担当者より:『名言力』(ソフトバンク新書)の著者であり、ライターとしてご活躍中の大山くまおさんに、2009年に亡くなった山城新伍がテレビに残した影響について論じていただきました。
配信日:2009/11/18
2009年8月12日、山城新伍が亡くなった。70歳だった。
今年は著名人の死者の当たり年だ。山城の直後には大原麗子が死に、その前には忌野清志郎、マイケル・ジャクソンまで死んでいる。とうとう森繁まで死んでしまった。
正直なところ、山城の死があまり大きな話題になったとは思えない。芸能界から現役を退き、老人ホームで独居生活を強いられていたことと妻子との確執がクローズアップされた程度だ。そんな山城の功績を、もう一度考えてみようというのが本稿のテーマである。
「ポエムだな~、メルヘンだな~」
若い読者は知らないかもしれないが、これが『笑アップ歌謡大作戦』(1978年~82年)などで使われていた山城新伍の必殺フレーズだった。平日の夜8時というゴールデンタイムにも関わらず平然と下ネタが飛び交い、それを受けた山城がにこやかに言う。正直、当時まだ子どもだった筆者のような視聴者には何のこっちゃわからない。
そもそも、薄いサングラスにオールバック、襟が大きく開いたスーツ姿の山城は、よく見るととてもゴールデンタイムのバラエティ向けの風体ではない。たたずまいや語り口も含め、いつも夜の匂い、淫靡な匂いを身にまとっていた。子ども受けのいいドリフターズとは違う種類の笑いをお茶の間に提供していたのが、山城新伍である。
山城のキャリアは映画から始まるが、ブレイクしたのはテレビ時代劇『白馬童子』(60年)の二枚目役だった。その後、長らく人気が低迷するも、70年代に入ると梅宮辰夫とともに東映の『不良番長』シリーズでアナーキーな役柄を演じて人気を博し、さらに『仁義なき戦い』シリーズ(73年~)にも出演。実録ヤクザ、空手、暴走族、女番長、異常性愛、常軌を逸したコメディなどが狂い咲いた東映の“不良性感度路線”を支えるキーマンとなった。映画の世界からテレビの世界へ都落ちしていた山城が、“ムービースター”の称号を得たのである。えらく泥臭いスターだが。
この頃、山城はもう一つの称号を手に入れている。それが“ポルノスター”という称号だ。山城はいわゆるポルノ男優ではないが、ポルノ的なイメージとかつての時代劇スターを結びつけたメディアの造語である。趣味と実益を兼ねた“トルコの指南役”(新人トルコ嬢に技術を教えて指南料をもらっていたらしい)だと公言し、72年には『ポルノギャンブル喜劇 大穴中穴へその穴』に主演。『トラック野郎 爆走一番星』(75年)の役名はズバリ、トルコの帝王・須間田三四郎だった。
さらに山城のポルノスターとしてのイメージを決定づけたのは、初めてテレビバラエティの司会に挑んだ東京12チャンネルの『独占!男の時間』(75~77年)である。女の裸はもちろん、男の裸(笑福亭鶴瓶が全裸になった)まで盛り込んだ、これまたアナーキーな番組だった。
番組は過激さのあまり2年で打ち切りになり、最終回で公然と局批判を行った山城だが、これを契機にテレビの世界で活躍する場を増やしていく。78年にスタートした『笑アップ~』は日曜の昼に視聴率20%を獲得して、ゴールデンに昇格。裸こそないが、基本的には下ネタだらけで、「オチンチンから生まれた小林サチンコ(幸子)」などと毎週やっていた。「ゆとりあるデタラメこそ真の芸術」とは、毎回番組冒頭の山城のセリフだが、まさに東映の不良性感度映画を指しているような言葉であり、それをそのままテレビにスライドさせたような番組だった。ゴールデン昇格時も、山城は「規制があるなら司会を降りる」と言い放っている。
1970年代まで、テレビの司会者といえば高橋圭三に代表されるテレビ局のアナウンサーやアナウンサー出身者が主に務めていた。彼らのイメージは清廉潔白そのもの。山城と同じく俳優の司会者もいたが、関口宏や石坂浩二など、やはりスマートでクリーンな印象を持つ人物が多かった。笑いが必要な番組の司会者を落語家や漫才師が務めることもあったが、伝統文化の枠の中にいた彼らはやはり健全な笑いの提供者だった。
