担当者より:新刊『訳者解説』(バジリコ)が好評発売中の山形浩生さんの書評連載第2回目(2006年2月配信)です。なお、本文で言及されている『大相撲の経済学』はその後、ちくま文庫に入りました。

配信日:2006/02/22


今回はガーナで書いているので、出発前に荷物に放り込めたものに限られるのです。本は重い! それ以外に、別の依頼でホリエモンの本を大量に読まなくてはならないので、それで残ったところに入る本となると、かなり厳選。とはいえ、堀江本は実に中身が薄いので、空港までに二冊片付けて次々に捨てて、新しいのを補給できたのは不幸中の幸い。

さて最初からかばんに入っていたのがマイケル・S.ガザニガ『脳のなかの倫理』(紀伊國屋書店)。これは名著! まだ2月だけれど、今年一冊だけ科学書を読むならこの一冊にしてほしいと今から断言してもいい。

ガザニガは、左右の脳半球の働きに関するパイオニア的な研究を果たした脳科学者だ。この本は、ガザニガが大統領のES細胞利用研究に関する倫理検討委員会に参加したときのフラストレーションをきっかけに書かれている。この手の倫理委員会に出てくるのは、倫理学者だの宗教家だのといった人々だ。この人たちは、やれ生命の尊厳が、とか死生観が、とかきいたふうな口をきく。でも具体的にそれって何なの、と聞かれる、この人たちは一切答えることができない。「有識者」を名乗るくせに実は何ら見識もなく、あまりなじみがないから何となく不安、というのを小難しく言うだけだ。さらにこの手の論者はすぐにあり得ない極端な話を持ち出して、議論をまぜっかえす。ヒトラーのクローンを作る人が出たらどうするとか、人間とウサギの合いの子をつくる科学者が出てきたらどうする、とか。

ガザニガはそういうのにあきれはてて、もっときちんと倫理や道徳を考え直さないとダメだ、と述べる。自分の思いこみを開陳するだけでなく、今後どこで人間が妥協点を見いだすべきか、脳や遺伝に関する知識をベースにして新しい倫理や道徳を構築するしかないだろう、と述べる。そんなことが可能か? ガザニガは可能だと言う。

脳には、最低限の道徳や生命観があらかじめプログラミングされているはずだから、と。ぼくはガザニガの議論に諸手をあげて賛成だ。たぶん多くの人は、ガザニガの立場が楽観的すぎると思うだろうけれど、でもいまこれ以外の立場があるだろうか? いまの時代における新しい倫理とは何なのか、そしてそこで各種の信念体系、例えば宗教が果たすべき役割とは何なのかを考えなおすにあたり、他にどんな道があるだろう。文章も平易で、科学的な中身とその意味合いの解説が見事にバランスされたすばらしい一冊。訳も見事。

同様の問題提起を別の角度から行っているのが、中島隆信『お寺の経済学』(東洋経済新報社)。江戸時代の制度設計により葬式、お墓と檀家制度と不可分となり、それ故に堕落したお寺の現在について、各種のヒアリングや調査をもとにしつつ、簡潔な読み物として経済面からまとめた好著だ。

といっても、別にお寺経営のあれこれが並ぶ本じゃない。なんとそもそもの仏教思想の発端と展開からはじまり、各種の制度がどのようにお寺と信仰のあり方を規定してきたかを語る、実におもしろい本だ。同時に、ほとんど知られていないお寺の裏事情もわかって、のぞき見的な楽しみもいっぱいで、うんちくやトリビアのネタ元としても有用。そして最後に、今後の仏教は本当の信仰に基づいた宗教に立ち返る必要があるのではないかという主張に経済学的視点から到達してしまうのは驚くばかり。

同じ著者の『障害者の経済学』(東洋経済新報社)もすばらしい本で、心優しい(つまり軟弱な)学者や知識人がなかなか正面きって扱えないテーマを、やさしく、でも厳しく分析する珍しい本だ。『お寺』と同じ、親の愛情がかえってマイナスに働き、各種支援や優遇策が逆にかれらの自立を阻害する構造の分析は、高度な中身なのに実に明解。そしてそれが現在、何かと話題になるニートだの引きこもりだのの問題とも同根であることもきちんと指摘される。

子細は省くが、当事者でありながら当事者意識を捨てたから書けた本だ、というあとがきの一言には深い含蓄がある。でも、重いテーマにもかかわらず、実に軽く読み流せる書き方になっているのは驚く。『お寺』と同じく電車の中で楽に読めるのでおすすめ。同じシリーズの『大相撲の経済学』(東洋経済新報社)も今度読んでみよう。

あと、ここ一カ月の世界経済のビッグニュースは、ライブドアがらみの話をのぞけば(これについては別のところでいくつか駄文を書いた)、アメリカFRB議長グリーンスパンの引退と、ベン・バーナンキの就任だ。田中秀臣『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』(講談社)。かれの思想や主張、そしてかれが公然とバカにする日銀のあほさ加減、さらには今後の世界経済にとっての意味合いなどを簡潔にまとめた、世界初のバーナンキ解説本だ。短く、要点を押さえたよい本で、見識のない新聞や雑誌記事なんかとは比べものにならないレベルの高さと読みやすさ。流し読みで受け売りするにも便利。内容的に今読まずにいつ読むか、という一冊なので、古びないうちに一読しておくことを薦める。

そして最後に小説。これまたまだ二月ながら、たぶん今年出る小説として有数の水準を誇るジーン・ウルフ『デス博士の島その他の物語』(国書刊行会)。でも前回の『ロリータ』と同じくこれまた息抜きにはならない。ジーン・ウルフの小説の常として、決してわかりやすくはない。細部への気配りと十分な記憶力、ことば遊びへの感性、そして反復読みが要求される面倒な代物。さらに普通なら細部を書き込むことでリアリティは増し、作り物感が減るのに、ジーン・ウルフの場合、書けば書くほど技巧性と人工性が露骨になり、世界の閉塞感が高まるのが特徴で、本書は特にその傾向が強い。

訳者解説では、ウルフの作品は読書の海への誘いだということになるけれど、ぼくはそれはウソだと思う。表題作を読んで――特にその最後の部分のさりげない残酷さを見て――ぼくはしばらく小説というものを読む気が失せてしまった。この本は小説というものの一つの到達点と、そしてその限界を体現してしまっている。それがわかればすごいけれど、でも一方で、知らぬが仏というのは本当だなあ、と嫌みぬきで思う一冊でもある。

さて、日本に帰る頃にはまたおもしろい本が出ているかな。ではまた。


●山形浩生(やまがた・ひろお)
大手シンクタンク研究員、評論家、翻訳家。
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