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五十嵐太郎「ヤンキー論のこれまでとこれから」

担当者より:建築批評家の五十嵐太郎さんが、2009年に『ヤンキー文化論序説』(河出書房新社)を上梓された直後、その内容などについて綴った一文です。五十嵐さんの最新刊『被災地を歩きながら考えたこと』(みすず書房)などとご一緒にぜひお読みください。また、五十嵐さんは、人気ラジオ番組『文化系トークラジオ Life』「何のためのアーカイブ?」の回にもご出演されたばかり。その様子はPodcastでも聴けます。『文化系トークラジオ Life』そのものについては、仕掛け人である長谷川裕さんのコラムもご一読のほど。

配信日:2009/04/08


今年の3月、筆者が編者となって、『ヤンキー文化論序説』(河出書房新社)を刊行した。これは、オタク論はだいぶ増えたが、サイレント・マジョリティというべきヤンキーをめぐる議論がほとんど存在していないのではないかとの疑問から企画した本である。

数年前から本格的なヤンキー文化論を書けば、すぐに論壇にデビューできると、人文系の院生に会うたび、言ってきたのだが、誰もそれを引き受けることがなく、結局、筆者が自ら編者となって、今回の刊行にたどりついた。その詳しいいきさつは「まえがき」に記したので、それを参照していただきたい。

ともあれ、寄稿者にも恵まれ、筆者にとっても発見が多い本になった。例えば、酒井順子は、時代によってヤンキー魂があちこちに転化し、現在はキャバ嬢向けの雑誌『小悪魔ageha』に宿っているという。昨年ある雑誌において、女性誌のマトリクスが掲載されていたが、筆者が寄稿したことのある『ハイファッション』や『エル・デコ』は、ちょうど『小悪魔ageha』と斜向いの象限に位置づけられていた。それだけ筆者はヤンキーと遠い場所にいながら、この仕事に関わったのである。また本書では、近田晴夫、速水健朗、森田真功らの論考がとりあげたように、矢沢永吉や本宮ひろ志の重要性を再認識させられた。

『ヤンキー文化論序説』については、すぐにネット上でもさまざまな反応が出ており、語られなかった領域の言説を刺激するという狙いは的中したと自負している。鉱脈を掘りあてたことにより、多くの人はまだ語るべきテーマが無数に存在すると感じているのだ。例えば、筆者自身も、『野良猫ロック』や『ずべ公番長』などのシリーズ映画に関する論考が抜けていると考えている。おそらく、今年度はヤンキーをテーマにした卒業論文や修士論文もあちこちに登場するのではないかと思う。

本書以前に登場した、幾つかのヤンキー論に触れておこう。数少ない日本の先行文献である四半世紀前の金字塔というべき、佐藤郁哉の『暴走族のエスノグラフィー』(1984)は、今読んでも十分に示唆に富む労作である。実際、『ヤンキー文化論序説』の第二章「ヤンキー系表現の世界」でも引用されていた。ヤンキーの改造車に創造性を認めない佐藤の評価には同意しかねるが、デザイン手法の分析やグループ名の意味論などは、まったく色あせていない。そして『ヤンキー文化論序説』の仕事で改めて思ったことだが、海外の不良文化との比較で言うと、日本のヤンキーはわざとださいセンスを入れたり、硬派なのに女の子っぽい、かわいいイメージが混入している部分は、特徴的といえるだろう。

海外の先駆的な研究であるポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』(1977)は、いかに学校の不良たちが自ら望んで工場に就職し、労働階級の社会的な再生産が行われるかを論じていた。またW.F.ホワイトの『ストリート・コーナー・ソサエティ』(1943)は、ボストンのスラムにおいて警察も含めた地域の高度なネットワークが生成されているという。

