担当者より:知の交流スペース「シノドス」を中心に活発に活動をされている芹沢一也さんによる、嘉戸一将『北一輝 国家と進化』(講談社)の書評です。また、「シノドス」の試みについては、芹沢さんと荻上チキさんのインタビューをご覧ください。
配信日:2010/01/13
北一輝ほど多様な解釈を誘う思想家も珍しい。手元の日本史辞典をめくってみると、「大正・昭和期の国家主義運動指導者」と規定されてはいる。だが、つづく簡単なプロフィールを一瞥するだけで、そのような明確な像はすぐさま揺らぐ。
1906(明治39)年、『国体論及び純正社会主義』を出版。明治憲法を読み解くことで、国体論から社会主義を論ずる。その後、辛亥革命に身を投じ、中国革命同盟会・黒龍会にあって宋教仁を支援。だが、中国の排日運動が激化すると、日本国内の改革優先を痛感し、『国家改造案原理大綱』(加筆され『日本改造法案大綱』)を執筆。これが後に、皇道派青年将校に多大な影響を与える。1920(大正9)年、大川周明に迎えられ国家主義運動を行う結社・猶存社に参加。1936(昭和11)年の2・26事件では直接関与しなかったが、民間側の中心人物として死刑となる。
ざっとみただけでも、社会主義、憲法論、国体論、亜細亜主義、国家改造、国家主義、軍とクーデターと、そのひとつひとつが日本思想史上の一大トピックとなるようなテーマに、北一輝の思想と行動はまたがっている。
それゆえ、論者の力点のおきどころによって、その都度、異なった相貌をもった北一輝が現われる。その分裂具合も極端であって、「ファシスト」や「超国家主義者」とレッテルが貼られたかと思えば、政治的な立ち位置としてはまったく反対の、「民主主義者」や「社会民主主義者」といった評価を受けたりもする。
こうした分裂的な様相を生み出してきたのが、北のふたつの主著のあいだに横たわる、きわめて大きな〈差異〉である。一方には、民意にもとづく議会での社会主義革命を説いた『国体論及び純正社会主義』。そして他方には、軍隊主導の暴力革命を唱えた『日本改造法案大綱』。
容易には埋めがたいこの差異に、国家論の視角から挑んだのが本書『北一輝 国家と進化』(講談社)である。
著者の主張は以下のように明快だ。ふたつの主著のあいだの差異を、左から右への旋回、社会主義から国家社会主義への転向として、つまりは思想的な〈断絶〉として評価してはならない。たしかに革命の方法論上の〈転回〉はある。しかしながら、そこに国家思想の根幹に関わるような断絶など存在しない。北一輝の国家思想の核心は一貫して不変なのだ、と。
ではなぜ、転回は生じたのか。しかも、議会の民意から軍隊の暴力へという、どうみても180度の転向としか思われない転回が。それを解くためのカギは、北の国家概念にあると著者はいう。北一輝はじつは終生変わらぬ国家社会主義者であった。このことが初期にあっても、幸徳秋水などの明治社会主義者と北とを隔てたのだが、問題は北一輝にとって国家とは何だったのかだ。
著者の説明に耳を傾けよう。北にとって国家とは、人間の理想状態が実現される場所であった。それは「実在する有機体としての国家であり、天皇と国民とが一体と化した物理的実在の国家」である。したがって、そこでは民主主義と国家主義は一致する。しかもそれはプラトン的なイデアであって、そしてここがきわめて独特なのだが、プラトンと違ってそれは物理的実在として実現されうると北は信じた。
イデアを実在化する存在は誰かといえば、もちろん神だということになる。では神とはいったい誰か。この問いにおいて、北一輝の転回が画される。『国体論及び純正社会主義』にあっては、人は神たる「神類」へと進化して、イデアの実在化をもたらすとされた。社会主義とはそのための手段にほかならなかった。
だが、中国での革命を通じて、北は人の「神類」への進化を待つことを断念する。とはいえ、北一輝の国家概念と、それへの信が持続しているとするならば、いまだイデアを実在化するためには神が必要であることに変わりはない。
どうするか。北一輝自身が神になればよい。「彼自身が神仏となることによって、彼の国家論を真理として保証し、人々にはその真理をただ信じ、忠実に実行せよと命じる」。これが『日本改造法案大綱』に示された、天皇の号令下における軍事クーデターの内実だ。
クリアな分析であることは間違いない。北一輝の思想がもつ構造を、きわめてロジカルにあぶりだした本書によって、数多の論争に終止符が打たれるはずだ。だが、脱神秘化され尽くした北一輝を前にしたとき、面白味が消えてしまっているのも否みがたい。思うに思想家論には、いくばくかの神秘化が必要なのだ。
とはいえ、本書には通常の思想家論とは異なる面白味が随所にある。北一輝の思想の輪郭を浮かび上がらせるために、さまざまな思想家との比較が次々となされていくのだが、そのような作業に際して、日本思想において国家論を支配していた構造のようなものが、ときに垣間見える瞬間があるのだ。じつはこれこそが、本書の醍醐味ではないか。
おそらく、著者の才は、個々の思想家をこえたところにある、そうした言説構造を明るみに出すことにこそ、もっとも奉仕するものではないだろうか。この私の直感は、『明治国家の精神史的研究』(以文社)に収録された、同じ著者の「「忠君」と「愛国」――明治憲法体制における「明治の精神」」という、ブリリアントな論考によっても裏打ちされると思う。
日本思想において国家とは何だったのか。この問いに答えることのできる数少ない論者が、著者・嘉戸一将だと確信している。
●芹沢一也(せりざわ・かずや)
1968年生まれ。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了。専門は近代日本思想史、現代社会論。
