担当者より:経済学者の田中秀臣さんに、日本のマンガ批評の現在について書いていただいたものをアップいたしました。現状の見取り図としても非常に有益な内容になっているかと思いますので、ご一読ください。
配信日:2010/02/03
ゼロ年代最後の一年は日本のマンガ批評にとっては興味深い年になった。まず国際的なイベント「世界のコミックスとコミックスの世界――グローバルなマンガ研究の可能性を開くために」が開催された。内外のマンガ研究者を結集させたイベントは参加者にはそれなりの刺激になったことだろう。
上記のイベントで基調講演を行ったフランスのマンガ研究者ティエリ・グルンステンを中心にしたシンポジウムに私は参加した。特にグルンステンの『マンガのシステム』(2009年、青土社、野田謙介訳)をめぐる日本のマンガ研究者(伊藤剛、竹熊健太郎)との対論が面白いものだった。そこで伊藤らは、グルンステンの主張では十分にフォローされていない日本のマンガのユニークさを、特に少女マンガにおける表現に求めた。
伊藤が提示した例は、日本の「マンガ表現論」の主導者である夏目房之介の著作『マンガはなぜ面白いのか』(1997年、NHK出版)で「日本マンガの特徴」として紹介されていたものであった。いわば伊藤はここでグルンステンのマンガ理論が日本マンガの特徴をとらえていないのではないか、と疑問を呈したわけである。夏目はそこで「アニメのセルのように重なるコマ構成」を日本マンガの特徴としてあげて、以下のように書いている。
「つまり多層的な時間が、重層するコマという空間に投影されているのです。時間分節と圧縮/開放の働きにとどまっていた古典的なコマ構成では、ここまで微妙に多層化した内的時間を実現することはできなかったでしょう」(夏目前載書、172頁)。
難しい表現だが、要するに古典的なマンガは空間(コマ、間白など)が、表現されている時間の流れをほぼ単線的(過去から現在そして未来へと)描いているのに対して、日本マンガの空間による時間の操作はより複雑になっていて、一瞬のうちに過去・現在・未来が交差するものとして表現されている(あるいは時間分節さえも拒否するように表現されている)、ということである。
いずれにせよ、ここでのポイントは空間(コマなど)を操作することで複雑な時間表現(時間を表現することの拒否を含む)を可能にしている、というわけだ。この伊藤の指摘に対して、グルンステンはそれらの表現は彼のマンガ論を代替する可能性を秘めたユニークなものではなく、マージナルなものである、という認識を提示した。簡単にいうと、伊藤らが提示し日本マンガの多層的な表現もグルンステンの『マンガのシステム』の範囲内で語れる特殊なサンプルでしかない、ということだろう。
ところで、そもそもグルンステンの主張とは何であったろうか。これについては以前、自分のブログの中で詳細に説明したので参照していただきたい。
簡単にいうとグルンステンの試みも、空間(コマ、間白など)によって時間を操作するという点では夏目らと基本的に同じ視点に立っている。しかも夏目たちが日本マンガ表現のいわば標本学的な視点を採用しているのに対して、グルンステンは空間(=時間)の選択が、物語を生み出すという視点からの合理的な選択であることを明らかにしたことにある。彼の造語である「物語計画」とはそのような合理性を端的に表現したものであり、この計画に適応しない空間(=時間)の選択は、いわばマンガ表現において「不適切」「非効率的」なものとして評価される。
実際にマンガ制作者や読者がそのような「物語計画」を意識してマンガを描いているか、読んでいるかどうかはあまり問題ではない。グルンステンの議論からいえることは、そのような合理性を基準にしないでは、単にマンガは恣意的なコマやその構成物の集積にしかすぎなくなる、というものであった。
グルンステンの理論では、空間(=時間)の操作は、日本マンガのように多層化することも容易に拡張可能である。それは操作するパラメーターの問題でしかない。重要なのはそのパラメーターをどのような観点で選んでいるか、ということに尽きる。そのため伊藤や夏目のように日本マンガの特徴としていくつもの表現のサンプルを提示されても、いわばエアコンの温度がいま何度であるかをいっているだけにすぎない。問題なのはその温度が(物語計画にとって)最適な温度であるかどうかなのである。
