担当者より:大山くまおさんは、新聞や雑誌、ネット媒体でサブカルチャーなどに関する原稿を精力的に執筆なさっているライターです。著書に『名言力』(ソフトバンク新書)があります。この原稿は、水野晴郎が亡くなってからしばらくした時期に、メジャー映画評論家の存在について論じていただいたものです。


配信日:2008/08/13


水野晴郎が亡くなって、早いもので二カ月が経つ。晩年は怪作『シベリア超特急』を作り続けるヘンなおじいちゃんとして有名だったが、30代以上の人々にとっては『水曜ロードショー』(後に『金曜ロードショー』に移行)の解説者としての顔のほうが印象深いだろう。

1972年生まれの私にとって、テレビの映画番組は非常に身近に感じられる存在だった。代表的なものを挙げると、TBS系の『月曜ロードショー』、日本テレビ系の『水曜ロードショー』、テレビ東京系の『木曜洋画劇場』、フジテレビ系の『ゴールデン洋画劇場』、そしてテレビ朝日系の『日曜洋画劇場』。私自身はほとんど記憶がないが、テレビ朝日系は土曜日にも『土曜洋画劇場』という映画枠を持っていた。

今思えば、実に多くの映画番組があったものである。そしてすべての枠に、午後9時からの2時間というテレビにとってもっとも視聴者を集める時間帯が用意されていた。これらの番組が出揃う1960年代後半から80年代にかけて、テレビにとって映画は花形プログラムだったのだ。

そのテレビでの映画放映に欠かせなかったのが、名物解説者たちである。『月曜ロードショー』の荻昌弘、『水曜ロードショー』の水野晴郎、『木曜洋画劇場』の河野基比古、『ゴールデン洋画劇場』の高島忠夫、『日曜洋画劇場』の淀川長治。彼らは本編開始前と終了後に軽妙な語り口で端的に映画の見所、作品の持つ意味合いや背景、主演俳優たちのプロフィールを語り、視聴者の関心を惹きつつ内容の理解を深めさせる、という役割を担っていた。

たとえば、荻昌弘は『ブレードランナー』を紹介するとき、『ブレードランナー』がアメリカのハードボイルド小説の作法を使っていることと、F・W・ムルナウやフリッツ・ラングらによって1920年代にドイツで作られていた怪奇映画に影響を受けていることを指摘していた。あるいは淀川長治は『荒野の用心棒』の解説で、監督のボブ・ロバートソンがセルジオ・レオーネの変名であることを楽しそうに明かし、原題『一握りのドルのために』を「ちょいと儲けたろうか」と意訳したうえで、「ちょいと儲けたろうか、と盗作したんですね」と『荒野の用心棒』が黒澤明の『用心棒』のパクリだとバラしてしまう(後に東宝にレオーネ側から挨拶があったことまでフォローしている)。また、淀川はほとんどの前解説で作品の製作年と製作国を視聴者に伝えているが、これは年代や国ごとの作品にあるムードを作品から読み取ってほしいからだと述べている。わずか数分の持ち時間で、彼らは映画の見方を伝えていた。

名物解説者たちの知名度はタレント並みに高く、淀川長治の決め台詞「さよなら、さよなら、さよなら」などは物真似されるほどの流行語になった。水野晴郎はCMにも起用されていたし、『土曜洋画劇場』で解説を務めていた元モデルで映画評論家の増田貴光はカメラをビッと指差し、「またあなたとお逢いしましょう!」と叫んでいた。これはちょっとやりすぎだと思うけど、とにかく毎週ゴールデンタイムに放映される人気番組のMCを務めているわけだから、知名度が低いわけがない。彼らの存在は“メジャー”だったのだ。

一方で、彼らは高島忠夫を除けば全員が本職の映画評論家でもあった。では、映画評論家とはいったい何か? 単に映画に詳しい人を映画評論家と呼ぶわけではない。映画評論を書き、発表していることが、ひとつの物差しとなるだろう。映画を紹介するだけなら、それはいわゆる映画ライターの仕事だ。

