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紙屋高雪「ドラえもんの革命、マルクスの革命」

担当者より:紙屋高雪さんがドラえもんとマルクスをクロスさせて論じた原稿です。文中にある「ぼくはマルクスの『資本論』を漫画(劇画)で出版する企画」は、『理論劇画 マルクス資本論』(かもがわ出版)として刊行されました。そちらも併せてご一読ください。

配信日:2009/03/04


「ドラえもんの道具で欲しいものは何?」という問いかけを小さい頃、一度くらいはしたことがあるだろう。

ぼくはいつも「もしもボックス」だと答えていた。「もしも……だったら」と、その電話ボックスに入って電話すると、その仮定どおりの世界が実現するという道具である。なぜこの道具がほしいかというと、これがあれば「もしもぼくがタイムマシンを持っていたら」とか「もしもぼくがどこでもドアを持っていたら」といったように、どんな道具でも出せるからである。

まあ、そんな賢しらなガキの話はどうでもいい。 この「もしもボックス」は、そんな思い出話のためにあるのではなくて、藤子・F・不二雄(以下「F」と略す)のSF的世界観を最も濃縮して表現している道具だといえるのだ。「もしもボックス」は『ドラえもん』中で何度も登場する道具だが、ぼくが一番印象に残っているのは、15巻(小学館てんとう虫コミックス)に登場する「あやとり世界」での使用だ。

のび太の取り柄は、あやとりしかない。勉強でもスポーツでも圧倒的劣位におかれている彼は、スクールカーストの最下層の存在だ。多くの同級生から蔑まれ、あるいは無視されるのび太にとって、日常世界は承認を得られぬ不満だらけの世界である。

そこで、のび太は「もしもボックス」を使って、あやとりの能力こそが学校での尊敬度はもちろん、将来の社会的地位までも約束するという世界に変えてしまうのである。ちょうど「偏差値」のかわりに「あやとり能力」をもってくるようなものだ。

のび太がまるで事のついでのようにその華麗なあやとりを街角で演じてみせると、衆人は瞠目するのである。あるいは、その世界にはあやとりのプロがスポーツ選手のように存在し、そこでの成功者は莫大な収入を得ている。そして、のび太はそこからスカウトされるまでになるのである。

「あやとり世界」では、ふだんの『ドラえもん』のエピソードにはないくらい濃密に、この価値の転倒を描いていく。学校制度における「偏差値」で編成されたヒエラルキーを一度転覆させてみたいという、ぼくらの世代の顕在的・潜在的欲求に対して鮮やかに応えるとともに、偏差値序列の世界というものは、客観的に見るとどういうものなのかということを逆にあぶり出してもいる。

さらにこの作品のオチは、「手がゴムまり」だからあやとりができないドラえもんは自尊心を傷つけられ、激高したドラえもんによって元の世界に戻されてしまうというもので、なかなか笑える。

FのSFは、社会的価値を転倒・逆転させるものに優れたものが多いとぼくは思う。短編『気楽に殺ろうよ』はその白眉である。そこでは、性欲が公然化され、食欲が隠蔽される。そして殺人が公認されているのだ。

日常に当たり前に存在するものが社会的価値の転倒によってまったく別のものになってしまうという爽快感は、まさに革命が果たす仕事そのものである。革命はそれまで価値のあったものを無価値に変え、逆に無価値のものを価値あるものに変える。

レーニンはかつて、次のように述べた。「われわれが世界的規模で勝利したあかつきには、われわれは世界のもっとも大きないくつかの都市の街頭に金の共同便所をつくることになろうとおもわれる」(全集33巻、104ページ)。

ここでいう金とは無論goldのことだ。この「金の公衆便所」論はわりと有名で、ネットでも紹介している人がいるようなのだが、どうもレーニンが労働者階級へ過剰なサービスをした話だと思っている人もいる。しかし、そうではない。