グルンステンの指摘は、私には日本のマンガ表現論の欠陥(空間=時間を選択する上での基準の欠如)を指摘しているようでとても興味深く聞けた。この日本のマンガ表現論の欠陥をとりあえず合理性基準の欠如と呼ぼう。この合理性基準の欠如は、日本マンガ表現論の最先端をいくと思われる泉信行の漫画論同人誌『漫画をめくる冒険』にも共通している。泉はその本の中で、「視線の力学」を提示している。しかしある視線が他の視線になぜ優位しているのか、それを決定する基準がやはり欠如している。例えば右から左に読むという視線の力学は、いったい合理的な基準によるものなのか、あるいはなんらかの非合理的なバイアスなのか、泉の議論では非決定なままである(注1)。
もちろんグルンステンのような合理性基準だけでいわば形式的に接近するやり方だけが、マンガ研究のすべてではないだろう。例えば合理性基準よりも強い私的な価値判断を重視することなど多様なアプローチがある。
例えば、岡崎乾二郎「333からトビウツレ」(『現代詩手帖』1985年11月号)や瓜生吉則「メディアとしての〈梶原一騎〉――あるいは“劇画の帝王”の語り方」だ。あるいは社会的な基準を重視する見方もある。杉田俊介『無能力批判』(2007年、大月書店)や、ササキバラ・ゴウの「まんがをめぐる問題」などの貢献もある。
マンガ「研究」に対比し、マンガ「批評」を志向することもその批評を読む面白さという点だけでみればもちろん否定することはできない。例えば、いしかわじゅんの『秘密の本棚』(2009年、小学館クリエイティブ)、あるいは論者自身が判断基準となっているという点では吉本隆明の『全マンガ論』(2009年、小学館クリエイティブ)も同類だろう。2009年に刊行されて注目を浴びた『漫画批評』創刊号には、日本におけるマンガ「批評」の在り方を端的に示した表現があった。
『漫画の時間』(1995年、晶文社)を出したばかりの、いしかわじゅんが、「面白い漫画の評論本を出すんだ。面白い漫画を取り上げるだけじゃない。評論そのものを美しい言葉で書いて、読んで楽しい評論になるように作ったんだよ。」と米澤嘉博に言った。この言葉に対して米澤は、「漫画の評論に面白さなどいらない。ただ、事実が正確に記載されていればいい」と猛烈に反論したという(『漫画批評』創刊号26頁)。
このいしかわの発言は、日本でマンガを論評する多くの人たちに安堵と居直りを提供するだろう。その一方で、米澤の事実だけの記述がマンガ評論のすべてである、という発言もまた、マンガ表現の標本を「事実」として収集することだけが、研究そのものである、とも解釈されてしまうであろう。そしてそのようにいままで解釈されてきた、というのが日本のマンガ研究の現状である(注2)。
マンガの制作者あるいはマンガの消費者がどんな基準で、ある表現を別な表現よりも選択するのか、このような選択の際の基準が欠如したままでのマンガ論の議論はあまり実りの大きいものではない。例えば、竹内オサムは『本流!マンガ学』(2009年、晃洋書房)で、伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』(2005年、NTT出版)の中での竹内批判に応えるかたちで反論を行っている。しかし筆者の見るところ、両者は手塚の表現が多様であるかどうか、という標本数の大小を、マンガ表現論そのものの多様性とすり替えてしまっているのではないだろうか?(注3)
ここで、竹内の「同一化技法」(映画的手法)がマンガ表現論の可能性を制約した、という伊藤の批判ほどこの論争の特徴を際立たせるものはない。伊藤にあっては竹内の表現論は先の夏目的なマンガの多層性をとらえることができない、というわけである。それに対する竹内の批判は、自らの見解もマンガの多層性・多様性をとらえることができる、というものであった。しかしまたもや指摘したいのは、問題はマンガ表現の多層性や多様性のサンプルを提示することではない。問題の核心は、その表現がなぜ(物語計画によって)選ばれたのか、その選択の基準を明確にすることである。