『不良番長』で『仁義なき戦い』な東映からやってきた猥雑さの塊のような山城は、当時のテレビの世界では明らかに異物だった。しかも司会の座に収まっていたのだからただ事ではない。フリートーク主体の司会は60年代に大橋巨泉と前田武彦が確立したものだが、山城の司会術はそれに輪をかけてフリーだった。番組中にテレビ局の批判までやってのける司会者は他にはいない。猥雑な雰囲気にソフトな口調、自在な話術に批判精神。これらすべてを兼ね備えたタレントが山城新伍だったのである。また、博識ぶりも買われ、多くのクイズ番組の司会にも起用されていた。
お茶の間の人気者となり“テレビスター”の称号を得た山城は、今度は映画への愛情を注ぎはじめる。初監督作は『ミスター・ムービー』と発表されていたが、CMに出演していた日清食品に制作費を出させたため『ミスターどん兵衛』(79年)と改題した。その後も、ロマンポルノを含めて7本の映画を監督している(出演作は約190本)。
その後、山城がテレビの世界で大きな光を放つのは、フジテレビの『笑っていいとも!』の裏番組、TBS『新伍のお待ちどおさま』(85~90年)である。『いいとも』が異常なまでの人気を誇り、他局が荒れ野のようになっていた平日昼12時の枠に敢然と挑んだ番組だ。
ここで山城は持ち前の批判精神を毒舌という形で炸裂させる。サングラスの奥で眉根をしかめ、カメラを見据えて政治、社会、芸能界を斬りまくった。それでいて軽妙さは失わないのが人気の秘訣である。自民党政治を手厳しく批判した後、軽いジョークを飛ばしておちゃらけるのが山城の常套手段だった。変わり身の早さは天下一品である。
『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(88~96年)では司会ではなく解答者として登場。そこからしばらくは穏やかなタレントとしての一面を見せていたが、その一方で自ら製作した映画の完成披露でジャニーズ事務所を徹底的にこき下ろすなど、衰えぬ批判精神を発揮していた。しかし、テレビの世界の変化は山城の批判精神を無条件に受け入れることができなくなっており、病気(糖尿病)もあいまって、徐々にメディアからフェードアウトしていく。以上が、山城のテレビを中心とした活動履歴である。
現在、山城新伍のポジションをテレビの世界で受け継いでいるタレントは多数いる。
『お待ちどおさま』で見せた“権力者に楯突く庶民の味方”路線は、その後、みのもんたが継承した。カメラに向かってしかめ面を作って社会問題を斬り、スナックのママに目尻を下げる芸風は往時の山城そっくりだ。同じような芸風を持つ司会者に、やしきたかじんなどがいる。
『新伍&紳助のあぶない話』(90~96年)で共演していた島田紳助も、山城の影響を色濃く受けているはずだ。山城が司会をしていた『アイ・アイゲーム』(79~85年)に解答者として出演していた島田は、90年代に入ると司会者路線に転向するが、その端緒が山城もよく出演していた『EXテレビ』であり、この『あぶない話』だった。
そういえば島田は羞恥心などバカキャラを売り出して成功したが、山城は『笑アップ~』ですでに岩城徳栄(ピーコ)というバカキャラをブレイクさせていた。
大御所ぶらず、周囲を立てながら硬軟使い分けて司会をするという意味では、中山秀征もかつての山城新伍のポジションの一翼を担っている。司会もこなせるエロ話が巧みな俳優という意味では、沢村一樹でさえ山城の後継者の一人だろう。
また、『笑アップ~』の出演者同士、しかも女性歌手らがお互いにプライベートを暴露しながら罵り合うというやり取りは、教室を一種の“ひな壇”と考えると、ロンドンブーツ1号2号の田村淳が司会を務める『ロンドンハーツ』の人気コーナー「格付けし合う女たち」などに引き継がれている。
かくも、山城新伍がテレビの世界に遺した爪あとは大きなものなのである。『白馬童子』の人でもなければ、老人ホームに棄てられた寂しい元タレントという枠組みだけで語るのは大きな間違いであるということがわかってもらえただろう。