これは、社会主義では労働配分を計画によって行うことになるので、商品交換(市場)が盲目的な調整作用によってそれを行う必要はなくなり、商品が廃止され、貨幣もまたなくなり、金(gold)は不要になる、という革命観にもとづいているのだ。

金が要らなくなった社会では、そんなもののために多くの人が苦しめられてきた歴史の記念碑として便所の材料にでもしてやろうじゃないかというレーニンの皮肉である(政治的公正さのために付け加えておくと、ぼくは商品や貨幣の廃止を社会主義に必然的なものだとは思っていない)。

現在、ぼくはマルクスの『資本論』を漫画(劇画)で出版する企画にかかわっている。だから、いま『資本論』に首っ引きなのだが、それを読んでいると、ぼくらが日常当たり前に目の当たりにしている商品だの貨幣だの資本だの賃金だのという存在が、いかに歴史的に特殊なものかを嫌というほど思い知らされる。

とくに他の時代の経済体制と資本主義経済との比較をしばしばマルクスは『資本論』で行う。そのとき、読者であるぼくらは、社会的に当たり前だと思っている価値を軽々と転倒させられ、商品だの貨幣だの資本だの賃金だのという「日用品」とは別の世界のことを想像させられてしまうのだ。

20世紀初頭のロシアにおいては第一級の「マルクス読み」であったレーニンは、そこからイメージを発展させて「金の公衆便所」なんていうことを考え出したのだろうと思う。この爽快感は、FのSFを読んだときの爽快感に通じるものがある。空想によってたどり着いた感覚と、社会科学にとってたどり着く結論が似通うのは面白い現象だ。

レーニンは、アリストテレスの『形而上学』についてのノートを作っているが、そのノートに次のように書き付けている。「もっとも厳密な科学においてさえ、空想の役割を否定することはばかげている」(全集38巻、338ページ)。思考を飛躍させる力こそが、卑俗な日常から精神を解き放つことができるのである。


●紙屋高雪(かみや・こうせつ)
紙屋研究所所長。
著書に『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』(築地書館)がある。
また、『理論劇画 マルクス資本論』(かもがわ出版)では、構成・解説を担当した。
サイト:紙屋研究所

成馬零一「2010年の坂本龍馬に日本人は何を見るか?」

担当者より:ライター・ドラマ評論家の成馬零一さんが、2010年3月に大河ドラマ『龍馬伝』を中心に論じた原稿です。成馬さんは、著書『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島新書)で多くのドラマを論じていますので、ご関心のある向きはそちらもぜひ。

配信日:2010/03/03


ゼロ年代以降、テレビドラマの評価を視聴率で計るのは難しくなっている。低視聴率でも後にDVD-BOXが売れた後に映画化され、レンタルや再放送で末永く愛されている『木更津キャッツアイ』(〇二年)のような長期的に愛されるブランド型の人気作が増えている一方で、メディアの多様化により、リアルタイムで高視聴率を獲得し、みんなが話題にするようなドラマは年々減ってきている。以前なら10%を切った時点で打ち切られていたものも多かったのだが、現在は放送されている半数以上の作品が10%以下という異常事態だ。だからこそ、NHK大河ドラマ『龍馬伝』の平均視聴率20%以上という現在の状況は快挙だと言える。

『龍馬伝』は三菱財閥の創設者である岩崎弥太郎の視点から、坂本龍馬を描いた物語だ。主人公の龍馬を演じるのは福山雅治。脚本は『ガリレオ』(〇七年)で福山と組んだ福田靖。チーフ演出には『ハゲタカ』(〇七年)の大友啓史が参加している。高い評価を得た『ハゲタカ』の作り込まれた画面作りは『龍馬伝』でも健在で、プログレッシブカメラで撮影された泥と埃にまみれた土佐の風景は、近年のフラットな絵作りの大河には無い迫力だ。

