担当者より:著書に『私鉄探検』(ソフトバンク新書)があるライターの近藤正高さんに放送作家という職業とその“あがり方”について論じていただきました。
配信日:2008/04/09
放送作家出身の小説家・景山民夫はかつて「放送作家40歳定年説」なるものを提唱していたという。テレビの仕事ができるのはせいぜい反射神経のある30代までだという考え方だ。当の景山自身、40歳をむかえる前後に吉川英治文学新人賞と直木賞をあいついで受賞し、本格的に小説家の道に進んでいる。
反射神経の問題かどうかはともかく、放送作家には景山のみならずほかの分野へと転進したケースが目立つ。ちょっと調べただけでも、青島幸男・赤江瀑・秋元康・阿久悠・井上ひさし・永六輔・大橋巨泉・川崎洋・神吉拓郎・邦光史郎・小林信彦(中原弓彦)・野坂昭如・野末陳平・畑山博・藤本義一・前田武彦・宮沢章夫・向田邦子・隆慶一郎(池田一朗)などなど、かなりの名前があがる。
ここにあげた大半はテレビ創生期に放送作家として活躍し、のちに文学や政治、あるいはタレントや作詞家に転進するなどして別の分野でも名をあげた人たちである。なかには直木賞や芥川賞の受賞者もいるし、参院議員経験者もいる。青島にいたっては、作詞家・タレント・直木賞・東京都知事と、いまあげたすべての分野でこれ以上ないというぐらいの成功を収めている。また、井上ひさしは日本ペンクラブの会長まで務めたし、秋元康もいつのまにか京都造形芸術大学の副学長という要職に就いていたりする。
ただ、このことは放送作家という職業の地位の低さの裏返しといえるのかもしれない。とくにテレビ創生期の放送作家はそうだろう。放送作家の仕事では将来の見通しが立たなかったからこそ、彼らの多くは別の分野に進まざるをえなかった、と解釈するのが妥当ではないか。
それでもドラマを手がける脚本家のばあい、その地位の向上は比較的早かった。直木賞作家にまでのぼりつめた向田邦子の名は、その没後、テレビドラマの脚本を対象にした賞に冠され、この分野ではもっとも権威のある賞の一つとなっているし、向田とはほぼ同世代(というか4つ年上。今年83歳というから驚く)で、いまなおテレビの世界に君臨しつづける橋田壽賀子は、財団を設立し、放送関係者や番組を対象に、みずから「橋田賞」という“あがり”をつくってしまった。
そんな脚本家たちに対して、バラエティの放送作家――いわゆる構成作家の立場はかなり長いあいだ軽んじられてきたように思われる。ほかの分野に転進しなかった構成作家一筋というような人には、忘れ去られてしまった人が多いのではないか。
ビートたけしの番組などを手がけた放送作家で、タレントとしても活躍する高田文夫が1984年に刊行した『コントもかけば恥もかく』(日本文芸社)では、そんないまでは歴史に埋もれてしまった構成作家たちについても触れられている。
たとえば、三波伸介司会で人気を集めた『お笑いオンステージ』を企画した前川宏司や、その一番弟子で、女性の構成作家の草分けとして『クイズ・ドレミファドン!』の企画などにかかわった福地美穂子などだ。だが、福地は76年に35歳でテレビ局内で急死、前川もまた82年、『お笑いオンステージ』の終了とほぼ時期を同じくして亡くなっている。45歳とやはり早世だった。
ちなみに、高田は日大芸術学部在学中の70年に塚田茂に弟子入りしている。塚田茂という人もテレビ史を語る上で重要な作家だ。『NHK紅白歌合戦』が初めてテレビで放送された際に、会場となった日劇の舞台監督として参加して以来、テレビ業界への転進後も30年以上にわたって紅白の制作にたずさわったほか、『夜のヒットスタジオ』や『オールスター家族対抗歌合戦』などといった人気番組を手がけている。このうち『夜ヒット』では、塚田自身も「歌謡ドラマ」という歌手らが演じる寸劇コーナーに出演もした。
さて、テレビが創生期を脱し、巨大産業となっていった70年代には、放送作家の歴史を語るうえでエポックともいえるできごとが起きている。このエポックをつくったのはコメディアンの萩本欽一だ。萩本は、坂上二郎とのコンビ・コント55号から個人での活動に移行するにあたり、自分と一緒にコントをつくる作家を育てるため、大岩賞介・永井準・詩村博史 ・鈴木しゅんじといった当時20代の若者たちを集めた。放送作家集団「パジャマ党」の誕生である。