ヤンキーは地域に根ざしている。『ヤンキー文化論序説』でも、これは東京なき日本論になるのではないかという仮説をたてた。しかし、本書の第三章「地域社会のなかのヤンキー」では、阿部真大が、不況を迎え、暴走族の卒業モデルが終焉し、安心して引退できなくなったことにより、ヤンキー文化が衰退したことを指摘している。こうした社会構造との関係は、さらに分析すべきテーマだろう。

ちなみに、本書の企画段階において、『族の系譜学』(2007)の著者である難波功士にも原稿を依頼したのだが、ちょうど彼はヤンキー文化に関する書籍を執筆中だったために見送られた。逆に言えば、彼が近日刊行する、その『ヤンキー進化論』(光文社新書)との相乗効果を期待している。今年は、ヤンキー論がブレイクする絶好のタイミングになるかもしれない。『ヤンキー文化論序説』に寄稿した斎藤環も、現在単著を準備中だという。

もっとも、こうした本を当事者であるヤンキーがあまり読んでいない可能性は高い。そこがオタク論との大きな違いだろう。ともあれ、オタクに比して現代文化研究と結びついてこなかったヤンキーに関する言説が、大いに論じられることを期待したい。


●五十嵐太郎(いがらし・たろう)
建築史・建築批評家。東北大学大学院工学研究科教授。
著書に『現代日本建築家列伝』(河出ブックス)、『現代建築に関する16章』(講談社現代新書)、『被災地を歩きながら考えたこと』(みすず書房)などがある。
サイト:50's THUNDERSTORM

小田嶋隆「大日本観察」

担当者より:2010年にコラムニストの小田嶋さんが執筆した一文です。小田嶋さんの新刊『地雷を踏む勇気』(技術評論社)と『その「正義」があぶない。』(日経BP社)の二冊は好評発売中。この二冊に関連したインタビュー(聞き手は辻本力さん)もぜひどうぞ!

配信日:2010/02/17


今年に入ってから、朝青龍をめぐるあれこれやオリンピック関連のドサクサにまぎれてあんまり注目されていないが、子供をめぐるむごい事件が続いているように感じる。気のせいだろうか。代表的な例をひとつ。たくさん並べても良いのだが、イヤな気持ちになるだけなので。

《食事をするのが遅いことに立腹し、長男の東京都江戸川区立松本小1年、岡本海渡(かいと)君(当時7歳)に暴行したとして、東京地検は12日、同区の電気工、岡本健二(31)と妻の無職、千草(22)両容疑者を傷害罪で起訴した。警視庁小岩署は両被告を傷害容疑で逮捕し傷害致死容疑で送検していたが、地検は「暴行と死に因果関係があるとは言えない」とし致死罪での起訴は見送った。これにより裁判員裁判の対象ではなくなった。》
(毎日新聞2月13日東京朝刊)
 
1. 7歳の子の実母が22歳って……
2. 学校は何をしてたんだ? 児童相談所は無力なのか?
3. 父親は実父じゃなくて、母親がキャバ嬢をやっていた時代の客だと。なんという典型的な。
4. 「暴行と死に因果関係が無い」って、じゃあ、自然死だとでも?

……と、この事件は、ツッコミどころが多かったためか、テレビでも話題になったし、ネット上の掲示板でもかなり長い間粘着の対象になった。ひどい事件だった。親が子供を殺した事件に対しては、軽めの判決が降りるケースが多い。このことは、子供が親を殺した場合に重い罰が科されがちであることと対を為している。

戦前の民法には「尊属(←子から見た親)、卑属(←親から見た子)」という儒教由来の長幼の序列が設定されており、実際に、尊属殺人は、卑属殺人よりも重大な犯罪であるとされていた。が、戦後の民法には、尊属、卑属の区別はない。人は人。殺す場合も殺される場合も平等。そういうことになっている。にもかかわらず、親による子殺しには「情状」が酌量される場合が多い。「口減らし(←貧困家庭が生存のために乳幼児を殺すこと)が半ば常態としてあった時代の名残り」だと言っている学者さんもいる。本当だろうか。いくらなんでも21世紀にこんな常識が残っているとは思えないのだが。