そして女性人気が高い福山雅治を看板として、普段大河ドラマを見ない若い女性層を引き込み、作品自体の強度は、香川照之、大森南朋、寺島しのぶ、貫地谷しほりといった実力派の俳優で支える。これは『ガリレオ』の映画版『容疑者Xの献身』(〇八年)において展開された戦略であり、その意味において、大河ドラマとしてはもちろん、ここ数年のテレビドラマにおけるヒットのセオリーが総動員されている隙のない布陣だと言える。

民放でも龍馬を特集した番組が多く放送され、本屋にも『龍馬伝』ヒットに便乗した龍馬や幕末の本が多く並んでいる状況は、龍馬ブーム、幕末ブームと言っても過言ではない。しかし『大河ドラマ入門』(光文社新書)の著者・小谷野敦は幕末が舞台の大河ドラマは「一般大衆には複雑すぎるのか、あまりヒットしないそうだ(P27)」と書いている。

確かに歴代大河の中で人気があるのは『独眼流正宗』(八七年)などの戦国もので、幕末を舞台とした『龍馬がゆく』(六八年)は平均14.5%と、当時としては低調な視聴率で終っている。ではなぜ、近年の大河は幕末ブームなのか?

おそらく、流れが変わったのは『新選組!』(〇四年)からであろう。『新選組!』は『古畑任三郎』シリーズで知られる劇作家・三谷幸喜が脚本を書いた、新撰組局長・近藤勇を主人公とした物語だ。SMAPの香取慎吾や山本耕史、藤原竜也、オダギリジョーなどの若手俳優を大胆に起用し、幕末を舞台とした青春群像劇として描かれた本作は、平均視聴率こそ17.4%と、他の大河に比べ、突出したものではなかったが、熱狂的なファンも獲得し、今もアマゾンのドラマDVD-BOXランキングに名前がある息の長い人気番組として定着し、〇六年には続編にあたる『新撰組!! 土方歳三 最期の一日』も制作された。これは冒頭に書いたブランド型の支持を『新撰組!』が受けたということを意味する。

そして、幕末ブームを決定的にしたのが、宮尾登美子の小説『天璋院篤姫』(講談社文庫)を原作とした〇八年の『篤姫』だ。徳川家定の正室の御台所として徳川家と大奥を守り、大政奉還実現のため歴史の影で動いた篤姫の生涯を追った本作は、主演の篤姫を宮崎あおいが演じ、平均視聴率24.5%を獲得。全国でおこなわれた篤姫展には十代から六十代まで幅広い年齢層の視聴者が押し寄せた。

その意味で、『龍馬伝』の人気は一朝一夕のものでなく、昨年、TBS系列で放送され話題となった脳外科医の南方仁が、幕末の江戸にタイムスリップして活躍するSF時代劇『JIN-仁-』(〇九年)のヒットも含めた数々の積み重ねによって「幕末ブランド」が確立されたからだと言える。

また、幕末ものは一種の「シェアワールド」として視聴者に支持されているのではないかとも考えられる。シェアワールドとは、同一の時間軸、世界観の中で、違う登場人物の物語を次々と展開していく物語で、H・P・ラヴクラフトのホラー小説の世界観を元に他の作家によって書かれたクトゥルフ神話や、『機動戦士ガンダム』などのオタク系コンテンツで用いられているアイデアだ。

『新撰組!』『篤姫』『JIN-仁-』『龍馬伝』は直接的には制作スタッフもバラバラで、無関係の物語だが、幕末という同じ時間軸を舞台とし、どの作品にも坂本龍馬が重要な人物として登場する。そのため、続けて見ていると同じ物語を、違う視点から描かれた続編を見ているような錯覚を起こし、いつしか幕末という世界観に慣れ親しんでしまう。その意味で若い視聴者が順番に楽しむうちに、幕末という世界観を学習していったのではないかと考えられる。

そしてもう一つヒントとなるのが、先に触れた『大河ドラマ入門』での小谷野による「近年の大河は江戸びいき(P127)」という指摘だ。確かに幕末を舞台としていながらも『新撰組!』と『篤姫』は、滅びゆく徳川幕府の視点から見た幕末モノとなっている。

