担当者より:コラムニストの小田嶋隆さんによる連載コラムです。今回は「お笑い」についてです。また、小田嶋さんと岡康道さんとの共著『人生2割がちょうどいい』(講談社)も好評発売中です。

配信日:2009/12/16


年をとった人間は過去を美化するようになる。自然ななりゆきだ。私も同じだ。昔は良かったと、色々な場面でそう感じる。しかも、そう思う機会が、年を追って増えている。

仮に私が原稿を書く人間でなかったのなら、それで大きな問題はないのだと思う。――昔は良かった。昭和の日本人は純粋だった。今の世の中は間違っている。現在のテレビは堕落している。平成の音楽はレベルが落ちている。今の野球はインチキだ。最近の若い奴らには覇気がない。昨今の子供たちはマナーがなっていない。自分が子供だった頃の東京には本当の情があった――と、そう思っていた方が過ごしやすいわけだし、それで特に不都合もないからだ。

でも、「昔は良かった」というこの感想は、実は、多くの場合ウソだ。あるいは錯覚。というよりも、過去を美化する感傷は、年齢のいった人間が、自分を正当化するための便法に過ぎないのだ。おそらく、「オレの人生がうまくいかないのは、時代のせいであってオレの責任ではない」みたいな、そういうプロットを補強するひとつの状況証拠として、われわれは過去を美化している。ついでに、自分の過去と、自分の人生そのものを。

そういうふうに、より心易く生きるための処世術として過去を美化することは、それではそれで結構なことであるのかもしれない。でも、そのアホな感想を原稿に書いてしまうのは、プロとして非常に具合の悪いことだ。たとえば、昔の柔道は今の柔道よりレベルが高かったとかいう話は、事実に反している。単に昔の方が海外の競技レベルが低くて、それでメダルが取りやすかったということに過ぎない。そう思うのは勝手だが、プロのライターがそういう原稿を書いてはいけない。

今回はお笑いについて書こうと思っている。正直に申し上げると、私は、今のお笑いは、昔のお笑いに比べてレベルが低下していると思っている。が、同時に、自分の抱いているその感慨が錯覚であることもわかっている。で、ちょっと困っているわけだ。

昔の笑いは面白かった、と、同世代の男たちが集まると必ずそういう話になる。ドリフは最高だった。コント55号には死ぬほど笑わせてもらった。『おれたちひょうきん族』のテンションの高さは現在の番組には望むべくもない。デビュー当時のダウンタウンは神がかっていた。などなど。

いや、半分は事実なのだ。実際われわれは、それらの笑いを心から享受し、テレビの前で毎回笑い転げていたわけだから。でも、それでは、それらの笑いが、本当に現在流通している現役のお笑いよりもレベルが高いのかというと、それはまた別の話になる。たとえば、フジテレビがCSで流している『ひょうきん族』の再放送を見てみると、なんと、さんまもたけしもびっくりするほど面白くないのだ。笑いがナマモノで、時事的な要素や時代の気分と不可分な部分を持っているというその点を除けて考えても、それでも、あきれるほど笑えないのだ。

コント55号もテンポは素晴らしいが、内容が幼すぎて見ていられない。やすきよの漫才も同様。息の合い方や、間の使い方は、やはり別格だと思う。たいしたものだ。でも脚本がくだらない。あまりにも凡庸。展開が見え見え過ぎる。いや、既にネタを知っているからかもしれないが。でも、私はとてもじゃないが見ていられない。一回見ればたくさん。二度は見ない。

のみならず、たとえば『ひょうきん族』には、われわれオッサン世代の者が、現代の笑いについて苦言を呈する時に並べるダメな要素がすべて揃っている。

1.いじめ:たけし軍団の笑いは体育会体質の階級プロットそのもの。「鶴太郎のオデン」にしても要は「カラダを張った」虐待ショー。芸のない人間をいじめて反応を楽しむリアクション芸。

2.楽屋落ち:視聴者にはわからない身内同士の暴露ネタでただただ笑っている。内輪ウケ。現在の楽屋落ちよりさらにひどいかもしれない。

3.無頼自慢:芸人が自らの放埒を自慢げに語るトーク部分。鬼畜な女性関係や、酔った上での乱行や、若い時代の暴力行為を「芸のこやし」みたいに語られても聞いている当方は白けるだけなのだが。

4.一発芸:コマネチ、ホタテマン、ブラックデビル、あみだばばあ……キャラと流行語とハプニング頼りの、一向に練れていない垂れ流しの芸。救いはアドリブの冴えのみ。

つまり、悪しき風潮の萌芽はすべてあの時代に出そろっていたのである。と、ここまで仔細に検討しても、それでもなお私は、やっぱり昔のお笑いの方が面白かったと思っている。そう。どうしてもそう思えてしまうのだ。何度記憶を訂正しても、過去のVTRを振り返って検証し直しても、今のお笑いがレベルアップしているようにはどうしても思えないのだ。

なぜだろう。なにゆえに私の過去賛美の感覚は、かくも頑強なのであろうか。理由はおそらく、われわれの記憶に残っている「過去のお笑い」が、「オールタイムベスト」だからだ。

