担当者より:コラムニストの小田嶋隆さんは、毒を含んだ軽妙なコラムには多くのファンがいます。最近は、複数の著者による『雅子さま論争』(新書y)にも寄稿なさっています。この原稿は小向美奈子がストリップに出るということでマスコミが盛り上がっていた時のものです。

配信日:2009/07/15


小向美奈子というタレントを私は知らなかった。名前を聞いたのも、例の覚せい剤の事件で捕まった時がはじめてだ。

顔は、その事件の報道の折りに、ブラウザ越しに瞥見したのみ。
「ずいぶん老けた24歳だな」という、それ以上の感慨はなかった。それでお終い。サバを読んでいるのかもしれない。あるいはマグロを読んでいるのか、カツオなのかアオザメなのか。どっちでもよろしい。いずれにしても、私の側からは、まったく興味はない。

多くの読者諸兄も同じだと思う。普通に暮らしているオレらパンピーが、当たり前に暮らしている日常の生活の中で、彼女みたいなタレントの存在を知る機会は、ほとんどないはずだ。換言すれば、小向美奈子は、それほどに無名だったわけだ。犯罪被害者名称以外では。

それが、この2週間ぐらいのうちに、一気に有名になった。なぜかと言えば、ストリップに出演したからだ。いまどきストリップみたいなマイナー娯楽が、若いタレントの知名度アップに役立つのか?

いや、もちろん、一般人がストリップを見に行ったのではない。ストリップに興味津々な紳士が日本中に溢れているわけでもない。朝夕のワイドショーを筆頭に多くの媒体が、連日連夜、小向美奈子嬢のストリップ出演騒動をこれでもかとばかりに執拗に報道したから、善良な一般人たるわれわれとしても、イヤでもその名前を覚えないわけにはいかなかった、という次第。それだけのことだ。

それほど、この度のストリップ報道はしつこかった。「浅草は大騒ぎです」と、リポーターは言っていた。確かに、普段とは桁違いの数の観客が訪れていたようではある。

が、それにしたって、しょせんはストリップの客筋だ。風前の灯のマイナー娯楽に、好き者のマニアが列を作ったというだけ。屁みたいなものだ。とてもじゃないが、浅草中に人があふれかえったわけはない。

っていうか、浅草全体の人出からすれば、ストリップに行列した人間なんて、物の数にもならない。なのに、メディアは騒いだ。まあ、それほど芸能マスコミのネタ涸れは深刻だ、と、そういうことなのであろうな。

実際、アイドルの交際や女優の結婚話に、人々はもはやさしたる興味を抱かない。で、芸能リポーターは、滅亡しつつある。和文タイプの職人みたいな調子で。あるいは、和式便所の製造業者ぐらいな右肩下がりの直線で。

ミュージシャンもスポーツ選手も、結婚や離婚をファックス経由で発表してそれで一件落着にする。芸能人の妊娠や出産にしても、ブログで発表されてしまえば、芸能マスコミは動きようがない。

と、残るは出来レースのプロモ情報だけだ。映画の試写会や、ファッションブランドの新作発表会や、新クールのドラマのキャスティングお披露目記者会見。あるいは、パチンコの新台発表イベントみたいな、見ているこっちがはずかしくなるみたいなモロなひも付きの場所で、これまたゴムひも付きのパペットじみた芸能人が、かねて仕込み済みの取って付けた熱愛ゴシップをしゃべるのが精一杯。

で、そのタイアップのクズネタさえもが、「めざまし」の軽部の自家薬籠中の管轄になっている。本当のドン詰まりの末期症状。もはや芸能ジャーナリズムだなんていう言葉は、タイプして打つのさえ指の汚れである。

そう。芸能は死んだ。マエチュウはジャニのお庭番みたいなことになっているし、ナシモトはナシモトで、自分をネタにしないと記事が書けなくなっている。

というわけで、芸能ネタについてはこれ以上書かない。小向某についても同様。第一、書くべき内容が無い。あまりにも小物過ぎて。なので、以下、ストリップについて書く。

ストリップおよび、エロの変遷とその将来について。題名をつけるとすれば、だが。

ストリップという言葉がメジャーなメディアの電波に乗っかったこと自体、久しぶりだったはずだ。今回、無名の執行猶予タレントがストリップに出演したことが、これほど大きく報じられたことについて、さきほど、私は、その原因として「芸能マスコミのネタ涸れ」を挙げた。