『JIN-仁-』のキャッチコピーも「誰もが笑った 輝いた あの江戸へ」であった。一般的な幕末のイメージは、封建的で不自由な徳川の世が終り、新しい時代へ向う前向きなものだろう。だがそれは逆から見れば、平和な江戸時代が黒船という外国の脅威によって無理やり国際化され、武家社会の伝統が崩壊の危機に瀕している時代とも言える。その意味で、現在支持されているのは後者の幕末観ではないだろうか。

小説や評論における幅広い活躍で知られる作家・橋本治は八六年に刊行した『完本チャンバラ時代劇講座』(徳間書店)の中で、今の時代劇は明治時代に流行った講談や剣豪小説から生まれたものであり、過ぎ去った江戸時代を惜しむノスタルジーに支えられていたと指摘し、日本人は開国して欧米列強の仲間入りをするという近代化を受け入れる一方で、時代劇の中の江戸時代を懐かしみ、物語という形で愛好してきたのだと分析している。橋本の解釈にならうならば、当時の幕末と似た気分が、現在の日本を覆っていると考えられはしないだろうか?

現在の龍馬像を決定づけた小説に、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』(文春文庫)がある。実は今回、はじめて本作に触れたのだが、明るく壮快な竜馬の物語に引き込まれる一方で、竜馬の語る理想(能力のある人間なら誰もが政治に参加できる世の中を作りたい。世界中を船で回って商売したい)に対して、なんとも歯がゆい気持ちとなった。

本作で竜馬を通して司馬が語る理想は、戦後民主主義と資本主義そのものであり、今でいうグローバリズムの概念そのものだ。だが我々は、自由で機会が平等に与えられた実力主義の世の中だからこそ、格差や戦争が横行している現在を、嫌という程知っている。その意味で司馬が描いた“竜馬像”は、ある部分の賞味期限が切れていると言える。それを考慮してか、脚本家の福田靖は『龍馬伝』HPのインタビューで、『竜馬がゆく』とは違う「普通の好青年としての龍馬を描く」と語っている。

あくまで第9回終了時点における印象だが、福山雅治演じる龍馬は、おそらく今までで一番頼りない龍馬だ。いつも迷い、喧嘩の仲裁役ばかりしているお人好しの男だ。しかし、そんな人間味のある部分が、福山/龍馬では丹念に描かれており、確かに作り手の「まず根源に立ち返ろう」という意志が感じられる。

もう一つ重要なのは、第1回から執拗に描写される、土佐藩における上士と下士の間に横たわる理不尽な身分差別だ。その重苦しい描写は、視聴者が漠然と抱いていた平和な江戸時代像を覆している。その意味で『龍馬伝』は階級闘争の物語であり、自由な世界で苦しむ私達に、果たして過去の日本は本当に幸せだったのかと再度、問いかけてくる。

最後に『龍馬伝』冒頭からも明らかなように、龍馬の名が一般に知られるようになったのは、その死後においてだ。明治十六年、自由民権運動家だった坂崎紫瀾は、高知で発行されていた「土陽新聞」の中で、新聞小説「汗血千里駒」を連載した。この小説で自由民権運動のシンボルとして始めて坂本龍馬は描かれ、広く知られるようになった。

次に龍馬ブームが起こったのは日露戦争の時だ。日本とロシアの開戦前夜、明治天皇妃である昭憲皇后の夢枕に坂本龍馬が立ち、「日本海軍の勝利」を語ったという話が新聞で広まり、海軍の守護神として、空前の龍馬ブームが起こった。そして戦後には、司馬遼太郎が書いた歴史小説『竜馬がゆく』が国民的小説として大ヒットし、今の龍馬像を作り上げた。CMや金八先生の影響で、武田鉄矢=坂本龍馬とイメージする人も多いだろう。

その意味で大衆が求める龍馬像は、時代ごとに大きく変化しており、日本人は龍馬の中にある謎の部分に自身の願いや希望を投影し、その時々における理想像を語ってきたと言える。

