担当者より:イラストの分野などでご活躍の宮本彩子さんによる大長編小説『失われた時を求めて』についてのエッセイです。また、宮本さんは章扉のイラストを手がけた伊藤聡さんの著書『生きる技術は名作に学べ』(ソフトバンク新書)の小冊子企画にもイラストを寄せてくださっています。
配信日:2010/04/21
「紅茶に浸したマドレーヌを食べると記憶がよみがえるらしい」「とにかくやたらめったら長いらしい」。20世紀文学の最高峰とうたわれる『失われた時を求めて』について、世間に広く知られていることといったらこんなところではないでしょうか。
もちろん自分もその例に漏れません。マドレーヌを紅茶に浸す……それって日本のお茶漬けみたいな感覚かしら。文学をちゃんと勉強したことがないただの会社員の自分が、一生のうちにこの大作を読む機会はあるのかしら。本屋に並ぶ集英社文庫ヘリテージシリーズ全13巻の涼しげな背表紙をながめるたびに、そんなことをぼんやりと考えていました。
ところが昨年のある夏の日、蒸し暑さで頭がいつにも増してぼんやりしていたのでしょうか。冷房のきいた本屋にふらふらと迷い込んだのが最後、店を出る頃に手にしていたのはカバーのかかった『失われた時を求めて』の第1巻。そこから数カ月にもわたる『失われた時を求めて』の旅が、見切り発車で始まってしまったのです。
そもそも私がはじめてこの小説の存在を知ったのは、高校の授業で使っていた副読本『常用国語便覧』(浜島書店)からでした。これは作家のプロフィールやおもしろエピソードがいろいろと載っていて、国語の授業に飽きた時にパラパラ眺めるのにはうってつけの本でした。
そのなかに「外国文学」というコーナーがあり、ディケンズの『二都物語』やカフカの『変身』などと並んで紹介されていたのが、プルーストの『失われた時を求めて』。曰く「ブルジョア社会を背景に、さまざまな人物が詳細な心理描写によって深く分析洞察された傑作である」。である、と言われても、これじゃどんな話かさっぱり……。高校生だった自分はブルジョアという単語から、ドラえもんのスネ夫もしくはおそ松くんのイヤミのような人がたくさん出てくる話ではないかと、なんとなくの見当をつけました。しかし、実際に本を手に取ることもなかったので、長年その実態は漠として知れませんでした。
ここであらためて説明すると、『失われた時を求めて』は、フランスの作家マルセル・プルーストが、その生涯をかけて執筆した長編小説です。ベル・エポックと呼ばれる19世紀末から20世紀はじめにかけてのフランスを舞台に、主人公の「私」が幼年時代から自身の半生を回想するという形で、華やかな社交界や階級社会、恋愛、芸術など、実に幅広い題材が描き出されています。物語の語り手でもある「私」は、プルースト自身が多分に投影されている存在でもあり、自伝的な作品ともいわれています。おどろくべきことに、スノッブと呼ばれるイヤミみたいな人もちょくちょく出てくるので、高校時代の自分に「よーし、よしよし!」と松岡修造のように声を掛けてあげてもいいかもしれません。
『失われた時を求めて』を読んでいると人に話すと、「そんな長い小説読むの、大変でしょう?」と返されることがよくありました。けれども実際に読みはじめてみると、意外にも、読むこと自体にはそれほど苦労しない小説なのでした。
ここでかなりざっくりとした分類をすると、長編小説には二つのタイプがあるように思います。物語が少しずつ積みあげられてうず高く盛り上がり、ついにはクライマックスを迎える大きな山のような小説。これはドストエフスキーなんかがそうでしょう。読むのに気力も体力も要りようです。
一方で、無数のエピソードが数珠つなぎにあらわれる絵巻物のようなタイプの長編小説があります。例えば『源氏物語』のような作品。『失われた時を求めて』はこっちの後者のタイプです。これは苦労して山に登るというよりは、海岸沿いで繰り返し押し寄せる波をじーっと眺めているような感覚。普通だったらそんなのすぐに飽きてしまいそうだけれど、さすがに後世に残る名作くらいになると、生み出す波の形はあまりに見事で美しいので、いつまでも見入ってしまうのです。