ともかく、子殺しは減らない。ほかのあらゆるタイプの殺人が基本は減少傾向にあるのに、なぜなのか、これだけ少子化が進んでいるにもかかわらず、親による子殺しだけが、なぜか減っていない。ソースについては、そこいらへんをググってほしい(←って、どういう書き方だ《笑》)。これはどういうことなのであろうか。

この種の事件が起きると、「世相の乱れ」「地域共同体の崩壊」「若い世代の道徳的頽廃」「日教組が主導した個人主義教育の結果」みたいな結論に飛びつく人々が大きい声を張り上げる。まあ、まったく関係ないとは言い切れないのであろう。たしかに、地域共同体が機能不全に陥っているのは事実であるのだろうし、密室に取り残される孤独な親子の存在は、戦後社会の個人主義的傾向と無縁ではないのだろうからして。

とはいえ、戦前の古き良き日本に戻ればこのテの犯罪が減るのかというと、それはわからない。いや、もしかしたら子殺し自体は減るかもしれない。でも、その代わりに違うタイプの犯罪が増える気がする。たしかなところはわからないが。
 
私の思うところを述べる。子殺しは、非常に特殊な犯罪だ。だから、こういう特例を材料として、そのことをもって戦後社会を断罪したり、現代の世相を否定するのは、適切な態度ではない。無論、特例だからといって無視して良いということではない。ただ、この種の「特例」は、世相一般や、若者の典型とは切り離して考えなければならないはずなのだ。

私が中学生だった頃、私の通っていた中学はいわゆる「荒れた」学校だった。たとえば、こんなことがあった。私が中学一年生に上がった年、学校のすぐ隣に、巨大スーパーが出店した。で、近隣の小中学生は、しばらくの間、物珍しさから、そのスーパーの中を遊び場にしていた。エスカレーターに乗ったり、単に売り場を往復したり、エレベーターのボタンを押して逃げたり。まあ、他愛の無いガキの遊びだ。

が、中には、万引きをはたらく組の子供もいた。ある時、一斉検挙があって、子供たちが芋づる式に補導された。この時、私の中学の同学年の生徒が三十数名補導されたのだが、念のために申し上げると、私の学年の生徒数は総数で120名ほどだった。ということはつまり、私の同級生は三割以上が万引きでしょっ引かれたということだ。運良く捕まらなかった人数を勘定に入れると、あるいは、一度でもあの店で万引きをした生徒は、もしかして半数を超えていたのかもしれない。まあ、それほど、風紀が悪かったということだ。

私の学校は地域でも特別に悪い部類の学校で、その意味では特例ではあった。が、昭和四十年代当時の中学生(少なくとも東京の中学生)は、いまの中学生より、ずっと「悪かった」のである。ざっと考えて、同世代のうちの二割は、いわゆる「不良」だった。私の地域では三割がツッパリだった。

何の話をしているのかよくわからない人がいるかもしれない。私が言いたいのはこういうことだ。つまり、昔は、不良にも「ライト層」が多かったのである。実際、私の仲間内の不良は、たいしたワルではなかった。ヘアスタイルをリーゼントにして、太いズボンを穿き、「チョンバッグ」と呼ばれるペチャンコの革カバンを持ち歩いている彼らは、たしかに見かけの上ではいっぱしの不良だったが、なあに実際にはたいした悪さをしていたわけではないのだ。

同じような格好をしたライバル校のツッパリに対して「ガン」をつけたり(睨むこと)、学校帰りにゲーセンいたまったり、タバコを吸ったり、その程度だ。ちなみに言えば、私も特に不良だったわけではないが、タバコは15歳の時から吸っていた。結局、戦後すぐから昭和五十年代ぐらいまでは、優等生と不良の間に、なだらかな中間層が存在していた、と、そういうことなのである。であるから、本格派のワルや、手に負えない不良がいても、その、どうしようもない非行少年にしても、孤立せずに済んでいた。

