがないんだから、出来たら実際に足を運んで欲しいと。また、DOMMUNEは金曜と土曜が定休日なのだが、そのスケジューリングには、平日は仕事が終わった後、ネットでヴァーチャルなクラブ体験を楽しんで、週末はリアルなクラブで遊んでくれというメッセージが込められている。

宇川は、初めて公の場でDOMMUNEについて語った、4月10日、「水戸芸術館」におけるトークショーで、そう力説した。私欲だけでなく、常にシーン全体の事を考える彼らしい発言だ。しかし、1日に付きライヴ・ストリーミングのヴューワーがリアルタイムで2000人から5000人、トータルでは1万から3万にまで上るのに対して、実際の会場に入る事が可能なのはたったの50人である。パーティには毎回、国内外のトップ・DJが招聘されるが、そのプレイをそのような小さな会場で堪能出来るというのは非常に贅沢な話だ。

当然、毎回、会場内の盛り上がりはかなりのものになるのだが、DOMMUNEという新たな試みが話題になったのは、それよりも、数千人(潜在的には数万人)が、Ustと、そこにコメント欄として設置されたtwitterを通して、一体感を体験するという前代未聞の現象にあるだろう。そこでは、DJがプレイする音と姿は勿論、フロアの様子もライヴ・ストリーミングの素材のひとつとなる。

そんな“現場”を体験したDJのQ'HEYが、自身のblogに綴ったDOMMUNEの感想が興味深い。彼がプレイした3月30日は会場は満員、リアルタイム・ヴューワー数は3500人だったのだが、終了直後、友人から「どうだった? 50人のクラブでプレイした感じだった? 3500人のクラブだった?」と訊かれ、Q'HEYは以下のように答えたという。

「いい質問です。現場でプレイしてる感覚で言えば、そりゃ50人のクラブですよ。目の前にいるのが50人である以上は、ブースにいて直に受け取れる熱も50人のものであって、3,500人の大箱でのプレイではなかった。情報としては3,500人見てるって聞かされても、それが実際にこちらから見えてるわけじゃないんで。でも単に50人の小箱でやってたのとは全く違う感覚。言うなれば“3,500人の小箱”でのプレイだったって感じ」
「FLYING COW - DJ Q'HEY blog」より

説明するまでもなく、“3,500人の小箱”というのはリアルにはあり得ない存在だ。それは、ネット上にしか存在しない。要するに、DOMMUNEの“現場”とは、会場で体験するにせよ、ネットを通して体験するにせよ、リアルとヴァーチャルが入り交じったものになってしまうのだ。

数年前まで音楽業界では、ネットを通したヴァーチャルな体験が溢れているからこそ、リアルな体験のニーズが高まり、CDが売れなくなる一方で、ライヴやフェスに人が集まる、というような分析が良く目に付いた。しかし、今やライヴ・ストリーミングによって、“リアルな体験”をネットで体験する事も出来るし、むしろ、その感覚の方が目新しい。かまってちゃんとDOMMUNEの例は現在、異端だが、同時に最先端であり、このような、“現場”という概念の複雑化は今後、様々な側面で進行して行くはずだ。

突き詰めて考えれば、“現場”とは極めて個人的な感覚である。ライヴ・ハウスやクラブに50人がいれば、50通りの“現場”があるし、例え、そのような場所にいなかったとしても、その人がその時いる場所こそが、その人にとっての“現場”なのだ。しかし、冒頭に書いたように、一般的に“現場”という言葉は、音楽が鳴っている場所における個人的な感覚の総体という意味で使われる事が多い。ただ、それはあくまで一体感という名の共同“幻想”であり、その定義からすれば、“現場”という概念は、ライヴ・ハウスやクラブといった狭い枠を飛び越えて、ポップ・ミュージック・カルチャーそのものであると言うことも出来るはずだ。そして、レコードが誕生して以降、膨らみ続けてきたその“幻想”は、今、新たな“幻想”に取って変わられようとしているのかもしれない。

かまってちゃんやDOMMUNEにおける新たな“現場”では、TVやメジャー・レーベルといった旧来のメディアが批判にさらされることが多い。しかし、両者がこれといった収益システムを見つけられていない現在、それはルサンチマンに過ぎないし、もし、今後、彼等が旧来のメディアと手を結ぶ時、ファンから激しい批判にさらされる可能性もないとは言えない。そういう意味では、この新たな“現場”もまた“ゲンバ”であって、唯一無二のアウラを感じられる“聖域”として機能しているのだ。


●磯部涼(いそべ・りょう)
音楽・風俗ライター。
著書に『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』(太田出版)、共著に『ヤンキー文化論序説』『ゼロ年代の音楽』(河出書房新社)などがある。