私が記憶しているのは、20年前のお笑い番組の平均値のテンションではない。私の脳細胞は、過去30年にオンエアされた中で最も面白かったいくつかのパフォーマンスを記憶しているのみで、それ以外の凡庸なお笑いは忘れ去っている。だから、私はダウンタウンが最高に切れ切れだった時代の一番面白かったネタや、たけしの最盛期(ほんの2年ほどだった)の神がかったトークをもって「昔の笑い」というふうに判断している。で、それらのベストオブベストと、現在のお笑いの日常的な水準のネタを比べているから、過去の味方をしたくなる。そういうことなのだ。

クラシック音楽のファンが現代の音楽をバカにするのと同じなりゆきだ。クラシックは、単に「古い音楽」であるわけではない。歴史の審判をくぐり抜けた「古典」だ。とすれば、そもそも過去数百年の音楽史の中から、選りすぐりの名曲だけをピックアップした「古典」と、現在流れている玉石混淆のポップミュージックの平均値を比べること自体が、むしろ比較の方法として、アンフェアだと、それだけの話なのである。

もうひとつ、過去のお笑いが素晴らしく思えるのは、それが、当時、われわれにとって稀少だったからだと思う。20年前、お笑い番組は、もっぱら週末にしかオンエアされていなかった。私が子供だった40年前はもっと少なかった。ほとんど週のうちに1時間ぐらいしか枠が与えられていなかった。だからこそ、お笑いはファンにとって、待ち遠しく、ありがたい、特別な時間だったのである。

「歯みがけよ。宿題しろよ」というエンディングの呼びかけから一週間、私たちは『8時だよ全員集合』の来週分のオンエアを、指折り数えて待った。それほどお笑いは稀少で、例外的で、宝物のような体験だった。

だから、ブラウン管の向こう側で何をやっているのであれ、画面のこちら側のテンションが既に高かったのである。私どもお笑いファンの子供たちは、箸が転げても笑うカタチで、番組を待ち焦がれていた。箸を入れるだけでグズグズに崩れてしまうシチューの中の肉みたいに。

それが、現在は、毎日、どの時間帯でもお笑いをやっている。どのチャンネルに合わせても、どこの局のどの曜日も、芸人がデカい声を張り上げている姿ばかりを映し出す。おどろくべき事態だ。

すべてがつまらないわけではない。時には笑える芸もある。面白いトークが絶滅したわけでもない。というよりも、もしかして、芸人が増えて、お笑いの底辺が広がった分だけ、お笑いの総体としての水準は、20年前よりも向上しているのかもしれない。そのことは認めても良い。
 
でも、見ているこっちは、あんまり楽しくないのだ。個人的な感想を述べるなら、私は、つまらないお笑いに食傷していることはもちろんだが、面白いお笑いにさえちょっと飽きている。というよりも「笑う」ということそのものに疲れはじめているのだ。

そもそも人間はそんなに笑う必要があるんだろうか? バラエティ番組の出演者が、隙あらば笑いを取ろうとしている姿を見ていると、私はそれだけでげんなりする 誰かが面白いことを言って、そのトークで実際に笑わされていても、それでもなお、私は不愉快だ。

「なあ、オレは笑いたい気分じゃないんだ」と、たとえば、サッカー番組を真剣に見ている時に、司会の芸人が笑いを取りに来たりすると、私はむしろ腹を立てる。冗談じゃない。せっかく作り上げたオレの戦闘的な気合いをどうしてくれるのだ、と。つまり問題は、笑いの質や笑いのレベルではないのだ。大切なのは頻度だ。人間は、そんなに笑う必要があるのか、ということだ。

笑いは、スパイスに過ぎない。主食ではない。その意味で、一日中笑い転げているいまのテレビはどうかしている。スパイスばかりが運ばれてくるテーブル。唐辛子の胡椒煮ナツメグ添え、みたいな。ニュース番組やスポーツ番組でも、21世紀のテレビ出演者は、全員が笑いを取ろうと思っている。NHK教育の語学講座の講師のような人までもが、なぜか着ぐるみを着てジョークを飛ばしたりしている。

違うんだよ先生。オレがいま聞きたいのはあんたのジョークなんかじゃない。どうしてそれがわからないんだ? おそらく、年末年始も、テレビの画面はお笑い芸人でいっぱいになるだろう。大げさに目を剥いてキメ顔を作る司会者。声を張り上げる若手。立ち上がる雛壇芸人。やたらと手を叩いて笑うアイドルの笑い方。手を叩く度にバランバランと揺れる振り袖のデカい袖。ああいやだ。

にもかかわらず、その派手派手しい振り袖の絵姿を彼女は自分では色気だと思っている。それが見ているこっちに伝わってくるのがくやしい。「色気なんかねえぞ」と、彼女に伝える方法はないのだろうか。どうして、オレは、一方的にあいつらの未消化な笑いの犠牲者になっているんだ? いいかげんにしてくれよ。うん。思い浮かべるだけで、吐き気がしてくる。

いいか、テレビのお笑いにとって大切なのは面白さではない。頻度だ。年をとった人間にとっては週に一度、片頬がゆるむ程度の笑いを提供してくれれば十分。それ以上は公害だ。自覚してくれ。


●小田嶋隆(おだじま・たかし)
コラムニスト。
著書に『テレビ標本箱』『テレビ救急箱』(ともに中公新書ラクレ)、『サッカーの上の雲』『1984年のビーンボール』(ともに駒草出版)など多数。
共著に『人生2割がちょうどいい』(講談社)ほかがある。
ブログ:偉愚庵亭憮録