山城は痛烈な批判精神の持ち主ではあるが、立川談志やビートたけしのような天才肌ではなく、天衣無縫でもない。山城の真骨頂は、バランス感覚であり、観察者としての優れた目にある。東映時代に師事していた若山富三郎とその弟、勝新太郎について書いた『おこりんぼさびしんぼ』(廣済堂文庫)という本を残しているが、そこで語られているのは、若山兄弟や共演者たちの破天荒なエピソードであり、その間をすいすいとすり抜けるように生きていた山城の変わり身の早さと立ち居振る舞いだ。暴力の吹き荒れる東映の撮影所で誰にも殴られたことのないのは自分だけだ、と山城は豪語している。
二枚目スターから泥臭いヤクザ俳優へ、映画の世界からテレビの世界へ、毒舌司会者から穏やかなタレントへ。自身の初監督映画をスポンサーのために改題したり、政治批判の後に軽いジョークを飛ばすあたりにも、山城の軽い身のこなしは現れている。
主役ではなく常に二番手、偉そうな感じなのにどこか間抜け。テレビの世界での山城の立ち位置は東映映画で演じてきた役どころとまったく同じだ。司会者とは、常に主役をゲストに譲る立場である。バランス感覚に長けた山城にとってはうってつけのものだったのだろう。観察眼から生まれた豊富なエピソードも、テレビバラエティにマッチしていた。異物感丸出しなのに、いつの間にか馴染んでいる。それがテレビの世界における山城新伍の存在感なのである。
ポルノスターであり、ムービースターであり、テレビスターだった山城は、それぞれの世界を行き来する“変幻自在のトリックスター”だった。ついでに「オナラも隠せるバブルスター」でもあったが。混乱の70年代からバブルの80年代、90年代にかけて、時代のドサクサにまぎれて大いに活躍してきた山城新伍の功績を、今一度再確認していただけると幸いである。
※こんなことを真面目に考えている人がはたしてどれだけいるだろうと思っていたら、ポッドキャスト「東京ポッド許可局」のお三方(マキタスポーツ、プチ鹿島、サンキュータツオ)が大真面目に語っておられたので、参考にさせていただいたことを記しておきたい。
※「バブルスター」とは、山城や千葉真一、松方弘樹らがCMに出演していた原ヘルス工業の家庭用超音波温水器。原社長も登場するCMで有名だったが、その後、薬事法違反で業務停止となった。
●大山くまお(おおやま・くまお)
ライター。
著書に『名言力』(ソフトバンク新書)がある。
ブログ:くまお白書
配信日:2009/11/18
2009年8月12日、山城新伍が亡くなった。70歳だった。
今年は著名人の死者の当たり年だ。山城の直後には大原麗子が死に、その前には忌野清志郎、マイケル・ジャクソンまで死んでいる。とうとう森繁まで死んでしまった。
正直なところ、山城の死があまり大きな話題になったとは思えない。芸能界から現役を退き、老人ホームで独居生活を強いられていたことと妻子との確執がクローズアップされた程度だ。そんな山城の功績を、もう一度考えてみようというのが本稿のテーマである。
「ポエムだな~、メルヘンだな~」
若い読者は知らないかもしれないが、これが『笑アップ歌謡大作戦』(1978年~82年)などで使われていた山城新伍の必殺フレーズだった。平日の夜8時というゴールデンタイムにも関わらず平然と下ネタが飛び交い、それを受けた山城がにこやかに言う。正直、当時まだ子どもだった筆者のような視聴者には何のこっちゃわからない。
そもそも、薄いサングラスにオールバック、襟が大きく開いたスーツ姿の山城は、よく見るととてもゴールデンタイムのバラエティ向けの風体ではない。たたずまいや語り口も含め、いつも夜の匂い、淫靡な匂いを身にまとっていた。子ども受けのいいドリフターズとは違う種類の笑いをお茶の間に提供していたのが、山城新伍である。
山城のキャリアは映画から始まるが、ブレイクしたのはテレビ時代劇『白馬童子』(60年)の二枚目役だった。その後、長らく人気が低迷するも、70年代に入ると梅宮辰夫とともに東映の『不良番長』シリーズでアナーキーな役柄を演じて人気を博し、さらに『仁義なき戦い』シリーズ(73年~)にも出演。実録ヤクザ、空手、暴走族、女番長、異常性愛、常軌を逸したコメディなどが狂い咲いた東映の“不良性感度路線”を支えるキーマンとなった。映画の世界からテレビの世界へ都落ちしていた山城が、“ムービースター”の称号を得たのである。えらく泥臭いスターだが。