とはいえ、なかなか終わりが見えないこの小説にじりじりとした気持ちにさせられたことも確かでした。せせこましく生きる現代人の自分には、趣味でも遊びでも何にでも達成感を求めるという、うらさびしい性質がしみついているのか、とにかく手っ取り早くにこの全13巻を片付けてしまいたいというよこしまな気持ちにつきまとわれがち。そんな雑念に襲われると案の定、文章に向かう集中力がぷつりと途切れて眠りの世界へ……。何日も本を手に取る気になれなかったり、ついほかの小説に浮気してしまうこともしばしでした。
そんな根気もなく飽きっぽい自分が、なんとか挫折せずに最後まで読み通すことができたのは、結局はこの小説の持っている物語としての純粋なおもしろさ、楽しさのおかげだったのでしょう。
なかでも読書を続ける燃料となったのが、さまざまな登場人物がタペストリーのように織りなす恋愛模様の数々でした。貴族やブルジョア、クルチザンヌ(高級娼婦)が繰り広げる華やかで奔放な恋愛に、「さすがフランス人はちがう……」と感心することしきり。さらに、どの恋のエピソードもプルーストが持つ独特の恋愛観につらぬかれているのが特徴。それは「追えば逃げる、逃げれば追う。恋は永遠に終わることのないシーソーゲーム」という観念です。
例えば、主人公の「私」の恋。「私」は、文学を志す裕福なブルジョワの美青年で、芸術的で繊細な感性と、時に辛辣なくらいに物事を観察できる知性をそなえています。生来病弱な体質ながらも社交好きの快楽主義。恋愛のこととなると俄然色めきたって、放っておけば憧れの公爵夫人や奔放な小間使いのことばかり考え、日がな一日妄想にふけっています。病弱と好色って両立するんですね。
そんな主人公の運命の恋の相手となるのが、孤児だったアルベルチーヌ。もともと少年時代にひとときの恋の相手だった少女です。成熟したアルベルチーヌと再会した主人公は、海辺の避暑地でつかの間(のつもり)の恋を楽しみます。ところが、移り気な主人公が「そろそろ飽きてきたし別れようかな」なんて思いはじめた矢先、アルベルチーヌの同性愛疑惑が浮上。アルベルチーヌが女達とこっそり逢引しているのではないか、自分に隠れて何かとてつもないいやらしいことをしているのでは……と、激しい嫉妬にさいなまれた主人公は、アルベルチーヌを自宅に引き取り、彼女との同棲生活を開始します。アルベルチーヌを監視状態に置くことで、猜疑のかたまりのようになった主人公の心は休まりますが、そうすると今度は二人の間に倦怠しか残りません。嫉妬と倦怠が交互にあらわれ、にっちもさっちもいかずにがんじがらめのようになった「私」とアルベルチーヌの関係は、ついには悲劇的な結末をもって幕となるのです。
同性愛者であったプルーストにとって、同性愛はこの小説の大きなテーマの一つでした。同性愛が主題となるのが第4篇、その名も「ソドムとゴモラ」。女性の同性愛であるゴモラの世界はアルベルチーヌをあらわしていますが、男性の同性愛であるソドムの世界でもまた、痛ましくも個性的な恋が繰り広げられます。
主人公と交友のあるシャルリュス男爵は、高貴な血筋を持つよりぬきの貴族で社交界の花形。傲岸不遜な性格の中に高潔な心を隠しもっている人物です。同性愛者であるシャルリュス男爵は、自身の性癖をそこそこ上手にコントロールし、男たちと後腐れも醜聞もない関係を結んでいました。
しかし、モレルというバイオリン奏者の青年と出会ったことで、彼の人生は一変します。彫刻のような美貌を持つモレルに魅了され、そのパトロンとなった男爵。しかし、根っからの庶民出身のモレルには輝かしい貴族の威光が届かず、愛情や尊敬を得ることがかないません。美しい顔とは裏腹に卑怯で残忍なところのあるモレルに利用され、裏切られ、傷つけられるばかりです。モレルへの想いが満たされない反動で、快楽を求める気持ちが加速していく男爵は、悪所に出入りするようになり、ついには陰惨なマゾヒズムのとりことなってしまいます。男たちにいたぶられ、グロテスクな痴態をさらす老人となったシャルリュス男爵に、物語のはじめのほうのシックでエレガントな姿はありません。あまりの変貌ぶりに読者も愕然。
