担当者より:ライターの真魚八重子さんに「死んでも戦う女たち」について、多くの映画を参照しながら論じてくださった原稿を掲載いたします。四方田犬彦・鷲谷花編『戦う女たち』(作品社)にも真魚さんの論考は掲載されていますので、そちらもぜひ。

配信日:2009/09/02


日本の怪談映画では非業の死を遂げたのち、幽霊となって登場する有名キャラが幾人かいます。お岩さんはもちろん、最近も中田秀夫監督作品『怪談』で取り上げられた『累ヶ淵』の豊志賀(とよしが)や、「一枚足りない……」が決めゼリフの『番町皿屋敷』のお菊、そして焦がれ死にした後も好きな新三郎を求めて現れる、押せ押せな『牡丹灯籠』のお露。

彼女たちが死後もこの世に留まるのは、未練や恨みのためです。女が主人公である怪談の多くは、成就できなかった愛や、惨めな死に至る定めであった運命に対し、死んだ後でもまだ抗って、宿命を覆すため戦いを繰り広げる執念から生まれたものといえるでしょう。

もはや亡霊と化して実体のない彼女たちのアクションは、霊力や呪力によるものとなります。怨念は風雨などの騒然とした天候を呼び、幻惑で憎い相手に狂乱を起こして命を奪い、なおかつ末代まで祟ったりします。そんな一途な恨みの念が、成仏するという当たり前な成り行きすら彼女たちに忘れさせ、因果応報といったアクションを招いていきます。

『牡丹灯籠』ではお露が夜毎訪れるようになってから、新三郎はひどく消耗するようになります。たまたま覗き見た隣人に恋人の正体が幽霊だと教えられ、急に恐ろしくなってお寺へ相談に出かけ、死霊除けのお守りを貰い戸口にお札を貼って幽霊が入ってこられないようにする新三郎。しかしお露さんのすごいところは、新三郎の隣家に住む伴蔵夫婦の元へ赴き、ワイロを渡してお札を剥がさせるのです。そしてなんなく新三郎の元へ突入し、彼を取り殺してしまうお露さん。

でも、確かに突然お札を貼って自分を毛嫌いするかのように退けたにせよ、お露さんが愛する男を死に引きずり込むのはなぜなのでしょうか。そもそも死んだ後に、霊力で生前と変わらぬ姿で現れて愛を交わしていたのだから、幽霊になっても恋をすることに支障はないのでは……?

一般的に怪談物では、霊力の使い道が限られるなど、物語上の制約が伴います。わたしたちが『牡丹灯籠』から察せられることは、やはり肉体を失った幽霊が生者と同様にこの世で暮らすことは異常であり、現世に強烈な未練を残したお露が、生身の娘同様に新三郎と蜜月を過ごすのは、彼岸に渡りきれない非常事態であるということです。

新三郎にとり憑いて必死になって彼の命を奪うと、ようやく納得してあの世へ渡り、彼女のさまよう魂も沈着します。そして物語はそこで途絶えてそれ以上は黙して語らず、あの世へ渡った二人がどうなったかなどわからない──<終>と出た映画には、もはやその後は無いという当然の事実に突き当たるだけです。

『牡丹燈籠』のお露さんもしのいで、日本でもっとも知られる女の幽霊は、なんといっても『東海道四谷怪談』のお岩さん。映像化された回数もダントツに多いです。物語はご存知の通り、浪人暮らしで鬱屈する伊右衛門に、裕福な伊藤家の娘であるお梅が横恋慕。伊右衛門は出世のためお梅との祝言を約束し、産後の肥立ちが悪い妻お岩に、良薬と偽って伊藤家から貰った面貌が崩れる毒薬を飲ませ、なおかつ離縁するため、彼女が間男していたかのように不義も捏造します。お岩は苦悶と恨みにまみれて刃で死に、伊右衛門はそれ以来お岩の亡霊に苦しめられます。

『四谷怪談』においては、亡霊となったお岩さんは顔が爛れ、こめかみの髪が抜けた恐ろしい姿で現れます。伊右衛門がお梅との婚礼の夜に、抱こうとした新妻の顔を見るとそれは顔が崩れ、見るも無残な姿となったお岩。驚愕して斬りつけると、亡霊の幻惑でお梅を斬り殺してしまったことに気付きます。同様に伊藤家の養父も殺してしまい、伊右衛門は人殺しの身を隠すため寺の庵室へと逃げ込んでいきますが、そこで霊障払いなど受けて過ごしつつ、ある日気晴らしに庵を出て隠亡堀へ釣りに出かけたところで、有名な戸板返しの段となります。

お岩さんが怨念を持つに至った理由は、

1 夫が外に女を作った
2 毒を盛られ醜悪な容姿にされた
3 不義の捏造などの謀略によって命を落とした

以上の3点かと思われます。しかし、お岩の復讐によって同様の状況に追い込まれていく、お梅がお岩に怨みを持ったら……?