映画評論とは、1本の映画が生まれた背景や、監督や俳優たちの特徴、物語の組成などを読み解き、記していくことである。そして、彼らはいずれも映画専門誌に長文の評論を寄稿していた(逆にコラムみたいなのしか書いていなかった増田や『木曜洋画劇場』で河野基比古の後を引き継いだ木村奈保子などは、映画評論家と呼ぶには「?」と思われていた)。テレビの映画番組全盛時代は、同時にメジャー映画評論家、という存在を生み出していたのである。

彼らはテレビで“呼び込み”の役割を果たしていた。テレビで映画を楽しんだ視聴者は、自然に映画館にも足を運び、さらに映画について詳しく知りたくなれば『スクリーン』や『ロードショー』、そして『キネマ旬報』などの映画専門誌に手を伸ばす。そこで再び映画評論家としての彼らに出会うことになるのだ。

たとえば淀川長治は、テレビでは放映される作品にあわせてニコニコとオードリー・へプバーンやヒッチコック、ジョン・ウェインの西部劇やスピルバーグなどのメジャー作品をお茶の間に向けて語っているが、映画専門誌が舞台になると戦前から蓄積された映画知識を爆発させている。“映画の父”D・W・グリフィスを語り、ラオール・ウォルシュの男臭さを賛美し、男女の機微描くエルンスト・ルビッチを紹介し、美しい映画を作りつづけたジャン・ルノワールへの愛を記した。

もちろん、ちょっと映画が好きになったばかりの中高生にはハードルの高い内容であるが、けっして難解な文章ではない。それらの文章は、大勢の映画少年少女たちにとってのサーチライトであり、未知の映画世界を照らしていた。メジャー映画評論家たちの意識は、常に映画に興味を持つ大衆に向かっていたのである。

80年代より映画評論の世界で台頭した蓮實重彦は、その意味で“メジャー”ではない。逆に、映画番組の解説を務めてはいなくても、淀川や水野らと同時代に活躍した“おばちゃま”こと小森和子や「ぼくの採点表」で知られている双葉十三郎らはメジャー映画評論家と呼んでいいと思う。

つまるところ、メジャー映画評論家たちが活躍した60年代から80年代、90年代は洋画の時代だったと言うことができるだろう。洋画が大衆化した時代、と言ったほうが正確かもしれない。『ローハイド』や『逃亡者』など60年代前半に大ヒットした外国テレビドラマで日本人は洋画的なものに親しみを持ち、その後、老若男女誰でもがハリウッドやイタリアやフランス産の西部劇やメロドラマ、アクション映画に夢中になっていった。映画と大衆の橋渡し役になっていたのがメジャー映画評論家たちである。

しかし、荻昌弘、河野基比古、淀川長治と物故し、水野晴郎も亡くなった。小森和子も今はいない。彼らがいなくなったと同時に、メジャー映画評論家という存在も姿を消した。それは彼らのような資質を持った者がいなくなっただけではない。映画の楽しみ方そのものが変わってしまったのだ。

現在では、映画(特に洋画)について何かを知りながら楽しむこと、得た知識を語ることで楽しむことはマニアックな趣味になってしまった。難解さを排した映画評論を書き続ける町山智浩が映画オタクたちから愛されているのは、こうした映画の楽しみ方がマニアックなものになっていることを端的に示している。

もっと極端な例え方をすれば、今の映画は電車のようなものだ。電車にまつわる何かを知って楽しむことは“鉄オタ”たちのマニアックな喜びであり、一般の人々にとって電車は乗るものである。映画も同じく、一般の人々にとってはただ単に“観るもの”になってしまった。だから登場する俳優のプロフィールがあらかじめわかっている邦画がヒットし、物語や背景についての詳しい解説が不要なテレビドラマの映画版が好まれるのだ。
一方、ヒットする洋画は昔の大ヒット映画の続編が多い。ハリソン・フォードやインディ・ジョーンズについて、詳しい解説は不要である。

「いやぁ、映画って本当にいいものですね」とは水野晴郎の決め台詞だが、この言葉をもう一度、人々の心に染み渡らせるには、メディアと語り手のそれ相応の努力が必要だろう。だけど、このままってのは、ちょっと寂しい。


●大山くまお(おおやま・くまお)
ライター。
著書に『名言力』(ソフトバンク新書)がある。
ブログ:くまお白書