私の同級生でも、最終的に暴力団の構成員になって刑務所のお世話になった人間が三人ほどいる。が、その彼らも、道で会えば、愛想良く挨拶をする。そういうふうに、マジな犯罪者と一般人の間にも、一定の行き来はあったりしたわけなのだよ。それが良いことなのかどうかはわからないものの、だ。

現在、不良高校生の数は、激減したと思う。タバコを吸いながら歩いているティーンエイジャーや、一見してヤバげな目つきで周囲を威圧している少年も減った。なぜだかはわからない。ただ総体として、少年犯罪は減っているし、町の風紀も良くなっている。が、その一方で、道を外れた少年は、同世代のコミュニティから完全に孤立してしまう。

たとえば、江戸川区の亡くなった子供の母親は、15歳で赤ん坊を生んでから後、同級生のコミュニティや地域社会のセーフティネットからこぼれ落ちていたように私には見える。父親も、だ。結局、ライト層の不良という通過儀礼として十代の反抗を演じる非行少年がいなくなったことで、一度コースを外れた人間から見ると、立ち直りに向けてのルートが閉ざされてしまったのである。

もちろん、本格派の落ちこぼれを救うために、ライトな不良を育成しようとか、そういう話をしているのではない。でも、とにかく、私の世代の人間から見ると、今の若いコたちはやっぱりなんだか哀れに見えるのだよ。カッコだけの不良ごっこを楽しむことができないわけだから。


●小田嶋隆(おだじま・たかし)
コラムニスト。
著書に『地雷を踏む勇気』(技術評論社)、『その「正義」があぶない。』(日経BP社)、『テレビ標本箱』『テレビ救急箱』(ともに中公新書ラクレ)、『サッカーの上の雲』『1984年のビーンボール』(ともに駒草出版)など多数。共著に『人生2割がちょうどいい』『ガラパゴスでいいじゃない』(ともに講談社)ほかがある。
ブログ:偉愚庵亭憮録

内田麻理香「いい男から科学を学んで何が悪い」

担当者より:2009年にサイエンスコミュニケーターの内田麻理香さんが、ファインマンを通して科学リテラシーについて書いた一文です。内田さんは、身近な科学の面白さを綴った『おうちの科学』(丸善出版)が好評発売中。また、『科学との正しい付き合い方』(DIS+COVERサイエンス)についてのインタビュー(聞き手は田島太陽さん)なども、ぜひあわせてお読みください。

配信日:2009/07/01


私の人生を狂わせ、未だに支配し続けている男について書いてみたい。20世紀の米国の物理学者、R.P.ファインマンだ。大学生の頃、エッセイ『ご冗談でしょう、ファインマンさん』(岩波現代文庫、上下)を読み、たちまち彼に恋してしまった。

いたずらが大好きで、大人げなく、権威に反発するひねくれ者。遺された彼の写真はどれもこれも男前だ(たぶん、主観を排しても)。そんな色男であるにも関わらず、早世した最初の妻に対しては一途で、妬ましいほどの愛妻家ぶり。惚れた弱みで、彼の物理学の教科書5巻セットも買いこみ、ようやく私は物理の魅力を知ることができた。好きになった相手に合わせて、自分の趣味も変えてしまう主体性のない女の好例だろうか。

そんな不純な動機で科学の研究を志した。もちろん、その理由だけではないが。しかし、不純な動機だったせいか、道半ばで挫折した。しかし、科学への憧れの気持ちは依然として変わらないので、科学の語り部となるべく活動している。

『ご冗談でしょう、ファインマンさん』などの彼のエッセイ(正確には、彼の話を友人が書き起こしたもの)は、科学好きも、科学に苦手意識を持つ人も虜にする魅力満載だ(これは、主観を排しても)。金庫破りに精を出し、手間と労力と時間を費やして、とうとう金庫破りの名人になってしまうエピソードは圧巻だ。その熱中ぶりは「才能の不法投棄」とでもいうべき言葉を捧げるのにふさわしい。