木下恵介監督作品『四谷怪談』では、お梅は焦がれ死にしかけるほど伊右衛門を愛し、周りの取り計らいで伊右衛門と祝言をあげることになります。お岩の相貌が崩れるのも、お岩が熱湯に転がりこんでしまったことが引き金であり、毒薬の一件もお梅の関知しないところで起こります。しかしこのお梅は殺されはしないものの、映画の最後で伊藤家に火事が起こり、彼女は顔にやけどを負って、お岩と同じように二目と見られない面相になったと語られます。

お梅も同じ男性を狂おしいほど愛することで、お岩の妻という立場は妬ましかったでしょうし、お岩の呪いによって生きながら醜悪な姿にされたことは、生霊となるくらい憎んでもおかしくない出来事です。この後『四谷怪談』は作品を追うごとに、お梅はいかにも金持ちで身勝手なセレブお嬢様になっていくのですが、木下恵介版の、娘らしいお梅の苦しみは因果応報で済むものでしょうか。

そもそも、お岩さんはいたわしく残忍な目に遭いますが、彼女だけが格別嫉妬深いとはいえないでしょうし、怨念に関して類まれな霊力を持っていたわけでもないでしょう。古今問わずこういった愛憎劇は頻繁にあって、嫉妬に狂った他の幽霊も日常で多発していいはずなのです。

今コレを読んでいる諸氏の中にも「……死んで、アイツを祟ってやる!」とか、物騒なことを考えている方も万が一いるかもしれませんが、それでもわたしたちは復讐するため幽霊となって、再びこの世へ現れることなどはできない。

ではなぜ、『四谷怪談』のお岩さんだけが、一身に恨みを晴らす幽霊の役を背負ったのか。『四谷怪談』のお岩というのは、我々のそういった怨念を集約するように体現し、代弁し、昇華する完全すぎるほどのプロトタイプなのです。

お岩の物語は特定の誰でもなく、そして同時に我々一人ひとりが抱く怒りや怨みを具現化します。ほとんど黄金律のような、屈辱と憤怒の末の死と、幽霊となって憎い相手に恨みを思い知らせて反省させ、見事関係者全員に祟りをなす、報復の完璧な原型。たいていの愛憎怪談ドラマはこのお話をなぞるだけであり、だから木下恵介版のお梅の恨めしさすら、たとえ一からまた語っても、お岩の物語をただなぞり繰り返すにすぎません。もはやお梅の悔しさすら、古典的悲劇『四谷怪談』という完全な物語の内に、お岩自身が象徴してしまっているのです。

ただ、たいていは映画においても、本当にお岩の亡霊がとり憑いているのか、伊右衛門が罪悪感から錯乱して幻覚を見ているのかは、ぼかして解釈できるようになっています。映画という虚実ない交ぜの世界ゆえに、見えている幽霊の像が幻覚か本当の亡霊か、境界線が曖昧なところで畳み掛けるこけおどしが続き、伊右衛門は自滅していきます。

その中で異色なのが、深作欣二監督作品『忠臣蔵外伝 四谷怪談』。この映画の中で伊右衛門は赤穂藩の元藩士で、忠臣蔵の本来なら四十八士目となるはずなのに、怖気づいて直前で脱落した男。『四谷怪談』としては、お梅を初夜の晩に斬り殺すあたりまでは一緒ですが、最後はお岩の祟りではなく、討ち入りへ向かう旧藩の仲間に襲われます。

クライマックスの赤穂四十七士が討ち入りした吉良邸。そこへ現れたお岩の亡霊は、霊力によって具体的なアクションを起こします。戸板へ自分の死骸を釘で打ちつけた吉良の家臣を、「ハーッ!」の掛け声と共に手のひらからビカッと光を発し、矢を飛ばして射殺すという、幻惑で死に至らしめていたほかのお岩と違い、すっごいアクティブさ。死んだおかげでそんな超能力が身につくなら、恨みつらみを抱えつつ余生を送るより良かったのではとさえ思えてしまいます。