著書に『〈法〉から解放される権力』(新曜社)、『狂気と犯罪』、『ホラーハウス社会』(ともに講談社+α新書)、『暴走するセキュリティ』(新書y)。
サイト:シノドス
配信日:2010/01/13
北一輝ほど多様な解釈を誘う思想家も珍しい。手元の日本史辞典をめくってみると、「大正・昭和期の国家主義運動指導者」と規定されてはいる。だが、つづく簡単なプロフィールを一瞥するだけで、そのような明確な像はすぐさま揺らぐ。
1906(明治39)年、『国体論及び純正社会主義』を出版。明治憲法を読み解くことで、国体論から社会主義を論ずる。その後、辛亥革命に身を投じ、中国革命同盟会・黒龍会にあって宋教仁を支援。だが、中国の排日運動が激化すると、日本国内の改革優先を痛感し、『国家改造案原理大綱』(加筆され『日本改造法案大綱』)を執筆。これが後に、皇道派青年将校に多大な影響を与える。1920(大正9)年、大川周明に迎えられ国家主義運動を行う結社・猶存社に参加。1936(昭和11)年の2・26事件では直接関与しなかったが、民間側の中心人物として死刑となる。
ざっとみただけでも、社会主義、憲法論、国体論、亜細亜主義、国家改造、国家主義、軍とクーデターと、そのひとつひとつが日本思想史上の一大トピックとなるようなテーマに、北一輝の思想と行動はまたがっている。
それゆえ、論者の力点のおきどころによって、その都度、異なった相貌をもった北一輝が現われる。その分裂具合も極端であって、「ファシスト」や「超国家主義者」とレッテルが貼られたかと思えば、政治的な立ち位置としてはまったく反対の、「民主主義者」や「社会民主主義者」といった評価を受けたりもする。
こうした分裂的な様相を生み出してきたのが、北のふたつの主著のあいだに横たわる、きわめて大きな〈差異〉である。一方には、民意にもとづく議会での社会主義革命を説いた『国体論及び純正社会主義』。そして他方には、軍隊主導の暴力革命を唱えた『日本改造法案大綱』。
容易には埋めがたいこの差異に、国家論の視角から挑んだのが本書『北一輝 国家と進化』(講談社)である。
著者の主張は以下のように明快だ。ふたつの主著のあいだの差異を、左から右への旋回、社会主義から国家社会主義への転向として、つまりは思想的な〈断絶〉として評価してはならない。たしかに革命の方法論上の〈転回〉はある。しかしながら、そこに国家思想の根幹に関わるような断絶など存在しない。北一輝の国家思想の核心は一貫して不変なのだ、と。
ではなぜ、転回は生じたのか。しかも、議会の民意から軍隊の暴力へという、どうみても180度の転向としか思われない転回が。それを解くためのカギは、北の国家概念にあると著者はいう。北一輝はじつは終生変わらぬ国家社会主義者であった。このことが初期にあっても、幸徳秋水などの明治社会主義者と北とを隔てたのだが、問題は北一輝にとって国家とは何だったのかだ。
著者の説明に耳を傾けよう。北にとって国家とは、人間の理想状態が実現される場所であった。それは「実在する有機体としての国家であり、天皇と国民とが一体と化した物理的実在の国家」である。したがって、そこでは民主主義と国家主義は一致する。しかもそれはプラトン的なイデアであって、そしてここがきわめて独特なのだが、プラトンと違ってそれは物理的実在として実現されうると北は信じた。
イデアを実在化する存在は誰かといえば、もちろん神だということになる。では神とはいったい誰か。この問いにおいて、北一輝の転回が画される。『国体論及び純正社会主義』にあっては、人は神たる「神類」へと進化して、イデアの実在化をもたらすとされた。社会主義とはそのための手段にほかならなかった。
だが、中国での革命を通じて、北は人の「神類」への進化を待つことを断念する。とはいえ、北一輝の国家概念と、それへの信が持続しているとするならば、いまだイデアを実在化するためには神が必要であることに変わりはない。
どうするか。北一輝自身が神になればよい。「彼自身が神仏となることによって、彼の国家論を真理として保証し、人々にはその真理をただ信じ、忠実に実行せよと命じる」。これが『日本改造法案大綱』に示された、天皇の号令下における軍事クーデターの内実だ。
クリアな分析であることは間違いない。北一輝の思想がもつ構造を、きわめてロジカルにあぶりだした本書によって、数多の論争に終止符が打たれるはずだ。だが、脱神秘化され尽くした北一輝を前にしたとき、面白味が消えてしまっているのも否みがたい。思うに思想家論には、いくばくかの神秘化が必要なのだ。
とはいえ、本書には通常の思想家論とは異なる面白味が随所にある。北一輝の思想の輪郭を浮かび上がらせるために、さまざまな思想家との比較が次々となされていくのだが、そのような作業に際して、日本思想において国家論を支配していた構造のようなものが、ときに垣間見える瞬間があるのだ。じつはこれこそが、本書の醍醐味ではないか。
おそらく、著者の才は、個々の思想家をこえたところにある、そうした言説構造を明るみに出すことにこそ、もっとも奉仕するものではないだろうか。この私の直感は、『明治国家の精神史的研究』(以文社)に収録された、同じ著者の「「忠君」と「愛国」――明治憲法体制における「明治の精神」」という、ブリリアントな論考によっても裏打ちされると思う。
日本思想において国家とは何だったのか。この問いに答えることのできる数少ない論者が、著者・嘉戸一将だと確信している。
●芹沢一也(せりざわ・かずや)
1968年生まれ。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了。専門は近代日本思想史、現代社会論。
著書に『〈法〉から解放される権力』(新曜社)、『狂気と犯罪』、『ホラーハウス社会』(ともに講談社+α新書)、『暴走するセキュリティ』(新書y)。
サイト:シノドス