このエッセイ集に収められた話を笑える冒険譚、として読むだけでも良い。ただ、私は何回も読み直すうちに、ファインマン関連本は「科学のセントラルドグマ」を伝える最高の教科書だと思うようになった。科学を志す人にとっては「科学に関わる上で大切なものは何か」を知ることができる。科学に興味がなかった人も「科学って意外と面白いかも」と気付くきっかけになる。

残念ながら、昨今では若者を中心に「理科離れ」、「科学離れ」の傾向が進んでいると言われるようになった。実際に昔に比べて「理科離れ」が進行しているのか? 「若者の科学離れ」は本当か? という点については議論の余地が大いにあるのだが、今回はペンディングしておく。ごめんね。

いずれにせよ「科学離れはまずいよね」といった問題意識のもと、第3期科学技術基本計画では「国民の科学技術リテラシーの向上」を目標に掲げることになった(科学技術基本計画とは、文部科学省が管轄となって科学技術基本法のもと施行されている計画で、第3期は平成18年度~平成22年度が対象となる)。そのための活動がここ数年で活発になっている……のである。その結果は、肝心な皆さんのところに届いていないかもしれないが、一部では猛烈に頑張っているのだ。ちなみに私もその末席を汚しているつもり。

そんな立場からファインマン関連本を読むと、爽快な自己否定の感覚を味わうことができる。なぜかというと「ファインマン関連本に科学リテラシーのほとんどが収められている」からだ。彼の奇行ネタは「謎を見つけるとどんなことでも解かずにはいられない」執念が源泉である。まさに、科学者の中の科学者、だ。その追究の姿勢は、「人が眠りに落ちる瞬間」から「スペースシャトル・チャレンジャー号の事故の原因」まで余すところなく発揮されている。まず疑問を持つ。仮説を立てる。自分の手足を使って確認する。トライ&エラーをくり返す。そして考え続けることを粘り強く継続する。どれも科学者に必須の要素であり、行動であろう。

科学リテラシーという言葉がある。リテラシーとは直訳すると識字、という意味。「メディア」「金融」などの用語と組み合わせて「ある分野のことを理解し、活用する能力」という意味で使われる。つまり、科学リテラシーは「科学を理解し、活用する能力」になる。

科学リテラシーを構成するものはおおざっぱに分類すると、「科学的思考法」と「科学的知識」の二つになると思う。そして、私は「知識」は「思考法」さえあれば、ごくごく最低限で良いと考える。知識なんてものは、あとからいくらでもついてくるのだ。百科事典のような人間になることを目指しているわけではないのだ。

「科学リテラシーの向上」という言葉だと面倒に聞こえる。そもそも上から目線だしね。しかし、科学の申し子・ファインマンが「科学的思考法」を駆使して人生を楽しむ様子を眺めてみれば……科学リテラシーは、単に「世の中を面白い角度で見るひとつの道具」と思えるに違いない。

私は、ときどき自らに「科学者以外は、科学なんて知らなくても、生きるのに不自由しないのではないか?」と問いかける。そして、それに対してまともな答えが見つけられない時に、助けを求めてファインマンの本に手を伸ばす。するとファインマンが「にやり」と笑いながら、「『ものをつきとめることの喜び』は最高の娯楽じゃないか、そうだろ?」と、べらんめえ口調で答えくれる気がするのだ。

彼は、「科学は楽しい」という、ひねりのないシンプルな答えをこちらの自問に対して、返してくれているようだ。それだけで十分なのかもしれない。


●内田麻理香(うちだ・まりか)
サイエンスコミュニケーター、サイエンスライター。
各種媒体を通じ、科学と社会の懸け橋になるべく活動中。
主な著書は『カソウケン(家庭科学総合研究所)へようこそ』『恋する天才科学者』(共に講談社)、『理系なお姉さんは苦手ですか?』(技術評論社)などがある。最新刊は『おうちの科学』(丸善出版)。
サイト:カソウケン(家庭科学総合研究所)
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