また、死者がそこまで生前と変わらず自我を持つなら、霊界において死んだ者同士の三角関係がまた始まってしまうんじゃないかと心配にもなりますが、この映画において最後は幽霊となった伊右衛門と、やはり霊化したお梅は切なげに視線を交わしながら、各々の世界へと消え去っていきます。怨霊は念が晴れぬうちは幽霊となってこの世に留まるけれど、それが済むと沈静化し昇華してしまうという、やはり物語上何気なく編まれた法則が彼らを司ります。

荻野目慶子のキレッぷりはインパクトありますし、湯女だったお岩(高岡早紀)が、彼女を訪ねて風呂屋に現れた伊右衛門に「いらっしゃ~い!お客さん、ここは初めて?」と話しかける、時代を超越した風俗業界っぽさがフレンドリーでイイです。

お岩さんから時を経て、エポックメイキング的に登場した現代の女の幽霊が、『リング』の貞子と『呪怨』の伽梛子(かやこ)です。彼女たちもやはり、殺害された恨みからこの世に念が留まり、なおかつ憎い相手のみならず、呪いは増幅して無関係な人にまで広がっていきます。風体は両者とも長い髪で顔を隠し、不意に覗いて見える目の狂い方、そして異様な姿勢で至近距離に近づいてくる異形性が戦慄モノ。

二人の恐ろしさは、貞子はテレビから、伽梛子は階段から這い降りてきて、こちらへと近づいてくる際に最高潮となります。これまでのわたし個人の人生を思い返してみても、他人に這って近づいてこられたことはないですし、二人の醸しだす恐怖は、やはり這いつくばって進んでくるという動作と、俯いた顔や目線がその体勢によって、通常ならありえない位置にあるためではないでしょうか。

たとえば首吊り自殺などでも、人の死はもちろん即物的に怖いのですが、生理的に恐怖を覚えるのは、「あってはいけない宙に浮いたところに足がある」その違和感です。なおかつ貞子と伽梛子は幽霊で、恐ろしい呪力や霊力を自在に操れる者。

ならば宙に浮かぶといった幽霊独特の超常現象もできるはずが、心底恐怖を追及するJホラーはファンタジックなそんな手法を選ばないし、彼女たちは得体の知れない意思で這ってくるのです。まるで、半成仏のまだ純然たる透明な霊ではなく、生身の質感を残すほど強烈な怨念を持った存在であるかのように。

ゆえに、彼女たちの霊はまだ人間が重力を受けるかのごとく、その体重を感じさせて地を這うし、なおかつ不自然に腹ばいで近づいてくる姿には、普通の人間の心理から逸脱した、狂気の精神が表れます。その狂気はまた、復讐の対象が無限大に設置された、怒りの狂った大きさとも同調しています。

「這う」というのは、近年のJホラーの中で見出された恐怖の演出表現です。何気ない動作ですが、「這って近づいてくる人は、下半身に損傷を負うなどなんらかの非常事態か、もしくはまともではない精神状態にあって、どのみち何か恐ろしいことが起きている」ということに、映画演出が気づいた瞬間でした。

お岩さんにすらあった「恨めしい」という感情はおろか、正気さえ失った異常な挙動。Jホラーは彼女たちにそういった狂気の演出を施すことで、より恐ろしい表現と呪いを手中にしたのでした。

悪や、人々を抑圧する権力と戦う生きた女たちに対し、死んでも戦う女たちは、自分の不幸な死も受け入れず、運命という厳かな自然の摂理にさえ抗っていきます。しかしそんな強力な意志とアナーキーさを持ちつつ、お露やお岩が未練や怨念の虜となるのは、やはり女性らしい愛に根ざした感情ゆえでした。だからこそ、貞子や伽梛子の、無関係な者にまで及んでいく呪いは不条理で恐ろしいのです。

そしてビデオの中で近づいてくる貞子の、異形でありながらも今までの怪談にはなかった奇妙な生々しさと、現実味。伊右衛門のような悪事を犯すことのない我々にとって、受ける心当たりがある怨念より、都会で不条理に襲いくる災厄の方がリアルな恐怖です。貞子の無差別な殺戮と狂気は、我々が肌で感じ取っている現在の不安と呼応した、まさに現代的怪談といえるでしょう。


●真魚八重子(まな・やえこ)
ライター。
『映画秘宝』や『TRASH UP!!』などで映画に関する原稿を中心に執筆。
共著に『戦う女たち』(作品社)、『リビドー・ガールズ』(パルコ)、『市川崑大全』(洋泉社)などがある。
ブログ:アヌトパンナ・アニルッダ