担当者より:作家、リチャード・パワーズについて、「空中キャンプ」のブロガー、伊藤聡さんにご執筆いただきました。また、伊藤さんは著書『生きる技術は名作に学べ』(ソフトバンク新書)が刊行されたばかり。そちらも併せてぜひお読みください。

配信日:2009/04/30


数多くの書評家が08年のベスト翻訳小説と推した、アメリカ作家リチャード・パワーズの長編『われらが歌う時』。アメリカにおける黒人の歴史のうねりを描いたこの小説は、同国に初のアフリカ系アメリカ人大統領が誕生したまさにその年、ベストなタイミングで翻訳され話題になった。

個人的にも、パワーズこそが、小説を読むことほんらいのスリルと刺激を再確認させてくれる、現代アメリカにおける最重要作家だと確信している。

映画『ネバーエンディング・ストーリー』のあらすじを覚えているだろうか。主人公の少年は本を読むことでそのストーリーに侵入し、最後には自分のいる世界の現実までもを変えてしまう。あの映画を見た誰もがそうおもうように、わたしは、主人公の少年のような読書がしてみたいとずっとおもっていた。

パワーズという作家がおもしろいのは、本と読者とが双方向的に関係しあう読書を、どうやら真剣にめざしているふしがあることだ。そして彼は、いったい『ネバーエンディング・ストーリー』のような本を現実に書くことはできるのか? と自らに本気で問いかけている。わたしは、そんな小説家がほんとうにいるとはおもわなかったから、パワーズの小説をはじめて手に取ったとき、まさにあの少年がそうしたように、夢中で読みふけってしまった。

現在、翻訳されているパワーズのテキストは4冊。なかでも、85年発表の『舞踏会へ向かう三人の農夫』は、一作目にして代表作と呼ぶべきすばらしい内容で、彼の小説世界が持つエッセンスがすべて凝縮している。

歴史の再構築というパワーズの手法が確立されているだけではなく、たくさんの登場人物が複雑に関係しあう展開、時間軸を横断した巧みな伏線とその回収、無数に散りばめられた引用など、後のパワーズの小説を特徴づけるスタイルがすでに完成しており、読者は小説のなかで再創造される二十世紀を一気に走り抜けるような感覚を味わうことができる。

この小説では、「見る」という行為がとても重要な意味を持っている。博物館に飾られた一枚の古い写真を見た男性が、写真のなかの農夫たちのまなざしに衝撃を受ける。そこからこの小説ははじまっていく。過去の古い写真を見るとき、農夫たちのまなざしは、現代に生きるその男性をとらえている。

「写真が我々を惹きつけるのは、何よりもまず、写真がわれわれを見返すからだ」とパワーズは書いている。古い写真にうつる農夫が現代のわれわれを見つめている、という双方向性のモチーフがとてもユニークである。小説はその古い写真が撮られた時代へとさかのぼり、被写体である三人の農夫の視線から、二十世紀の歴史をふたたび描こうとする。

なにかを見ようとすることは、イコールその対象にかかわり合い、対象を変えてしまうことでもある。たとえば、われわれが過去の記憶をおもいだそうとするとき、それが正確に、完全に再現されるということはありえない。誰にでも覚えがあるように、過去をおもいだそうとするたびに、記憶はすこしずつかたちを変えていく。

どのタイミングで過去をふりかえるかによって、過去の様相はさまざまに変化していくのである。記憶をさぐるという行為は、それじたいが記憶をあらためて記述しなおし、改変していくことでもあるのだ。

このテーマは、二作目である『囚人のジレンマ』でも同様に展開されている。第二次世界大戦をたたかうアメリカという縦糸に、とある家族の抱える謎が横糸として織り込まれる。国の歴史という大きな物語と、ひとつの家族の小さな物語が、同じ水準で交わっていくのも彼の特徴だ。

パワーズのテキストのなかで、読んでいて純粋にたのしかった一冊、読みながらつい声を上げてしまいそうなほどに興奮した小説は、なんといってもこの『囚人のジレンマ』である。第二次世界大戦中のアメリカを、ウォルト・ディズニーという意外なフィルターを通して観察したとき、そこからはまったく別の歴史が見える。

95年発表の『ガラテイア2.2』は、コンピューターの人工知能に文学を教えるというストーリーである。ヘレンと名付けられた人工知能が、しだいに知識を持ち、主人公たちとの会話が可能になっていく。人工知能が知識を身につけていくなかで、すこしずつ感情が生まれていく、その過程がみごとに描写されている。

小説家のジョン・アップダイクが、書評で「おもわず涙を流した」と告白するほどのラストも含め、いくつかのサイドストーリーがひとつに収束していく展開も読みどころである。

そして、現在のところ日本において最新刊となるのが、冒頭で紹介した『われらが歌う時』である。この小説を読むことで、日本人のわれわれには経験することも想像することもむずかしいアメリカの人種社会を肌で感じとり、小説を通じて、その社会を生きることができる。

黒人の兄弟ふたりがクラシック歌手として成功していく音楽小説であると同時に、公民権運動を中心とした黒人運動を、物語として再構築した歴史小説でもある。ふたつのストーリーが交差しながら、資料や客観的な記述だけでは実感できない、人種問題の根底にある歴史のうねりを、皮膚感覚として描きだしていく。

ワシントンの大行進でキング牧師が演説をしたことは知っていても、そこに集まった人びとの熱気を想像することはむずかしい。しかし、この小説を読めば、まるで自分がそこに参加したかのような、圧倒的なリアリティが感じられる。

どれもが重量級の長編ばかりで、手に取りにくい印象があるパワーズだが、どのテキストにもおもいがけない発見と興奮がぎっしりと詰まっている。『ネバーエンディング・ストーリー』にでてくる少年のように、すべてを忘れて没頭できる読書体験を求める人たちにぜひ推薦したい。現在、翻訳が準備されているあらたな二冊も含めて、ぜひ注目していきたい作家である。


●伊藤聡(いとう・そう)
ブロガー。
著書に『生きる技術は名作に学べ』(ソフトバンク新書)がある。
ブログ:空中キャンプ