おそらくマンガにおける合理性基準の欠如の問題は想像以上に深刻である。先にも書いたように竹内と伊藤の争いも要するにどちらが多くのマンガ表現を許容しているか、ベタにいってしまえば、どちらが多くのマンガ表現を知っているかの争いになってしまう。マンガ表現の博物的知識の多寡を競いあるというレベルではないだろうか。
コマ枠(フレーム)を突き破って、そのフレームにぶらさがっているような登場人物のマンガを例示しながら、伊藤は次のように「フレームの不確定性」こそが、映画と区別できるマンガの特質であると書いている。
「ここで重要なのは、普段は「コマ」の側にあるとして読まれていた「画面」が、キャラがコマ枠を突き破ったりぶらさがったりしたときに、「紙面」に切り替えられるということである」(伊藤前掲書、204頁)。
「もっといえば、マンガでは「フレーム」は厳密には「コマ」と「紙面」のどちらに属するものか、一義的に決定することができない。この不確定性こそがマンガをマンガたらしめており、かつ「とらえにくさ」をもたらしている。さらにいえば、これが映画との決定的な差異なのである。そして、これまでのマンガ表現論が明言してこなかった特性である」
(伊藤前掲書、200頁)。
ところでウッディ・アレンの『カイロの紫のバラ』という映画がある。主人公のミア・ファローが映画をみていると、その映画の登場人物が突如としてミア・ファローの側に飛び出てくる。このとき映画の中の映画のフレーム(枠)は、「コマ」(ミア・ファローがみている映画の世界)に属しているのか、あるいは「紙面」(ミア・ファローのでている映画)に属しているのか、これも不確定ではないだろうか。3D映画(これは何十年も前からあるが)ではさらに映画とマンガを区別するものを、「フレームの不確定性」に求めるのは難しいのではないだろうか?
実は、いま私が書いたような反論の仕方もまた、マンガや映画表現の博物学的知識の多寡を争っている一例にしかすぎないのだ。このような映画とは何々が特性であるとか、マンガとは何々が特性であるとか、という表現上の「特性」と称するものを並べてもあまり意義のあることではないだろう。
「フレームの不確定性」の問題も、単なる空間(=時間)を規定する諸パラメーターをどのように最適に決めるかという問題として考えることができる。ある空間の大きさ(コマをはみ出る登場人物など)、形(フレームをつかむ手)、位置(一枚の紙のどこにおかれるか)などを、物語計画にそって描いていく。その空間を「コマ」といっても「紙面」といっても、あるいはどちらでもないといってもあまり大きな意義は見出しにくいということである。
つまり映画やマンガは、空間(=時間)の最適な選択問題として一般化されるだろう。私は上記に参照先をあげたグルンステンモデルの一般化の中でそのような方向性を示唆したつもりである。従来のマンガ独自と称する表現の多様性や多層性をめぐる議論を繰り返しても、それは何度もいうが単なる知識の多寡を競う博物学的問題でしかないだろう。さらに場合によっては不毛な議論ともなるかもしれない。
例えば、竹内一郎の『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』(2006年、講談社)をめぐる一連のマンガ研究者からの批判がある。その批判も(竹内オサムへの批判同様に)竹内一郎がどのくらい手塚治虫らのマンガ表現、あるいはマンガ表現の言説をめぐる発言を知っているか知っていないか、のベタな知識量の多寡として語られている(注4)。さらにベタを重ねれば、これは単なる「私の方が君よりも知っている」程度の話になりかけない(注5)。
おそらく日本マンガの従来の表現論ベースからの問題は、合理性とそれ以外の判断基準(ダーク梶原的なものなど)との緊張と対立をどう考えていくかに絞られていくのではないだろうか? そしてそれは経済学などの合理性を扱う分野とのシンクロさえももたらすであろう(注6)。そのようなマンガ研究の可能性を今後も見ていきたいと思う。
(注1)泉信行らとのTwitter上のやりとりをまとめたサイトがあるので参照されたい。