それから5年ほどの修行期間を経て、萩本は『どちらさまも欽ちゃんです』というニッポン放送のラジオ番組でパジャマ党を初めてスタッフに起用、そのうちの一コーナー「欽ちゃんのドンといってみよう」がやがて『欽ちゃんのドンとやってみよう!』というテレビ番組に発展していくことになる。
ところで、パジャマ党のメンバーのうち、はかま満緒の弟子だった大岩をのぞく3人は日本大学の学生だったという。彼らが在学していたのは、ちょうど68年よりはじまった日大闘争とよばれる学生運動が激化していたころだ。萩本は入門したばかりの彼らから日大闘争の話を興味深く聞いたという。
先述の高田文夫が日大に在籍したのもちょうど闘争の最中だった。彼自身はおそらく運動に参加していないだろうが、彼の落語研究会での後輩だった森田芳光(のち映画監督)は運動に身を投じている。やはり同時期に日大生だったのが演出家のテリー伊藤である。つい先日放送されていた、日本テレビの開局55年の記念番組では、日大闘争の記録映像に映っている学生時代の伊藤の姿が紹介されていた。
そのテリー伊藤もまた放送作家の育成に力を入れている。80年代から90年代にかけて伊藤が演出を手がけた『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』では、「放送作家予備校」という企画が組まれ、このとき伊藤のもとに、そーたに・おちまさと・都築浩・池田一之・田中直人といった放送作家志望の若者が集まることになる。
それまで伊藤の事務所ロコモーション(85年設立)には放送作家がいなかったこともあり、彼らはかなり自由な雰囲気のなかで、たがいに切磋琢磨しながら腕を磨いていったようだ。そんな彼らの才能が一気に開花したのが、92年よりはじまった『進め!電波少年』である。
『電波少年』は、『元気が出るテレビ』で伊藤のもとで演出を務めた土屋敏男により企画され、前述のロコモーションの作家たちをはじめ、すでに深夜番組『カノッサの屈辱』でその名を知られていた小山薫堂や、雑誌『ビックリハウス』の投稿者出身で古舘プロジェクトに所属する鮫肌文殊といった当時の若手作家が結集した。
これは、60年代末の伝説的番組『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』で、一回の放送につき150本ものコントをつくるため、三木鶏郎やキノトールといった大御所から、河野洋・井上ひさし・小林信彦・松原敏春・喰始など当時の中堅・新人まで大勢の気鋭の放送作家が集められたというのとよく似ている。その意味では、90年代においてかつての『ゲバゲバ90分』にあたる存在が『電波少年』だったのではないか。
『電波少年』の作家チームは、土屋みずから声をかけて集められたゲリラ集団のようなものだったという。なかには、高須光聖のように声をかけられながらも、ダウンタウンの番組以外の仕事は断らざるをえないという当時の状況から、参加を断念した者もいる。のちに高須は『電波少年』のチームがすごくうらやましかったと、参加した海老克哉に打ち明けているほどだ。
とはいえ、高須がかかわったほぼ同時期の『ダウンタウンのごっつええ感じ』にも、三木聡・倉本美津留・内村宏幸・木村祐一など、いまから思えば『電波少年』に負けず劣らず多彩な作家陣が集まっていた。
『電波少年』や『ごっつええ感じ』に参加した若手放送作家の多くもすでに40代をむかえ、業界の中核となっている。それに先行する高田文夫、あるいはパジャマ党の面々(永井準は一昨年鬼籍に入ったが)など現在60歳前後の作家たちにも現役の者が目立つ。なかにはおちまさとや小山薫堂のように、放送にかぎらず幅広い分野でプロデュース業などを手がける者もいるが、それでも軸足はまだ放送作家に置いており、肩書きもそのままになっていたりする。
こうした状況をみると、放送作家がようやく職業として確立されたように思われる。彼らは放送作家をステップではなくベースとして、別の分野に移ることなくテレビの世界で“あがる”方法を示しているといってもいいだろう。
サブカルチャーやユースカルチャーとよばれるものには、マンガやロックなど、本来なら若者特有のものだったはずの文化がいつのまにか世代を越えて定着してしまった、というようなケースが多々みられる。それはジャンルの成熟には避けられないことだろう。とすれば、放送作家という職業が年齢とあまり関係ないものになったいま、テレビのバラエティ番組というジャンルも成熟をむかえた、といえるのかもしれない。
●近藤正高(こんどう・まさたか)