理由の第一は、その通り、「ネタ涸れ」だと思う。でも、それだけではない。本件に関しては、芸能マスコミの高齢化が、少なからずあずかっている。私はそう思う。

というのも、30歳より年少の人間にとって、「ストリップ」は、「大阪万博」とか「石原裕次郎」みたいな、遠い昔の風俗に関する単語で、特に興味を引く言葉ではないはずだからだ。

彼らにとって、「ストリップ」は、セクシーな言葉でさえないと思う。多くの現代人にとって、「お歯黒」がエレガントでないのと同じように。

事実、私にとってさえ、「ストリップ」は、ほどんどセクシーな感慨を呼ばない。甘酸っぱい思春期の思い出という意味では、性的な匂いを放っていなくもないが、実質的にセクシーであるのか否かと問われれば、勘弁してくれとしかお答えの申し上げようがない。

でも、芸能マスコミを動かしている50歳以上のおっさんたちにとって、ストリップは、なんだか闇雲になつかしくて心躍る単語だった。で、それが彼らのトリガーになった。なあここは一番、大勢で一緒に騒ごうぜ、という。

「おい、ストリップだぞ」
「おお、ストリップだ」
と、なんだか、ハメを外したくなるわけですよ。おっさんたちとしては。わくわくと。

ストリップは、その昔、数少ない「ネタ」の一つだった。女が人前で裸になるという、その言葉の持っているけしからぬイメージが、無垢な子どもたちの妄想を刺激していた時代が確かにあった。私もよくおぼえている。

「ストリップショオ」と、親に買って貰った明解の国語辞典のその項目に、ある日気がつくと、友だちが赤鉛筆で線を引っ張っている。そういうキマリになっていたのだ。男の子の辞書のそういう単語は、なぜか赤いマルで囲ってあったり、それをまた黒いマジックが塗りつぶしていたりして、なんともやっかいなことになっていたのである。

で、私は、「女性の踊り子が、音楽に合わせて踊りながら、衣装を一枚ずつ脱ぎ捨ててゆき裸になる見せ物」という、解説欄の文字を見る度に、非常に恥ずかしい気持ちになったものだった。

さて、ストリップという文字に顔を赤らめていた少年も、中学校を出る頃には、もう少し実質的なエロを見つけるようになる。いくらネタが少ないとはいえ、「母親の読んでいた婦人の友の下着広告ページが唯一のエッチな画像でした」というのは、私より十年年長の人間の述懐であって、われわれの時代には、既に回し読みの『プレイボーイ』があった。河川敷のゴミ捨て場には、そのものズバリのエロ本が落ちてもいた。拾って帰る勇気は無かったが。

ともあれ、ストリップショーは、エロ世界の頂点に輝いていた。ピンク映画とストリップショー。オトナになったら、いつか行ってみたい場所。そういう意味で、ストリップショーは、私の世代の男の子にとって、フォードのムスタングや、カリフォルニアのディズニーランドや、ガラパゴスのサボテンの森と同列の、夢の一部だった。

で、高校生になると、実際に行くバカが出てくる。
「おい、オレは渋谷のOS劇場にいったぞ」と、自慢する連中。
ガサツで直情的で助平な、そういう同級生たち。わたしたちも、そう遠くない場所にいた。いずれにしても、エロは、教室のど真ん中にあった。つまり、公共の場所に、だ。

現代と違っているのは、距離感だ。エロと、その消費者との。昭和の時代、エロは、公共に属していた。無論、私的なエロが無かったわけではない。というよりも、そもそもエロは人類にとって、本来的に私的なものだ。が、エロ資源が稀少であった昭和の時代、エロは、多人数によって消費されねばならなかったのである。

一人の女の裸を、数十人から百数十人の男が眺めないと、脱ぐ女との対比上、計算が成立しなかった。だから、わたくしども昭和の男たちは、裸や、エロ写真や、エロ映画やストリップを、「大勢の男たち」で共有するためのシステムを持っていた。