司馬遼太郎は『竜馬がゆく』一巻のあとがきで「竜馬は、生きている。われわれの歴史のあるかぎり、竜馬は生きつづけるだろう」と語っている。混迷する二〇一〇年。『龍馬伝』がどのような龍馬象を提示するのか楽しみだ。


●成馬零一(なりま・れいいち)
ライター、ドラマ評論家。
著書に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、共著に『クリティカル・ゼロ コードギアス反逆のルルーシュ』(樹想社)、『発掘 幕末の陰謀』(徳間書店)、『音楽誌が書かないJポップ批評』シリーズ(宝島社)などに執筆。
ブログ:はて☆なりま

鈴木茂「音楽を聴くことと語ること」

担当者より:2007年にアルテスパブリッシングの鈴木茂さんに音楽を論じることに関して書いていただいた原稿です。2007年はアルテスパブリッシング創業の年でもありました。また、鈴木さんが最近担当したアルテスパブリッシングの書籍には、高橋健太郎『ポップミュージックのゆくえ』や宮脇俊文/細川周平/マイク・モラスキー編著『ニュージャズスタディーズ』などがあります。こちらも併せてぜひお読みください。

配信日:2007/09/12


20年ほど音楽だけを対象にした書物を作り続けてきて、音楽を言葉で表現するってどういうことなのか? どうすればそれは可能なのか、そもそも可能なのか? を、あくまで聴き手の側からずっと考え続けているのだけど、結論めいたものは当然あるわけもなく、なにかヒントでも得られることを願ってとにかく書きはじめてみよう。

この7月、音楽評論家・吉田秀和との対談の中で、作家の堀江敏幸がこんなふうに吉田の評論を讃えていたのがちょっと気になった(『考える人』No.21)。

「吉田さんの文章には、相撲から借りた比喩ですとか、いろいろなジャンルの言葉がうまく交わりあった新しい比喩表現がある。それが読者を魅了する秘密のひとつだと思うんです」

それを受けて吉田が「批評というのは、考えたことを一言で言う、そういう努力をしなければいけないと思いますね」と返す。90歳を越えてなおバリバリの現役として書き続けている吉田秀和の耳の鋭さと筆の確かさには恐れ入るばかりだけど、吉田秀和のすごさは、「比喩がうまい」ってところに落ちついちゃうんだろうか?

そういえばなるほど、この対談が流されたNHKの吉田秀和特集番組でも、カラヤンの《田園》を評しての「いわばアウトバーンを快速で走る自動車の中で走った花」「すぐれたカメラのような目」、ルービンシュタインのサン・サーンス演奏への「この曲を金魚みたいなはなやかなのびやかさとゆとりを持って料理する」といった吉田の文章の一節を紹介していたな。

このふたつの評が書かれたのは数十年前のことだろうから、今となってはかなり古びてはいるけど、でも音楽を語るときって比喩がうまいとけっこう読ませることができちゃうのも確かではある。

比喩のうまさといったら、たとえば村上春樹が音楽を語った文章も思い浮かぶ。シューベルトからスガシカオまでを扱った音楽論集『意味がなければスイングはない』(文藝春秋)をパッと開いてみるとこんな具合。

「レストランにたとえていえば、ひとつひとつの料理の質は決して悪くないのだが、料理と料理の組み合わせに問題があって、それぞれの味をうち消しあってしまっている」「自然で強靱な文体を持った誠実なマイナー・ポエト」……

これはジャズ・ピアニストのシダー・ウォルトンを書いたもので、他にも「クリスプ」「オムニアス」といった、さりげなく挟み込まれる英語の形容詞も効いている。通して読むと、要所要所でのちょっとした表現のうまさが強く印象に残るんだなあ。これほど滑らかな文章で説得力を持って音楽や音楽体験を描ける人はそうそういませんよね。