一人の青年に想いを寄せたことがきっかけで、貴族としての自分を見失い、社交界でのゆるぎない地位も失墜してしまったシャルリュス男爵。恋愛が理性のたがを外して、ひとりの人間を思わぬところに連れ去り、想像もつかなかったような人生を歩ませてしまう恐ろしさが描かれています。身分違いの恋や快楽を求める本能、イレギュラーな衝動によって、強固で安全な世界がゆさぶられ変化していく様に、人間社会の一筋縄ではいかない面妖さを垣間見る思いです。
ここまで恋愛小説的な部分を紹介してきましたが、もちろん『失われた時を求めて』の魅力はそれだけではありません。年齢を重ねた人がこの大河小説を読めば、人生の諸行無常というものがよりしみじみと感じられることでしょうし、飲み会やオフ会が好きな人が読めば、社交界や晩餐会で繰り広げられる人間模様に思わず共感するかもしれません。おしゃれに敏感な人だったら、ヒロインたちが着こなす洗練されたフランスのモードにうっとりしてしまうかも。誰にでも、なにかしら琴線に触れる部分が見つかるはずです。きっと読む人の年齢や性別、興味関心、置かれている環境などによっても、まったくちがったテーマが印象に残る小説、見る角度によって色を変える宝石のような小説なのだと思います。
『失われた時を求めて』に限らず、長い小説を読む楽しみというのは、その世界のすっぽりと没入してしまうことです。読み進めれば進めるほどに、登場人物が身近な存在になり、その世界も、文体の肌触りも、しっくりとなじみのあるものに思えてくる。日常や仕事に追い立てられていても、本を開くとまったく別の世界にするりと入り込めるのです。満員の通勤電車でよれよれになりながらでも、ページを繰れば、社交界の機知を味わい、嫉妬の苦しさを知り、行ったこともない場所への郷愁を覚えることができました。長い小説を読み終わるといつもさみしいような気持ちに襲われますが、本を開けばきっと、いつでもあの世界に戻ることができるのだと感じています。
●宮本彩子(みやもと・あやこ)
1982年生まれの会社員。
たまにイラストの仕事もしていて、『エソラ』(講談社)連載の岸本佐知子さんのエッセイ「岸本佐知子のここ行ったことない」のイラストや、伊藤聡さんの著書『生きる技術は名作に学べ』(ソフトバンク新書)の扉絵を担当しています。
ブログ:ぼんやり上手
配信日:2010/04/21
「紅茶に浸したマドレーヌを食べると記憶がよみがえるらしい」「とにかくやたらめったら長いらしい」。20世紀文学の最高峰とうたわれる『失われた時を求めて』について、世間に広く知られていることといったらこんなところではないでしょうか。
もちろん自分もその例に漏れません。マドレーヌを紅茶に浸す……それって日本のお茶漬けみたいな感覚かしら。文学をちゃんと勉強したことがないただの会社員の自分が、一生のうちにこの大作を読む機会はあるのかしら。本屋に並ぶ集英社文庫ヘリテージシリーズ全13巻の涼しげな背表紙をながめるたびに、そんなことをぼんやりと考えていました。
ところが昨年のある夏の日、蒸し暑さで頭がいつにも増してぼんやりしていたのでしょうか。冷房のきいた本屋にふらふらと迷い込んだのが最後、店を出る頃に手にしていたのはカバーのかかった『失われた時を求めて』の第1巻。そこから数カ月にもわたる『失われた時を求めて』の旅が、見切り発車で始まってしまったのです。
そもそも私がはじめてこの小説の存在を知ったのは、高校の授業で使っていた副読本『常用国語便覧』(浜島書店)からでした。これは作家のプロフィールやおもしろエピソードがいろいろと載っていて、国語の授業に飽きた時にパラパラ眺めるのにはうってつけの本でした。
そのなかに「外国文学」というコーナーがあり、ディケンズの『二都物語』やカフカの『変身』などと並んで紹介されていたのが、プルーストの『失われた時を求めて』。曰く「ブルジョア社会を背景に、さまざまな人物が詳細な心理描写によって深く分析洞察された傑作である」。である、と言われても、これじゃどんな話かさっぱり……。高校生だった自分はブルジョアという単語から、ドラえもんのスネ夫もしくはおそ松くんのイヤミのような人がたくさん出てくる話ではないかと、なんとなくの見当をつけました。しかし、実際に本を手に取ることもなかったので、長年その実態は漠として知れませんでした。