それゆえ、ストリップのエロスは、女性が裸になることそれ自体よりも、彼女の裸が、大勢の男たちの目の前に見世物として供されているというその状況のうちに内在していたのである。

だからこそ、仲間内でストリップになだれ込むこと、連れ立ってソープ(「トルコ風呂」と呼ばれていた)におもむくこと、集まったついでにピンサロに繰り込むこと……こうした、「連れエロ」が、友情を深めるという困った誤解が、オレらの世代のアタマの中には牢固として宿っている。

そう。オレも行った。越後湯沢にスキー旅行に出かけた時のことだ。われわれは、着いたその日の夜、観光ストリップの小屋にくり出した。

詳細については書きたくない。踊り子さんを中傷するのも気がひけるし、自らのバカさを宣伝するのも気がすすまないから。それに、小屋の経営者を罵倒したところで、払ったカネが返ってくるわけでもない。汚れっちまった2500円は、たとえばキツネのかわごろも。小雪のかかってちぢこまる。時間は返ってこない。思い出も。

ともかく、そうしたあれこれのおかげで、ティーンエイジャーは性生活の第一歩を、暗いトラウマとともに歩み始める。で、オレらの世代の者たちは、どうかすると青春のスターティングガンは、そういうふうに、暗い予兆の中で撃たれるべきものだという信念を抱いていたりするわけだ。救いようのないことに。

もちろん、そんな信念には、何の根拠もない。くだらないだけだ。が、男というのは、自分が若い頃に体験した愚にもつかないあれこれを、何かの拍子に神聖視しがちなもので……というよりも、自分が経験していないことについては、そもそもイメージが湧かない。それだけの話なのだ。

で、「いまどきのガキはストリップも行ったことがないのか」みたいな、言わずもがなの自慢話をしてセクハラオヤジ認定をされている哀れな同級生を一人私は知っている。哀れな男だと思う。

だから、私は、以下に述べることを、絶対化しようとは思っていない。昔が良かったというつもりもない。ただ、人間というものは、自分が経験した順序と枠組みでしかセックスを既定できないようにできている。だから、現代のエロには、やっぱり冷ややかなのである。

現在、インターネットを手にした若い連中は、瞬時に、秘密裡に、大量のエロネタを、ノーリスクで入手することができる。それも、鮮明かつ具体的なブツを。かててくわえて、彼らは、あらゆるシチュエーションにおけるすべてのバリエーションを網羅した、あらん限りのパーツについての考え得ることごとくのあれこれを、くまなく、根こそぎに、あまねく、舐めるように念入りに、コレクションすることができる。しかも無料で、だ。

うらやましい。が、彼らのようでありたいとはやっぱり思わない。エロは、遠くにありて思うもの、と、そういうふうにわれわれは条件づけられている。

おそらく、この先、エロは、どこまでも私的になる。仲間と共有する必要もないし、まして、大勢で繰り込む理由なんてどこにもありゃしないからだ。

と、彼らのエロは、われわれが踏み外したのとは、別の意味で、違った方向に向けて道を踏み誤って行くはずだ。

われわれの時代の性犯罪者は、あるいは露出し、青空の下でやらかし、さらに救いようのない連中は輪姦に手を染めたりした。今後、この種の犯罪は減少するはずだ。

というのも、21世紀の性犯罪者にとっては、セックスの可否や同意の有無を超えて、人前で脱いだり、大勢でやらかすということが、そもそも想定不能であるような気がするから。

と、彼らは、何をするのだろうか? 見当もつかない――と、言っておくことにする。
 
ともあれ、この度のストリップ騒動は、おやじがはしゃいだということ以上の意味はない。若い人たちには迷惑だったと思う。同世代のバカに代わってお詫びをしておく。

キミらはキミらのエロを追及してくれ。
自由で淋しいエロを。


●小田嶋隆(おだじま・たかし)
コラムニスト。
著書に『テレビ標本箱』『テレビ救急箱』(ともに中公新書ラクレ)、『サッカーの上の雲』『1984年のビーンボール』(ともに駒草出版)など多数。
共著に『人生2割がちょうどいい』(講談社)ほかがある。
ブログ:偉愚庵亭憮録