http://togetter.com/li/3252
(注2)米澤のマンガ史三部作が、2009年に『戦後ギャグマンガ史』(ちくま文庫)で復刊が完結したこと、明治大学で米澤の「事実」記述のバックグラウンドである米澤嘉博記念図書館が開館したことは特記されるべきイベントであった。
(注3)なお、2009年における「手塚治虫展」(江戸東京博物館)の開催、手塚の初期作品の完全復刻(『新寶島』『ジャングル大帝』など)は日本のマンガ研究の重要な貢献であり、そこに果たした竹内オサム、中野晴行、宮本大人らの歴史考証も重要である。
(注4)「紙屋研究所」の以下の記述や伊藤剛、宮本大人などの批判を参照。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/storymanga.html
(注5)この知識の多寡がマンガ批評の品質?を決めるという感覚は、例えば昨年末に出た『THE BEST MANGA 2010』での中野晴行の竹内一郎への突っ込みのようなミスジャッジさえも招くだろう。以下、参照。
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100114#p1
(注6)小田切博の『キャラクターとは何か』(2010年、ちくま新書)などは、コンテンツ産業論への批判的視野を含みながらも、残念なことに、政府介入を無条件に不可避とするなど、ある種の独断にみちた本である。以下、参照。
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100105#p2
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100121#p1
これもまた合理性とはなにか(ここでは経済合理性だが)を忘却した議論である。ただ表現の博物学的な志向をもつ夏目房之介らのマンガ批評家には予想通りに絶賛されている。そしてその手放しの絶賛のありかたこそが、いまの日本マンガ研究の深い恣意性の谷間を表しているのかもしれない。
●田中秀臣(たなか・ひでとみ)
上武大学ビジネス情報学部教授。経済学者。
著書に『雇用大崩壊』(NHK生活人新書)、『経済政策を歴史に学ぶ』(ソフトバンク新書)、『偏差値40から良い会社に入る方法』(東洋経済新報社)などどがある。
ブログ:Economics Lovers Live
配信日:2010/02/03
ゼロ年代最後の一年は日本のマンガ批評にとっては興味深い年になった。まず国際的なイベント「世界のコミックスとコミックスの世界――グローバルなマンガ研究の可能性を開くために」が開催された。内外のマンガ研究者を結集させたイベントは参加者にはそれなりの刺激になったことだろう。
上記のイベントで基調講演を行ったフランスのマンガ研究者ティエリ・グルンステンを中心にしたシンポジウムに私は参加した。特にグルンステンの『マンガのシステム』(2009年、青土社、野田謙介訳)をめぐる日本のマンガ研究者(伊藤剛、竹熊健太郎)との対論が面白いものだった。そこで伊藤らは、グルンステンの主張では十分にフォローされていない日本のマンガのユニークさを、特に少女マンガにおける表現に求めた。
伊藤が提示した例は、日本の「マンガ表現論」の主導者である夏目房之介の著作『マンガはなぜ面白いのか』(1997年、NHK出版)で「日本マンガの特徴」として紹介されていたものであった。いわば伊藤はここでグルンステンのマンガ理論が日本マンガの特徴をとらえていないのではないか、と疑問を呈したわけである。夏目はそこで「アニメのセルのように重なるコマ構成」を日本マンガの特徴としてあげて、以下のように書いている。
「つまり多層的な時間が、重層するコマという空間に投影されているのです。時間分節と圧縮/開放の働きにとどまっていた古典的なコマ構成では、ここまで微妙に多層化した内的時間を実現することはできなかったでしょう」(夏目前載書、172頁)。