ここであらためて説明すると、『失われた時を求めて』は、フランスの作家マルセル・プルーストが、その生涯をかけて執筆した長編小説です。ベル・エポックと呼ばれる19世紀末から20世紀はじめにかけてのフランスを舞台に、主人公の「私」が幼年時代から自身の半生を回想するという形で、華やかな社交界や階級社会、恋愛、芸術など、実に幅広い題材が描き出されています。物語の語り手でもある「私」は、プルースト自身が多分に投影されている存在でもあり、自伝的な作品ともいわれています。おどろくべきことに、スノッブと呼ばれるイヤミみたいな人もちょくちょく出てくるので、高校時代の自分に「よーし、よしよし!」と松岡修造のように声を掛けてあげてもいいかもしれません。
『失われた時を求めて』を読んでいると人に話すと、「そんな長い小説読むの、大変でしょう?」と返されることがよくありました。けれども実際に読みはじめてみると、意外にも、読むこと自体にはそれほど苦労しない小説なのでした。
ここでかなりざっくりとした分類をすると、長編小説には二つのタイプがあるように思います。物語が少しずつ積みあげられてうず高く盛り上がり、ついにはクライマックスを迎える大きな山のような小説。これはドストエフスキーなんかがそうでしょう。読むのに気力も体力も要りようです。
一方で、無数のエピソードが数珠つなぎにあらわれる絵巻物のようなタイプの長編小説があります。例えば『源氏物語』のような作品。『失われた時を求めて』はこっちの後者のタイプです。これは苦労して山に登るというよりは、海岸沿いで繰り返し押し寄せる波をじーっと眺めているような感覚。普通だったらそんなのすぐに飽きてしまいそうだけれど、さすがに後世に残る名作くらいになると、生み出す波の形はあまりに見事で美しいので、いつまでも見入ってしまうのです。
とはいえ、なかなか終わりが見えないこの小説にじりじりとした気持ちにさせられたことも確かでした。せせこましく生きる現代人の自分には、趣味でも遊びでも何にでも達成感を求めるという、うらさびしい性質がしみついているのか、とにかく手っ取り早くにこの全13巻を片付けてしまいたいというよこしまな気持ちにつきまとわれがち。そんな雑念に襲われると案の定、文章に向かう集中力がぷつりと途切れて眠りの世界へ……。何日も本を手に取る気になれなかったり、ついほかの小説に浮気してしまうこともしばしでした。
そんな根気もなく飽きっぽい自分が、なんとか挫折せずに最後まで読み通すことができたのは、結局はこの小説の持っている物語としての純粋なおもしろさ、楽しさのおかげだったのでしょう。
なかでも読書を続ける燃料となったのが、さまざまな登場人物がタペストリーのように織りなす恋愛模様の数々でした。貴族やブルジョア、クルチザンヌ(高級娼婦)が繰り広げる華やかで奔放な恋愛に、「さすがフランス人はちがう……」と感心することしきり。さらに、どの恋のエピソードもプルーストが持つ独特の恋愛観につらぬかれているのが特徴。それは「追えば逃げる、逃げれば追う。恋は永遠に終わることのないシーソーゲーム」という観念です。
例えば、主人公の「私」の恋。「私」は、文学を志す裕福なブルジョワの美青年で、芸術的で繊細な感性と、時に辛辣なくらいに物事を観察できる知性をそなえています。生来病弱な体質ながらも社交好きの快楽主義。恋愛のこととなると俄然色めきたって、放っておけば憧れの公爵夫人や奔放な小間使いのことばかり考え、日がな一日妄想にふけっています。病弱と好色って両立するんですね。
そんな主人公の運命の恋の相手となるのが、孤児だったアルベルチーヌ。もともと少年時代にひとときの恋の相手だった少女です。成熟したアルベルチーヌと再会した主人公は、海辺の避暑地でつかの間(のつもり)の恋を楽しみます。ところが、移り気な主人公が「そろそろ飽きてきたし別れようかな」なんて思いはじめた矢先、アルベルチーヌの同性愛疑惑が浮上。アルベルチーヌが女達とこっそり逢引しているのではないか、自分に隠れて何かとてつもないいやらしいことをしているのでは……と、激しい嫉妬にさいなまれた主人公は、アルベルチーヌを自宅に引き取り、彼女との同棲生活を開始します。アルベルチーヌを監視状態に置くことで、猜疑のかたまりのようになった主人公の心は休まりますが、そうすると今度は二人の間に倦怠しか残りません。嫉妬と倦怠が交互にあらわれ、にっちもさっちもいかずにがんじがらめのようになった「私」とアルベルチーヌの関係は、ついには悲劇的な結末をもって幕となるのです。