ライター。著書に『私鉄探検』がある。
ブログ:Culture Vulture
配信日:2008/04/09
放送作家出身の小説家・景山民夫はかつて「放送作家40歳定年説」なるものを提唱していたという。テレビの仕事ができるのはせいぜい反射神経のある30代までだという考え方だ。当の景山自身、40歳をむかえる前後に吉川英治文学新人賞と直木賞をあいついで受賞し、本格的に小説家の道に進んでいる。
反射神経の問題かどうかはともかく、放送作家には景山のみならずほかの分野へと転進したケースが目立つ。ちょっと調べただけでも、青島幸男・赤江瀑・秋元康・阿久悠・井上ひさし・永六輔・大橋巨泉・川崎洋・神吉拓郎・邦光史郎・小林信彦(中原弓彦)・野坂昭如・野末陳平・畑山博・藤本義一・前田武彦・宮沢章夫・向田邦子・隆慶一郎(池田一朗)などなど、かなりの名前があがる。
ここにあげた大半はテレビ創生期に放送作家として活躍し、のちに文学や政治、あるいはタレントや作詞家に転進するなどして別の分野でも名をあげた人たちである。なかには直木賞や芥川賞の受賞者もいるし、参院議員経験者もいる。青島にいたっては、作詞家・タレント・直木賞・東京都知事と、いまあげたすべての分野でこれ以上ないというぐらいの成功を収めている。また、井上ひさしは日本ペンクラブの会長まで務めたし、秋元康もいつのまにか京都造形芸術大学の副学長という要職に就いていたりする。
ただ、このことは放送作家という職業の地位の低さの裏返しといえるのかもしれない。とくにテレビ創生期の放送作家はそうだろう。放送作家の仕事では将来の見通しが立たなかったからこそ、彼らの多くは別の分野に進まざるをえなかった、と解釈するのが妥当ではないか。
それでもドラマを手がける脚本家のばあい、その地位の向上は比較的早かった。直木賞作家にまでのぼりつめた向田邦子の名は、その没後、テレビドラマの脚本を対象にした賞に冠され、この分野ではもっとも権威のある賞の一つとなっているし、向田とはほぼ同世代(というか4つ年上。今年83歳というから驚く)で、いまなおテレビの世界に君臨しつづける橋田壽賀子は、財団を設立し、放送関係者や番組を対象に、みずから「橋田賞」という“あがり”をつくってしまった。
そんな脚本家たちに対して、バラエティの放送作家――いわゆる構成作家の立場はかなり長いあいだ軽んじられてきたように思われる。ほかの分野に転進しなかった構成作家一筋というような人には、忘れ去られてしまった人が多いのではないか。
ビートたけしの番組などを手がけた放送作家で、タレントとしても活躍する高田文夫が1984年に刊行した『コントもかけば恥もかく』(日本文芸社)では、そんないまでは歴史に埋もれてしまった構成作家たちについても触れられている。
たとえば、三波伸介司会で人気を集めた『お笑いオンステージ』を企画した前川宏司や、その一番弟子で、女性の構成作家の草分けとして『クイズ・ドレミファドン!』の企画などにかかわった福地美穂子などだ。だが、福地は76年に35歳でテレビ局内で急死、前川もまた82年、『お笑いオンステージ』の終了とほぼ時期を同じくして亡くなっている。45歳とやはり早世だった。
ちなみに、高田は日大芸術学部在学中の70年に塚田茂に弟子入りしている。塚田茂という人もテレビ史を語る上で重要な作家だ。『NHK紅白歌合戦』が初めてテレビで放送された際に、会場となった日劇の舞台監督として参加して以来、テレビ業界への転進後も30年以上にわたって紅白の制作にたずさわったほか、『夜のヒットスタジオ』や『オールスター家族対抗歌合戦』などといった人気番組を手がけている。このうち『夜ヒット』では、塚田自身も「歌謡ドラマ」という歌手らが演じる寸劇コーナーに出演もした。
さて、テレビが創生期を脱し、巨大産業となっていった70年代には、放送作家の歴史を語るうえでエポックともいえるできごとが起きている。このエポックをつくったのはコメディアンの萩本欽一だ。萩本は、坂上二郎とのコンビ・コント55号から個人での活動に移行するにあたり、自分と一緒にコントをつくる作家を育てるため、大岩賞介・永井準・詩村博史 ・鈴木しゅんじといった当時20代の若者たちを集めた。放送作家集団「パジャマ党」の誕生である。
それから5年ほどの修行期間を経て、萩本は『どちらさまも欽ちゃんです』というニッポン放送のラジオ番組でパジャマ党を初めてスタッフに起用、そのうちの一コーナー「欽ちゃんのドンといってみよう」がやがて『欽ちゃんのドンとやってみよう!』というテレビ番組に発展していくことになる。