難しい表現だが、要するに古典的なマンガは空間(コマ、間白など)が、表現されている時間の流れをほぼ単線的(過去から現在そして未来へと)描いているのに対して、日本マンガの空間による時間の操作はより複雑になっていて、一瞬のうちに過去・現在・未来が交差するものとして表現されている(あるいは時間分節さえも拒否するように表現されている)、ということである。
いずれにせよ、ここでのポイントは空間(コマなど)を操作することで複雑な時間表現(時間を表現することの拒否を含む)を可能にしている、というわけだ。この伊藤の指摘に対して、グルンステンはそれらの表現は彼のマンガ論を代替する可能性を秘めたユニークなものではなく、マージナルなものである、という認識を提示した。簡単にいうと、伊藤らが提示し日本マンガの多層的な表現もグルンステンの『マンガのシステム』の範囲内で語れる特殊なサンプルでしかない、ということだろう。
ところで、そもそもグルンステンの主張とは何であったろうか。これについては以前、自分のブログの中で詳細に説明したので参照していただきたい。
簡単にいうとグルンステンの試みも、空間(コマ、間白など)によって時間を操作するという点では夏目らと基本的に同じ視点に立っている。しかも夏目たちが日本マンガ表現のいわば標本学的な視点を採用しているのに対して、グルンステンは空間(=時間)の選択が、物語を生み出すという視点からの合理的な選択であることを明らかにしたことにある。彼の造語である「物語計画」とはそのような合理性を端的に表現したものであり、この計画に適応しない空間(=時間)の選択は、いわばマンガ表現において「不適切」「非効率的」なものとして評価される。
実際にマンガ制作者や読者がそのような「物語計画」を意識してマンガを描いているか、読んでいるかどうかはあまり問題ではない。グルンステンの議論からいえることは、そのような合理性を基準にしないでは、単にマンガは恣意的なコマやその構成物の集積にしかすぎなくなる、というものであった。
グルンステンの理論では、空間(=時間)の操作は、日本マンガのように多層化することも容易に拡張可能である。それは操作するパラメーターの問題でしかない。重要なのはそのパラメーターをどのような観点で選んでいるか、ということに尽きる。そのため伊藤や夏目のように日本マンガの特徴としていくつもの表現のサンプルを提示されても、いわばエアコンの温度がいま何度であるかをいっているだけにすぎない。問題なのはその温度が(物語計画にとって)最適な温度であるかどうかなのである。
グルンステンの指摘は、私には日本のマンガ表現論の欠陥(空間=時間を選択する上での基準の欠如)を指摘しているようでとても興味深く聞けた。この日本のマンガ表現論の欠陥をとりあえず合理性基準の欠如と呼ぼう。この合理性基準の欠如は、日本マンガ表現論の最先端をいくと思われる泉信行の漫画論同人誌『漫画をめくる冒険』にも共通している。泉はその本の中で、「視線の力学」を提示している。しかしある視線が他の視線になぜ優位しているのか、それを決定する基準がやはり欠如している。例えば右から左に読むという視線の力学は、いったい合理的な基準によるものなのか、あるいはなんらかの非合理的なバイアスなのか、泉の議論では非決定なままである(注1)。
もちろんグルンステンのような合理性基準だけでいわば形式的に接近するやり方だけが、マンガ研究のすべてではないだろう。例えば合理性基準よりも強い私的な価値判断を重視することなど多様なアプローチがある。
例えば、岡崎乾二郎「333からトビウツレ」(『現代詩手帖』1985年11月号)や瓜生吉則「メディアとしての〈梶原一騎〉――あるいは“劇画の帝王”の語り方」だ。あるいは社会的な基準を重視する見方もある。杉田俊介『無能力批判』(2007年、大月書店)や、ササキバラ・ゴウの「まんがをめぐる問題」などの貢献もある。
マンガ「研究」に対比し、マンガ「批評」を志向することもその批評を読む面白さという点だけでみればもちろん否定することはできない。例えば、いしかわじゅんの『秘密の本棚』(2009年、小学館クリエイティブ)、あるいは論者自身が判断基準となっているという点では吉本隆明の『全マンガ論』(2009年、小学館クリエイティブ)も同類だろう。2009年に刊行されて注目を浴びた『漫画批評』創刊号には、日本におけるマンガ「批評」の在り方を端的に示した表現があった。