この頃、山城はもう一つの称号を手に入れている。それが“ポルノスター”という称号だ。山城はいわゆるポルノ男優ではないが、ポルノ的なイメージとかつての時代劇スターを結びつけたメディアの造語である。趣味と実益を兼ねた“トルコの指南役”(新人トルコ嬢に技術を教えて指南料をもらっていたらしい)だと公言し、72年には『ポルノギャンブル喜劇 大穴中穴へその穴』に主演。『トラック野郎 爆走一番星』(75年)の役名はズバリ、トルコの帝王・須間田三四郎だった。
さらに山城のポルノスターとしてのイメージを決定づけたのは、初めてテレビバラエティの司会に挑んだ東京12チャンネルの『独占!男の時間』(75~77年)である。女の裸はもちろん、男の裸(笑福亭鶴瓶が全裸になった)まで盛り込んだ、これまたアナーキーな番組だった。
番組は過激さのあまり2年で打ち切りになり、最終回で公然と局批判を行った山城だが、これを契機にテレビの世界で活躍する場を増やしていく。78年にスタートした『笑アップ~』は日曜の昼に視聴率20%を獲得して、ゴールデンに昇格。裸こそないが、基本的には下ネタだらけで、「オチンチンから生まれた小林サチンコ(幸子)」などと毎週やっていた。「ゆとりあるデタラメこそ真の芸術」とは、毎回番組冒頭の山城のセリフだが、まさに東映の不良性感度映画を指しているような言葉であり、それをそのままテレビにスライドさせたような番組だった。ゴールデン昇格時も、山城は「規制があるなら司会を降りる」と言い放っている。
1970年代まで、テレビの司会者といえば高橋圭三に代表されるテレビ局のアナウンサーやアナウンサー出身者が主に務めていた。彼らのイメージは清廉潔白そのもの。山城と同じく俳優の司会者もいたが、関口宏や石坂浩二など、やはりスマートでクリーンな印象を持つ人物が多かった。笑いが必要な番組の司会者を落語家や漫才師が務めることもあったが、伝統文化の枠の中にいた彼らはやはり健全な笑いの提供者だった。
『不良番長』で『仁義なき戦い』な東映からやってきた猥雑さの塊のような山城は、当時のテレビの世界では明らかに異物だった。しかも司会の座に収まっていたのだからただ事ではない。フリートーク主体の司会は60年代に大橋巨泉と前田武彦が確立したものだが、山城の司会術はそれに輪をかけてフリーだった。番組中にテレビ局の批判までやってのける司会者は他にはいない。猥雑な雰囲気にソフトな口調、自在な話術に批判精神。これらすべてを兼ね備えたタレントが山城新伍だったのである。また、博識ぶりも買われ、多くのクイズ番組の司会にも起用されていた。
お茶の間の人気者となり“テレビスター”の称号を得た山城は、今度は映画への愛情を注ぎはじめる。初監督作は『ミスター・ムービー』と発表されていたが、CMに出演していた日清食品に制作費を出させたため『ミスターどん兵衛』(79年)と改題した。その後も、ロマンポルノを含めて7本の映画を監督している(出演作は約190本)。
その後、山城がテレビの世界で大きな光を放つのは、フジテレビの『笑っていいとも!』の裏番組、TBS『新伍のお待ちどおさま』(85~90年)である。『いいとも』が異常なまでの人気を誇り、他局が荒れ野のようになっていた平日昼12時の枠に敢然と挑んだ番組だ。
ここで山城は持ち前の批判精神を毒舌という形で炸裂させる。サングラスの奥で眉根をしかめ、カメラを見据えて政治、社会、芸能界を斬りまくった。それでいて軽妙さは失わないのが人気の秘訣である。自民党政治を手厳しく批判した後、軽いジョークを飛ばしておちゃらけるのが山城の常套手段だった。変わり身の早さは天下一品である。
『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(88~96年)では司会ではなく解答者として登場。そこからしばらくは穏やかなタレントとしての一面を見せていたが、その一方で自ら製作した映画の完成披露でジャニーズ事務所を徹底的にこき下ろすなど、衰えぬ批判精神を発揮していた。しかし、テレビの世界の変化は山城の批判精神を無条件に受け入れることができなくなっており、病気(糖尿病)もあいまって、徐々にメディアからフェードアウトしていく。以上が、山城のテレビを中心とした活動履歴である。
現在、山城新伍のポジションをテレビの世界で受け継いでいるタレントは多数いる。
