担当者より:『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』(築地書館)の著者で、人気サイト「紙屋研究所」でもお馴染みの紙屋高雪さんに、以前マンガを通して「労働」について論じていただいたものを改めてアップいたしました。

配信日:2007/11/21


IT業界の重鎮と理系学生たちの討論会が最近あり、学生たちがIT業界のイメージを「きつい、帰れない、給料が安い」の「3K」でネガティブに語ったのにたいして、お偉方たちが色をなして反論した。「3Kの“帰れない”は、帰りたくない人が帰れないだけ」「スケジュール管理の問題」などと。

おいおい、いくらなんでもそれはないだろう。そのうえで、かの重鎮はこう付け加えた。「私は40年間近くIT業界で仕事しているが、何が一番幸せかというと退屈している暇がないことだ。技術が進歩するにつれわれわれの仕事も複雑化してくるが、一生懸命追いかけていくだけでも退屈しない。いい仕事を選んだと思う」(@IT/07年10月31日配信)

労働実態を直視しろよ、というレベルの話はおいておくとして、ここには「労働とはやむを得ざる苦役」だという労働観(学生側)と、「労働をつうじて自己実現をする」という労働観(重鎮側)の基本的な対立がある。この対立でぼくが思い出すのは、評論家の関川夏央が「現代のプロレタリア文芸」だと評した、新井英樹の漫画『宮本から君へ』(講談社)であった。

バブル末期に登場したこの漫画を、同じ連載誌にあった弘兼憲史『課長 島耕作』(講談社)にたいする徹底したアンチテーゼだと関川はとらえた。島は大企業に勤め「あまり働いているふうには見えないのに出世」するし、「働いているところなど読者には興味なかろう」といわんばかりに「女性とのつきあいと社内権力闘争のシーンばかりが描かれる」漫画だと見据えたのである。浮世離れした「労働」描写に、ある漫画家はこの漫画を「SF」と評したほどだ。それほどまでに「島耕作」は根底で労働を嫌悪している。

これにたいして、『宮本から君へ』の主人公が「島耕作」と対比して「容貌、性格、趣味」「職業観、職業環境、『業界』をめぐる群像、すべてが挑むように対照的」だと関川は考えた。「垢ぬけない」「騒々しくてくどい」「暑苦しい」主人公が、みっともない営業で自己流に一人前をめざそうとする。そこに反島耕作流の労働観をみたのである。

「作者(新井)は、労働とはやむを得ざる労苦だという昨今流行の西欧型労働観を敢然と否定している。努力すれば報われると思いたい、金だけが目的ではなく生命の燃焼感と達成感にも意味を感じたい、すなわち労働のなかに自己実現をめざしたいという、日本独特の『危険な思想』が居直るときの、暑苦しいすがすがしさとでも呼ぶべきなにものかが、この作品にはある」(関川『知識的大衆諸君、これもマンガだ』文藝春秋)

この「労働をつうじた自己実現」という労働観は、現在でも女性漫画に根強い。幾多の障壁をのりこえて社会進出をはたそうとする女性にとって、労働が単なる苦役であってたまるか! そうした労働観の最前衛に槇村さとるがいる。

彼女の最新作『Real Clothes』(集英社)はデパートの寝具売場から婦人服売場に配置替えになった女性の物語である。仕事では無能なぼくからすると、主人公の女性・天野の働きぶりは完璧にしかみえない。クレーム対応に失敗した部下を、教育的にフォローし、迷っている客をセールストークでなく自然なトークで購買にみちびくのだ。

しかし、そんな完璧な天野であってさえも、作者・槇村からすればまったく足りないのである。婦人服売場に配属され、服ひとつ満足に売れない。年下の契約販売員から遠まわしにお前はヘアもメイクも垢ぬけないしデブだから、本気で売ろうと思ったら自分を変えろと注文される。いや、少なくとも漫画上のグラフィックをみると天野は十分にかわいいし、中肉中背。それなのになぜ、売れないのはお前がプロとしてのこだわりがないからだ、デブだイモだと罵られなければならないのか。