『漫画の時間』(1995年、晶文社)を出したばかりの、いしかわじゅんが、「面白い漫画の評論本を出すんだ。面白い漫画を取り上げるだけじゃない。評論そのものを美しい言葉で書いて、読んで楽しい評論になるように作ったんだよ。」と米澤嘉博に言った。この言葉に対して米澤は、「漫画の評論に面白さなどいらない。ただ、事実が正確に記載されていればいい」と猛烈に反論したという(『漫画批評』創刊号26頁)。
このいしかわの発言は、日本でマンガを論評する多くの人たちに安堵と居直りを提供するだろう。その一方で、米澤の事実だけの記述がマンガ評論のすべてである、という発言もまた、マンガ表現の標本を「事実」として収集することだけが、研究そのものである、とも解釈されてしまうであろう。そしてそのようにいままで解釈されてきた、というのが日本のマンガ研究の現状である(注2)。
マンガの制作者あるいはマンガの消費者がどんな基準で、ある表現を別な表現よりも選択するのか、このような選択の際の基準が欠如したままでのマンガ論の議論はあまり実りの大きいものではない。例えば、竹内オサムは『本流!マンガ学』(2009年、晃洋書房)で、伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』(2005年、NTT出版)の中での竹内批判に応えるかたちで反論を行っている。しかし筆者の見るところ、両者は手塚の表現が多様であるかどうか、という標本数の大小を、マンガ表現論そのものの多様性とすり替えてしまっているのではないだろうか?(注3)
ここで、竹内の「同一化技法」(映画的手法)がマンガ表現論の可能性を制約した、という伊藤の批判ほどこの論争の特徴を際立たせるものはない。伊藤にあっては竹内の表現論は先の夏目的なマンガの多層性をとらえることができない、というわけである。それに対する竹内の批判は、自らの見解もマンガの多層性・多様性をとらえることができる、というものであった。しかしまたもや指摘したいのは、問題はマンガ表現の多層性や多様性のサンプルを提示することではない。問題の核心は、その表現がなぜ(物語計画によって)選ばれたのか、その選択の基準を明確にすることである。
おそらくマンガにおける合理性基準の欠如の問題は想像以上に深刻である。先にも書いたように竹内と伊藤の争いも要するにどちらが多くのマンガ表現を許容しているか、ベタにいってしまえば、どちらが多くのマンガ表現を知っているかの争いになってしまう。マンガ表現の博物的知識の多寡を競いあるというレベルではないだろうか。
コマ枠(フレーム)を突き破って、そのフレームにぶらさがっているような登場人物のマンガを例示しながら、伊藤は次のように「フレームの不確定性」こそが、映画と区別できるマンガの特質であると書いている。
「ここで重要なのは、普段は「コマ」の側にあるとして読まれていた「画面」が、キャラがコマ枠を突き破ったりぶらさがったりしたときに、「紙面」に切り替えられるということである」(伊藤前掲書、204頁)。
「もっといえば、マンガでは「フレーム」は厳密には「コマ」と「紙面」のどちらに属するものか、一義的に決定することができない。この不確定性こそがマンガをマンガたらしめており、かつ「とらえにくさ」をもたらしている。さらにいえば、これが映画との決定的な差異なのである。そして、これまでのマンガ表現論が明言してこなかった特性である」
(伊藤前掲書、200頁)。
ところでウッディ・アレンの『カイロの紫のバラ』という映画がある。主人公のミア・ファローが映画をみていると、その映画の登場人物が突如としてミア・ファローの側に飛び出てくる。このとき映画の中の映画のフレーム(枠)は、「コマ」(ミア・ファローがみている映画の世界)に属しているのか、あるいは「紙面」(ミア・ファローのでている映画)に属しているのか、これも不確定ではないだろうか。3D映画(これは何十年も前からあるが)ではさらに映画とマンガを区別するものを、「フレームの不確定性」に求めるのは難しいのではないだろうか?