『お待ちどおさま』で見せた“権力者に楯突く庶民の味方”路線は、その後、みのもんたが継承した。カメラに向かってしかめ面を作って社会問題を斬り、スナックのママに目尻を下げる芸風は往時の山城そっくりだ。同じような芸風を持つ司会者に、やしきたかじんなどがいる。
『新伍&紳助のあぶない話』(90~96年)で共演していた島田紳助も、山城の影響を色濃く受けているはずだ。山城が司会をしていた『アイ・アイゲーム』(79~85年)に解答者として出演していた島田は、90年代に入ると司会者路線に転向するが、その端緒が山城もよく出演していた『EXテレビ』であり、この『あぶない話』だった。
そういえば島田は羞恥心などバカキャラを売り出して成功したが、山城は『笑アップ~』ですでに岩城徳栄(ピーコ)というバカキャラをブレイクさせていた。
大御所ぶらず、周囲を立てながら硬軟使い分けて司会をするという意味では、中山秀征もかつての山城新伍のポジションの一翼を担っている。司会もこなせるエロ話が巧みな俳優という意味では、沢村一樹でさえ山城の後継者の一人だろう。
また、『笑アップ~』の出演者同士、しかも女性歌手らがお互いにプライベートを暴露しながら罵り合うというやり取りは、教室を一種の“ひな壇”と考えると、ロンドンブーツ1号2号の田村淳が司会を務める『ロンドンハーツ』の人気コーナー「格付けし合う女たち」などに引き継がれている。
かくも、山城新伍がテレビの世界に遺した爪あとは大きなものなのである。『白馬童子』の人でもなければ、老人ホームに棄てられた寂しい元タレントという枠組みだけで語るのは大きな間違いであるということがわかってもらえただろう。
山城は痛烈な批判精神の持ち主ではあるが、立川談志やビートたけしのような天才肌ではなく、天衣無縫でもない。山城の真骨頂は、バランス感覚であり、観察者としての優れた目にある。東映時代に師事していた若山富三郎とその弟、勝新太郎について書いた『おこりんぼさびしんぼ』(廣済堂文庫)という本を残しているが、そこで語られているのは、若山兄弟や共演者たちの破天荒なエピソードであり、その間をすいすいとすり抜けるように生きていた山城の変わり身の早さと立ち居振る舞いだ。暴力の吹き荒れる東映の撮影所で誰にも殴られたことのないのは自分だけだ、と山城は豪語している。
二枚目スターから泥臭いヤクザ俳優へ、映画の世界からテレビの世界へ、毒舌司会者から穏やかなタレントへ。自身の初監督映画をスポンサーのために改題したり、政治批判の後に軽いジョークを飛ばすあたりにも、山城の軽い身のこなしは現れている。
主役ではなく常に二番手、偉そうな感じなのにどこか間抜け。テレビの世界での山城の立ち位置は東映映画で演じてきた役どころとまったく同じだ。司会者とは、常に主役をゲストに譲る立場である。バランス感覚に長けた山城にとってはうってつけのものだったのだろう。観察眼から生まれた豊富なエピソードも、テレビバラエティにマッチしていた。異物感丸出しなのに、いつの間にか馴染んでいる。それがテレビの世界における山城新伍の存在感なのである。
ポルノスターであり、ムービースターであり、テレビスターだった山城は、それぞれの世界を行き来する“変幻自在のトリックスター”だった。ついでに「オナラも隠せるバブルスター」でもあったが。混乱の70年代からバブルの80年代、90年代にかけて、時代のドサクサにまぎれて大いに活躍してきた山城新伍の功績を、今一度再確認していただけると幸いである。
※こんなことを真面目に考えている人がはたしてどれだけいるだろうと思っていたら、ポッドキャスト「東京ポッド許可局」のお三方(マキタスポーツ、プチ鹿島、サンキュータツオ)が大真面目に語っておられたので、参考にさせていただいたことを記しておきたい。
※「バブルスター」とは、山城や千葉真一、松方弘樹らがCMに出演していた原ヘルス工業の家庭用超音波温水器。原社長も登場するCMで有名だったが、その後、薬事法違反で業務停止となった。
●大山くまお(おおやま・くまお)
ライター。
著書に『名言力』(ソフトバンク新書)がある。
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