と言いつつじつは、村上春樹が使っている言葉の大半はごく一般的なものばかりで、普通の言葉でもちゃんと使いこなせばこれだけのものが書ける、という良いお手本でもあるように思う。真似しようと思って簡単にできるくらいなら、第二第三の村上春樹はとっくに現れてるわけだけど。

もうひとつ、つい先日感心させられたばかりなのが分子生物学者・福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)。とりわけすばらしいのが、動的な平衡としての生物を「波打ち際に立てられた砂の城」に例えた下りだ。砂の城が立体的な像としてあらかじめ頭にくっきり刻み込まれ、専門用語が込み入ってくるそのあとの解説がじつにすんなり飲み込める。この比喩がなぜかくも効果的なのかと考えてみると、比喩としての砂の城のシステム(構造)が、生物のそれと本質的に同じものだからだろう。

なるほど、構造ね。ということは音楽でも同じように、楽曲や演奏の構造を、聞いたことのない人や音楽理論の素人にも分かるような巧みな比喩を用いて説明できれば、これはかなり質の高い言語化として機能するんじゃないだろうか? じっさい吉田秀和は小澤征爾を教育したほどの専門家だから音楽の構造には精通している人だし、村上春樹だって簡潔ではあるけど専門用語を駆使した音楽的な分析も随所で披露している。

ところが、映画や演劇や文学などと比べても、音楽ほどいま何が起きてるのかを言葉で説明しづらい表現はない。目の前で鳴っている音を描写しようと試みて、たとえば楽器の種類や奏法、音色、あるいはコード進行やメロディ、転調、リズムなどなどを説明しようとするほど専門用語が増えていき、素人は置いてきぼりを食らうことになる。といって自分のからだや心に生じた変化の側から描こうとすれば、音そのものからは離れて言葉は抽象的にならざるをえない。

そもそも音楽を構成する要素は瞬間瞬間を細かく切り取っていけば無限に存在するわけだから、そこからその音楽のもっとも本質的な要素を選び出して取り出すことのできるすぐれた〈耳〉が必要になってくる。つまりは、筆力以前に音楽を聴く力そのものの質が問われるということか。なんだか当たり前の話に戻ってきちゃったけど、吉田秀和にしても村上春樹にしても、「この人は音楽を良くわかってるなあ!」としばしば思わせてくれるからこそ、信頼もするわけだし。

じゃあじゃあ、その耳の良し悪しをお前はどうやって判断してるんだ? ていうかお前に判断できるわけ? と突っ込まれちゃうと、まったくのアマチュアとしてはちょっと微妙なところなんだけど、彼らが音楽を分析していくその手つきや、ある重要なポイントを選びだす判断とか、もっと素朴にいえば、音楽から得られる身体が震えるような感動や歓喜や官能を書き手が知っているかどうか、そこを感じ取っているんだと思う。

そう、音楽はそんなふうに聴き手の意識を飛び越して身体の奥深くに直接訴えかけてくるものなのだ。聞いているうちになぜだか知らず滂沱の涙が止まらなくなったり、全身に鳥肌が立ちまくったり、興奮のあまり我を忘れて大声を上げたり。そんな神秘的ともいえる体験を、煎じ詰めれば空気の振動でしかない音楽が、音楽だけが、もたらしてくれるのはいったいなぜなのか? ぼくがすでに30年近くも音楽を語った文章を読み続けているのは、その答えを知りたいからだ。いつかだれかが音楽の秘密を解き明かしてくれるんじゃないか、と期待しているからだ。

その望みが叶うことはまずありえないとは思う。だが、それも分かっているからこそ、なおさらいっそう聴いては読み、聴いては語り、そしてまた聴き、をぼくらは永遠に繰り返していくにちがいない。


●鈴木茂(すずき・しげる)
アルテスパブリッシング代表取締役。
音楽之友社勤務、フリー編集者を経て、〈音楽を愛する人のための出版社〉アルテスパブリッシングを立ち上げ、現在に至る。
サイト:アルテスパブリッシング
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