同性愛者であったプルーストにとって、同性愛はこの小説の大きなテーマの一つでした。同性愛が主題となるのが第4篇、その名も「ソドムとゴモラ」。女性の同性愛であるゴモラの世界はアルベルチーヌをあらわしていますが、男性の同性愛であるソドムの世界でもまた、痛ましくも個性的な恋が繰り広げられます。
主人公と交友のあるシャルリュス男爵は、高貴な血筋を持つよりぬきの貴族で社交界の花形。傲岸不遜な性格の中に高潔な心を隠しもっている人物です。同性愛者であるシャルリュス男爵は、自身の性癖をそこそこ上手にコントロールし、男たちと後腐れも醜聞もない関係を結んでいました。
しかし、モレルというバイオリン奏者の青年と出会ったことで、彼の人生は一変します。彫刻のような美貌を持つモレルに魅了され、そのパトロンとなった男爵。しかし、根っからの庶民出身のモレルには輝かしい貴族の威光が届かず、愛情や尊敬を得ることがかないません。美しい顔とは裏腹に卑怯で残忍なところのあるモレルに利用され、裏切られ、傷つけられるばかりです。モレルへの想いが満たされない反動で、快楽を求める気持ちが加速していく男爵は、悪所に出入りするようになり、ついには陰惨なマゾヒズムのとりことなってしまいます。男たちにいたぶられ、グロテスクな痴態をさらす老人となったシャルリュス男爵に、物語のはじめのほうのシックでエレガントな姿はありません。あまりの変貌ぶりに読者も愕然。
一人の青年に想いを寄せたことがきっかけで、貴族としての自分を見失い、社交界でのゆるぎない地位も失墜してしまったシャルリュス男爵。恋愛が理性のたがを外して、ひとりの人間を思わぬところに連れ去り、想像もつかなかったような人生を歩ませてしまう恐ろしさが描かれています。身分違いの恋や快楽を求める本能、イレギュラーな衝動によって、強固で安全な世界がゆさぶられ変化していく様に、人間社会の一筋縄ではいかない面妖さを垣間見る思いです。
ここまで恋愛小説的な部分を紹介してきましたが、もちろん『失われた時を求めて』の魅力はそれだけではありません。年齢を重ねた人がこの大河小説を読めば、人生の諸行無常というものがよりしみじみと感じられることでしょうし、飲み会やオフ会が好きな人が読めば、社交界や晩餐会で繰り広げられる人間模様に思わず共感するかもしれません。おしゃれに敏感な人だったら、ヒロインたちが着こなす洗練されたフランスのモードにうっとりしてしまうかも。誰にでも、なにかしら琴線に触れる部分が見つかるはずです。きっと読む人の年齢や性別、興味関心、置かれている環境などによっても、まったくちがったテーマが印象に残る小説、見る角度によって色を変える宝石のような小説なのだと思います。
『失われた時を求めて』に限らず、長い小説を読む楽しみというのは、その世界のすっぽりと没入してしまうことです。読み進めれば進めるほどに、登場人物が身近な存在になり、その世界も、文体の肌触りも、しっくりとなじみのあるものに思えてくる。日常や仕事に追い立てられていても、本を開くとまったく別の世界にするりと入り込めるのです。満員の通勤電車でよれよれになりながらでも、ページを繰れば、社交界の機知を味わい、嫉妬の苦しさを知り、行ったこともない場所への郷愁を覚えることができました。長い小説を読み終わるといつもさみしいような気持ちに襲われますが、本を開けばきっと、いつでもあの世界に戻ることができるのだと感じています。
●宮本彩子(みやもと・あやこ)
1982年生まれの会社員。
たまにイラストの仕事もしていて、『エソラ』(講談社)連載の岸本佐知子さんのエッセイ「岸本佐知子のここ行ったことない」のイラストや、伊藤聡さんの著書『生きる技術は名作に学べ』(ソフトバンク新書)の扉絵を担当しています。
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