そして槇村は、この契約販売員の一言が、最終的には正論であったという流れにしてしまうのである。天野は自分を見つめ直し鍛え直す。なんで!? ここまで自己改造をかさねて服を売って利益をあげることが、本当に自己実現なのか!? とぼくなどは思ってしまう。

自己実現ができる仕事は、実はそれほど多くない。なのに「最初からそんなものは用意されてはいない。自分で切り開くのだ」という説教とともに、労働で自己実現ができるかのように描いてしまう女性誌系漫画は後を絶たないのである。

『俺はまだ本気出してないだけ』(小学館)という青野春秋のギャグ漫画がある。40歳で本当の自分を探すために会社をやめて(係長だった)、漫画家をめざすという話だ。しかし実力も根拠もなく表題の言葉が彼の自己弁護だというイタイ漫画である。

この漫画では奇妙なことに主人公は、まず会社に勤めながら漫画を描いてヒットを出す、ということをしない。会社をいきなり辞めてしまうのだ。ここには仕事とは「自分」を実現するものであり、決して片手間でやるものではない、という抜きがたい信念、かたくなな労働観がある。

その意味において、『俺はまだ本気出してないだけ』の主人公と、槇村さとる的主人公は実は同じ思想の持ち主であり、一味である。

本当にそれは幸せな労働観だろうか。

これらにたいして、たとえば、きらたかしの漫画『赤灯えれじい』(講談社)は工事現場のバイトで知り合った男女が、恋愛し、同棲し、やがて正規の職をもち、一歩一歩自立していく物語であるが、ここでは労働は決して過剰な「自己実現」の物語としては語られない。

ヘタレの主人公・サトシは、美女で侠気のあるチーコに「一人前の男」として認められたい一心で恋愛にも労働にも奮闘する。サトシにとって、労働における奮闘とは正社員として安定した職をめざすことだ。はじめは、エロ本のDTP、つぎにはラブホの事務員として仕事を覚えることに懸命になる。たしかに、多少は技術をあげようという意欲や格闘はあるけども、サトシにとって必要なのは、チーコとの安定した生活の基盤になるような収入である。

ここでは労働は「自己実現」ではなくて「収入を得るためのやむを得ざる苦役」でしかない。おそらく労働の大半がそういうものだ。「労働をつうじた自己実現」という夢をかなえられるのは、ほんの一部の人ではないかと思えるのだが、いかがだろうか。

マルクスは若い頃、共産主義社会になって労働が人間を解放させる全面性をもつようになるのではないかと考えたが、後にその考えを捨てた。マルクスが死ぬ頃にたどりついた考えは、どうやっても労働には「やむを得ざる苦役」という面が残る、だから時短をすすめて自由時間をふやしその自由時間でさまざまな能力を発達させて人間を解放しようというものだった(資本主義では機械化は時短にならずにリストラへすすむ)。

ぼくは結局それがリアルじゃないかと思う。ぼくがこうやって駄文を書き連ねる幸せを獲得できたのは「余暇」のおかげだったのだから(おかげで本まで出せました)。

そういえば、現代では生産力が発達しているので、社会を維持するだけの「必要労働時間」がどれだけで済むかを、学者が計算したことがあるのだが、1日のうちそれは2時間しかなかった。あとは資本の利潤のために働かされているというのだ。

これを聞いた左翼の友人が「じゃあ、午前中だけ働いて後は帰れるね」と喜んだものだった。そしてこう付け加えた。「でもさあ、午前中で家に帰ったら、おれ、酒ばっか飲んじゃうよ」と。

自由時間で能力を発達させる人ばかりではないようだ。うーむ……本当にいちばんリアルなのは労働で自己実現でもなく、自由時間で好きなことにうちこむでもなく、自己実現などせずに余暇を楽しくのんびりだらだら過ごすことかもしれない。


●紙屋高雪(かみや・こうせつ)
紙屋研究所所長。
著書に『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』(築地書館)がある。
また、『理論劇画 マルクス資本論』(かもがわ出版)では、構成・解説を担当した。
サイト:紙屋研究所