実は、いま私が書いたような反論の仕方もまた、マンガや映画表現の博物学的知識の多寡を争っている一例にしかすぎないのだ。このような映画とは何々が特性であるとか、マンガとは何々が特性であるとか、という表現上の「特性」と称するものを並べてもあまり意義のあることではないだろう。
「フレームの不確定性」の問題も、単なる空間(=時間)を規定する諸パラメーターをどのように最適に決めるかという問題として考えることができる。ある空間の大きさ(コマをはみ出る登場人物など)、形(フレームをつかむ手)、位置(一枚の紙のどこにおかれるか)などを、物語計画にそって描いていく。その空間を「コマ」といっても「紙面」といっても、あるいはどちらでもないといってもあまり大きな意義は見出しにくいということである。
つまり映画やマンガは、空間(=時間)の最適な選択問題として一般化されるだろう。私は上記に参照先をあげたグルンステンモデルの一般化の中でそのような方向性を示唆したつもりである。従来のマンガ独自と称する表現の多様性や多層性をめぐる議論を繰り返しても、それは何度もいうが単なる知識の多寡を競う博物学的問題でしかないだろう。さらに場合によっては不毛な議論ともなるかもしれない。
例えば、竹内一郎の『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』(2006年、講談社)をめぐる一連のマンガ研究者からの批判がある。その批判も(竹内オサムへの批判同様に)竹内一郎がどのくらい手塚治虫らのマンガ表現、あるいはマンガ表現の言説をめぐる発言を知っているか知っていないか、のベタな知識量の多寡として語られている(注4)。さらにベタを重ねれば、これは単なる「私の方が君よりも知っている」程度の話になりかけない(注5)。
おそらく日本マンガの従来の表現論ベースからの問題は、合理性とそれ以外の判断基準(ダーク梶原的なものなど)との緊張と対立をどう考えていくかに絞られていくのではないだろうか? そしてそれは経済学などの合理性を扱う分野とのシンクロさえももたらすであろう(注6)。そのようなマンガ研究の可能性を今後も見ていきたいと思う。
(注1)泉信行らとのTwitter上のやりとりをまとめたサイトがあるので参照されたい。
http://togetter.com/li/3252
(注2)米澤のマンガ史三部作が、2009年に『戦後ギャグマンガ史』(ちくま文庫)で復刊が完結したこと、明治大学で米澤の「事実」記述のバックグラウンドである米澤嘉博記念図書館が開館したことは特記されるべきイベントであった。
(注3)なお、2009年における「手塚治虫展」(江戸東京博物館)の開催、手塚の初期作品の完全復刻(『新寶島』『ジャングル大帝』など)は日本のマンガ研究の重要な貢献であり、そこに果たした竹内オサム、中野晴行、宮本大人らの歴史考証も重要である。
(注4)「紙屋研究所」の以下の記述や伊藤剛、宮本大人などの批判を参照。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/storymanga.html
(注5)この知識の多寡がマンガ批評の品質?を決めるという感覚は、例えば昨年末に出た『THE BEST MANGA 2010』での中野晴行の竹内一郎への突っ込みのようなミスジャッジさえも招くだろう。以下、参照。
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100114#p1
(注6)小田切博の『キャラクターとは何か』(2010年、ちくま新書)などは、コンテンツ産業論への批判的視野を含みながらも、残念なことに、政府介入を無条件に不可避とするなど、ある種の独断にみちた本である。以下、参照。
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100105#p2
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100121#p1
これもまた合理性とはなにか(ここでは経済合理性だが)を忘却した議論である。ただ表現の博物学的な志向をもつ夏目房之介らのマンガ批評家には予想通りに絶賛されている。そしてその手放しの絶賛のありかたこそが、いまの日本マンガ研究の深い恣意性の谷間を表しているのかもしれない。
●田中秀臣(たなか・ひでとみ)
上武大学ビジネス情報学部教授。経済学者。
著書に『雇用大崩壊』(NHK生活人新書)、『経済政策を歴史に学ぶ』(ソフトバンク新書)、『偏差値40から良い会社に入る方法』(東洋経済新報社)などどがある。
ブログ:Economics Lovers Live