ところで、パジャマ党のメンバーのうち、はかま満緒の弟子だった大岩をのぞく3人は日本大学の学生だったという。彼らが在学していたのは、ちょうど68年よりはじまった日大闘争とよばれる学生運動が激化していたころだ。萩本は入門したばかりの彼らから日大闘争の話を興味深く聞いたという。
先述の高田文夫が日大に在籍したのもちょうど闘争の最中だった。彼自身はおそらく運動に参加していないだろうが、彼の落語研究会での後輩だった森田芳光(のち映画監督)は運動に身を投じている。やはり同時期に日大生だったのが演出家のテリー伊藤である。つい先日放送されていた、日本テレビの開局55年の記念番組では、日大闘争の記録映像に映っている学生時代の伊藤の姿が紹介されていた。
そのテリー伊藤もまた放送作家の育成に力を入れている。80年代から90年代にかけて伊藤が演出を手がけた『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』では、「放送作家予備校」という企画が組まれ、このとき伊藤のもとに、そーたに・おちまさと・都築浩・池田一之・田中直人といった放送作家志望の若者が集まることになる。
それまで伊藤の事務所ロコモーション(85年設立)には放送作家がいなかったこともあり、彼らはかなり自由な雰囲気のなかで、たがいに切磋琢磨しながら腕を磨いていったようだ。そんな彼らの才能が一気に開花したのが、92年よりはじまった『進め!電波少年』である。
『電波少年』は、『元気が出るテレビ』で伊藤のもとで演出を務めた土屋敏男により企画され、前述のロコモーションの作家たちをはじめ、すでに深夜番組『カノッサの屈辱』でその名を知られていた小山薫堂や、雑誌『ビックリハウス』の投稿者出身で古舘プロジェクトに所属する鮫肌文殊といった当時の若手作家が結集した。
これは、60年代末の伝説的番組『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』で、一回の放送につき150本ものコントをつくるため、三木鶏郎やキノトールといった大御所から、河野洋・井上ひさし・小林信彦・松原敏春・喰始など当時の中堅・新人まで大勢の気鋭の放送作家が集められたというのとよく似ている。その意味では、90年代においてかつての『ゲバゲバ90分』にあたる存在が『電波少年』だったのではないか。
『電波少年』の作家チームは、土屋みずから声をかけて集められたゲリラ集団のようなものだったという。なかには、高須光聖のように声をかけられながらも、ダウンタウンの番組以外の仕事は断らざるをえないという当時の状況から、参加を断念した者もいる。のちに高須は『電波少年』のチームがすごくうらやましかったと、参加した海老克哉に打ち明けているほどだ。
とはいえ、高須がかかわったほぼ同時期の『ダウンタウンのごっつええ感じ』にも、三木聡・倉本美津留・内村宏幸・木村祐一など、いまから思えば『電波少年』に負けず劣らず多彩な作家陣が集まっていた。
『電波少年』や『ごっつええ感じ』に参加した若手放送作家の多くもすでに40代をむかえ、業界の中核となっている。それに先行する高田文夫、あるいはパジャマ党の面々(永井準は一昨年鬼籍に入ったが)など現在60歳前後の作家たちにも現役の者が目立つ。なかにはおちまさとや小山薫堂のように、放送にかぎらず幅広い分野でプロデュース業などを手がける者もいるが、それでも軸足はまだ放送作家に置いており、肩書きもそのままになっていたりする。
こうした状況をみると、放送作家がようやく職業として確立されたように思われる。彼らは放送作家をステップではなくベースとして、別の分野に移ることなくテレビの世界で“あがる”方法を示しているといってもいいだろう。
サブカルチャーやユースカルチャーとよばれるものには、マンガやロックなど、本来なら若者特有のものだったはずの文化がいつのまにか世代を越えて定着してしまった、というようなケースが多々みられる。それはジャンルの成熟には避けられないことだろう。とすれば、放送作家という職業が年齢とあまり関係ないものになったいま、テレビのバラエティ番組というジャンルも成熟をむかえた、といえるのかもしれない。
●近藤正高(こんどう・まさたか)
ライター。著書に『私鉄探検』がある。
ブログ:Culture Vulture
